1950-10-03 第8回国会 参議院 文部委員会 閉会後第4号
又東京都の先生方は相当質がいいわけですが、地方に行きますと、こんな人が先生が勤まるかというような、お下げをしたような、失礼ですがお孃さんタイプの人が沢山いるわけなんですね、そういう人に、これは熊本の例ですが、私の聞いたところでは、ものすごい哲学をやつて、聞いた人は高等学校から小学校の先生までみんなわからない、それでわからないわからないというから、先生もプリントを出した。
又東京都の先生方は相当質がいいわけですが、地方に行きますと、こんな人が先生が勤まるかというような、お下げをしたような、失礼ですがお孃さんタイプの人が沢山いるわけなんですね、そういう人に、これは熊本の例ですが、私の聞いたところでは、ものすごい哲学をやつて、聞いた人は高等学校から小学校の先生までみんなわからない、それでわからないわからないというから、先生もプリントを出した。
たとえば文学者がボードレールを研究するとか、あるいは哲学者がカントやへーゲルを研究するのに、自由がどうであるとか、どうでないとかいう問題は、おそらく起らないと思うのであります。おそらく自由という問題は、権力者がそれに対して自由を押えるから、自由という問題が起るのである。そういうことを考えてみれば、やはり依然として問題があるように考えられるわけでございます。
たとえば経済学にしても、自分は少しもそういうことには興味がないのだけれども、ただ資格をとるために四年やつているというのではなく、二年やつて社会へ出て、銀行なら銀行へ入つて働いて、一体貨幣というものはどういう哲学的意義を持つておるか、あるいは経済学的にどういうものであるかという生きた問題をつかんだ人間が現職のまま派遣されて、そして大学で学ぶということになれば、ほんとうに知識が生きて来る、こういう考えなんです
だからわれわれの社会にある制約があつて絶対自由でないということは、当然のことだと思うのですけれども、そうなればわれわれの大学は自由を持つていないかといえば、たとえば哲学を例にとるならば、どういう研究をしてもちつともかまわない、ドイツのことさえも、どんなに研究してもちつともかまわないと思う。
私は少女時代に日清戰争の切り合い、殺し合いの幻燈を見てから、非戰論者でありましたことと、また半世紀以前の話ではありますが、夫は学生時代から英米の哲学、神学博士方に日本語を教えておりまして、多数の英米人を知つておりましたことと、私も数名の先生に教えられましたことがありますので、英米人の親切や愛は、私どものように親子の間に至るまで、折算的の愛でも、親切でもない点を知つて、その人となりを二人は非常に尊敬しておりましたので
併しながら学者肌で、哲学者肌で繊細なデリケートな感じを持つた非常に鋭利な頭を持つておりました。優れた頭を持つていたと思います。それは我々の受けた講義のなかにおいて、その講義の組立て方、内容において自分でそのような感じを受けました。
すなわち芸術とか、あるいは宗教とか、哲学とか、経済とか、そういうものはすべて一種の文化である。そうして絵画、彫刻というようなものは文化財であると私は思うのであります。天然記念物は、人為的なものでありませんで、本来存しておるものであります。天然のものであつて、それには何ら八の手が加わらなくてもそれはそれとしての形を備えております。ゆえにこれは嚴格な意味では文化財ではないと思うのであります。
私どもは道徳第一主義を提唱する前最高裁判所の長官三渕氏に敬意を表するのはこの点よりするのでありますが、およそ道徳が行われずして法律行われず、道徳的、哲学的、宗教的試練を受け、確たる宇宙観、人生観に徹せる哲人にして初めて人間味ゆたかな名判決となり、国民もこの域に達すれば裁判所はほとんど用がないようになると信ずる。
○加藤証人 それで彼は地区工作員をやつて、この遅れたところのわれわれの收容所には再三再四となしに、彼は哲学の出身だと思いますがマルクス弁証法の講義に盛んに来ております。私も二、三回聞きました。それで菅さんが来ると、ああまた有名な弁証法が来たというので非常に人気がありました。たしかに人気があつた。話もうまかつたし、人気があつたし、若い情熱もありました。あれはどこそこ大学系統のどういう系統である。
なぜならばなくなられた菅君はギリシャ哲学の心理学者、あなたはクリスチャンであります。また最高学府を出られておる。そこであなたに最も人格的にお聞きしたいのですが、興奮することなく、あなたもよくお考え願いたいのであります。あなたがさつきから言われた言葉の中に、菅君が四月五日、この委員会で私がずつと質問して参りましたときに、この委員会で伺つたときに、こう言つたのです。
