2001-03-22 第151回国会 参議院 国土交通委員会 第3号
そのとき、当時の河野一郎建設大臣が東京に都政なしと言われたんです。私はルーキーでしたから頭にきまして、文句言いに行きました。そうしたら、河野大臣いわく、おまえさんね、地方から勉強に来ようと働きに来ようと水をしょってくるわけじゃないんだから、東京のように人口がふえたら足りなくなるのは当たり前なんだ、だから東京に都政なしと言ったんだというので、一言もなかった思い出があります。
そのとき、当時の河野一郎建設大臣が東京に都政なしと言われたんです。私はルーキーでしたから頭にきまして、文句言いに行きました。そうしたら、河野大臣いわく、おまえさんね、地方から勉強に来ようと働きに来ようと水をしょってくるわけじゃないんだから、東京のように人口がふえたら足りなくなるのは当たり前なんだ、だから東京に都政なしと言ったんだというので、一言もなかった思い出があります。
実は、この多摩ニュータウンの計画は、かつて河野一郎建設大臣がヘリコプターで東京を飛んで、将来の日本の住宅政策が必ず大きな問題になるといって、河野建設大臣のもとで始まったわけでございます。何かの縁だなというふうに思うわけでございます。 私はこの問題を、地元の皆さんのいろいろな要望もあります。
私も、実は若いころ、河野一郎建設大臣が、高速道というのは、距離じゃないんだ、時間なんだという話をされまして、そうだと思いました。しかし大臣、現実には、都内の中は高速道が低速道だと言われて時間を食っている。これを解決するには、やはり三環状なんかを一日も早くやって完成をしていただきたい。
次に外務省が外交文書の公開をする、二千通の文書が公開されるというふうに聞いておりますが、例えばその中には、かつての河野一郎農林大臣がどこぞの国を訪問したときの出張報告が含まれている。四十年前の話が、四十年前の出張記録がやっとここで情報公開をされる、これが今の日本の外務省の情報公開の現状でございますが、欧米諸国の情報公開と比べると極めておくれていると言わざるを得ない現状があると思います。
また、昭和三十九年には河野一郎建設大臣が新首都建設プランというものを出して、その当時、建設省や国土庁でもいろいろな観点から検討がなされたと思います。いわばこの時期を論議の時期、こういうふうに位置づけることができると私は思います。 この論議の時期というのから第二期目の段階、すなわち検討の時期というものに移ったのが平成二年の国会移転のあの決議だと思うのです。
それで、当時の河野一郎建設大臣がやはりこのことに関心を持たれまして、建設省もかなり真剣に検討した時期がございましたけれども、残念ながらといいますか、ちょうど河野さんも突然急逝されてしまったということもありますし、それと東京の都市問題が当時、六四年に、昭和三十九年に東京オリンピックがございまして、東京オリンピックに向けて一丸となって都市の整備をやろうということで一生懸命やっていったわけですね。
これは別に問題視するつもりはありませんが、冒頭申し上げました一つの哲学の問題なんですが、私が子供のころ河野一郎建設大臣という方がいらっしゃいました。河野大臣は、歩道のない道はつくらない、そういう政策を表明されたんです。私は子供ながらにすごい建設大臣だと思ったんです。今でも私は非常に高い見識だと思うんです。
これではいけないということで、三十年代の初めから何か基本法をつくろうという議論があったそうだというふうに聞いておりますけれども、数年かけてできたのが現行の農業基本法であり、そこには、都市と農村との格差の是正とか食料供給とかあるいはもっと踏み込んだ選択的拡大とかいうような目標を掲げて農業基本法ができ上がったわけであります、当時、池田内閣総理大臣、河野一郎農林大臣だというふうに記憶をしておりますけれども
その方は河野一郎さんの話を出されたのですけれども、やはり災害に行ってかなりの被害があった、これは地方だったと聞いておりますけれども。それで、河野さんがリーダーシップを持って、これは激甚災害だと指定して、かなりの手当てをした。しかし、まだ栃木県あるいは福島県の方は激甚災害指定は受けていない。
