2021-03-17 第204回国会 衆議院 国土交通委員会 第4号
それで、役所も辞めてぶらぶらしていたときに児玉源太郎に呼ばれて、日清戦争が終わって二十三万人の将兵が中国大陸から戻ってくる、この二十三万人の将兵の検疫をしなければならない、その責任者になってくれないかということを頼まれるんです。 当時、検疫だとか何だとかといううるさいことをやるのは、陸軍の将兵が戻ってくるわけですから、森鴎外だったんですよね。
それで、役所も辞めてぶらぶらしていたときに児玉源太郎に呼ばれて、日清戦争が終わって二十三万人の将兵が中国大陸から戻ってくる、この二十三万人の将兵の検疫をしなければならない、その責任者になってくれないかということを頼まれるんです。 当時、検疫だとか何だとかといううるさいことをやるのは、陸軍の将兵が戻ってくるわけですから、森鴎外だったんですよね。
例えば、後藤新平が、スペイン風邪よりも前ですが、日清戦争から帰ってくるときや何かは、あれをつくるとか、防疫システムですよね。 それで、二十一世紀に入りまして、これが今回、先ほどのエピセンター制圧という格好で、東アジアで出てきている劇的に変わっているやり方がある。要するに、一つは膨大検査を前提にする。
であればこそ、白村江の戦いから日清戦争、日露戦争、韓国併合に至るまで、こういうことがあったわけでございます。 韓国がやはり隣国であるという地理は変わりませんし、先ほどの我が党からの質疑でもありましたように、やはり人口減少をしていく日本の国力、これを無駄に割くべきではないという観点からも、私はこれ以上の日韓関係の悪化を防ぐことは必要だと思います。
過去、いろいろちょっと調べていただいたんですけれども、一度だけなんですけれども、東京以外で国会を召集していることも実はあったりしているわけでございまして、いつかといいますと、日清戦争中、大分昔なんですけれども、第七回帝国議会、これは、天皇の国事行為によりまして、広島において国会を召集するということで、東京以外のところでも実は国会が召集されているという事実もあるわけでございます。
そこに、明治期には、日清戦争後から本格化してきた基本産業の育成政策の観点から、当時、発展的であった新しい漁業、定置網、養殖業、この漁場の中に一定程度の大きさの網が入ったわけです。そうなれば、ほかの人たちは漁業を結局できなくなってしまうわけですし、その歴史の中で、今、共同漁業権の中に、区画漁業権があり、養殖漁業権があるわけです。
明治に漁業法が初めて定められて以降、日清戦争後の産業振興策の中で、外部から大型資本の参入を政府が奨励することで、共同であるはずの漁場に新たな争いの種が生まれました。
このパネル、今御覧になっているパネルでありますが、これは、日清戦争の軍役夫、適切でない表現があるかもしれませんけれども、これは墓地を管理しているところが使っている表現ですのでお許しいただきたいと思います。つまり、馬丁や職工等、民間人の墓。戦死した軍役夫は靖国神社に祭られる一方、病死者は記録もされなかったようです。しかし、この真田山墓地には戦病死した多くの軍役夫も眠っております。
いずれにせよ、社会環境というのが、明治の四十年といいますのは、日清戦争、日露戦争が終わったのが明治の三十八年でございます。その二年後にできて、不平等条約の是正、これがやっと成り立ったのもペリーが来て日米修好通商条約を結んでから五十七年後だったですか、その明治四十年になって初めて関税自主権あるいは治外法権、こういうのがやっと是正されるというようになった。
御存じのとおり、日本は、サンフランシスコ平和条約第二条の規定により、日本が日清戦争によって中国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島の領有権を放棄しましたけれども、尖閣諸島は、ここに言う台湾及び澎湖諸島には含まれていないということであります。
もうほとんど、チベットからウイグルから内蒙古から歩いておりますが、その歩く過程におきまして、やはり日清戦争以来、百二十年たっていますけど、その間の日中関係の文芸評論集というのが最近出まして、岩波書店から。
それは、もう一つは少子化とか高齢化とか、そういったものがあるわけでありまして、今言われた明治時代はむしろ、あれはたしか日清戦争の後か前かだったと思いますが、国力が伸びているときでありました。今はそういう社会的なトレンドがちょっと違うということが一つ。 それからもう一つは、やっぱりあの当時はその地域で、自給自足といったらなんですが、まとまった経済だったと思います。
