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1970-03-27 第63回国会 衆議院 文教委員会著作権法案審査小委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十五年三月二十七日(金曜日)     午前十時十三分開議  出席小委員    小委員長 高見 三郎君       小沢 一郎君    河野 洋平君       塩崎  潤君    谷川 和穗君       松永  光君    森  喜朗君       吉田  実君    川村 継義君       小林 信一君    山中 吾郎君       正木 良明君    伊藤卯四郎君  出席政府委員         文部政務次官  西岡 武夫君         文化庁長官   今 日出海君         文化庁次長   安達 健二君  小委員外出席者         文教委員長   八木 徹雄君         文 君 委 員 山原健二郎君         参  考  人         (日本雑誌協会         著作権委員会委         員長)     鈴木 敏夫君         参  考  人         (日本文芸家協         会会長)    丹羽 文雄君         参  考  人         (日本書籍出版         協会常任理事) 美作 太郎君         参  考  人         (日本美術家連         盟事務局長)  和田  新君         参  考  人         (日本写真家協         会会長)    渡辺 義雄君         文教委員会調査         室長      田中  彰君     ————————————— 三月二十七日  小委員麻生良方君同日委員辞任につき、その補  欠として伊藤卯四郎君が委員長の指名で小委員  に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  著作権法案内閣提出第三九号)      ————◇—————
  2. 高見三郎

    高見委員長 これより著作権法案審査小委員会を開会いたします。  著作権法案を議題とし、審査を進めます。  本案について、まず参考人より御意見を聴取することにいたします。  本日御出席いただきました参考人方々は、日本雑誌協会著作権委員会委員長鈴木敏夫君、日本文芸家協会会長丹羽文雄君、日本写真家協会会長渡辺義雄君、日本書籍出版協会常任理事美作太郎君、日本美術家連盟事務局長和田新君、以上五名の方であります。  この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。参考人各位におかれましては、御多忙中にもかかわらず御出席くださいましたことに対し、厚く御礼を申し上げます。参考人各位におかれましては、十分に忌憚のない御意見をお述べくださいますようお願いいたします。  なお、各位に念のため申し上げておきます。御意見発表の時間はお一人約十五分程度とし、その後小委員各位からの資疑があればお答えをお願いいたしたいと存じます。また、御発言の際はそのつど小委員長許可を受けることになっておりますので、以上お含みの上よろしくお願いいたします。  それでは、順次御意見をお述べいただきます。  まず、丹羽参考人からお願いを申し上げます。
  3. 丹羽文雄

    丹羽参考人 日本著作権明治にできまして、その後多少の改正はあったでしょうが、ほとんど明治調の強いものでございまして、今日の時世にはとても合わないようなものになっております。私たち文芸家協会員といたしましては、たびたび議員の方にもお会いして、たとえば著作権保護年限ということでお願いしまして、これをぜひとも五十年にしてくれということを前々からお願いに上がっていたのです。今度のこの著作権法案ができましたそもそもの火をつけたのは文芸家協会、私たちのせいのようで、それからいろいろと絵画のほうとか音楽のほうでも著作権改正の必要を感じて、そして文部省著作権審議会なるものを催されるようになりました。そういう意味から申しましても、今回この法案著作権保護年限が死後五十年になったということは、私たち文芸家協会がかねてから念願しておったところでございまして、決してこの死後五十年というのは長いのではなくて、世界の常識になっておりまして、先進国はすべて五十年、またある国におきましては年限をきめていない国もあると聞いております。それほど著作権というのは大切にされております。著作権が大切にされておることによりまして文化国家ということもいえるのだと思うのです。今度の法案によりますと、保護年限が五十年にされる、これは一つの大きな成果だと私は思います。今度の法案は、文部省方々の努力によりまして六年間も審議会が続きまして、私も実はその審議委員の一人ですが、審議審議を重ねて、そしてやっとこの法案ができ上がったわけです。  五十年間の保護年限一つの大きな成果でしたが、また教科書問題につきましては、これはかねてから協会は、時代錯誤だ、と申しますのは、どうも明治の者の考え方になりますと、おまえのものを教科書に使ってやるんだからありがたく思えというような思想が、どうも考え方の根底にありまして、教科書に載る作者文章というものは、作者許諾も得なければ、かってにそれを採用しまして、そしてもちろん印税ももらえません、こういう扱いを長いこと私たちは受けてきたのですが、たびたびの教科書出版協会との交渉の結果、向こう側のほうも良心的に私たち意見を受け入れて、たとえばだれだれのものを採用するときには、その著者にまずもって断わって、それから印税も一これもたいした印税じゃないのですが、印税もちゃんとくれるようになりました。これが二、三年間ずっと継続しておる状態であります。そのことが、今度のこの法案でははっきりと条文一化されております。これも大きな成果だと思います。  それから私たちの書くもので主題歌なんかに使われる場合があるのですが、これまでは主題歌にする場合に、著者許諾も得なければ、かってに歌をつくって節をつけて、そしてこれをレコードにして販売しておる。そういう場合も、著者はつんぼさじきに置かれたような状態で、何のあいさつもなかったのですが、この法案によりますと、そうじゃなくて、やはり著者に断わって、それから何がしの報酬を払う、たいへん民主的、良心的に行なわれるようになりました。それも今度の法案成果だと思います。  それから何よりも今度の法案でありがたいのは、人格権が非常に尊重されておることです。人格権と申しますと、あるようなないようなものですけれども、これがはっきりと文章になって尊重されておる。ぜひとも私はこの法案は今度の国会で通していただきたいと思います。これは文芸家協会のかねてからの願いでございまして、いろいろと今度の法案に対しても問題はありまして、私たちも釈然としないところもございますけれども、大体においては満足しております。ぜひともこの国会で通過さしていただきたい。と申しますのは、だんだん時代が複雑になってきまして、審議会の当初には考えられないような状態になっております。