○羽仁五郎君 そういう犯罪に関して或いは面白からざることについての……だからプラトニツクな考え方だけでおられるわけじやないと思うんだが、特定の方から金銭上の援助を受けている、自分の主観としては、哲学的には誠に清らかなものであるかも知れないが、それが客観的に、殊に先程も委員長からお話があつたように、捜査権を依頼されておる方が、個人から、淨財ということも言われたが、これはいわゆる逆言葉であつて、実際金銭
○佐々木(秀)委員 ちよつとそれと関連しますが、京都の大学で哲学やなんか習われたらしいのですが、京都大学の石川與二博士という経済学をやつた先生に講義を受けたことはありませんか。
○菅証人 私は哲学、心理学をやつて、言葉についてはいろいろな自己流の解釈を持つておるものでありますが、要請というのは、哲学で言えばカントの実践理性の要請という特別な言葉であり、ふだんにおいては私自身としてはあまり用いておりません。第一私の語感から行きますと、要というのは対等並びに上の方から要求する、請というのは下の方からこいねがうというような感じで、あいまいな言葉だと思います。
彼の思想は、スペンサーの進化論的哲学と仏教の輪廻説とが混然一体をなしたものであるといわれておりますが、そのゆえにこそ、單にキリスト教的観点からのみ日本の文物を批評せられがちな世の中に、よくわが国の神道を理解し、仏教を咀嚼して、わが国文化の真髄を世界に知らしめたのであります。
大英帝国の軍艦に対して哀れなインドは手紡ぎの紡績車、乳を出す一匹の山羊がそれに歯向うて見ても何にもならんということから、ガンジーの偉大なる哲学が生れました。原子科学に対して私共一人の軍人も持たず、又持ちたくない。国として私は丁度あの年老いた、そして聰明なインドと同じような立場に置かれていると思います。私共が曾てレアリストとしてインドの無抵抗主義を笑つたことがありました。
大屋先生のいわゆる経営哲学と申しますか(笑声)その点から割出しまして、骨を折つた者には幾らかでもやるということにつきまして、大屋先生の御高見を拝聽いたしたいわけでございます。
ソ連の收容所の政治部将校も、なぜ我が收容所だけが民主グループができないかというようなことを言いましたし、部隊長の少佐の方も、体裁上一応作つて置かなければならないのじやないかというので、菅君、君は哲学もやつているし、いろいろ思想問題も知つている、だから何か一つ組織してやつて呉れ、こういうふうに言われました。
それから昭和十三年東京文理科大学哲学科に入りました。それから昭和十六年四月から昭和十七年の十月まで北海道の旭川師範学校の教諭でありました。それから昭和十七年の十月から昭和十八年の十一月まで京都大学院の文学部学生でありました。それから昭和十八年の十一月に召集になりました。軍隊の経歴は……。
そのようなことはさて措きまして、考えまするに、マルクス主義というのは、私が思いまするのに、唯物弁証法において一つの認識論又は哲学であります。唯物史観におきましては、一つの社会学の学説であります。その剰余価値論におきましては、一つの経済学のセオリーであると思います。
私は自衛権という問題を法理的解釈から見ても、実際問題から見ても、自衛権ということを将来外交問題として、講和会議に御発言なさるのであるとすれば、もつと根本的な、もつと哲学的な、もつと国際公法的な論点に立つて御用意あることが必要じやないか、かように考えておるから、ちよつとこの点に触れさしていただいたようなわけであります。お答えにならなければ、それ以上のことをお聞きしようとも思いません。
「しかしながら、現在のごとき共産主義は、政治哲学の基礎の上に立つているものでもなければ、また経済学説を基礎とするものでもなく、またそれらの真面目な主張に基いているものでもない。それは、ひそかに浸透及び欺瞞により、少数分子をして、憲法による多数派の支配から政治的権力を奪うことを許すための暴力と威嚇の道具として発生したものである」云々ということであります。
民間放送なんか、長谷川さんの方から、哲学が一貫しないというお話ですが、権利を持つておるということ、いろいろ特権があるということは、つまり北海道とか東北とか、ああいうどんな辺鄙なところでも第一放送、第二放送を全部聞こえるようにサービスしなければならぬ。そういう大きな勤務の代償として権利があるわけです。
私は最訴ドイツのことを聞いたのでありますが、ドイツにはカントを初め非常にいい哲学者があつた、ドイツ民族は非常にいい哲学を持つておるために、精神的な方面においてどんどん進まれている。ところが日本にはどうも哲学がない。そうしますと教育の大本あるいは道義の大本というものを示さなければならぬ、こう考えられております。
しかも放送というものの公共性、非公共性ということに関しまして、この言葉の哲学的な意味とでも申しますか、あるいは社会的な意味とでも申しますか、かような意味合いにおきまして、この言葉の概念を考えまする場合におきましては、私は阿部先生の御意見と全然同感でございまして、何ら申し上げることもないのでございます。