1993-06-01 第126回国会 参議院 農林水産委員会 第12号
初めの挫折はどういうところにあったかというと、基本法施行と同時ぐらいに、たまたまと言ったら悪いかもしれないが、河野一郎さんが農林大臣になった。彼は政治的センスが非常に強い人だから、自民党の票を集めるのが実に上手だった。農業基本法のベースは村づくりだと決めてしまったのである。基本法には農業構造改善事業というのがあるが、農業構造を直していこうというのが基本法の一つの大きな眼目だった。
初めの挫折はどういうところにあったかというと、基本法施行と同時ぐらいに、たまたまと言ったら悪いかもしれないが、河野一郎さんが農林大臣になった。彼は政治的センスが非常に強い人だから、自民党の票を集めるのが実に上手だった。農業基本法のベースは村づくりだと決めてしまったのである。基本法には農業構造改善事業というのがあるが、農業構造を直していこうというのが基本法の一つの大きな眼目だった。
この問題は、実は私も新聞記者になりまして三十二年になるわけでございますけれども、駆け出しのころから問題になっておりまして、私が建設省担当のころも、河野一郎建設大臣が富士山ろくに首都を移転したらどうだ、こういう構想も飛び出したりしまして、本当に相当の期間議論をやっている。しかし、結局議論だけに終わってきているわけなのですね。
私は、この問題に取り組み出したのは昭和三十九年の河野一郎建設大臣の新首都の建設というあのときからでございまして、考えてみれば二十八年間この問題を追求し続けておるわけでございます。そして、自分の政治生活の続く間にこの問題を何としてでもなし遂げたいと思いましてこれを推進してまいりました。 御指摘のように、平成二年の十一月七日に衆参両院で国会等の移転決議がされました。
しかし、問題は、どこにこれを移すかというような問題も考えられるわけでありますが、昔、河野一郎先生があの筑波学園問題で、今筑波学園というのは相当な効果を発揮しておることは確かですが、あの学園都市をつくるについて、私も国土庁長官をやりまして、遅々として進まない、そしてあそこへ赴任をする人は単身赴任というような状況があった。
ところが、歴史的にこの問題はなかなか厄介な難しい問題だから、例の河野一郎さんがやろうとしてもやれなかった。だから少し、ちびっておったらいけぬが、思い切ったことができにくいという背景や条件もあるが、現在の農林水産業を取り囲む情勢は大変困難で厳しい、相当思い切った施策を打ち出さなければいけない状態になっていると思うのです。
そのとき日本側の閣僚のお一人であった河野一郎、農林大臣だったと思いますが、河野先生は二日間全く目をつぶっていらっしゃって、眠っていらっしゃったわけではございません。
かつて六〇年安保のときに、児玉誉士夫さんがやくざ機動隊を構想して関東会をおつくりになったと言われ、その関東会が河野一郎さんを総理にしようとして動いたと当時言われ、報道されたことがありますが、この暴力団の動き、政治介入への危惧、そういうものから佐藤栄作総理が深刻にそれを受けとめて、あの暴力団追放の第一次から第四次にわたる頂工作戦が行われたのだろうと私は理解をしているのですが、つまり、仮にも政治家が暴力団
それからもう一つは、これは昔から有名なモデルでありますが、中部圏に浜名湖モデル、これは河野一郎元大臣がおやりになっていた周辺だろうと思われる地域を仮設して、浜名湖につくったらどうだろう。
古くは、昭和三十五年に磯村英一先生が富士のすそ野にいわゆる遷都したらいいじゃないかという提案をなさり、四番にございますように、昭和三十九年には河野一郎建設大臣が一つの提案をなさったということがございます。六番にございますように、早稲田大学の研究会が東北の北土地方へ遷都すべしという提案をなされたこともございます。
あとの二島についてはっきり文書を書かないと、ブレジネフがはい、はいと二度、ダー、ダーと言ったということの二の舞になると思いますし、河野一郎さんが行かれたときにも、通訳を連れないで入っていかれたということの二の舞になる。生き証人が亡くなった後何も残りません。残るのは、この意味では重要なペーパー、紙、ドキュメント、文書でございます。
もちろん私は、治水という面で、一朝破堤をいたしまして洪水になりますならば、その環境というものはすごい悪い環境を生んでくることは事実でありまして、みずからもまた淀川なり大和川なりの治水対策委員長をいたしておりまして、時の建設大臣河野一郎先生と激論したのを今も覚えております。
その際、選挙の応援に来られた河野一郎農林大臣の秘書官として採用になる道を開かれたのであります。恐らく父重政氏と河野一郎氏との間に愛息の未来についての黙契が存在したことは、容易に推測できるところであります。翌年の暮れ、鳩山首相を首席全権とする日ソ国交回復交渉団の中に、河野氏の秘書官として青年砂田の姿が登場するのであります。
私が鮮明に記憶をしておりますのは、たしか河野一郎さんが現職の建設大臣のときでございましたが、伊那谷に台風がございました。私どものふるさとも山林が荒れ狂うような台風で村が大変な時期を迎えたことがございました。私も政治の道に参画をさせていただいて、この山林の、あるいは治山治水という問題については大変な関心を私は持ってきているわけでございます。
昭和二十年代、三十年代といいますというと、例えば広川弘禅さんらを中心に供出後の米の自由販売構想が出されたり、あるいは河野一郎さんが農林大臣になる中で二度にわたって食管制度の再編成、改廃問題が提起されたり、いわゆる河野構想ですね、そういったようなことがあった時代でありました。 私どもが荷見さんに教えられたのは、食管法というのは単なる戦時立法ではないということでありました。
そしてまた改めて認識を新たにした点もございまして、今ここで具体的に申しませんけれども、私のある腹案を事務局に諮りまして、一部の抵抗といってはあれですが、異論もございますけれども、結局私はそれが一番いい方法じゃないかと思って話をしたのですが、私もそれほどまだ実力者でもございませんので、河野一郎さんぐらいになりますともっと乱暴なことをやったかもわかりませんが、ともかく在任中といっても期限がございますけれども
私は先ほどちょっと田中元総理の話を引用しましたが、恐らく田中元総理とかかつての河野一郎さんという方だったら――河野一郎さんは東京の水不足のときに建設大臣でばりっとやりましたね。
私は、何らためらうことなく河野一郎と答えますよ。ああいう人が出てきて大なたを振るうというようなやり方をしなければ、これはなかなか簡単なものじゃない。地方分権というのもピンからキリまでございます。ですから、我々は遷都、分都、展都というものを交えながら真剣に考えていかなければならぬと思います。 東京というのがなぜこんなに巨大になったのか、なぜこんなに異常になったのか。
実は、昭和三十年代でございました、私がまだ若き代議士時代、今は亡き河野一郎先生が我々若手を集められた。といいますのは、私は旧大野派でございますが、大野派、河野派の親睦会がございました。そのときに、我々若い連中に、当時はキャンベラブームでございました、オーストラリアの。
○国務大臣(天野光晴君) 遷都論、どの程度のどういう領域の遷都をやるかということでありますが、私のお師匠さんになるわけですが、河野一郎先生の持論ですと、東京都は七百万が精いっぱいだという話をされておりました。遷都することは簡単だと思います。
天野大臣から、かつての河野一郎先生の筑波研究学園都市構想を詳しく御披露いただきました。本当に敬意を表します。そういう発想と具体的な取り組みがまさに大事だと思いまして、今のような御提案も申し上げたわけであります。