たとえばビデオテープとかカセット、これが販売されるような状態になっておりまして、小説というものはいままで目で読んでいたんですけれども、だんだんと時代が変わってきますと、耳で聞くということで、目にかわって耳が働くような時代になってきております。そうしますと、カセットに含まれた著作権をどう扱っていいかということが、わからなくなってしまうのです。現在こういう問題が起こっておりまして、協会でおりおり協議をして、どういうふうに対処をしたらいいか、まだ対策もはっきりときまっていない状態であります。その前にこの法案ができておりますと、それを一つのたよりとしまして、そこから刻々出てきますカセットとかビデオテープ著作権という問題も、片がつくと思うのです。これができておりませんと、いままでの状態著作権法だと、くしゃくしゃになりまして、どこで線を引いていいかわからなくなってしまうというような状態になりますので、ぜひともこの法案今期国会で通過さしていただきたいのです。  私たちはこの法案ができたことをたいへん喜んでおりますけれども、しかし、二、三やはり非常に疑問に思っている点もないことはないのです。それを申し上げます。  先ほど私は、教科書扱い方は、教科書協会から非常に良心的な扱いをしてもらうようになった、私たち希望が受け入れられたと申しましたけれども、そのときにも、三十三条や三十四条にありますが、教科用図書学校放送等著作物を利用するにあたって、その旨を著作者通知すべき義務は必ずなさるべきであって、著作者側からの数次にわたるこれは私たち希望なんですが、事前著者に話をしてもらいたいというのです。ただあなたのものを使いましたという通知で、そしてあと印税をもらうというのではなくて、あなたのものを使いますからと、事前通知をしていただきたい。この事前許諾という文字を、ぜひともこの法文に入れていただきたいと思うのです。と申しますのは、教科書をつくる人がかってに作者のものを使います場合に、過去に、全く意味が違って利用されておる場合がございまして、せっかく教科書に使われるのに、作者の意図に反したような使い方をされては困るという問題が起こったことがあるのです。ですから、教科書に使うという場合には、これを使いますがいかがですかと、著者に必ず事前許諾を得るようにしてもらいたい、これはぜひとも文句を入れてもらいたいと思うのです。  それから盲人のための点字ですが、私たち作家は、私のところなんかにも、盲人協会から、あなたのこれこれの作品を点字にしたいから許可をしてくれと申してきます。そういう場合は、どうぞお使いくださいと返事を出すのですけれども、これは盲人という不幸な人に対して私たちは同情的、恩恵的な態度をとっておるのでありまして、向こうから許諾を求めてくるのですから、これは著作権にはひっかからないと思うのですけれども、こういうことがたび重なりますと、盲人であるからといって自由使用が当然の権利のようにあちらに考えられては、これはとんでもないことになると思うのです。文芸家協会のある人の中には、点字だって、あれは販売しているのだ。販売しておれば営業じゃないか。そうしたら著作権として印税なんか取るのがあたりまえじゃないかという説を立てる人もおりますけれども、そこまでするのは私は酷だと思うのでして、ただ盲人協会のほうで許諾を求めれば必ず許諾されるということを当然の権利のように思われては、非常に困る。そういうようなことを文章のどこかに書いていただくと、私たちも非常に安心ができると思うのです。  それから三十一条ですが、図書館等において資料保存のために複製をつくることが著作権の制限の中に入れられておりますけれども、この図書館という定義なんです。これは公共図書館でしたらまあとにかくも、このごろは会社図書館というものがたくさんございまして、そういう会社図書館だからといって著作物を簡単に扱われては困る。と申しますのは、その図書館から貸し出しがありまして、その貸し出した者がかってにこれを印刷する、そしてそれを販売するというようなことも、あり得るわけなんです。この図書館から貸し出すという点についても、今度の三十一条にはもっとはっきりとした定義、これは図書館会社図書館ではなく、公共図書館であるというようなことをはっきりと定義していただいたほうが、私たちは安心できると考えております。  教科書のことでは強制許諾なんというようなことはもちろんなくなってしまいまして、非常に良心的に扱われておりますし、それから今度の法案にも良心的に運ぶように書かれておりますけれども、その強制許諾ということばが第六十八条の放送の場合に残っておるのです。これはたいへん矛盾しておると思うのです。そしてお金を供託して放送ができるということがあるのですけれども、この強制許諾ということばをどうして残したのか、私たちは非常に疑問に思っているのです。どうもこの強制ということばには明治のにおいが残っておりまして、勘ぐって考えますと、他日強制許諾を必要とするような事態を考えられているのではないかとまで勘ぐる次第です。といいますのも、いままで放送関係著作権者強制許諾の必要が生じたような事態は、一件も起こっていないのです。ですから、この第六十八条から強制許諾というようなことばを抜いてもらいたいと思うのです。いままで必要がなかったのですし、このことばがあるために非常に誤解を招きますので、ぜひともこういうことばは抜いてもらいたい。これは個々の場合なんですけれども、そういうような疑惑を抱いている場所が二、三あります。  それから題名保護ということも今度の法案でうたわれておりますけれども、非常に特異な題名です。たとえば尾崎士郎の「人生劇場」とか漱石の「吾輩は猫である」とかというような特殊な題名保護する。しかし、この保護する場合に、それを押えるのは不正競争防止法によってこれが押えられるということになっております。まあそれでもいいかもわからないのですけれども、何かここにもっとはっきりと文章で押えるようにしてもらいたいと思うのです。  それに関連しまして、特異な人物、たとえば中里介山机竜之助とか、眠狂四郎とか、そういう特異な作中人物をある作者が使う場合に、その名前を使っただけでは別に著作権に触れないというのです。しかし、その作中で、その人物らしい特異な行動をとると、これは著作権にひっかかるというのです。名前だけだったらいいというのです。これも私は疑問がございまして、たとえば机竜之助、眠狂四郎という名前読者は強烈なイメージを持っております。そしてまた、その名前を使う作者は、その強烈なイメージを当てにしてそれを使うのですから、これもりっぱに著作権にひっかかると思うのです。ですから題名と同じに、そういうような特殊な人物名前というものを他人が小説に使う場合には、これも著作権にひっかかるというふうにしてもらったほうが混乱が少ないんじゃないか、私はそういうふに考えております。  そのほか、個々の場合、文章使い方なんかに関しましてもいろいろ問題があるのですけれどもそういうことをあげておりますときりがありません。しかし、大体におきまして今度の著作権法案は、私たちのかねての念願がほぼ達したように思っております。ぜひとも今期にこれを通過させていただきたいと思うのです。先ほど申しましたように、これからますます複雑になってまいります著作権のあり方、これに対処するためにも、ここに一つのよすがとしてこの法案がぜひとも通ることを私たちは念願しております。  私の陳述は、これで終わらしていただきます。(拍手)
  4. 高見三郎

