1951-02-10 第10回国会 衆議院 本会議 第11号
先般非公式オブザーヴアーとして国連へ出られました中山君の御報告によりますれば、ルクセンブルグ、フランス、オランダなどの諸国は、この問題は相手国と個別に折衝すべきであると、いう考えを持つておつたとのことであり、またアラビヤ・ブロツクにおきましても、本問題は政治的意図を持つものであるから、これを取上げれば戰争になる危險性があるというようなことで、本案を取上げることを喜ばなかつたというような様子があつたことを
先般非公式オブザーヴアーとして国連へ出られました中山君の御報告によりますれば、ルクセンブルグ、フランス、オランダなどの諸国は、この問題は相手国と個別に折衝すべきであると、いう考えを持つておつたとのことであり、またアラビヤ・ブロツクにおきましても、本問題は政治的意図を持つものであるから、これを取上げれば戰争になる危險性があるというようなことで、本案を取上げることを喜ばなかつたというような様子があつたことを
極めて最近の機会にベルギーとオランダにも設置されることになつております。そういたしましてこのような事務所が主として経済、通商の伸張ということに寄與をなしておるのであります。御承知のように講和ができません前でありますので、その機構、権限に多くの制約があるのでございますけれども、全然出先を持ちませんでした外務省として、非常な発展であります。
併しながらこの地図はこのときに初めてできたものではなくて、恐らくはオランダが探險をいたしましたよりも更に遡りますところの寛永十二年、一六三五年でございますが、それから間もなく幕府の命令によつて奉らなければならなかつた地図を作るために、藩士を派遣して作製いたしました。
続きましてオランダ政府が、インドネシア地域にある戦犯者を内地へ送還しまして、巣鴨に抑留せられ服役することになりました。その次に実現したしましたのは、仏印地域における戰犯者が又内地服役を命ぜられまして、今日に至つたのであります。
一カ月の予定を以て参つたのでございますから、いらいらと待つておりまして、どういうわけでこれが遅くなつているかということをいろいろ手を廻し調べて見ましたところが、ルクセンブルグ、フランス、オランダ、この三国は自分たちの未引揚者たちを相手国と個人的に折衝して解決しよう、だから今ドイツや日本の人たちがこの問題を提げてここに来たのは誠に迷惑だ、これが国連で取上げられるということになると、或いは自分たちのほうが
アメリカはオランダ帝国主義を抑えまして、そうしてインドネシアを解放いたしました恩人であります。アメリカはその立場に帰りまして、正しい民族運動を助長して、植民地支配から解放し、そうしてアジアの繁栄をもたらして行くことが、私は最良のアジアの対策ではないかと思うわけであります。
その理由はと調べてみますと、ルクセンブルグ、フランス、オランダ、この三箇国は、自分たちの引揚げの問題を何とかして相手国と個別的に折衝して善処しようという考えから、私どもが参りましたことを喜ばなかつたのであります。アラビアブロツクも、これは政治的な意図を持つて来たものであるという考えのもとに、これをここで取り上げたならば、今でさへも冷たい戰争でやきもきしておるところの世界が、発火点に達しはしないか。
ベルギー、オランダ、スイス、イタリー或いはインドというような国々、それから又濠洲というような国々がこういう銅に対する需要が相当あるわけであります。又アルミニュームにつきましても鋼と或る程度代替関係に立つという関係もありまして、朝鮮事変以後非常に国際需要が増大いたしまして、従来ありましたストックを全部売盡したというような状況に至つたわけであります。
日本政府在外事務所設置法が成立いたしまして、先ずアメリカ國内、ニユーヨーク、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ホノルル、シアトルの五カ所に在外事務所が設置いたされましたが、その後同法第二条第二項に基きます日本政府在外事務所増置令によりまして、今年の十月、ストツクホルム、パリ、リオデジヤネイロ、サンパウロ、カラチ、ニユーデリー、カルカツタ、ポンペイ、ブラツセル、モンテヴイデオに、又先月の十一月にはオランダ
その一つはイタリアにおきまして開催せられておりました第二回国際高周波放送会議、もう一つは九月の末にオランダのへーグにおきまして開催を予定せられておりました臨時無線通信主管庁会議というのであります。前者、すなわち第三回国際高岡波放送会議の方は、本年の四月から開催せられまして、わが国からも三名の代表が出席いたしました。
