1951-02-17 第10回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第2号
しかし相当つつましやかな人でも、二合五勺とさつき申しましたが、実は一合七一八勺しかないと思いますが、そのノーマルの費用だけでは、大学のいかにつつましやかな研究でもやれませんので、それでさつきの特配などが来まして、特配が遂に二合五勺近くになりますが、そういう二つの、要するに文部省から来る金だけではやり切れないので、外へ頼むのはまつたく主任教授の持つ哲学によるのでありまして、もつとよそへ無理なことを頼んでもやる
しかし相当つつましやかな人でも、二合五勺とさつき申しましたが、実は一合七一八勺しかないと思いますが、そのノーマルの費用だけでは、大学のいかにつつましやかな研究でもやれませんので、それでさつきの特配などが来まして、特配が遂に二合五勺近くになりますが、そういう二つの、要するに文部省から来る金だけではやり切れないので、外へ頼むのはまつたく主任教授の持つ哲学によるのでありまして、もつとよそへ無理なことを頼んでもやる
私は哲学の研究者ですけれども、いかに哲学を研究しても、ちつともさしつかえないばかりではない、もつともつと研究しなければならないと思うのであります。私は、自由がない、自由がないという声を聞くことが大にして、ほんとうに持つてる自由を活用することはまだ足らないと思う。もつと大学の諸君などに、自由を活用して、ほんとうに研究をしていただきたいという考えを持つております。
○岩間正男君 私はそういう哲学的ないろいろなことをいうよりも、憲法に保障されておる学問、思想の自由、それを大学において、殊にその方面にこれは文相の言を借りますと、学を專門にその点に没入するのだ、こういうことをいつておるのでありますが、学問をする自由、そうしてそれに対していろいろな何といいますか、権力とかそれから政治的な圧力、こういうものが関連して問題になつて来るのでありますが、そういうものの中で殊に
第一に天野文相が多年抱懷される思想からすれば、当然私は全面講和、平和を飽くまでも望むということを文相が、これは署名もされており、それから又日本国民全部の願望だとこういうふうにおつしやつておるのでありますが、理想主義的な哲学に立たれる天野文相としては当然その願望を貫くために御努力があつて然るべきと私は考えるのであります。この点はどうなんですか。
○国務大臣(天野貞祐君) 只今私の答弁は哲学講演的だという御批評を受けましたが、矢嶋さんのを聞いていると教育講演的な気がいたします。やはり教えることが多くてどういうことが質問だかということが私にしつかり来ないのです。で私は自分の考えは殆んど今まで述べたところで内容的には盡くしておりはしないか。神経戰にかかつているかと言つて、私はかかつていますと言う人間もいないだろうと思う。
今のことになりますと、これはやはり見解の違いになつて、思弁哲学というものがどういうものだとか、一体国家というものはどういう理想を持つて行くべきものか、そういう根本的な議論になつて来ると思うのです。だから、今私はそういうことについてここで詳しく論議をする暇がないと思うのです。
○岩間正男君 その点のつまり思弁哲学と、それから学と行動の問題についてやつていても、まあ時間もないでしようから、この点は打切りますけれども、先ほどの文相の御答弁によりますと……。
一九二〇年の初期におきましては、米国民の大部分は、米国を発達せしめるものは自由企業であるというような哲学を持つておりました。しかしながら一九三〇年に至りまして、ルーズヴエルト大統領を中心に、天然資源の開発促進に関する限りは、国民全体のためになるように、利己的ならざる連邦政府によつて、これが開発をすることが正しいという思想を抱く人が、相当に出て来たことが伝えられています。
かつて、これはもう申すもおかしいことでありますが、ナポレオン戰役のあと、ベルリン大学の校外をフランスのラツパ部隊が粛々と進んで行つたそのとき、教室の中で哲学者フイヒテの講義を聞きつつあつた当時のドイツの青年は、おそらく歯を食いしばつて、このラツパ部隊の音にフイヒテの講義がかき消されようとしながらも、ノートのペンを休めなかつたというような事例を聞くのでございます。
私など哲学の領域に入れば、自由なんか、一般においてさつぱり圧迫されていない。幾らでも研究する余地はあるのです。そうしてその研究が実にできていないということを私どもは痛感しておるのです。例えばマルキシスムというようなことについてでも、世間ではやかましくいうけれども、本当にあの資本論をすつかり読んではつきりと批判できる人間が今の社会に幾人いるか。皆大よそに物を言つておる。そういうことではいけない。
従つてこれがはたして連合軍に対して嫌悪を與えるか、不信を招く言動であるかどうかということにつきましては、あなたと私の持つております哲学や世界観が異なつておるわけでありますから、川上君の申したことが、国際情勢に関する限りは、ことごとく連合国あるいは連合軍に対して不信を招き、怨恨を招くような行為であろうと私は認定をいたして、動議を提出した次第であります。
なぜならば、あなたの持つておる哲学と私の持つておる哲学とは、根本的に違つております。世界観を異にしておるのでありますから、これ以上いくら申し上げましても、單なるイデオロギーの論争になる以外の何ものでもありません。どの点がポツダム政令に違反するかという点につきましては、私の提案理由の説明の中において、具体的に事実をあげて私は申しておる次第であります。