    高見委員長 ありがとうございました。次に、美作参考人お願いいたします。
  5. 美作太郎

    美作参考人 日本書籍出版協会を代表いたしまして、参考意見の一端を申し述べさせていただきたいと思います。  昭和三十七年に著作権制度審議会が設けられまして、著作権法改正に着手されましてからちょうど八年たっております。その間に私ども日本書籍出版協会は、最近まで約十五回にわたりまして、最初は審議会に対して、その後は法案立案当局に対しまして、たびたび改正に関する出版界意見を申し述べてまいりました。その資料皆さま方のお手元にもお届けすることになっておりますし、ぜひごらんいただきたいと思います。  そこで、いよいよ今回皆さま方審議に付せられております著作権法案というものを私ども拝見いたしまして、事出版に関しまして、あるいは出版権に関しまして、出版界の実情を察していただいて、そしてその希望するところを取り入れていただいたと思われる節も多々ございます。この点は、たいへん私ども出版関係者としては感謝しているところであります。しかし、お取り上げになっていない問題点がないわけではございません。その中で特に重大な問題点と私どもが考えますものの一つを、きょうは申し述べたいと思います。  その問題点は何かと申しますと、これはほかでもございません。現在の著作権法の第七条に規定されておりますところのいわゆる翻訳権十年留保というものでございます。これが新法案には織り込まれておりません。みすみす放棄されようとしております。御承知のように、翻訳権十年留保と申しますのは、ベルヌ条約加盟諸国で、書物が出版されましてから十年以内に、日本日本訳が出版されませんと、十年たちましたあとは原著作権者許諾を要しないで、したがって翻訳権使用料というようなものを外貨で支払う必要もなく、わが国で何人も自由に翻訳出版することができるということなのでございます。これを第七条が定めているわけであります。この留保は、一八九六年ベルヌ条約パリ規定の中に設けられまして、三年後の一八九九年、つまり明治三十二年にわが国がこの条約に加盟いたしますとともに、現在の著作権法第七条として今日まで厳としてわが国著作権法に存続してきたものでございます。  この留保条約国際的な場面でわが国の代表が主張いたしましたその立論の根拠と申しますものは、これは翻訳自由の原則でございます。国際間の翻訳は自由であるべきだとする原則でございます。そしてそれによって海外文化交流になるべく負担をふやしたくない。日本語というものは、非常に特殊な性格を持っている。ヨーロッパの言語系統を異にする国々のことば翻訳をするについては、横のものを縦にするということについては、たいへん特殊な困難がある、これを避けたいということが、その当時の、ことに興隆途上にある日本の国として必要だというところから、この十年留保が主張されたわけでございます。これはは皆さま承知のことと存じます。こういうわけで、この十年留保が過去七十年にわたりまして日本翻訳出版に対してどのような影響を与えたか。非常に有益な影響を与えている。非常に大きな寄与をいたしております。これは申すまでもございません。  なるほど、翻訳の中には、先方で出版されてから何も十年待つ必要はない。向こうで本が出版されますと、すぐその許諾を得まして、使用料を払って日本訳が出版される、これはたくさんございます。最近出版される翻訳書の中にもございます。そういうものは、翻訳者も進んでやりますし、それから出版社もこれは売れるというので、つまりベストセラー的なもの、文芸物ノンフィクション物、これは多部数売れるという見通しがあるものを向こうと契約をいたしまして出すわけでございます。しかし、外国で出る本の中には、出版された当座はたいして目立たない、しかし十年、十五年たちましてその書物に対する一定の評価が定まりまして、そしてわが国読者層に紹介する、わが国の事情からしてこれは最も必要だと思われる種類の本も、かなりたくさんございます。たとえば哲学とか思想とか学術に関する本、これなどは、本が出ましてから十年、十五年のあとに、なるべく少数の読者に、しかもあまり高い値段でなく提出したいという出版社もあるわけでありますし、また熱心にその翻訳をされる方もあるわけであります。それから児童読みもの外国に出ております子供の本、これなどは、日本状況からしてできるだけ安く提供いたさなければなりません。そうしましたら、翻訳権に関する負担のない、十年、十五年のものを出版者編集者がいろいろ苦労してさがしまして、十年留保のおかげによってできるだけ安い本をつくって出版するということが行なわれております。つまりそういう種類の本に対しては、十年留保という特典は非常に幸いしておりまして、そのために初めてそういう種類の本が日の目を見るということになっているわけであります。  御承知のことと思いますけれどもわが国では、著者に払う本の印税定価の約一〇%内外でございます。ところが、翻訳権使用許諾を得まして翻訳出版をいたすとなりますと、訳者に払うべき、つまり著者に当たる訳者に払うべき一〇%の印税のほかに、翻訳権使用料、すなわちロイアルティーの八%とか一〇%というものをまた払わなければなりません。つまり印税を加えますと、一つの本にかかってくる著者著作関係使用料というものは、一五%、一八%あるいは二〇%の高率になるわけであります。これは翻訳書定価を、普通の日本人の書いたものに比べまして、相対的に押し上げる結果となります。定価を上げますと、売れ行きは当然減ってまいります。値上げによりまして、負担というものは結局最終消費者である読者に転嫁されることになります。しかし、書物というものの性格上、ただ定価をどんどん上げていいというものではございません。定価を少しでも低めに押えたいという出版物は、これは何とかして翻訳者印税をまけてもらう、翻訳者に支払う印税を少しでも下げたいということになります。もし翻訳者印税が普通の著者より率が下がってまいりますと、翻訳者の条件は当然悪化してまいります。このことは、いい翻訳がなかなかできないという結果をもたらすことになります。昭和四十三年の末に私ども日本書籍出版協会が行ないましたアンケートによりますと、文芸家、学者、評論家、この中で翻訳に携わっている方二百七十人のアンケート調査の結果、八三・三%の方々が十年留保の存続に賛同していらっしゃいます。この点を特に御留意いただきたいと思います。また、昭和四十二年に書籍出版協会が加盟しております私ども会員者に対してアンケート調査をいたしましたところ、いま日本で出ております翻訳書のうちで、ベルン条約加盟国で出版された本の日本訳が年間千二百六十六点ある。そのうち十年留保の適用を受けて出版されたものは七百十点、つまり五七%に及んでいる。このような状況のもとで、なぜ十年留保を進んで自分のほうから放棄しなければならないのであろうかという疑問が、まっ先に私どもには起こってまいります。もちろん、放棄論にも一つ根拠がございます。いまや日本大国である。世界で十年留保をしている国は、トルコとかアイスランドとか、そういう小国である。その小国の仲間として、いつまでも日本は十年留保というものをしておることはおかしい。大国の仲間入りをして、普通の著作権並み翻訳権保護期間を延長することにしたらどうだという意見でございます。これは私どもは、大国主義的なメンツ論として問題にすることはないと思っております。