○参考人(河野一郎君) 御指摘ありがとうございます。(発言する者あり)
○参考人(河野一郎君) 漏れていないと考えております。
一件目は、昭和三十八年七月十五日、神奈川県平塚市の河野一郎建設大臣、当時の私邸に侵入し、ガソリンをまいてこれを全焼させた放火等の事件。二件目は、昭和五十二年三月三日、都内千代田区の経団連会館に侵入し、拳銃、猟銃を発射して会長室に立てこもった逮捕監禁等の事件。三件目は、平成五年十月二十日、都内中央区の朝日新聞東京本社内で同社社長らと面会中、拳銃を使用して自殺した銃刀法違反等の事件であります。
きょうは、河野一郎先生に大変御多用のところをお越しいただきまして、参考人として私どもの質問にお答えいただけるということで、大変感謝申し上げる次第でございます。 通告に従いまして、早速質問に入らせていただきたいと思います。
そこで河野一郎参考人に聞くんですけれども、東京二〇二〇は、コンセプトの一つに、アスリートファースト、競技者本位のオリンピック・パラリンピックを打ち出しております。さきのロンドン・オリンピックも同様のコンセプトを採用しており、アスリートを中心に据える動きは、二十一世紀のオリンピック・パラリンピックが目指す方向になっていると思うんです。
ただいま参考人として独立行政法人日本スポーツ振興センター理事長、公益財団法人日本オリンピック委員会理事河野一郎君が御出席されております。 河野参考人におかれましては、本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。(拍手) 次に、稲津久君。
本件調査のため、本日、参考人として独立行政法人日本スポーツ振興センター理事長河野一郎さんの出席を求め、意見を聴取することとし、また、政府参考人として総務省総合通信基盤局電気通信事業部長安藤友裕さん、法務省矯正局長三浦守さん、外務省大臣官房参事官新美潤さん、欧州局長小寺次郎さん、文部科学省初等中等教育局長布村幸彦さん、高等教育局私学部長小松親次郎さん、科学技術・学術政策局長土屋定之さん、研究開発局長戸谷一夫
まず、河野一郎日本スポーツ振興センターの理事長にお伺いしますが、マルチサポート事業の概要と政策効果についてお伺いします。
○河野参考人 河野一郎でございます。
また、衆議院文部科学委員会に参考人として御出席いただいた日本オリンピック委員会JOCの河野一郎理事からも、やはりスポーツは環境をしっかり十分に考えなければならない、オリンピック招致に当たっても、環境というのは非常に重要なテーマだとの御意見も出されました。 近年、地球環境保全の重要性の認識が高まり、スポーツにおける環境保全への留意は世界の流れとなっております。
松野 博一君 富田 茂之君 宮本 岳志君 城内 実君 土肥 隆一君 ………………………………… 文部科学副大臣 笹木 竜三君 文部科学大臣政務官 笠 浩史君 参考人 (総合型地域スポーツクラブ全国協議会幹事長) 小倉 弐郎君 参考人 (公益財団法人日本オリンピック委員会理事) 河野 一郎
本日は、本件調査のため、参考人として、総合型地域スポーツクラブ全国協議会幹事長小倉弐郎君、公益財団法人日本オリンピック委員会理事河野一郎君、学校法人了徳寺大学理事長・学校法人了徳寺学園理事長了徳寺健二君及び学校法人タイケン学園スーパーバイザー佐伯年詩雄君、以上四名の方々に御出席をいただいております。 この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。
それで、まずこれはJOCの河野一郎参考人にお伺いするんですけれども、JOCでは、「スポーツと環境」ということをホームページでも掲げておられまして、「オリンピックは、地球以外で開催できません。」こう書くとともに、この「IOCスポーツと環境・競技別ガイドブック」、これは、世界の中で初めてJOCが訳本を製作した、こういう非常に熱心な取り組みをされているわけです。
これに基づき、その年の十月二日の閣議で鳩山総理は訪ソを決定し、七日に日本を立ち、鳩山首相を首席とする日本全権団、ここには河野一郎大臣も参加されておりました。この全権団はソ連側と国交正常化交渉を行いまして、十九日に日ソ共同宣言が発出されたのでございます。
そこに同席をしておられたのは、総理のおじい様であられる岸さん、そしてまた河野一郎さんが同席をしておられました。私は、この記録を読んで、昭和三十年にこういうことを考えていた人がいたということに、ある意味、胸を打たれる思いがしたのであります。 重光葵は、ミズーリ号で降伏文書の調印をした人であります。それから十年たって、自分の手でこの日米の関係を変えたいという思いがあったのでしょう。
