○議長(
大島理森君) 本日表彰を受けられました他の
議員諸君の挨拶につきましては、これを会議録に掲載することといたします。
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竹本 直一君の挨拶
この度、院議を持ちまして永年在職表彰を賜り、身に余る光栄であり、八期二十五年の活動を温かく見守り、惜しむことなく支援を寄せて頂いた
南河内地域の皆様、諸先輩方、
同僚議員各位、皆様の温かい志が今日の私を作って頂いたのだと心より感謝申し上げます。
中央省庁に入省後、何としても米国の本質を見たいという思いが強く、
政府派遣留学にて
カリフォルニア大学バークレー校大学院及び
コロンビア大学大学院に留学しました。この時、米国の風景を見て、なぜこんな国と戦争したのだろうと考えました。すべてが大きい。まさにEverything is greatで、まるでコンクリートの厚い壁に小石を投げるような戦争だったのではないかと感じました。今でもそういう思いです。三百十万人の同朋を亡くした悲惨な戦争。その決断を下したのは誰か。それは政治家です。ならば政治家になることで日本にとってさらに役立つ仕事ができるという考えに至りました。
帰国後、政界への踏み出しを考えました。四十代の後半で役所を退職し選挙準備にかかったのですが、現職に気を使う役所の一部から強力な立候補の引き止めがあり、中選挙区制の選挙には出られず、三年後の平成八年、最初の小選挙区制での出馬となりました。私はこの期間のことを麦踏みにあったと言っておりますが、それが私を強くしたのだと思います。
当選後は、初代の
経済産業大臣政務官、
厚生労働大臣政務官、そして財務副大臣、内閣府
特命担当大臣を拝命致しました。経済を基盤とする国のあり方について深く勉強し、日本の国土の均衡ある発展を図るためには、東京一極集中を是正し、関西の
経済活性化をさらに図らなければならないという考えに至り、特に二つの政策に尽力しました。
ひとつは、
リニア新幹線早期開業です。
超電導リニア鉄道に関する
特別委員長として、東京大阪間の三十年の工期予定を最大八年短縮することに成功しました。
もうひとつは二〇二五年大阪・関西万博の誘致です。党大阪・
関西万博推進本部の事務局長を務め、本部長の二階
俊博幹事長と結束して世界各国に誘致を働きかけました。二〇一八年十一月二十三日、パリの
BIE総会にてロシアとの決選投票が行われ三十一票差で万博の開催権利を獲得しました。無上の喜びでございました。
政治家は社会の医者であります。人間みな孤独で、人々が悩んでいることに対して温かく相談を受ける政治家が必要であり、人々はそれを望んでいます。私が二十五年間に渡ってご支援頂けたのは、「夢の実現―それが政治です」という信念のもと、社会の医者であるという自覚を持って努めてきたことを評価して頂いたのだと思います。誠にありがとうございました。
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平沢 勝栄君の挨拶
私はこのたび、永年在職の表彰の栄に浴することとなりました。身に余る光栄であり、今はただ感激で胸が一杯であります。
私は小選挙区制の下で初めて行われた平成八年の総選挙で初当選し、以来今日まで連続当選八回を重ねました。これも故
後藤田正晴先生、そして地元葛飾区と江戸川区の皆さんなどのご支援、ご協力のお陰であり、心から御礼を申し上げます。
私が
官房長官秘書官をつとめた
後藤田先生はよく「戦争だけは絶対にダメだ。戦争を知らない政治家が今後、国のリーダーになった時が心配だ。」と口癖のように言っておられました。私は今後ともこの
後藤田先生の教えをしっかりと胸に刻んで国政に励んでいく決意です。
地元選挙区の皆さんも今日まで私を力強く支えて下さいました。地元の皆さんは落下傘で降り立った私を温かく見守り、そして政治家として育てて下さったのです。人情味豊かな東京の下町で思いやりのある支援者に囲まれて
政治活動を行ってきたわけで、私は本当に幸せ者だったと思います。
今振り返ると多くの思い出が去来しますが、中でも強く記憶に残っているのが平成二十一年八月三十日に施行された第四十五回総選挙です。この選挙で自民党は大敗し政権を失いました。しかし、そうした厳しい闘いの中でも私の選挙区の皆さんは、自民党の私を支持して下さいました。
支援者の皆さんがこの時言われたことを私は今でも鮮明に覚えています。それは「私たちは自民党というより平沢党の応援団だ。」ということでした。支援者の方は私を信じて応援して下さったわけで、こうした皆さんのお陰で私は在職二十五年を迎えることができました。
私は最近まで
復興大臣の職にありました。三・一一
東日本大震災の被災地では今なお多くの人が苦しみ、そして悩んでいます。保守政治の原点は「誰一人見捨てない、誰一人忘れない、誰一人ひとりぼっちで寂しい思いをさせない。」ということです。私はこれからもこの原点を忘れることなく謙虚かつ丁寧に政治に取り組み、国民の皆さんの期待に応えていきたいと思います。
二十五年間にわたり、ご支援、ご協力下さった皆さんには本当に有難うございました。どうぞこれからも変わらぬご指導ご鞭撻を宜しくお願い申し上げて御礼のご挨拶とさせて頂きます。有難うございました。
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今村 雅弘君の挨拶
およそ親族には政治家一人もいない中での国政出馬でありましたが、このたび院議をもって永年
在職議員表彰の栄誉を賜り誠に感無量、お世話になった多くの方々と御霊そして家族に深く感謝御礼申し上げます。
多くの戦友が戦地に倒れたが自分は奇跡的に復員出来お前が生まれた、だから腕白でもいい、どんな辛い時でもキリッとして生きろ、が父の口癖でした。そのせいではないが硬く真直ぐなレールの途を選び機関車のハンドルを握ったり、労組の猛者諸君と激しく渉り合いながら国鉄の