それから大阪や、或いは東京の江東の、海より低くなつたところは、ウォールでその地域を囲む、城壁でその地域を囲む、防潮堤でその地域を囲むべきものである、小さいオランダというようなことになるのではないか、そういう堤を造らずに海面より低いところで暮しているというようなことは、これは馬鹿か気違いでなければなせないわざであるというようなことまで強調して参つた次第でございます。
日本政府在外事務所設置法が成立いたしまして、まずアメリカ合州国内のニユーヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルル、シヤトルの五箇所に在外事務所が設置されましたが、その後同法第二條第二項に基きまする日本政府在外事務所増設令によりまして、本年の十月ストックホルム、パリ、リオデジヤネイロ、サンパウロ、カラチ、ニユーデリー、カルカツタ、ボンベイ、ブラツセル、モンテヴイデオ、この各市に、また本月に入りましてからオランダ
又国際連合の朝鮮統一復興委員会は濠洲、チリー、オランダ、パキスタン、フイリツピン、トルコ、ノールウエー等のこの七ケ国によつて現在の国連朝鮮委員会の機能を引継いで統一した民主的政府の樹立を援助し、且つ朝鮮の救済復興事業について国際連合総会の責任を遂行するというのがその任務でありまするが、その構成いたされまするまでは国際連合、只今の構成国の常任代表から成りまする中間委員会が国際連合司令官と連絡しまして、
それはインドネシアの事件が国際連合に取上げられましたときに、オランダはあれは国内問題であつて国際問題でないといつて、国際連合が介入することに極力反対いたしましたが、アメリカその他の強い干渉があつて、局オランダも承諾して、インドネシア問題が国際連合の調停委員会の介入を認めて、同委員会の力によつて円満な問題の解決を見ることになつたのです。
これはもう根本的に研究をしなければ到底英国、オランダ等の自転車に対抗はできない技術的な欠陥がありますから、そういう面に対して皆さんが楽しんで喜んで納める金の中からそういう研究ができるということでありますならば、非常に国家の輸出産業の上からも大変結構なことだと思うのであります。昨年は四億円の中から一般の自転車の研究者に対して千五百万円が支出されることになりました。
そういうような次第で、治水は昔からの癌になつておつたのでありますが、明治政府に至りましても、いわゆるこの治水にはやはり重きを置いて、早速オランダあたりからも錚々たる技術者を呼んで来て、いろいろ意見を聞いて治水工作をやつておられたようであります。 それで我が国は御存じの通り平野は至つて少く、大抵山の押出しの甲野ですから、大きな中野には必ず大きな川が近くにあるというように思います。
関東榛名山は明治十五年からやつたのでありますから、ちよつと遅れておりますが、そういうのが日本での近世砂防の初めでありまして、これは皆オランダから雇うて来たいろいろの人の指導でやつたのが先であります。
その外国人というのは、言うまでもなくオランダ人でありまして、オランダ人が当時オランダの医療制度を書いたものを、伊東己代治さんが飜訳したのでありますが、それにそういうことが書いてある。それに端を発してずつと来ました。明治八年にもそうなつて参つたのであります。
そのほか昔のドイツ、イタリアはもちろんのこと、スエーデン、オランダ、ベルルギー、デンマーク、それから欧州の小国に至りますまで、ほとんどたいてい法律で規定をいたしております。アメリカにおいては、ほとんど大部分が任意分業であるということを言われますが、これも、われわれの調べは多少古いのでありますけれども、ほとんど大部分の州が、州法をもつて調剤は薬剤師に限定するということをきめている。
今まで三十八度線あるいは朝鮮の戰後処理の問題につきまして出ております提案のうち、多少御参考になるかと思う点について御説明いたしますと、九月の二十九日にイギリスがイニシアチーブをとつて、米国の同意を得て八箇国の共同提案、すなわちイギリス、オーストラリア、ブラジル、キユーバ、オランダ、ノールウェー、パキスタン、フイリピンの八箇国の共同提案が出されておりますが、その要旨を申し上げますと、一つは国連は全朝鮮
別途お手許に差上げてあると存じまするが、一つはイタリアにおきまして開催せられておりました第二回国際高周波放送会議これと、それから今月の末にオランダのヘーグにおいて開催を予定せられておりましたところの臨時無線通信主管庁会議と、この二つであります。