1951-07-27 第10回国会 衆議院 大蔵委員会 第61号
○平田説明員 戦後の復興をはかるために資本蓄積の重要なことにつきましては、たびたび強調いたしておる通りでございます。私は前回とりました措置のうち、少くとも会社関係と申しますか、会社の社内留保を増加せしめることによつて会社の内部におきまして資本の蓄積をはかるという点につきましては、相当目ざましい効果を上げつつあるように、実は見受ける次第でございます。
○平田説明員 戦後の復興をはかるために資本蓄積の重要なことにつきましては、たびたび強調いたしておる通りでございます。私は前回とりました措置のうち、少くとも会社関係と申しますか、会社の社内留保を増加せしめることによつて会社の内部におきまして資本の蓄積をはかるという点につきましては、相当目ざましい効果を上げつつあるように、実は見受ける次第でございます。
その他税法のこまかい規定等も改めまして、極力密貿の防止に当ることにいたしておる次第でございますが、何しろ朝鮮、台湾等は、従来は密貿に関係なかつたのでありますが、戦後新しくああいう方面から持つて来るものは、密貿になるというような関係になりまして、なかなか問題が簡単でないようであります。
それから又総体的に見て、戦後相当たらしのない役人もなきにしもあらずでありますが、だらしがなくても、まあ戦さに負けたのだから、もう少しお互い働こうじやないかということもできんわけじやないという意味で、総体的に幾らかの能率向上を図るということはありますが、それだけでやるというつもりはございません。
二十四年度で半分に配付税を切つてしまつた、而してそのために非常に議会でも問題になつて、二十四年度は予定された千数百億円が見てなかつたために、予算も組み直さなくちやならないというふうな、戦後まだ二三年の時でありましたから非常に困難を来したのであります。そこでそれを根抵として、その際にもかかる現状であるにかかわらず、歳入超過百八十九億というものをそこに挙げておられる。
戦後補給金が長く続いた。その補給金を打切るときにも非常に鉱山の問題は憂慮された。たまたまこういう情勢になつたので、金属鉱山の立上りが急速にできたわけでありますけれども、ここ数年は栄えるといたしましても、なかなか波の打ち方がきつい山の仕事であります。
その後戦争となり、戦後いろいろな悪条件下にあつて、この問題が軽視されておつたが、今日ようやく大事なことだというところまで来ておるのであります。私は今年こそひとつ需要者に対して十分熱管理を徹低させましたならば、増産の面と相まつて大きな効果を上げるのではないかと思うが、これらの具体的な措置は一体どんなふうにやつておられるのか。
カロリーは戦後だんだん向上いたしまして、六千二百カロリー程度まで上つたのでございますが、その後ちよつと下りまして、統計面によりますと、六千百カロリー程度まで下つておるような状態でございます。積極的なことを申し上げれば、工業技術庁の方に選炭研究所というものも最近できまして、技術的な面からカロリーの向上ということにせつかく努力をする態勢を整えつつあるわけでございます。
これにつきましては、いろいろとその後実行されまして、大分食品衛生の面は、戦後見直すようになりつつあると考えます。指導におきましては、行き過ぎの面もありますが、大体監視員等の定員が、非常に少いといようなことが原因で、まだ十分と申すわけには行きません。
「新宿御苑が戦後開放されたのは都会の雑騒から逃避する都民の憩いが目的であつたが、最近では晝間広大な苑内の樹陰が到るところアベツク、パンパンが風紀を公然とみだす野天ホテルと化して学童の遠足などには誠に困りもの、先生はじめ付添いの者まで真つ赤になる光景がここかしこに演ぜられ「粋宿獣苑」と名を改めざるを得ない、まして夜間開園はもつての外、当局の一考ならず二考、三考をわずらわしたい」もつていかんとなす、あなたの
私も署名しておりますから、反対ではありませんけれども、私東京に来ておりまして、一番嘆かわしく思うのは、東京都内にありますところの開放された名園、あるいは六義園であるとか、あるいは後楽園であるとか、新宿御苑ももちろんその一つに入りますが、そういうものが戦後めちやくちやに荒れてしまつていること、そして戦後において、りつぱな建築ができますけれども、かりにこの国会議事堂を一つとつて、高さが高いとか、金がたくさんかかつたとか
○説明員(首藤新八君) 炭鉱の問題について今懸案となつておりますのは一般鉱害の復旧の問題、更に只今資源庁長官から答弁された坑道の税金の問題、並びに戦後復金融資で建設された炭住の問題、大体この三つが大きな懸案として現在残つていると我々思うのでございます。
かつ非常に中途半端で、よく意味がわかりませんが、ただいままでの私どもの研究しているところでは、戦後、傷痍軍人は何ですが、遺族の方につきましては、全然扶助料が出なくなりましたために、どういう状態にあるかということは非常にはつきりしていない。
それから戦争中或いは戦後非常に電球等が不自由でございまして、配電会社に行つても替えてもらえないという頭がありますから、殆んど家庭では電球を替えていない、私たちも終戦後配電会社に行つて替えた経験を持ちません。皆買つております。ところが電球の取替えのためにもやはり東京だけでも二億数千万円あります。こういつたようなものはもう検討する余地はないのでありすか。