近代化再建、JRの誕生へと全力で突走りました。時に失速や脱線しそうにもなりましたが、不思議とも言える多くの人との「出会い」により何とか生き抜くことが出来ました。
国鉄民営化に伴う
過激派扇動の
千葉動労ゼネストでは国労動労の皆さんが、今村を助けよう!とスト破りにも近い乗務変更に応じてくれ危機を乗り切りました。
神様の試練とご加護「出会い」は政界でも続きました。小渕総理との総裁室での面通しでは白い百合が飾ってあり、谷間の百合ですね、と言ったら一瞬怪訝そうな顔をされたが、全く偶然だよと破顔一笑、これで一発合格!ビルの谷間の
ラーメン屋なんて言ってたら即アウトだったでしょう。ご自宅での棺にも何故か私一人でお別れ対面出来ました。人一倍郵政を愛されており、その思いに応えるべく、
郵政民営化では神様とも尊敬する
綿貫民輔先生(
楠木正成公のご子孫)の馬引きを務め、敗れはしたが最後まで戦った同志は今も強い絆で結ばれ最高の宝物です。絶望的な比例順位三十一位とされた時も大病も、神風が吹き
医師先生方のお陰もあって今日があります。
政策面では、得意の建設運輸以外でも地元の為に
農林水産等で頑張って来ました。
国土強靱化や食料安保は喫緊の課題であり全力をあげて取組んで参ります。
外交防衛分野では、
日和見主義の外務省に合せず、カンボジア、ベネズエラ、
トルコ等米欧から睨まれた国に寄り添って
議員外交に励み成果をあげて来ました。今や我国は内外共に厳しい状況を迎えています。流動化、激動する国際情勢、
少子高齢化や地方の衰退、
産業競争力低下の中、安全保障、
防衛力強化や東南アジアとの
アライアンス構築にも、豊かで力強い経済力が不可欠です。その為には科学技術の振興や教育の充実、貧しくても頑張れば這い上がっていける生き生きとした
システムづくり、かつての肉体労働に基く
労働価値説を知的労働に代えて
高度産業国家づくりを進めていかねばなりません。特攻や硫黄島等で命がけで国を守った先達、その思いを胸に戦後復興と発展に全力をあげて取組んだ方々に負けてはいられません。マッカーサーは言った、老兵は死なず去り行くのみ、と。しかし我々は違う、最後まで汗を流して子や孫をサポートし輝かしい日本国の未来の為に全力を尽くして行こうではありませんか。
改めて己が生かされている意義を問い、感謝し、皆様のご健康、ご多幸を衷心より祈念して結びと致します。
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菅 義偉君の挨拶
この度、院議をもって永年
在職議員表彰を賜りましたこと、心より厚く御礼申し上げます。
私は、雪深い秋田の農家に生まれ、高校卒業後に就職のため上京しました。二年遅れで大学に進学し、紆余曲折を経て、二十六歳の時に一念発起し、横浜選出の
国会議員、
小此木彦三郎先生の秘書として政治の世界に飛び込みました。
秘書を十一年務め、三十八歳で横浜市会議員に当選し、地方政治に携わる中で、「国民の生活を更に良くしていくためには、地方分権を進めなければならない」、その思いから国政を目指し、四十七歳で衆議院に初当選させていただきました。以来、地方出身であることを誇りに、国民の皆様にとって何が当たり前かを見極めながら、
政治活動に邁進してきました。
総務大臣時代に創設した
ふるさと納税、
内閣官房長官として力強く進めてきた
外国人観光客の誘致や、農産品の輸出促進などの取組も、地方の活力なくして日本の発展はないと考えたからです。
この一年余りは
総理大臣として、
ワクチン接種の加速化など
新型コロナ対策に全力を挙げました。そして我が国の重要な課題である「デジタル」、「二〇五〇年
カーボンニュートラル」の将来に向けた方向性を示すことができました。さらには、
携帯電話料金の値下げ、不妊治療の保険適用、
憲法改正手続きを定めた
国民投票法など、国民生活に密着した課題、先送りすることができない課題にも挑み、改革に道筋をつけることができました。
この二十五年を振り返ると、特に官房長官、
総理大臣を務めた約九年間は緊張の連続でした。重責を務め上げることができたのは、諸先輩方や、
地元神奈川県や故郷の秋田県の皆様、そして
事務所スタッフや家族、全ての皆様のお支えのおかげであり、この場をお借りして心より感謝と御礼を申し上げます。
日本の未来のためには、グリーンとデジタルを原動力に成長を実現し、日本全国どこにいても、誰もが豊かに暮らせる社会をつくる。そして、日本の次を担う世代が、古き良き伝統や文化を守りながらも、多様性と創造性、新しい価値観を携えて、世界の中で、堂々と歩んでいける道を切り開いていかなければなりません。そうした社会の実現に向けて、これからも国民の皆様との約束を果たしてまいります。
この度はありがとうございました。
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田中 和徳君の挨拶
今般、私、
田中和徳は院議を以て在職二十五年表彰の御決議を賜りました。身に余る光栄でございます。
私は、昭和二十四年一月、山口県豊浦郡豊田町(現下関市)の山村の農家の長男として生を受け、昭和四十六年、大学在学中に斎藤文夫(当時
神奈川県議、後に
参議院議員)先生のスタッフとなり、同時に川崎市民となりました。その後、川崎市議、
神奈川県議を経て、小選挙区制初の総選挙に神奈川県第十区(川崎市川崎区・幸区・中原区)より出馬、平成八年十月、激戦の中、比例区で初当選を果たしました。
我が選挙区は、今も人口増加が続き、頻繁に住民の移動がある不安定な地盤で、連続八回の当選は、私を温かく受け入れ、育くみ、熱心に支援を続けてくださいました地元の皆様のおかげでございます。
政府では、
復興大臣、財務、環境の副大臣、国交、財務、外務の
大臣政務官などを歴任しました。
復興大臣は、
東日本大震災の発災から十年が目前となり、
復興庁存続のため五本の法改正を行いました。また、千葉県から青森県までの被災した各県と五十三市町村を、コロナ禍でしたが訪れることができ、特に福島県内の原発事故による被害は極めて深刻で、改めて政治家としての責任を痛感しました。