日本文化に対する無哲学であり無宗教である今日の社会教育の実情、社会文化の実情を見ましても、商業主義の滔々たる勢いに押されまして、ただ教育環境が悪いという程度でなく、輸入及び国産映画の内容、あくどい売らん哉の出版図書、娯楽機関、それらのものに流れておりますところの投機主義というものが日本の文化の明日の姿でありますならば、実に文化の自殺は国民の自殺であると考えるのであります。
ダレス特使のスポークスマンの談によりますると、第一回の吉田・ダレス会談におきましては、今度の講和條約に臨む基礎的な哲学の点において、双方に忌憚のない意見の交換があつたということを承つております。
吉川さんの思想はすべてを廃棄するという……哲学上の用語を引用することが許されるなら曲は、廃棄することより揚棄するという思想を私は持つております。だからして憲法第一條に、依然として天皇は日本国の象徴である、ですから今にわかに国歌を作ろうと言つても作れない。これを用いても差支えないと考えております。
○国務大臣(天野貞祐君) 私は各大学の憲法の教授を担当しておられるかたがたは、ドイツ哲学なりドイツ思想なりをただ盲信して来ておるとは思つておりません。そういう人が中にはおるかも知れませんが、皆明敏な人たちで、批判的な精神を以てこういう憲法に対して来たと思つております。現在は新憲法になりましたから、頭を改むべき点は考慮をするとか、研究に専念していると思つております。
即ち私は哲学のことはよく知りませんが、天野さんのお言葉によるというと、即ちアウフヘーベンされて行くように発展して行くところの考えでなければならんというようなお答えであつたのであります。
併し昔の哲学者も余りとつちに行つたときは、すぐこつちヘやるということがいいのだということを、一番中庸を尊ぶアリストテレスが言つております。併しながら今教員の市動が余りこつちへ行過ぎたから、これは少しこつちにというような考えにも真理性があるのじやないかというよりに考えます。
数字に現わしますると非常にちつぽけなことになりまするけれども、この図書館は、およそ蔵書八万、而もその八万冊は哲学、宗教、倫理、歴史というようなふうの面に限られておるのでありまして、内容も、外国の書物も相当含み、写本等も含んでおりまして、相当価値あるものであります。
大体哲学、宗教、倫理というような方向の、人文科学の中におきましてもいわば精神的な方面の資料を集めて来まして、これは蔵書は約八万あります。この八万冊の蔵書は相当よく選ばれたものでありまして、外国の文献も、日本の文献も、そのほかの東洋の文献もあり、相当いい出版物もあり、古いものを写した筆写本もあるのであります。
私はあなたのおつしやるのは、あなたの御專門であるところのドイツ哲学の考えで、日本人はそれで非常に誤られて来たのです。即ち國家というものは、一つのデル・シュタートというものであつて、それは一つの抽象的な考え方である。そして日本の天皇というのは、そういう抽象的なドイツ哲学が意味している、或いはドイツの法学というものが意味している國家というものをば代表しておるものである。
特にこの宗教の高揚ということが——文部大臣は哲学者であられるのですが、哲学も、大体宗教と同じものだと私は考えております。こうなることによつて、共産党は唯物史観に立つておりまするために、これは宗教否定でありますから、共産党の災いがなくなるのではないかと私は考えておるのであります。
私は必ずしも民族国家主義を以て考えておるものではありませんが、日本の青少年の精神的空虚状態につきましては、近来海外から参ります多くの教育家、哲学者等が非常に心配しておりますことでありまして、私も今回の旅行において、そういう点において深く警告されるところがあつたのであります。
その点から大臣が深く思いをされまして、この講和を前にいたしまして、日本が世界に甦えるか、或いは非常な模倣的な七等国ぐらいの文化に、道義的に精神的に沒落して行くかという境にあるのでありまするから、その点を哲学者的な見地から日本の文化、各層へ呼びかけるようなものをお考えになつておられないかどうかということを、私共は期待し、又それに御協力したいと思つておるのであります。
自分がこの現実に処して——あなたとだから、少し哲学の言葉を使つても許していただきたいと思いますが、そういう歴史的の現実に処して、こうやるのが正しい。先ほどから繰返して言うように、不当な力が、日本の平穏なところに波瀾を起し、社会不安を巻き起し、いろいろなことのために学園を荒廃するおそれがある。それに対する防衛の意味として、私はこれをやることがいいと思つてやつておるわけであります。
○天野国務大臣 私がむずかしいと申したのは、できるだけこういうところでは哲学の用語を避けて行きたいという考えから、そういう言葉を用いております。それでむずかしいというのは、今野さんは良心的でも、私から見れば物をはすかいに見て、そうしていろいろ社会をやかましくする考え方が、私はむずかしい時勢だと、こう言うのであります。
ただ只今岩間委員の言われた道徳論になりますと、岩間委員の言われたようなお考えだというと、これは道徳の否定になる、併し今ここでそういう論を……、あなたと哲学、倫理の問題を論ずるということは不適当だから論じないと言つただけであります。問題を避け、逃げようという考えは寸毫も持つておりませんから、御了承頂きたいと思います。
こういう点は例えば哲学的な信念に立たれておるところの天野文相は、一体日本の長年の弊を眺め、又吉田総理の問題にしておりますところの民族の独立精神、愛国精神云云という、この内容については問題がありますけれども、そういうことをとにかく述べられており、こういう問題と連関して、一体このような態度はどういうことになるのであるか。
今までのつまり天野哲学と言いますか、道義的な観念を打立てた、そういう文相の多年の主張から考えるときには、どうしたつて長い眼で物を見る。民族の将来を考える。