それから第二の論拠は、わが国著作物外国翻訳されることも非常に多くなってきた。だから、自分の国の著作権者保護するたてまえから、ひとつバランスをとって、翻訳権十年留保もここらあたりでもう放棄していいんじゃないか、こういう意見がございます。なるほど、日本著作物海外翻訳がふえてきた、これはたいへんけっこうなことでございます。しかし、現状に関して考えます限り、外国語から日本語翻訳されるものに比べますと、日本著作物外国語翻訳されるというものは非常に少ない。四年前の文部省発表によりますと、外国に支払われる使用料の額は、約二億円になっている。ところが、わが国への海外からの使用料支払いは、二百万円にすぎない。こういう数字が私どもには知らされております。そればかりではございません。この翻訳権十年留保に関する限り、国際著作権法上の相互主義というものは適用されないことになっております。外国書翻訳には、日本訳には十年留保は認められるけれども外国日本の本を外国語訳にしようとすると、日本で本が出てから十年ではない、著作者の死後三十八年という、いまの著作権法一般保護期間原則が適用される。決して相互主義ではないということが、先年のベルヌ同盟ストックホルム改正会議で確認されております。これは議事録に出ております。つまり、川端康成さんや三島由紀夫さんの小説が、英訳、独訳で出ます。日本で出版されてから十年たっても、外国出版社はかってにやれない。これは日本著作権法を守って、死後三十八年ということでしなくちゃならない。しかし、日本の場合には、外国翻訳は、十年留保で、十年たったらやれる。この点を御留意いただきますと、第二の主張の論拠は根本からくずれるのであります。  私どもは、今回の著作権法案著作権者保護に特に留意、配慮されていることを、非常に高く評価しております。しかし、よく考えてみますと、この保護というものは、著作権の使用者との関係、またその使用者の媒介的な役割りの背後にあるところの著作物の享受者であるところの国民公衆、この関係において著作権者保護は公正にきめられなくちゃならない、これが私どもの平素の考え方でございます。十年留保は、この観点から必ず存続さしていただきたい。今度の法案のどこかに皆さまの努力によってぜひ織り込んでいただきたい。これが私どもの願いであります。  これは、一つ国際的な観点もございます。ベルヌ同盟、ストックホルム修正規定、これに付属議定書がございますが、これはアジア、アフリカの開発途上の諸国からの外国からの外国著作権使用についての条約内容の緩和、著作権の制限の要求が盛り込まれております。その中に、翻訳権もやはり十年留保するという趣旨のことがあらためて新興諸国から主張され、そしてそれが確認されているのであります。この開発途上国の要請と申しますものは、それを生み出した状況は、現在私どもが主張しております翻訳権十年留保をやっておりますその背景とは、必ずしも同一ではございません。これはもう皆さまもよくおわかりいただけると思います。しかし、同一ではないかもしれませんけれども、それにもかかわらず、この開発途上国、新興諸国が国際著作権保護について一定の制限措置の必要を主張しているそしてそのことによってそれぞれの自国の民族文化を築き上げよう、建設しようとしているということに対しては、私ども国民は心からの同感を示すべきではなかろうかと思っております。そういたしますと、わが国著作権法におけるこの翻訳権十年留保というものを存続させますということは、これははからずもこれら新興諸国にとっても一つの心強いささえとなるのではないでしょうか。この点もぜひお考えいただきたい。申すまでもございませんけれども著作権法は一国の文化と経済の双方に非常に深いかかわりを持っております。法案がいよいよ可決されまして、そうして一たん施行となりますと、その影響するところは決して十年ぐらいのものではございません。その影響は五十年、百年と将来に及んでまいります。  ところで、今度の法案を読んでみますと、現行法に比べまして、非常に親切に詳しく規定されているところがございます。しかし一方、正直に申しまして、幾ら読んでもわからない条文がございます。理解できないところがございます。これは、私が法律学の専門家ではないせいかもしれません。しかし、著作権法というものの性質上、この出版の実務に携わっている私どもにまですっきりとのみ込めるような、すらりとわかるような法律に、皆さまのお力でぜひしていただきたい。これが私どもの願いでございます。  最後に、繰り返して申します。ほかにいろいろ申し上げたいこともございますけれども、先ほど申しました翻訳権十年留保という現行法第七条の規定を、何とかして今度の法案に生かしていただきたい。これが出版界の切なる願いでございます。(拍手)
  6. 高見三郎

    高見委員長 ありがとうございました。次に、和田参考人お願いいたします。
  7. 和田新

    和田参考人 私、和田でございます。まず、今日このような機会をお与えくださましたことをたいへんありがたく、深くお礼申し上げたいと思います。  私は、日本美術家連盟の事務局長をいたしておりますので、今日は、美術家の立場から、美術家側の考え方を代表して申し上げたいと思います。したがって、新しい著作権法案の中の直接美術に関するいろいろな規定、それから美術をも含めました一般規定にわたって、簡単に申し上げたいと思うのであります。それ以外の他の部門のことについては、もちろん私から何も申し上げないわけでございます。  新しい法案の全体についてわれわれの受けます感じは、たいへん詳しく親切によくできていて、全体として妥当であるというふうに考えます。これは昭和三十七年に著作権制度審議会が設立されまして、審議会委員方々、それから当時の文部当局の方々の非常に熱心なる御審議が続いておりましたその過程で、われわれのほうにも意見の提出を求められ、繰り返し私ども考え方希望などを申し上げてきたわけです。それでその審議の過程で、われわれの主張も非常に綿密に検討されて取り入れてくださったところが多々ございます。現行法では、美術に関してはほとんど具体的な規定が何にもない。したがって、暗中模索のような状態著作権問題を従来処理してまいりましたけれども、今度は格段の相違で、美術に関してもたいへんよく整備された条項をつくっていただいたということについては、私たちたいへんありがたいと思っております。  美術の著作権の内容、これは原則的にはいままでとあまり変わりませんけれども、しかし、現行法にはなかった、たとえば展示権というようなものを新しく著作権の内容の中に取り入れられたということも、評価したいと思っております。  ただ一つ、ちょっとここで申し上げておきたいと思いますのは、美術著作物に特有の追求権という権利がございます。これはベルヌ条約のブラッセル規定の中に取り入れられておりますけれども、実施にはいろいろ国の事情によって困難も伴うという関係でしょうが、実施は各国の国内法にまかされております。現在それを実施している国は、数からいうとベルヌ国の中でも非常にわずかな、ヨーロッパの数カ国のように聞いております。