また、
外務大臣政務官を務めていた平成十五年十一月、イラクで外交官二名が殺害される事件が起き、米軍から遺体を受け取る責任者としてクウェートに急遽赴きました。遺体と家族の慟哭の対面に立ち会った私は、非命に斃れたお二人の無念さと、遺族の深い悲しみに接し滂沱の涙が止まりませんでした。
国会では
財務金融委員長、
予算委員会筆頭理事などに就きました。平成二十七年十二月、フランスでCOP21が開かれ、
地球温暖化抑制に向けたパリ協定が締結されました。同時に世界各国の議会代表による会議も開催され、私は衆参の
超党派議員派遣団の団長として
フランス国民議会本会議場で日本代表として発言をしました。
議員立法の成立にも数々関与し、特筆すべきは、
原子力規制委員会設置法です。私が
環境委員会の
野党筆頭理事の時に
東日本大震災による福島第一原発事故が起き、その反省に基づき、新組織は独立性の高い三条委員会としました。他にも、犯罪防止対策の特効薬と評され、犯罪の激減に大きく寄与している再犯防止推進基本法、不当廉売に苦しむ酒販店を守る酒税法等の一部改正法、世界遺産屋久島の視察で着想を得た国立公園や自然遺産などの保存に資するため、入域料徴収を可能とする自然資産区域法などがあります。
記したい想い出は数々ありますが、命ある限り国民の多幸を願い、我が日本の発展に一身を捧げる決意を新たに誓い、感謝の言葉といたします。
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中川 正春君の挨拶
国政にチャレンジして、ひたすら歩むうちに、すでに二十五年という歳月が流れたのかと思うと、感無量です。この間、私の
政治活動をご支持、ご支援いただいた皆さん、支えてくれた歴代の秘書陣はじめ、
事務所スタッフの皆さん、そして、何よりも、運命共同体として一緒に歴史を刻んでくれた妻と、両親、家族に、心からの感謝をささげます。
二十五年前、一九九六年は小選挙区制が初めて導入された選挙でした。「五五年体制が崩壊し、与党の分裂によって生まれた二大政党制による闊達な議論を尽くした政治が実現される。」そんな希望に満ちた思いで、当時の挑戦者、新進党から国政に初めてチャレンジしました。国民が選挙を通じて直接政権を選択することのできる政治体制を実現することは、日本政治のダイナミズムと真の民主主義を可能にするためには必要不可欠だと思っています。そして、この思いは今でも変わらず、これからも貫いていきます。
大学時代をアメリカで過ごした経験が、私の政治人生に大きく影響を及ぼしているように思えます。三重県の高校を卒業し、日本人の留学生がまだ物珍しい中、人種のるつぼと言われていたアメリカに行ってみると、そこは、るつぼではなく、パッチワークでした。様々な人種(ルーツ)や宗教をはじめ多様な価値観を持った人々が、パッチワークが様々な色・柄・形の小布がはぎ合わさって一つの大きな布になるように、一つの共存・共生社会を形成している。これを、民主主義を基盤に、目に見える約束事や法律でまとめていました。自由の国アメリカが体現しているのは、まさに「和して同ぜず」なのではないか。以来、私の座右の銘は、「和して同ぜず」です。
この二十五年、私自身の取り組みとして一歩でも二歩でも前進させて具体的に実現させたい課題も、追い続けています。少子化やグローバル化を超えて、次の世代がしなやかに生き抜く基盤を作り、日本社会の多様性や人権意識の醸成を深めるための取り組みです。議連での活動を基軸として、「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」や「日本語教育の推進に関する法律」を成立させました。また、「ミャンマーにおける軍事クーデターを非難し、民主的な政治体制の早期回復を求める決議」を採択することができました。
未来の日本の形を見据えて追い求めていかなければならない課題は、与野党の垣根を越えて協力して実現していかなければならないと思っています。これからも、必要な
議員立法を立案・提出し、成立させていくことで、足元から、できることを着実に実現する、そのような政治人生を全うしていきたいと思っています。
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佐藤 勉君の挨拶
このたび議員在職二十五年の永年在職表彰を賜りました。これまで支えて頂いたすべての関係者の皆さまに深く感謝申しあげます。
私の
政治活動は三十四歳で栃木県議会議員に初当選したことにはじまりました。県議として三期目の四十四歳の時に、当時の自民党幹事長であった加藤紘一先生にお声かけ頂き、急遽衆議院選挙に臨むことになりました。まっさらな状態から臨んだ選挙戦で、期間も四十日間しかない状況のなか、後援会の皆さまの後押しにより当選を果たし、国政進出しました。
以降二十五年の間に様々な紆余曲折を経て現在に至りますが、私の国政活動は国会対策委員会(以後、国対)と共にありました。国対でたくさんの偉大な先輩方から義理人情の大切さと、お世話になった方にはとことん尽くすことを学びました。そうした積み重ねにより与野党・役所を問わず信頼出来る仲間を築けたことが、私の強みであり、大きな財産となりました。
国対委員長当時には、サイバーセキュリティ基本法や秘密保護法などの重要法案の制定に携わり、議運委員長当時には、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の制定に携われたことが特に大きな記憶に残っています。
国対のイロハはもとより、政治家としてのイロハを教えて頂いた
大島理森衆議院議長より永年在職表彰を受領出来ることは最上の喜びであり、巡り合わせの妙も感じております。政治家人生も折り返し地点はとうに過ぎておりますが、大島議長はじめ偉大な先輩方の意思を受け継ぎ、次の世代に繋いでいくことを、残りの
政治活動の命題として取り組んでいきたいと思います。