当時の河野一郎建設大臣のもとで、いわゆる千日道路と言われて、緊急工事、突貫工事で建設をされた、こういう道路でありますが、昨年一年間で、千四十四件の事故件数ですね。人身事故は百四十件で死者は十二人ということであります。昨年は全国的に少し減ったのですが、ここは昨年はふえておるのですね。事故件数で三十七件、人身事故で十六人、死者は四人ふえております。
かつて建設大臣に河野一郎氏という大変力のある方がなられたことがございますが、私は、河野先生にまさるとも劣らない亀井大臣だと思っておりますので、期待をいたしたいと思います。よろしくどうぞお願いを申し上げたいと思います。 さて、通告もいたさないで大変恐縮でございますが、例の沖縄の土地収用委員会における一部強制使用却下についての問題でございます。
昭和三十九年、東京オリンピックのときに、水を間に合わせよう、オリンピックもできない、東京に水がなくなるというので、たしか河野一郎建設大臣のときだったと思います、突貫工事で工事が行われました。結局は、何といいますかちょっと時間差はあったのですけれども、完成をしました。あれから三十二、三年たちました。
私がこの問題について勉強を始めたのは、河野一郎建設大臣が首都移転の閣議発言をした昭和三十九年のときからでありますから、三十三年間になりますけれども、その間一貫してこの問題をやってまいりました。 そこで、月尾先生の方からまずお答えいただくのがいいと思いますが、先ほど来データをいろいろ御説明になった。
○佐藤泰三君 日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言、一九五六年十月十三日、日本国側からは内閣総理大臣鳩山一郎、農林大臣、今外務大臣のお父さん河野一郎さんが署名しているのでございますが、外務大臣どうですか、父親の遺志を継ぎましてこれを再度ひとつ向こうに行って協議していただきたい。いかがでございましょう。
私は、昭和五十一年に三十五歳で初当選をさせていただきましたが、私自身が中央の政界に実はチャレンジしてみようと思ったときに、自分の頭の中にあったのは、現実には河野一郎とケネディでございました。 河野一郎さんは、私が学生時代に東京が水飢饉になったときに、現地に出向いて全部指揮をされて、そして大臣が公約をした八月のその日にはきちっと東京に水が出た。
そしてそのときには、延べにして自衛隊三十二万人の除雪要員を派遣したということでございまして、またこの本部長、実はこの本部長というのが当時の建設大臣でありました河野一郎建設大臣でございます。そして、なかなか現地にたどり着かない。そのたびに、政府はあなた方を見捨てないというような演説をして、国民を安心させつつ行ったということでございます。
○池田治君 河野外務大臣のお父さんの河野一郎先生は、昭和二十年代の終わりごろロシアが初めて漁業制限をやってきたときに、単身モスクワに乗り込んで時の権力者と渡り合って、そして堂々と日本の漁業資源量というものを獲得した先生だと私は認識しておりますので、多分その息子さんの外務大臣もそれ以上のことをやってくれるだろう、こう期待しておりますので、ぜひよろしくお願いいたしまして終わります。
私は、昭和三十九年の河野一郎建設大臣(当時)の閣議での発言以来この課題を追求し続けて参りました。また、地方の理想的形態として、新首都がひとつのシンボルとなり、北海道から沖縄まで、新しい都市と農山漁村が均衡ある発展を遂げ、光り輝く「真珠のネックレス構想」を主張し、あわせて国会においても新首都問題についての発案著として、度々取り上げて参りました。
私、今回のこういう問題で一つ思い出したのが、かつて河野一郎さんがモスクワへ行って漁業交渉をなさっているときに、余り向こうが横暴で話がわからないというので、お前さんと口きいている暇がないとけつをまくって帰ってきたという話があるんですけれども。
私がこの問題を言い出したのは、昭和三十九年、河野一郎建設大臣が閣議で首都移転を言われたときからです。そのときに、亡くなられた桑原愛知県知事に呼ばれて、君はこの問題を専門で研究してくれということがあってから始めたんですね。これを言い出したころは、賛成の方は本当におりませんでした。それから昭和四十四年に国会に出まして、四十八年に、当時の建設大臣に建設委員会で質問したんです。