しかし、今度の画期的な著作権法改正にあたっては、ぜひこの美術家の特別な、特殊な美術著作物権利である追求権を何とか実現していただけないかということを当初から希望を申し上げておいたのですが、これは小委員会でもたいへん詳細に検討していただきましたけれども、結果においては、現在の日本状態ではすぐこれを実施することは適当ではないという判断になりまして答申が出たわけですが、その答申の中でも、この権利は美術家の著作権保護する見地から見てたいへん検討に値するものであるから、現在は取り入れないとしても、将来においてもし日本の実情が、公買制度その他の実態が完備されていったときには、あらためてこの追求権制度の創設を検討すべきものであると考えるというような答申を出されております。したがって、私どもはそれはやむを得ないと考えておりますが、今度の法案には含まれておりませんけれども、将来の問題として御記憶いただければたいへんありがたいと思う次第でございます。  それから、今度の新しい法案の中でいろいろな改善が行なわれておりますけれども、私どもが考えまして、たいへん特徴として今度新しく、もしくは練り直して規定していただいた点に評価したいというところが幾つかございます。  その一つは、著作者人格権のこと、これは現行法にもございますが、たいへんはんぱな形でしか出ておりませんのを、今度は著作者人格権というものを非常に詳細に規定して、その保護を考えられたということであります。  それからもう一つは、自由利用に関する、つまり著作権の制限に関する規定を非常に詳しく個々の場合をきめられたということであります。これは新しい法案の三十条から四十七条にわたって十八カ条の場合を規定されて、そういう場合には自由利用してよろしいということをきめられた。これはたいへん制限の規定が多くなって、著作権法よりもむしろ著作権制限を主とした法律ではないかというような疑問をいだく方もあるようでありますけれども、私どもはそういうように考えませんので、いままでばく然と解釈され、法律には何にも規定がないために、われわれの考え方と一般大衆の考え方との間にたいへん食い違いができて困っていたという問題が、詳細な規定を設けられたことによって、この程度までは自由利用してよろしい、しかしここに規定してない点は自由利用はいけないんだ、つまり侵害になるんだということの基準が非常にはっきりしてきたという点で、私どもはたいへんしあわせに考えるわけです。  それからもう一つは、いままでの法律にありませんでした権利行使という一節を設けられまして、著作物の利用の許諾というのを六十三条に規定されました。これもたいへんわれわれにとってはありがたいことなのです。いままで著作権を使う側では、著作権の譲渡を受けなければ使えないのではないか、あるいは作品を所有しているから著作権も当然自分にあるんだというような、たいへんのんびりした考えで、故意もしくは知らずに、無知のために侵す侵害事件がたいへん多かったのでございますが、普通の著作物の利用方法は譲渡よりもむしろ利用許諾による場合がほとんど大部分のように思われますので、これについての規定がなかったということが世間の誤解を多くしていた。したがって、今度これを設けていただいたということは、たいへんわれわれにとってありがたいと思います。  それからもう一つ、第五章に紛争処理という章を設けられて、新しい構想で、裁判に持ち込まない以前の紛争処理についての方法を立てていただいた。これも今後大いに活用していただきたいと思うわけです。  大体においてわれわれはこの法案を支持して、ぜひ通していただきたいと思うのでありますが、ただ、この機会に三点ばかり希望意見を申し上げさせていただきたいと思います。それは、初めの二つはかねて書面で申し上げたものでありますけれどもあと一つは最近私が痛感しておりまして、今日の機会に初めて申し上げる点です。  第一と申しますのは、この法案を見まして、第一条の目的を読んでみますと、この文章がたいへんふしぎな感じがするのであります。「この法律は、著作物並びに実演、レコード及び放送」というふうに並べてあります。著作物というものと実演とレコードと放送と、そういうものがみんな同格のようにこれでは見える。これは隣接権が新しく入ったために、著作物ということばに対して隣接物というようなことばがないためにやむを得ずこういうことを羅列されたんだと思いますけれども、たいへんアンバランスな気がします。当然著作権法著作物に関する著作者権利保護するというのが第一目的であるはずだ、それで隣接権は入っても、これは付属的に、便宜的に今度の著作権法の中に入れられたんだ、したがって、表題も著作権及び隣接権法としないで著作権法とされているということを考えますと、非常に範囲の広い、かつ、重要な著作物というものと、それから実演、レコード、放送というものが同じような形でここに並ぶということは、一見してこの一条の目的があいまいな、何を主眼とするのかたいへんわかりにくい、アンバランスな感じを与えるのであります。  それからもう一つ、これは著作権保護するのが第一目的であるはずのところが、その途中に「公正な利用に留意しつつ」ということばがございまして、この留意の程度いかんによっては、著作権保護もある程度制限するのだというようなことが何となく考えられる。これもあまりうまい使い方ではないんではないか。著作権法の目的は、明快にその第一目的をすっきりここで何人にもわかるように示していただきたい、こういうふうに考えます。それで、これは隣接権をあわせてここに入れるのだという意味がわかり、かつ著作権保護が第一であり、同時にあわせて社会における公益のための利用を円滑にするのだというふうな文章にもう一度これを練っていただくことを、ぜひ国会皆さまにお考えいただきたいというのが私の第一希望でございます。  それからもう一つは、第二十条に「著作者人格権」の中の「同一性保持権」という一カ条がございます。この同一性保持権というのは、これは人格権の中の非常に重要な部分であると私ども考えます。著作者人格権は、申すまでもなく創作の自由、創作者の全く自由を尊重し、そして何人もこれに手を加えることができない、そういう原則著作者の基本的人権としてここに定められているものだと考えます。したがって、その意に反して変更、切除その他の改変を受けない、これが原則でございますが、その二項がございまして、除外例がきめてあります。第一号は、教科書に利用する場合の用字または用語の変更というような、簡単に言えば、当用漢字に直すとか、現代かなづかいに直すとかいうやむを得ない変更、これは教育上の目的から、一つの場合としてやむを得ないと考えられますが、第二号には、建築物の増築、改築、修繕または模様がえ、これも差しつかえないとあります。この二つは、それぞれのことを考えるといかにももっともなのでやむを得ないのですが、その次に第三号がありまして、「前二号に掲げるもののほか、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」、これがたいへん私は疑問なのであります。こういうことが一つありますと、すべて利用者のほうはこれを適用して、都合のいいように改変を加えるおそれが非常にある。これは目的及び態様に照らしやむを得ないんだと言われれば、一つの主張になるわけでございまして、これはたいへん危険に思います。それで、もしこういう個条を設けなければならない必要がある具体的な例があるのでしたら、それを第三号に、こういう場合というものをはっきりきめていただくか、あるいはそれが想定できないのでしたら、これを削っていただいて、そうしていかなる改変もこの一号、二号に当たらないその他の改変が必要な場合には、まず著作者の同意を得るべきだということが原則になるようにしておいていただきたい。