したがいまして、先ほどの関税率七〇%、五〇%、今は譲許で三八・五ですか、というふうに長い間の、もう四十数年来の、私が聞いたところでは、河野一郎農林大臣のときに大変激しい交渉をやって以来ずっと続いて、昭和六十二年ですか、牛肉・かんきつのああいう形、現在の基本的な制度があり、そしてウルグアイ・ラウンドを経て今回になっているわけであります。
私の大学の先輩で、河野一郎さんの秘書をやって、漁業交渉か何かでモスコーへ行ったときに世界選手権をやるというのが分かって、日本も入れてくれと言ったら、それでオーケーになっても、行き方なかったんですから。香港まで、国境を、川を渡って、北京、瀋陽、長春、ハルビンと、試合と合宿やりながら一か月、それからモスコーに入っていったんですから。
それで、河野一郎建設大臣のころに三十一メーターの制限が外されて超高層ビルができるようになったんです。そのときもうコンピューターは非常に高いものでしたから、あるハイレベルな人たちだけがやっていた仕事なわけです。 それで、八一年に新耐震設計法というのができまして、この法律が変わったのは、一九六八年と七八年に東北地方を襲った地震で建物がいろいろ壊れたからということです。
社長は建設省から派遣されていた、河野一郎さんに言われて。その人には信望がなかったけれども、その副社長にどんどんどんどん電話が掛かってきて、無事に年越せる、現場は年越せましたと。ああ、そうかよかったな、だけどおまえ、酒飲む前に重機にお神酒やったかと、こう言う。それみんな気付かないんだ。あっ、分かりましたと。心が通い合ったんですよ、心が。そこから一気に会社更生法をクリアしていった。
思い起こせば、ちょうどオリンピックの年に新幹線もでき上がったわけですが、当時は河野一郎建設大臣でありました。我々はまだ高校生でありましたけれども、時の一声、ツルの一声で、一日も早く間に合わせ、道路を開通しろと、栗東—尼崎間を開通してもらったのが名神高速道路でありますが、そういうことも思い出しているわけです。
○西川(太)委員 容積率の緩和について次にお尋ねするのですけれども、古い話で恐縮でございますけれども、河野洋平先生のお父上、河野一郎当時建設大臣が小田原のお屋敷にお帰りになるときに三田を通るのですよね。そうすると、慶応義塾大学の前を通って、慶応ボーイという日本で一番しゃれた人たちが勉強しているこの地域が平均二階か二・五階、こういうことでいいんだろうかというようなことをおっしゃった。
そのときに、砂田さんがまだ国会議員でなくて河野一郎さんの秘書で、初めての日ソ漁業交渉、第一回行ったんですよ。そのときに、アイスホッケー参加させてくれと。ところが、行くことが、ルートがないから、自民党の政調に津村さんといった、この人も私の大学の先輩。砂田さんも立教大学のアイスホッケーの先輩。この人が中国全部アレンジしてくれて、そうして二か月遠征して帰ってきた。
先ほども申し上げましたように、この首都機能移転という問題は、非常に長い歴史を持って、バブルの前から、昭和三十年代の半ばには磯村英一さんの富士山ろくの話、あるいは河野一郎さんの話等々、幾つかの提案がなされて、やはり時々に、日本のあり方の問題として常にとらえられてきた問題であるというふうに思います。 そういう意味で、単にバブルのときの話だという問題ではない。
(拍手) 先生は、みずから進んで政治部記者となり、昭和三十一年の第一回日ソ漁業交渉の報道特派員となり、河野一郎農林大臣に同行することになりました。 一カ月余りのモスクワ滞在中に、ますます政治家たらんとの決意を固められた先生は、一九六〇年に、みずから東北のケネディと名乗り、三十六歳の若さで宮城一区から見事に当選されました。
前外務大臣のときにも私は、少しこのスピードが遅いのではないか、今ごろ四十年以上前の河野一郎農林大臣のヨーロッパ訪問の記録が公開されても、これはちょっと幾ら何でも遅いんではないかなという気がいたしますので、きちっと、期限が来たらタイムリーに外交文書の公開というのを、これはどの件でもしっかりと公開をしていただきたい。
河野一郎さんが建設大臣のころつくった首都高速はそのままです。 世界の人々が今二十四時間で飛び立っています。あの成田の国際空港は二十三時以降は一切離発着ができません。
それは河野一郎さんを中心にして松本俊一さんが専門家として進められた。 そういう中で、私が申し上げたいのは、私どもが外務省記者クラブでそのソ連代表部からの話を聞いたときに、共同通信のそのときのキャップの先輩は、即座にこれはデスクに話すのはよそうと。デスクの中には吉田派と親しい人もいるから、それをやればすぐに吉田派が妨害に出るだろうと。ということになってはいけないから、我々だけで対応しようと。