私は初当選してから今日に至るまで、大臣就任時や在京が必要な時をのぞいては、地元栃木から通勤を続けています。気持ちの切り替えに加え、小さな変化にも気づくことが出来るからです。今後もこのスタイルは変えず、国はもとより故郷栃木の発展に寄与出来るよう、職務を果たしてまいります。
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下村 博文君の挨拶
本日、院議をもって永年
在職議員表彰の栄誉を賜りましたこと、誠に身に余る光栄でございます。平成八年十月の総選挙にて初当選以来、連続八期小選挙区で当選できたのは、地元板橋区の皆様、ご支援ご協力を賜りました皆様方のお陰であり心より感謝いたします。また、私のために献身的に協力をしてくれた今は亡き母、妻、家族、事務所のスタッフにも感謝の思いを伝えたいと思います。
私が政治家を志したきっかけは、九才の時父が交通事故で亡くなったことによります。それ以降母子家庭で育ち、高校、大学とあしなが育英会の奨学金で進学することができ、社会に恩返しをと考えてきました。
政治家として、院においては法務委員長、政府においては文部科学大臣・教育再生担当大臣、初代オリパラ担当大臣を務めさせていただき、自民党においては幹事長代行、選対委員長、政務調査会長をさせていただきました。文科大臣の時には、二年八ヶ月の期間で、六十七の改革行程表を実行して参りました。トビタテ!留学JAPANや日本遺産の設立等が入っています。
私の政治のモットーは「人を幸せにする仕事。それが政治だ。」です。日本には国難がいくつも迫っています。コロナウィルスの感染症、
少子高齢化に伴う人口減少、格差社会の拡大、そして外交防衛の危機、この国難を突破するには根本的には教育立国しかないというのが、私のこれまでの政治家としての歩みであり、これからの志でもあります。
これまでも著書としても、『教育投資が日本を変える―すべての人にチャンスがある社会を!』、『日本の未来を創る「啓育立国」』、『GDW興国論―幸福度世界一の国へ』など、教育を中心に多数の本を著してきました。人が幸せとなるための教育や経済や、福祉、そのための国家ビジョンが今問われています。これまでの延長上に日本の再生も発展もありません。抜本的な日本の建て直しが必要だと私は考えています。人創りが国創りです。そして国難に際し、政治家としてのその覚悟と自覚が問われている時です。引き続き多くの皆様のご指導をいただき、すべての人に居場所と可能性があり、幸せを実現する国の創造に向け、全力で努力精進をして参ります。そのことをお誓い申し上げ、感謝の言葉といたします。
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近藤 昭一君の挨拶
このたび、院議をもって永年在職表彰をいただき、心より感謝申し上げます。
私の父は名古屋市会議員を務めておりました。その意味で私は政治を身近に感じてきましたし、父の活動に敬意を抱いていました。しかしながら、選挙活動には関心を持てず、大学卒業後、社会の公正の実現のために働きたいと地元の中日新聞社に入社しました。決して裕福でない家庭に生まれ苦学して大学を卒業した父の信条は、社会とは、一人ひとりの尊厳が護られ、誰もが安心して暮らせる、公平公正なものであるべきだということでした。
私は、新党さきがけを立ち上げた武村正義さんが唱えた「小さくともキラリと光る国・日本」に大きな親近感を持ちました。遡れば、石橋湛山の「小日本国主義」であり、「決して軍事大国を目指さず、経済成長至上主義に陥らず、美しい地球を継承させるため、国内外で積極的な役割を果たす平和国家」です。
中学生の時に見たユージン・スミスさんの水俣の写真は衝撃でした。人の命よりも経済成長を優先した、あのようなことを二度と起こしてはならないとの思いで、当選後「水俣」の問題にも取り組みました。しかし、未だに道半ばです。現在もまた同じことが繰り返されています。十年前の
東日本大震災の被害においても、政治は被災者に寄り添い遂げていません。私は、二〇一二年、
原子力規制委員会設置法の与野党協議の責任者として発電用原子炉の運転期間を原則四十年に制限する条文を法文化しましたが、最近では、事故のことを忘れたかのごとく、期間延長の例外規定により空文化されつつあります。
あっという間の二十五年でした。しかし、インターネットなどは、大きな変貌を遂げました。個人で映像を載せるなどということは、かっては考えもしなかったことです。それが今では、ライブで映像を流したり、双方向でのやり取りも出来るようになりました。民主主義のツールは圧倒的に多くなったといえます。
一方で、政治をどれだけ変えられたのでしょうか。初当選から二十五年、まだまだ多くの政治課題があります。私自身、何をしてきたのかという忸怩たる思いです。しかしながら、多くの方に支えられてここまで来ました。心から感謝しています。改めて直面する課題の克服のためにこの経験を生かし、あきらめることなく努力を続ければ、最後には成功するという「愚公移山」の精神で、二十五年前に描いた夢の実現のために頑張りたいと思います。
…………………………………
原口 一博君の挨拶
院議により永年在職の栄を賜り誠に有難うございます。お支えくださいました全ての国民の皆様へ謹んで御礼申し上げます。
政治を正さなければ日本は良くならない。松下幸之助塾長、稲盛和夫塾長の薫陶を受け二十七歳で政治の道に入りました。初代後援会長松林寛之先生は、罪をおかした人たちを自らの「こども」とされ何百人もの人たちに「自分も生きていていい」と心の拠り所を与える方でした。
国会に送っていただいた後も多くの師そして友、支援者に恵まれました。ことに青年海外協力隊をお創りになった末次一郎先生は、沖縄返還をなし遂げられ、北方領土返還運動の先頭に立たれました。私は、同郷の若輩である私に世界の同志を創り日本の真の独立と繁栄に尽くす道筋を教えていただきました。