殊に今日森林法の改正もございまして、薪を焚いてはいけない、山の木を伐つてはいけないという厳しい枠もはめられて、いよいよ家庭燃料は、戦後電気コンロの便利なものをやつと覚えたときに取上げられたという形になつております。こういう中でなお薪や炭にさえも頼ることができないというときに、何とかしてこれは家庭へ電気を普及させなければならないのだと私ども、真剣にこの問題に取組んでおります。
それが戦時、戦後を通じて農業に関する養蚕の分、工業に属する製糸の分は農林大臣が握つておりますが、輸出に関する面は、一般輸出と同じような扱いで、特殊性のあるこの問題を切り離れて通産省に行つておりまして、かつては農林省の出先機関がニユーヨークに市場を設けて、世界の生糸市場を直接見ておつたのであります。
すなわち戦時中の濫伐、過伐から、さらに戦後の国内の非常なる経済上の混乱等によりまして、非常に濫伐されております。しかも特にこれが山元の最も便利な地区、従つて民有林がやられております。そのために御指摘のように、今にして森林に対する根本的な政策を樹立しなければ、せつかくの日本の国土も、この森林行政の弱体から崩壊する、かような点を考えまして、森林法の制定をいたしたわけであります。
戦争中、木材、薪炭の供出に協力して参つたが、戦後その機能は逐次減退し、特に組合費収入の大部分であつた立木販売手数料の減少、あるいは直営事業の不振等に伴い、一応組合は結成されたが、組合の中枢機構さえ未完備のまま今日に至つたもの、現に未登録のもの、出資組合なるに出資を欠けるもの、いまだ経済事業に未着手のもの等々、概して有名無実のもの、不活発のものは、各県とも大体においてその全体の三分の二にも達し、赤字を
従いまして肥料については、いわゆる戦時中の統制、あるいは戦後の統制と違いまして、従前から肥料の価格安定については、いろいろの措置をとつておつたわけであります。
それでなお問題点になりますのは、そういうことが戦前あつたということと、戦後あつたということは一応別問題になります。それであなたは戦後にもそのようなことがあつたということを聞いておられるか、知つておられるかということをお尋ねする。
しかもこれらの産業は戦時中あるいは戦後を通じまして、いろいろな苦しみを受けておりますので、電気と同じく非常な苦しみを今受けておる。そういう同じような境遇にあるにかかわらず、電気だけはフルに定額一ぱいに一〇〇%の資産再評価をする。そうしてしかもそれを定率法によつて二百五十億円余という資産再評価によるところの減価償却をする。
そこで先ほどもどなたがお話がありましたように、戦後日本に残されたる資源の中で最も大きな、殆んど日本としては有力なる唯一とも申すべき資源は電力である。この電力を開発して、今後我々の民生の上においても、或いは産業の上においても、寄與せしめねばならないという御意見、これはもう恐らく何人も異議のないところであろうと思うのであります。
特修の六億四千万円は先ほどからお話がありますように、戦時戦後の改良の溜りが何と申しましても設備の改修不足で、二十四年度に特改、特修という制度で五カ年計画を立てたのでありまするが、一カ年でそういうような措置もとまりますし、昨年度も多少一般修繕費よりもたくさんやつてあるのであります。
○小野義夫君 昨日来ずつと各社の修繕費につきまして承わりましたのでありますが、その中に、各社を通じておよそ三分の一内外、各社によりましては二十億内外があるのですが、三分の一程度のいわゆる特別修理、或いは臨時修理というような大規模の修繕費を組んであるように思うのでありますが、この修繕費というものはいわば戦時中及び戦後のいろいろ財政不如意の場合においてのまあ負債と見てもいいものをこの際一気に大修理をしようということであると
○参考人(山本善次君) 戦後非常に改修をいたしました。併しながらそれはやはり資金不足、その他の事情で一応改修をいたしたわけでございますが、それらは特別改修工事費として仮に支払をいたしております。これを七カ年で償還するということをやつておりました。
併しながらこれは意見の相違であるかも知れませんから、これ以上そのことにつきましては質問いたしませんが、これもそれに関連してもう一つお尋ねいたしておきたいと思うのでありますが、あの学校を実地調査いたしまして、戦後における警察行政及び戦後における警察行政を対象とするところの教育、それは主にアメリカによつて指導されたものでありますが、学校の校長その他の経営者も私たちに話したのでありますが、実に終戦前の日本
国民生活の実情に変化がないというようなお話もございましたけれども、当時、私は薬事法を御審議いただきます際に、御質問に対してお答えをいたしたものでございますが、その当時、ああいうふうな薬事法の二十二條の規定を設ける一つの理由として、言いかえますると、医薬分業をなぜやらないのかという御質問に対するお答えといたしまして、当時は戦後のことでもありまして、医薬品が統制をされており、薬局に参りましても、必ずしも
政令でできるだけこういうことをきめずに、本当はそんなことをきめなくても問題が起きずにうまく運営されて行くことが最も望ましいのでありますが、遺憾ながらこの前大臣も答弁されておりましたように、これは戦後のいわゆる道義の頽廃によつてどこにでもそういう要素は充満しているのだ、だからしてたまたまこういうことが起きるのだと言つていることは、これは率直に大臣でも認めているわけでありまして、従つてなかなかこちらで期待