それから、幾多の内乱、さらには日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、そして太平洋戦争に至るまで、この七十年の間に日本は幾多の戦争を経験をしてきました。この間、いっときだけ大正デモクラシーという時代もありましたが、しかし、基本的には軍国主義、そして国家主義の増長、ばっこを許したと言ってもいい。これは、まさに政治の敗北でありました。
なぜ中国がそう言っているかというと、これはつらつら思いますに、一八九五年、日本が編入したときにはちょうど日清戦争のさなかだった。どうも、かの国は、あの帝国主義的な日本が押さえたんではないか、これはもともと中国領だと言っておるような気がするんですね。 しかし、これがまた違うんですね。
この数字がどれぐらい大きいかというと、日清戦争というのが一八九四年、九五年ありましたけれども、日清戦争で日本の戦死者は二千人いなかったんです。
歴史的に我が国は、日清戦争以前の一八八五年、尖閣諸島の現地調査を行い、同諸島が単に無人島であるだけでなく、当時の清国の支配も及んでいないことを検証、さらに確認をした上で、下関条約締結前の一八九五年一月に我が国の領土として正式に沖縄県に編入することが閣議決定された歴史があります。
特にペリー来航の日本開国以降は、列強とどう対峙していくのか、その過程で日清戦争、日露戦争もあって、坂の上の雲を目指し頑張ってきた、あるいは大恐慌も来た、関東大震災もあった、そして大正デモクラシーもあった、でもその後には軍国主義になってきてしまってあの大戦に突入して終戦を迎えたと。これは日本史、世界史、分けられないんですね。もう日本史の中に世界史があるし、世界史の中に日本史があった。
陸奥宗光公は、日清戦争のときの日本の外務大臣、あるいは不平等条約改定に努力をした外務大臣として高い評価を得ている、これが外務省における銅像の設置のありようにもつながっているのかな、こんなことを感じたことがあります。
靖国神社には、第二次世界大戦において命を落とされた方々のみならず、第一次世界大戦、あるいは日露戦争、日清戦争、さらには一八五三年以降、明治維新、西南戦争等、国内の騒乱において命を落とされた方々も含めて二百四十七万人の方々が神社に祭られているということ、その二百四十七万人は男女の区別あるいは身分の区別なく祭られているということ、女性も五万人以上の方々が祭られていることなど、こうした靖国神社の実態から丁寧
いしたときに、田中先生が国交正常化の後、お帰りになったときに、お宅へ伺ったときに、おい、大変な仕事をしてきたよ、あのときの北京の空は晴れておったし、俺は北京の空晴れて秋気深しという漢詩を詠んだけれども、しかし本当に周恩来、毛沢東という人は立派な人だったと、そういう話をされまして、最初にあの大きな戦争だからどれだけの賠償を要求されるであろうかというのが心配をしておったけれども、毛沢東主席がいきなり、日清戦争
「軍機保護法は日清戦争直後の一八九九年に制定されたが、日中戦争が開戦した一九三七年に全面改定された。」云々かんぬんと書いてありまして、「戦争批判を封じ込めて「国家総力戦」を遂行するため、国民を軍事情報に一切触れさせないようにすることが目的だった。一般の人びとを脅し、政府が国民を管理、統制すること。軍などの組織の統制が目的ではない」。
このことについては、先例等を見ると、帝国議会時代に、日清戦争中ですけれども、大本営を置いた広島の仮議事堂で国会をやったことがある。それから、第一回の帝国議会のときに、火事があって、これは議場の話ですけれども、議事堂以外、貴族院は帝国ホテルの食堂で本会議をやった、衆議院は旧工部大学を議場として使ってやったという例があるんですね。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次大戦、第二次大戦後の今日、軍事技術がどう進歩発展してきておるかということを皆さんは眼中になくて、ただ十八世紀、十九世紀的な地政学で海兵隊を沖縄に押し付けておる。その海兵隊は元々沖縄にはいなかった。 それは元々はどこにいたんですか、防衛大臣、お伺いします。