もう一つの政権政党をと自民党を飛び出し、人間の尊厳と自由を守る政党を創って活動してきましたが、金融危機や安全保障上の危機においては、超党派で行動できたのも幅広い先達や友人の支えがあったればこそだと思います。
総務大臣、地域主権改革担当大臣、政府税調会長代行など政権の中枢で働けたのも地元佐賀はもとより世界各国の先達や友人たちのおかげです。十九歳のころから支えてくれた最愛の妻、直子。どんな困難に出会っても負けない勇気を与えてくれました。その妻を亡くし自らも院内感染により七回もの手術、そして死線を彷徨う事態に陥りましたが、多くの皆様のお力で病院にいながらの当選を果たし復帰することができました。
リハビリの語源はリ(再び)、ハビリス(自分らしさ)。つまり自分らしさを取り戻すという意味だそうです。
総務大臣時代に提案した協働教育・未来の学校も全国に普及してきました。一人ひとりの子どもたちが、自分らしくお互いを支えあい、共に問題を解決していく教育が拡がっていく。とても嬉しいことです。
長引くデフレとコロナ危機。衰退する日本を再び必ずや日出る日本に変えて参ります。明るく温かい日本。そして核なき世界の平和を創造することを誓い、二十五年の長きにわたりお支えいただいた全ての方々への感謝と誓いの言葉とさせていただきます。
…………………………………
渡辺 周君の挨拶
本日、院議を持って永年在職表彰の栄誉を賜りましたことに深い感慨を抱き、心から感謝を申し上げます。
平成八年の十月、初めて導入された小選挙区による衆院選挙に民主党公認で立候補、以来連続当選し、今日まで歩んで来られましたのは、選挙区内外のすべての支援者の方々のご縁とご恩によるものです。二十九歳で静岡県議になり、県政国政あわせて十回の選挙を勝ち抜かせて頂いた後援者、今は亡き方も沢山いらっしゃいます。関わりある恩人お一人お一人の顔と声を思い出して御礼を伝えさせて頂きます。
私が一貫して主張してきたことは政権交代可能な選択肢を作り上げることでした。二〇〇九年九月に民主党政権が誕生し、私は総務省で副大臣に就任し、全国から要望を受け地方自治体の裁量で予算執行の優先順位を判断出来る一括交付金が導入され、地方議員の年金を廃止しました。
東日本大震災の時は党の震災ボランティア室長として被災地の要望を首相官邸に直接伝える役割を務め、野田内閣での防衛副大臣時代は北朝鮮によるミサイル発射に対応し、ハイチPKO撤退、南スーダンPKO派遣や海賊対処のジブチ訪問、尖閣国有化の最前線で国防、危機管理に取り組みました。三年三ヶ月政権を担った経験は次の政権交代時の国家運営の糧であります。
民主的な国家発展のためには政権交代可能な健全な緊張が必要です。理想とする政界を作り上げるには未だ道半ば。見えないものを信じて頑張っている人達が、頑張ってきて良かった、と実感する世の中と活力ある郷土を創るため、まだまだ仕事をしてまいります。
…………………………………
安住 淳君の挨拶
このたび院議をもって永年在職表彰の栄誉を賜りましたことは感謝の念に堪えません。小選挙区制が初めて導入された一九九六年十月の総選挙で初当選以来、連続八回にわたり惜しみない支援をいただいた地元宮城県や全国の支援者の皆さまに心より御礼申し上げます。
私は一九六二年一月、牡鹿半島の小さな漁村に生まれました。本屋やレコード店まで片道三時間。魚には天国でも、人間には不便でした。
父と母がともに僻地の中学教師だったこともあり、下宿をして石巻高校に通学しました。その後、早稲田大学を経て一九八五年にNHKに入局。最初に配属された秋田支局で事件を取材するうち、自らの努力ではどうにもできない不条理の中で生きる人々に思いを馳せるようになりました。東京の政治部に移ってからは、腐敗した政治の根源が、政権交代のない硬直した五五年体制にあると確信いたしました。
取材を通して見つめた社会のありさまが、決して豊かではない我がふるさとで懸命に生きる人々の姿と重なったのです。この日本の状況を変えるために政治の道に進む決心をしました。
衆院解散と同時に三十一歳でNHKを退職し、立候補。当選には及びませんでしたが、支援者の輪が広がり、地盤も看板もない身で次の選挙で初当選させていただきました。
政治は必ず変えられる。当時、結党間もない民主党に籍を置いたのは、二大政党制を実現するためでした。以来二十五年間、その信念を曲げずに
政治活動を続けてまいりました。
二〇一一年三月十一日、
東日本大震災がふるさとを襲いました。最大の被災地となった石巻市は多くの人々のいのちやかつての街の姿を失い、私はただ呆然とするしかありませんでした。しかし与党の国会対策委員長として考え得る全ての復旧事業に取り組み、その後財務大臣に就任してからは、与野党の賛同を得て特別会計を創設しました。今、復興は目に見える形で進んでいます。
私の政治生活は、まだ旅の途上にあります。二大政党制を定着させ、大きな政治勢力が政権を交代し得る仕組みを実現したい。権力の横暴や行政の不正をただす力を、議会が持たねばならないのです。政治が正しい姿を取り戻す日が来るまで、私の旅は続くことになります。
最後に、落選中から支えてくれた妻、子どもたち、多くの親類、
事務所スタッフ、そしていつも見守ってくれる母に心からの感謝を述べ、謝辞といたします。
…………………………………
河野 太郎君の挨拶
一九九六年十月の初当選から二五年が経ちました。その時々に国の課題だと思っていることに全力で取り組む、そしてまた、与えられた役職で一生懸命、力を尽くす、これを積み重ねてきた二五年です。
小泉純一郎内閣で、総務
大臣政務官、法務副大臣、河野洋平議長の下、衆議院外務委員長、安倍内閣で国務大臣、国家公安委員会委員長、行政改革担当、国家公務員制度担当、内閣府
特命担当大臣(防災、規制改革、消費者及び食品安全)、そして外務大臣、防衛大臣、菅義偉内閣で国務大臣、行政改革担当、国家公務員制度担当、内閣府
特命担当大臣(規制改革・沖縄及び北方対策)、
新型コロナウイルス感染症
ワクチン接種担当と、おかげさまで、政治家としていろいろな仕事をさせていただきました。