これが、一つ人格権というものを大事に考える上からの希望でございます。  最後に、もう一つちょっと申し上げておきたいと思いますのは、所有権と著作権との別ということであります。これはほかの著作物については問題がおそらく起こらないと思いますが、美術の著作物の特殊性ということは、原作品というものが一点しかない。しかも作者の手を離れて人に譲渡されますと、所有者ができて、それが所有者の私有財産になる。これは自分のものなんだというものができるわけです。そうしますと、一般の人は、所有権を持っているんだから著作権も当然自分のところにあるはずだという誤解を——つまり法律的知識がうといとは言えますけれども著作権というものの性質をよくのみ込んでない一般の人たちは、そういうふうに非常に思いがちであります。したがって、悪意でない侵害事件をしょっちゅう起こしております。それからまた出版社などで、これを知っていながら、美術の作品は買い取ったんだからそれをどう使おうと自分のほうの自由だという解釈を押しつけて、作家側からいかに抗議を申し込んでもそれを受け付けないというような悪習慣が、ずっと続いております。   〔小委員長退席、谷川小委員長代理着席〕 したがって、当然のことで、所有権は著作権とは別ものだということは言うまでもないので、今度の法案にはお入れにならなかったと思うのでございますが、これをどこか適当なところにひとつ入れていただけないか。美術の著作物の原作品の所有権は、それだけでは著作権の譲渡を受けたものとは認めてならないという意味のことを、たとえばここに第六十一条に譲渡の規定がございますが、その譲渡の規定の中の第三項にでもそういうものを入れていただいて、そして所有者といえども著作権は別なんだということがしろうとにもわかるように御配慮いただけないかということが、今日の私のお願いしたい希望でございます。  以上でございます。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
  8. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 次に、渡辺参考人お願いいたします。
  9. 渡辺義雄

    渡辺参考人 私は、写真家を代表しまして、写真の著作権につきました部分だけちょっと申し上げたいと思います。  私どもは、昭和三十七年に、文部省からのお話で最初の要望書を出しました。それは現行法の第二十三条と二十五条を削除していただきたい、それによって私どもの目的が達せられますからということで要望をいたした次第でございます。その後、審議会のいろいろな御審議の結果、あるいは文部省法案を作成されるその過程におきまして、私どもが要望しました第二十五条に関しましては、全く満足をいたすような状態に取り扱っていただいたことを非常に喜んでおる次第でございます。  しかし、二十三条に関係をいたします部分が、今日の法案では五十五条にございますが、この問題に関しましていろいろなお考えの違いが各方面にあるようなので、これを主としましていささか話をしたいと思います。  これは五十五条では、公表後五十年間保護するということになっておりますが、どうして発行、公表後という公表時起算になって、他のものは死亡時起算になっているのかということに、たいへんな疑問を持つわけでございますが、これに関しましては、もう数年来文部省あるいは国会方々に何度も意見書を添えて要望いたしておりましたが、この機会を与えられましたので、もう一度繰り返すようでございますが申し上げたいと思います。  写真を発行後にする、あるいは今日の公表後にするという根拠として、いろいろあげられておりますが、その根拠になりますものは、写真の特性、それから条約の問題、それから現行法がすでに発行後という状態であるという三点に特にしぼられているように考えますが、写真は、御承知のように、百二、三十年前に発明されたものでございまして、表現手段としてはまことにまだ浅い歴史しかございません。しかし、二次元平面の中に作者がねらう美的効果と記録性とを総合させて一つの創作活動をしようという、そういう表現手段のものでございます。したがいまして、単に記録だとか何だとかいうような簡単なことばですべてを処理しようとすることは、なかなか困難な内容を含んでおると私どもは信じている次第でございます。記録性のために、報道をするから、記録性を主として報道するから報道写真はこういう状態であるとか、あるいは展覧会場で鑑賞をするから、これは芸術的な価値があるからこういうふうにしようとかいうような考えを一方でお持ちの方もありますが、これはあらゆる面においてそういう性格はあると思います。芸術上の問題でもあります。あるいは文芸の問題でもありましょう。いろいろな面からそういうふうにものを考えればいかようにも考えられますが、それは著作権というものを利用する面から考えましたならば、どのような状態にあろうとも、価値のあるものでなければ利用されません。まず利用価値があるということから著作権が発生するわけでございまして、著作権は自然発生ではありますけれども、実際的に効力を発揮しますのは、やはり使用面との間にある。そうしますと、そこでいま問題にならないような仕事の作品までを、私どもは考えておりません。写真はカメラを持ってシャッターを押せば写るということで、機械操作が主であって偶然性が多いというために、創作性が少ないというようなことをいわれるわけでありますけれども、はたしてそうであろうかどうであろうかということは、皆さまおそらくここにおいでの方々も写真はお写しになったことの経験はおありだろうと思いますが、なるほどうまく写ることもあればうまく写らぬこともある。しかも自分の気に入ったものができることもあれば、できないこともある。これは絵をおかきの方もたくさんおいでだと思いますが、これも同じことだと思います。したがって、そういう作品のよしあしということが著作権をきめるのではなくて、かかれた、あるいは写されたものがはたして利用の面において価値を持つか持たないかということを考えますと、どんなに自分でうぬぼれておっても、だれも利用してくれなければ、著作権はあってもないごときものだと思います。そういう点から考えましても、私どもは、その作品の創作性が強い弱い、多い少ないというようなことを簡単に論ずることもできませんし、またそれを論ずることは何かちょっと筋道が違うようにも思うのであります。  それから、写真には社会的の事実を写したものが多いので、またそれによってある効果を出しているのであるから、これはなるべく早く世の中に公表、公開すべきであって、著作者がいつまでも持っているべきものではないというようなこともいわれます。これも考えてみますと、いまの問題とよく似たいろいろな問題のかかわりがあると思います。  それから、発行時起算にしておく理由というものは、展覧会とかあるいは出版物発表すれば著作者名は出るけれども、一般の写真には著作者名のわからぬものが非常に多いということをいわれます。