1954-03-13 第19回国会 衆議院 文部委員会公聴会 第1号
しかし労働者という意味を、必ずしも階級意識を持つた労働者という哲学をとる必要はないと私は思うのです。その意味におきまして、この労働者という意味は、要するに教員もまた賃金労働者とひとしい俸給所得者である。
しかし労働者という意味を、必ずしも階級意識を持つた労働者という哲学をとる必要はないと私は思うのです。その意味におきまして、この労働者という意味は、要するに教員もまた賃金労働者とひとしい俸給所得者である。
現に、中共は、かつて王侯の哲学なりとして排斥した孔孟の教えを必要のために取上げております。レーニン、スターリンが民族意識高揚のためにはピーター大帝を礼讃した実績に徴して、ぬれ手であわの日本獲得なれば、鉱工業と技術に事欠く中共の日本侵略は杞憂として蔑視するわけには参りません。
そうして現実の問題としては、これに働きかけて来るものとして一番危険に考えられるのは、教職員団体の組織あるいは活動を通じて行われて来る働きで、その実情にかんがみまして、その点に限定をしてその働きかけを抑えるわけで、この場合におきましても、やはり一定の目的をもつてする働きかけ――ただ世の中のどこかに隠れておつた哲学者が飄然として出て来て、そうして学校の先生を集めて、教育はかくあるべしというようなことを申
これは哲学的に言えば幾らでもむつかしく言えるわけです。現実を尊ぶ政治でありますから、私はそういうことは申上げません。だからそういう点を一応御検討になつておかないと都合が悪いのじやないかと心配しておる。私はくだらない低級な思想の持主が日本国中を荒し廻るということについては、断固として闘う必要があると思う。
東洋の政治家の哲学に先憂後楽ということがある。特に議会人は今世間から非難を受けておりますから、特に考えなければならん。国民に先んじて憂えなければならん。楽しむのはあとから楽しまなければならん。然るに目の前に僅か二十社の製糖会社がこういうような暴利をとつておつて、而も自分の創意工夫によつて儲けたのではない。自分が大発見をした、大発明をした、自分の企業能力によつて儲けたというなら別であります。
ドイツにおきましてもヒトラーのナチスの時代になりまして哲学界も衰えてしまう、あるいはソ連におきましてもトルストイあるいはドストイエフスキーとか、いろいろの卓抜した芸術家が出たのでございますが、ソ連にも左翼独裁の政権ができまして、そうして左翼独裁の政治教育が行われましたから、私は芸術の面におきましてもソ連は萎縮して来たんではないかと考えておるのでございます。
さらに哲学とかそういう方面に関連したものにつきましても、選択して学習のできるようにしたい、こういう考え方で検討しております。
それをなさずに、哲学者のようなぐあいにやられるのは少しおかしいじやないか。そういうことをなさつたことはありませんか、それをお伺いしたい。
それはどういうことかと言いますというと、人類というものをまあ哲学的に思索する。生理学上或いは生物学の観点から言つて、これは例えば神といいますか大自然といいますか、宇宙の法則と申しますか、生物の存続ということについての本能を神が与えるということを考える或る一部の人があるわけです。
日本人の知識というものは、それが科学であろうが、哲学であろうが、あるいは経済産業に対する心構えであろうが、決して世界水準よりは劣つておるとは思うておらないと考えております。
更に科目をそれぞれ分科し、或いは新設するのみならず、それを必修にしたい、歴史、人文地理、それから只今申しました新らしい科目、こういつたふうなものは必修にすることが望ましい、更に、なお、選択的に特に倫理、哲学、思想方面に関心を持つような生徒のためにそういつたふうな新たな科目を選択せしめることも必要である、かように申しております。
あるいは北吟吉氏の哲学概説、あるいはまた委日長あなたの青年教育論であるとか、神近委員の婦人解放問題に関する幾多の著書であるとか、その他多くのわれわれ国会議員としての先輩並びに同僚諸君のうちには、内容のゆたかなまた権威のある著作及び翻訳書というものが相当ございます。私の概算においてはおそらく、五、六千冊になつているだろうと思うのであります。
○衆議院議員(岡本忠雄君) 成るほど社会哲学からの御説は御尤もだと思います。併し陸にしろ海にしろ、この運送はやはり或る程度公益的な性質を帯びておるものと私は考えるのであります。従いましてこれを取締るということよりは、むしろ公正なる取引をさすというこの規律を設けることはむしろ保護になると考えます。かような見解からこの法律は支持を受けるものであると私は考えるのであります。
大体哲学、宗教、歴史、化学、社会科学、自然科学、光学、工芸、産業、芸術、語学、文学、これらを小学校、中学校、高等学校の学校種別に応じまして、それぞれパーセントをきめまして、大体この辺のこの割合で書物を選ぶことが望ましい、こういう程度のもりをこの中央において示しておるだけでありまして、その他はやはりこれは地域社会の要求に応じ、又指導する先生方の自主的な判断におきましてこの子供の要求を容れ、又教育の一つの
これは扱い方によつてはナチスの哲学と同じことになるかも知れない。或いは日本の旧憲法時代の考え方と同じようになるかも知れない。私はそういうふうな抽象的な規定があらうかと思いまして、ずつと前から一ぺん労働大臣に聞いて見たいと思つて具体的な実は質問を持つておる。
また子供の知脳の発育するそれぞれの段階に応じまして、知識としての道徳教育というものを授ける、さらに高等学校であるとか、非常な高学年にいたりますれば、これを学問として、あるいは哲学であるとか倫理学であるとかいうところまで進めて行くのがいいかと思うのでありますが、要するにどうすれば一番有効にこの道徳教育が行えるかということは、いわば公式的にやれる面、たとえば教育の方法といいますか、技術に属すると申しますか
でありますが、まあ常識的に考えましても、極く小さい低学年の児童に対しては、先ほど申上げましたように、実際の実践の両において、いい習慣をつける、いわゆる躾と申しますか、そういう実行面においてこれはしていいことと悪いこととを自然に体得させる、だんだん知能が発達して参りますれば、その発育の段階において知識として道徳的な知識を注入して行く、更に進んで、高等学校も上のほうになりますれば、進んで倫理学であるとか、或いは哲学
○深川タマヱ君 この問題をもう一つで締め括りいたしたいと存じますが、成るほど大臣のおつ上やる通り、小さい時には直接知識の注入という方法をとらないで、実践の面下習慣、いわゆる躾を通して実践さして行く、だんだん知識の発達するに従つて知識として注入する、大学にでも行つたら倫理学とか哲学、そういうものでだんだん教え込むというんですから、それはそれでよろしいんです。
だから知識人とかいろんな連中がおつても、例えば哲学的にえらい人、これは非常な哲学者という立派な思想家がたくさんおられて、有名な人を連れて来て、この人がどういう話をするかということを考えてみますと、或いはその思想というものはかたよつたものかも知れないのでして、昔の考え方かも知れない。併し国民全体のよりどころは新憲法以外にはない。
外国へ出ます書類でございますが、それは医学書とか哲学書とか文学書、いろいろの種類がありましようが、何が一番余計出て参りますか。
委員長として政府のかたに先ず第一にお伺いしたいのですが、この改正案の要旨は四点あるようにこの理由書のうちには現われておるのですが、一体日本の国でこの噴流行いたしております基本的人権というものは、これは憲法第十一条のあの規定の基本的人権だということは勿論でありましようが、その内容、いわゆる古事記哲学から表現された基本的人権であるか、或いはマグナカルタ憲章以来の英国から渡つた基本的人権を指されるのか、それを