目まぐるしく動く不確実な現代社会にあって、常に、最も望ましい選択は何かを模索しながら、多くの方々のご協力を得て、仕事に取り組んだ毎日でした。
私がまだ当選一回のころ、かつて祖父・河野一郎の派閥に属していた元議員の告別式の中で、やはり河野一郎と近しかった方が弔辞を読まれました。
その弔辞の中で、「君は河野一郎の三つの教えを忠実に守っていた」と故人を称えるくだりがありました。
第一に、
衆議院議員の肩書きを最も大切にしろ。
衆議院議員という肩書きは、選挙で選ばれて、国民から与えられるものである。大臣だの党三役だのという肩書きはそうではない。だから
衆議院議員という肩書きを最も誇りに思い、その肩書きが泣くようなことをするな、ということでしょう。
第二に、陽の当たらないときも胸を張って歩け。
祖父・河野一郎は、戦時中に軍部に反対して非推薦で立候補したり、逮捕されて選挙中牢に入れられたり、戦後も除名されたり、離党して八人の侍で戦ったりと波瀾万丈の政治家でした。まともに公認をもらって選挙をやったのは、最後の数回しかありません。だから不遇のときも卑屈にならず胸を張れ、ということなんだなと思います。
第三に、仲間を大切にしろ。
議員一人ではできなくても、仲間のおかげで実現できることがたくさんあります。
それ以来、この三つを心に刻みながら、
政治活動をしてきました。
衆議院議員として申し上げれば、もっともっと国会で、「議論」をすべきだと思います。現在の国会では、自分の身を安全地帯に置いたまま、大臣に質問するということにほとんどの時間が費やされています。「討論」の時間も、あらかじめ用意された原稿を所定の時間内に読み上げるだけ。わかりやすい政治を実現するためには、国会の場で、議員同士が、さまざまな問題について議論を戦わせるということが必要だと思います。
日本を前に進めるために、これからも議席をいただける限り、全力を尽くして参ります。
ありがとうございました。
…………………………………
棚橋 泰文君の挨拶
本日、院議をもって永年在職表彰の栄誉を賜りましたこと、深く感謝申し上げます。
私の物心がついた頃には、父が通商産業省の職員、祖父が
衆議院議員として、両人とも国家・国民のために働いており、その背中を見て育ちました。小学校五年生から中学校二年生まで、当時の西ドイツのデュッセルドルフで過ごしましたが、多様な価値観や文化に触れながら、日本国が豊かで自由で平和であるよう、そして日本に暮らす人達がそれらを享受できるよう、自分も何か貢献したいという思いを強く持つようになりました。
社会人の第一歩として、通商産業省に入省いたしました。現在のデジタル社会を見据えた情報通信政策等、二十代でありながら大変やりがいのある仕事を任せていただいたと感じております。一方で、皆が同じように豊かになる高度成長期から、価値観が多様化し、また世界が大きな経済の荒波にさらされる時代に変わりつつあることを強く感じ、これらの中で国民の皆様方の幸福に貢献するには、役所の枠組みではなく政治の道でしか実現できないものがあると考えました。そこで、二十九歳で通産省を退職し、一九九三年の総選挙に立候補しました。初陣は敗れましたが、一九九六年の初当選以来これまでに八回連続当選させていただきました。
当選後、自民党青年局長、政調会長代理、幹事長代理、行政改革推進本部長等、衆議院では国家基本政策委員長、予算委員長等を拝命いたし、また二度国務大臣を拝命いたし、いずれの職においても、全力で職務を全うしてまいりました。とりわけ、直近では国家公安委員会委員長としてオリンピック・パラリンピックの警備、また、防災担当として七月の大雨、重なる台風、さらには八月の大雨等による災害対応等に強い緊張感を持って臨みました。
衆議院議員を二十五年務めさせていただきましたが、選挙のたびに痛感しますのは、選挙というのは自分の力で得られる票は自分自身の一票だけであって、多くの方々に応援していただくことによって初めて当選できるということです。私の今日がありますのは、ひとえに地元西濃地域の皆様のご支援の賜物であることを身にしみて感じております。心より厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございます。
国家及び国民に少しでもご恩返しできるよう、これからも更に精進し、そして、全身全霊を傾けて職責を果たしていく決意を申し上げ、謝辞とさせていただきます。
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田村 憲久君の挨拶
本日、院議をもちまして永年
在職議員表彰を賜りました。大変な名誉であり、誠に身にあまる光栄でございます。
これもひとえに、平成六年に二十九歳で政治を志した時から私を支え、育てて下さいましたふるさと三重の皆様や、初当選以来、ご指導いただきました多くの諸先輩方、同僚議員の皆様方のお陰であり、感謝の念に堪えません。あわせて本日まで陰に日向に私を支えてくれました妻や娘、両親をはじめとする親戚の方々、後援会の皆様、そして事務所のスタッフには、平素からお世話になりながらも、謝意を伝えることができておりませんでしたが、改めましてここに感謝の意を表する次第です。
もちろん、私の政治の父でもある伯父の田村元元衆議院議長には筆舌に尽くしがたい想いがございます。幼少期から田村元の身近で育ち、大局的な国家観を持ちながらも、地元の皆様のお声を傾聴する姿勢等、様々なことを学びました。
私が国政を目指すこととなりましたのは、バブル経済崩壊後、地元青年会議所の活動に携わり、当時の国政に閉塞感を感じていた頃でした。平成八年十月二十日、多くの皆様と初当選の喜びを分かち合っている際、引退を決意した伯父が
衆議院議員として最後に付けていた、裏面に第四十回総選挙と刻印された議員バッチを胸から取り外し、私の胸に付けてくれたことは、昨日のことのように思い出されます。
第四十一回総選挙での初当選以降、政府内閣では、
厚生労働大臣政務官、文部科学
大臣政務官、総務副大臣、そして厚生労働大臣は二度、務めました。国会では裁判官訴追委員会委員長、衆議院厚生労働委員会委員長、自民党では政務調査会会長代理を務めました。