これは確かに、私ども写真関係者が旧来名前を書かずに発表する、あるいは名前を書かずに人さまに差し上げるというようなことが多かった事実は全く認めるわけでありますが、しかし、それによってはたしてその作品が利用される価値を持ったか持たないかということになりますと、先ほどの問題とまた堂々めぐりをするわけでありまして、著作者名がなくて利用されるというようなことはめったにないことではありますが、しかしそれを大きく取り上げた事実はあります。しかしそういうものは、私ども写真界としてはもうみずから著作権を放棄した作品だと、こういうふうにまず考えておりますし、今後もそのように写真界全体に啓蒙をしまして、そのようなことのない、著作者名を表示しないというような作品は人さまに渡さない、世の中に出さないというようなことを申し合わせをしている次第でございます。したがいまして、著作者名がないから、保護期間がいつから発生したかということを確かめにくい。したがって、写真は公表時起算として、名前をつけて発表されたときをもって保護期間の起点とするというようなことは、どうもちょっと時代錯誤のようにも考えるわけであります。  それから、先ほどからもベルヌ条約の話がありましたが、条約において写真は現に区別をされておる。したがって、条約の面からいっても、日本で特別に一般と同じにしなくてもよろしいのだという話もございますが、これは私の想像でございますが、おそらく万国著作権条約ができましたときにも、写真の保護期間は十年より少なくてはいけないというようなことを規定されたその背景には、当時日本は、ベルヌ条約でもそうでございますが、ベルヌ条約に加盟のころは日本はまだ大国でございましたが、その後大国から落ちましたけれども日本著作権の中で写真の保護は十年であったということが、十年よりも下ってはいけないということのまず根拠を出す場合の何かになったのではないかと、私は想像しているのでありますが、なるほど十年であった事実は長いことあるのでありますけれども、それをさかのぼって考えてみますと、明治三十二年に著作権法ができたときに、写真をもそこに加えられた。当時、まだ写真がいつまでもつか、変色するのではないか、あるいは消えてなくなるのではないかといわれるような時代において、写真表現の力というものを創造の面でいかようにも発展して使われていくのではないかというふうに見抜いて、それを加えられたということをひとつ考えてみたいと思います。そのおり、もし写真を何も創造性のある表現手段であるというふうに見られなかったならば、おそらく著作権法の中には取り入れられなかったと思います。それにもかかわらず、色が変わるかもしらぬとか、長もちをしないだろうとか、当時は博物館でも写真の購入をちゅうちょしたというような事実があるということを考えますと、何か不安ではあった、しかしこれは将来伸びるものではなかろうか、確かに表現手段として写真というものはあるんだし、これを入れないことはおかしいというような根拠が、どこか心のすみにあったのではないかと私は思います。ただ、当時の立法をされた方の本によりますと、そういう心境は表現されておりませんで、ただ写真版権条例のときに十年であったということと、まあまあフランスあたりでもちゃんといつの間にか入っているくらいだから、まあ入れておいたらよかろうしという、その入れておいたらよかろうしということは、何かやはり将来性を見越して、しかも十年でもとにかく入れておこうというふうな考えであった。そういうところで十年があったし、また十年は十年一昔という時代考え方からいっても、まあ適当ではなかろうかというふうなことであったので、当時そのような発行時起算でやられたことを今日また同じように発行時起算でなければならぬという根拠には使われる、現行法にあるからやはりそれをそのまま生かして、ただ期間を延ばせばそれでいいのではないか、これでも相当な恩恵はあるんではないかという考え方に対して、私どもはたいへんな疑問を持つわけなのであります。五十年であるとか何年であるとかということよりも、まずどうして一般の著作物保護しなければならぬかをもう少しよく考えていただいて、その上でどうしても、これは条約にもあるんだし、現行法にもあるんだから、公表時起算でなければならぬというふうになれば、これはもうやむを得ませんが、まだまだ私どもはそれにたいへんな疑問を持っております。したがって、この点をこの委員会において十分御審議願いたいと思うのでありますが、条約でもベルヌ条約で、戦後開催されましたブラッセルの会議のときの議定書の中では、フランスからの提案で写真著作権を一般保護の施行の座に近づけるようにということを特に加えられておるという点から考えましても、写真はどんどん発展をしているし、当然各国ともにそのような保護に近づけるようにしてはどうかということが原則的に一致されているということも考えますと、何も条約によってどうこうということはなく、しかも写真の著作権は各国内の国内法にゆだねておるということでございますから、この国会におきまして、今日の時代に即応した英断をもって、これを一般と何らの差別をしない死亡時起算にされることを望むのであります。私どもは死亡時起算を望みますけれども、これは皆さんのお手元に何度も出ましたように、要望書の中では、写真著作物のうち、自然人による著作物については著作者の死亡時を起算点として保護期間を定めていただきたい、こう申し上げているのでありまして、写真ならば何でもということは申し上げておりません。やはり法人、団体著作というようなものは発行時起算が当然であると思いますが、個人の著作については何らそこに区別を設ける根拠はないのではないか、そういうふうに考えるわけであります。  私どもがかねて出しました要望書の中ではもう二つありましたが、最初に出しました要望書のほかに、その後に変化をして出したと申し上げましたが、その中に、二番目には著作者人格権が十分尊重されるよう改善されたいということを申し上げておりましたが、これはもうすでにいままでの参考人方々から、逐一微細にわたっていろいろ御意見がございましたので、ここでは省略させていただきたいと思います。  そういう次第で、写真に関係します部面だけを一応私どもの考えております点を申し上げて、御審議の参考にしていただきたいと思う次第でございます。どうもありがとうございました。(拍手)
  10. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 次に、鈴木参考人お願いいたします。