私の政治家としてのライフワークは、少子高齢社会における社会保障問題、雇用問題、子どもの貧困対策、障がい者福祉政策等に真摯に取り組むことです。自民党が下野した時期にも、野党の立場でしたが、「社会保障と税の一体改革」を取りまとめました。
昨年より、
新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威を振るっておりますが、自民党では対策本部長として、そして厚生労働大臣として、全身全霊をもちましてその対策を講じて参りました。今後とも、コロナ禍を乗り越え、安心安全な社会を再構築するべく、しっかりと取り組んで参ります。
結びに、今後は更に精進いたし、愚直に政治に向き合い、国家の繁栄と国民の幸福を実現するために、私の座右の銘でもある「我以外皆我師也」の気持ちを忘れることなく、国民の皆様に寄り添った誠実な政治を実現することをお誓い申し上げ、感謝の言葉といたします。
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古川 元久君の挨拶
本日、院議をもって永年
在職議員表彰の栄誉を賜りましたことに、深甚なる感謝の意を表します。
平成八年十月に行われた第四十一回総選挙で、当選者の中で最年少の三十歳で初当選させていただいて以来、連続八期、今日まで二十五年にわたって
衆議院議員を務めることができたのは、ひとえに愛知二区、名古屋市千種区・守山区・名東区の有権者をはじめとして、私にご支援、ご協力下さってきた皆様のおかげです。心より感謝を申し上げます。
また妻をはじめ両親やその他の家族、
事務所スタッフには、この間、日々、大変な苦労をかけてきました。こうした人たちの支えなくして今の自分はありません。この機会に心からの感謝の意を表したいと思います。
二十七年前、二十八歳の時、「これからの日本が良くなるのも悪くなるのも自分たち次第」ということに気づき、この国を良い方向へと進めるために政治家をめざし、当時、勤めていた大蔵省を辞めて生まれ育った故郷、名古屋に戻ることを決意しました。
志一つ、他に何もない私の挑戦に、当時、ほとんどすべての人から「あまりに無謀」と諫められました。しかし私は決意を行動に移し、大蔵省を辞めて名古屋に戻って
政治活動を始めました。
まったくの徒手空拳、暗中模索の中での活動は、なかなか思うようには進みませんでしたが、そうした中で私の志に共感して応援して下さる方が少しづつ出てきました。しかしそれでも最初の選挙に臨む段階では、完全な泡沫候補でした。
その私が、初めて臨んだ選挙で当選できた、そして今日まで議員を続けてくることができたのは、まさに奇跡以外の何物でもありません。
私にこの奇跡をもたらして下さったのは、ひとえにこれまで私を支え、応援して下さってきた方々のおかげです。
在職二十五年という節目を迎えた今、こうした皆様に恩返しをするためにも、私は政治をめざした原点に立ち戻って行動して参ります。
そして「政治は国民のためにある。政治の使命は、国民のいのちと暮らしを守ることにある」という、この当たり前の政治を実現して、前の世代から引き継いだこの社会を、より良いものにして次の世代へと引き継ぐという、私が政治をめざした時に立てた志を何としても実現する、との固い信念を持って精進していくことをお誓い申し上げて、御礼と決意の表明とさせていただきます。
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根本 匠君の挨拶
この度、院議をもちまして永年
在職議員表彰の栄誉を賜りましたこと、望外の喜びであり、心より感謝申し上げます。私を国会へ送り出し、力強くお支えいただいている地元福島の皆様、国政の場において厳しくご指導いただきました先輩や同僚の
国会議員の皆様、国会や諸官庁、自民党本部の職員、そして後援会の皆様や友人、
事務所スタッフ、親族や家族、あらゆる皆様方に御礼を申し上げます。
特に、家族とりわけ妻芳子には大変な思いをさせ、育児を始め、私を支え続けてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです。愛情豊かに育ててくれた両親、家族の絆なくして政治家根本匠の今日はありません。
国会議員の使命はなんでしょうか。平成五年の初当選以来、自身に問い続けてきました。「国民、国益のために全身全霊を捧げ、ほんのわずかでも昨日よりいい明日を実現する」。そういうことだと信じ、愚直に政策本位の政治を貫いてきたつもりです。真摯に国民に耳を傾け、政策の端緒を見つけて政治に生かす。これしかないとの信念だけでここまでの政治人生を歩んできました。
厚生政務次官時代には年金や医療の制度改革、子育て支援、介護保険の導入に取り組みました。小泉内閣で内閣府副大臣・
総理大臣補佐官、第一次安倍内閣では
総理大臣補佐官として経済成長や国家戦略に取り組みました。国会では衆議院経済産業委員長、党では広報本部長などを経験させていただきました。
特に思い入れがあったのは第二次安倍内閣の際の
復興大臣兼福島再生総括大臣です。大地震、大津波、原子力発電所の事故という未曾有の複合災害をもたらした
東日本大震災の直後です。多数の死傷者が出ただけでなく、震災前と後で日本は一変したと思います。自身や家族が生きる意味さえ問うた人は私以外にも多いでしょう。冒頭で「全身全霊」と掲げましたが、当時は自身の魂が全て抜けてしまうのではないかと思うほど力を注ぐ一方、直面する課題の巨大さに比していかに自身が微力かを悩みました。
住宅再建・復興まちづくり、産業・生業の再生など復興加速の陣頭指揮を執りました。
東日本大震災からの真の復興は、私の人生をかけた課題です。
復興大臣を辞した後も党の
東日本大震災復興加速化本部長代行として取り組んでいます。
党においては、現在、中小企業・小規模事業者政策調査会長として、
新型コロナウイルス感染症の克服とともに、コロナ禍に苦しむ中小企業等への支援に全力を注いでいます。金融調査会長、憲法改正推進本部の事務総長も務めてきました。同事務総長では憲法改正四項目の条文イメージをまとめました。自民党の政治家として改憲に向けた議論が進むことを切に求めます。
平成三十年には第四次安倍改造内閣で厚生労働大臣を拝命しました。二〇四〇年を展望した社会保障改革、働き方改革、厚労省改革などを推進しました。厚生労働大臣退任後、現在まで
新型コロナウイルスの感染が世界的に広がったことは残念でなりません。医療体制や感染防止、検査などはまだ不十分です。厚生労働大臣経験者として厚生労働行政の立て直しができるよう努力するとこの場で誓います。
政治は信義、信頼です。目先の利益にとらわれず一途に国民と国益を考える。決断し実行し責任をとるのが政治家だと信じています。ここにその発言を残したのは、残りの政治家人生で「本当に約束を果たしたか」を検証される覚悟と受け止めていただきたいと思います。政治家は歴史の法廷で裁かれる。身命を賭して使命を果たしていきたいと考えています。
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伊藤 達也君の挨拶
この度、院議をもって永年
在職議員表彰の栄誉を賜りましたこと、誠に身に余る光栄で心より感謝申し上げます。
私を国政へと送り出し、その後も支え続けて下さった調布市、三鷹市、狛江市、稲城市を始めとする三多摩地域の有権者の方々のご芳情の賜物と存じます。また、厳しくご指導を頂いた先輩議員、同僚議員に厚く御礼申し上げます。家族や
事務所スタッフにも感謝の意を表します。
平成五年七月、最後の中選挙区制度の下での初当選から、平成二十一年総選挙での落選を経て、現在八期目の任期を頂いています。
この間、平成十二年には、通商産業政務次官としてIT基本法の制定に携わり、その後、自民党でIT政策を担当しブロードバンド戦略を推進する等、今日に至るデジタル社会の基盤作りに努めました。
また、十四年から十七年の三年間にかけて、金融担当の内閣府副大臣、大臣を務め、バブル崩壊後の日本を長らく苦しめてきた不良債権問題と正面から対峙しました。多くの関係者のご努力により、大臣在任時に、不良債権問題の終結を世界に宣言することができました。
さらに十八年には、経済成長による増税なき財政再建を掲げ、経済財政の一体改革を取りまとめ、骨太二〇〇六につなげました。
二十年には、福田康夫総理補佐官として、社会保障を担当し、
少子高齢化社会を乗り越えることのできる社会保障制度改革の設計を担いました。
二十五年には、自民党国際局長として、外交を党側から支えました。
二十六年には、地方創生を担当する大臣補佐官として、ゼロから政策の体系を組み立てました。
また、
中小企業政策は、小規模飲食業を営みながら政治に挑戦してきた私のライフワークです。ものづくり補助金や、コロナ禍にあっての持続化補助金の創設などを主導し、中小企業・小規模事業者を応援してきました。
この間、常に心掛けてきたのは、国家経営の重責を担うという松下幸之助さんの教えです。
引き続き多くの皆様のご指導を頂きながら、日本を前へ進めていくことができるよう精進して参ることをお誓い申し上げ、感謝の言葉と致します。
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遠藤 利明君の挨拶
このたび、
衆議院議員在職二十五年の表彰を賜りましたことは身に余る光栄であり、感激にたえません。この日を迎えることができましたのは、長年、ご支援いただいた郷土・山形県の皆様のおかげです。特に後援会や親戚会の皆さん、また、時には寝食を忘れるほど熱心に私の議員活動を支えてくれた
事務所スタッフの皆さん、本当にお世話になりました。とりわけ、徒手空拳の選挙を支えてくれた親父、お袋、また、兄と妹、更に、心身ともに支えとなってくれた家内の真理子には心から感謝しております。
振り返れば、小学生の時、山形県議会議員であった伯父の鈴木行男の地域に対する熱い想いが私の政治家に成ろうとした原点でした。その後、代議士の秘書を経て、「同じ目の高さの政治」を信条に、山形県議会議員として政治の道を歩み始めてから今年で三十八年になります。
国会議員としてのライフワークに掲げた文部科学行政では、時代に合わせた「チーム学校」という仕組み、「教育委員会制度の改革」などを成し遂げることができました。更に、スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは「全ての人々の権利」と位置付けた「スポーツ基本法の策定」も感慨深い出来事です。この考えを取りまとめた『「スポーツ立国」ニッポン』というレポートは、今ではスポーツ政策のバイブルと言われています。
なにより印象深いのは、招致活動から携わったラグビーワールドカップと、東京五輪・パラリンピックの開催です。特にオリパラでは、オリパラ大臣や大会組織委員会会長代行として、日本の素晴らしさを世界に発信できる大会にしようと思い、
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大という未曾有の困難の中でしたが、大会関係者がワンチームとなって協力し合い、安全・安心のうちに終えることができました。そして、世界から集った選手は、コロナ禍に苦しんだ世界中の人々に勇気と感動を与える素晴らしい活躍をみせてくれました。各国からは「日本でなければできなかった」と称賛もいただき、日本の底力を示すことができました。
長年取り組んできた「アジアの子ども達に学校をつくる議員の会」では、議員有志のポケットマネーを集め、これまでに十八校の学校校舎を教育機会の恵まれないアジアの子ども達に贈呈して来ました。
「有志有途」。今後も郷土やわが国の発展に全力を尽くすことをお誓いし、お礼の言葉といたします。
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国務大臣の演説に対する質疑