  11. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 雑誌協会著作権委員長をやっております鈴木でございます。  初めに結論から申し上げますと、今度の著作権法の新法案をぜひ今度の国会で成立していただきたいものであると思っております。いつまでも宙ぶらりんであるのは、たいへんよろしくないと思っております。もう一つ、これはわれわれの年来の主張でございまして、非常に成立をお願いしたいのですが、その中で特にしぼりますと、二つのことを御審議お願いしたい。  一つは、写真の著作権、いま渡辺さんがおっしゃった写真の著作権の問題、第五十五条にございます。これは結論から申しますと、公表後五十年になっておりますけれども、いろいろ後に述べるような理由から、過保護ではないか。これも結論だけを先に申し上げますと、われわれは、芸術的な写真につきましては死後二十五年、それから主として時事を報道する写真、いわゆるニュース写真的なものに関しましては公表後二十五年が妥当ではないかと考えております。これが一つ。  それからもう一つは、新法案の第三十九条にあります新聞雑誌からのほとんどあらゆる記事といっていいと思いますが、それを無断で他の新聞または雑誌に転載することができるというかなり乱暴な規定がございまして、これを御修正いただきたい。これが結論の部分でございますが、その理由を申し上げます。  写真が、現行法では公表後十三年となっています。これに対して、新法案では一挙に五十年に延長した。御存じのように、一般著作物保護期間は、つい数年前まで死後三十年だったのです。これに対して、写真は公表後十年という非常に短い期間であります。その後一般著作物保護期間が四回にわたって暫定延長がありまして、三十年から三十三年、それから三十五年、それから三十七年、またもう一年、ちびちびと延長がありまして、三十八年になって現在に及んだ。新法案では、死後五十年説をとっております。その間写真のほうは、一般著作物の第一回、第二回の延長の際にも、十年のまま据え置かれました。第三回目に至って初めて二年、さらに四回目に一年延長があって、現行法の十三年に落ちつきました。その間のいきさつが、そのまま写真が他の一般著作物とは若干違った体質を持ったものであることを示しているのではないかというふうにも考えます。新法案では、一般著作物が現行三十八年から五十年と約一・三倍の延長案であるのに対して、写真は一挙に約四倍の延長になっております。これはどうも過保護ではなかろうかということ。現在わが国が加盟している二大国著作権条約、ベルヌと万国著作権条約ですが、われわれはその中のベルヌのうちのローマ規定に入っておりますが、ここでも一般著作権に対して写真のそれを区別することが公認されております。これはベルヌ条約のローマ規定をごらんになればわかります。わが国がおそらくはまた加盟しようとしているのだろうと思うのですが、ブラッセル規定というものがありまして、これについては、一般著作権は死後五十年を強制されておりますが、写真の保護期間はその国が自由に決定するということを認めておる。一番新しいストックホルム規定、これは調印ばかりしまして批准がさっぱりされていない、あまり各国の支持がありませんのでまだ宙ぶらりんになっているわけですが、一般著作権の場合は死後五十年であるが、写真は製作後二十五年を下回ってはならないというふうな規定がしてあります。それからまたユネスコの万国著作権条約、ここでも一般二十五年以上に対し、写真は十年以上というふうな保護期間の設定に、いずれも明確な差異をつけているわけであります。これが正しいかどうかは別としまして、少なくとも保護期間にそういうふうな差異をつけることを認めているという一つの事実があります。これはやはり写真著作権が、写真自体が持っている一つの特質のために区別されているのではないか、そういうふうに考えるわけです。  写真の持つ特性につきましては、ここにおられる、先ほどお話しになりました渡辺さんを会長とするJPS——日本写真家協会のメンバーのようなプロ作家の作品のような非常に芸術性の豊かなものも数多くありまして、これが公表後、ついこの間までわずか十年であった。これはわれわれもまことにお気の毒にたえない、何で虐待するのだろう、そういうふうに思っておりましたが、一般的に言いますと、機械的な、あるいは化学的な操作でつくられ、偶然性を持ち、一般の著作物、たとえば文学とか美術とか、そういったものよりも創作性の度合いが苦干乏しいのではないかということは、これは、著作権法の生みの親は水野錬太郎博士であることは御存じのとおりですが、水野錬太郎博士が「著作権法要義」というあの名著作の中ですでに指摘されていることであります。そこにおいでになる本案の起草に努力された安達文化庁次長が、やはり写真家協会の会合で私と似たようなことを申しておる記録を私は持っておりますけれども、それはいいとしまして、そのことは歴代の当局者並びに著作権学者によって同じように主張されてきた。やはりいってみますと定説でありまして、その機械への依存度が、現在のカメラそのもの及び感光材料、フィルム、そういうものの進歩の結果、いまではさらに強まっているというふうに考えます。最近の写真のメカニムズの発達は、これは異論もあるでしょうけれども、「だれでも押せば写る」式のEEカメラとか、「私でも写せます」というふうなことをテレビでも年じゅう言っておるように、シャッターチャンスの偶然性が作品の価値を決定することも多くなっていることは周知の事実であって、すべての写真、何もかもひっくるめてどんな写真でも他の一般芸術と同じであるということに、根本的な無理があるのではないかと思うわけであります。  それから写真が従来、他の著作物よりも短い保護期間で十分とされたことは、写真の中のあるもの、たとえば非常にニュース的なものとかいうことをさしているわけですが、新聞、雑誌のニュース記事同様——これは御存じのようにフリーになっております。新聞、雑誌のニュース的なものは、著作権の対象にならない。全然頭から認められない。ということは、この記事そのものに公共性があり、社会性がある。なるべく短期間内にこういうものは、パブリック・ドメーン、国民のものにする、そういう国民の共有にすることが妥当であるという性格を持つとされたためであろうと思うのです。この点については後にあらためて触れることにいたしますが、この新聞、雑誌のニュース記事も、利用価値から著作権が発生するという考え方であるとすれば、これについてももちろん利用価値はあるわけでございまして、ニュースに利用価値がなかったら、これは話にならぬ。私は現在新聞社につとめておりますからなおさらでございますが、そういうふうなニュースがフリーであると同じような意味で、公共性、社会性、そういったものが裏づけにあるのじゃないかと考えます。  次に、これはそろばん勘定になりますが、日本の場合、外国人の著作権を遇する場合には内国民待遇という便利なものがありまして、これは外国のカメラマンにとっては気の毒なんですが、外国の写真を使う場合には日本著作者法によって律せられる。現行法は十三年ですから、十三年たったものは日本国内ではフリーになります。いろんな偉い人の写真も、これはフリーになるわけです。かりにわが国が写真著作権を五十年に延長すれば、当然、写真著作権五十年保護を規定している幾つかの国の外国に対しても、同じような保護を認めなければなりません。従来よりもさらに三十七年間の長い期間、外国写真の使用について銭を払わなければいかぬということになるわけです。なお、外国ではいろいろ写真の保護期間が非常に短い国が一ぱいありますけれども、これは後に時間があったら述べることにいたします。これはいま言ったことはそろばん勘定でありまして、大国意識とかなんとかいうことを振り回せば別になりますが、国益という点から考えますと、先ほど美作参考人がお話し申し上げた翻訳権十年留保を撤廃した場合に受けると同じようなマイナスが出てくるわけであります。日本がやっぱりそれだけ損をするということになります。と同時に、御承知のように、戦後の出版物というものは、読む雑誌から見る雑誌へとかいうようなことが盛んにいわれまして、いわゆる視覚的な編集、ビジュアルな編集をやるようになったのが大きな潮流になっていまして、写真を使用する頻度が年々ふえております。特に外国の写真の使用というものは、これはだいぶ裸の写真なんかが多いのですけれども、これなんかも非常に増加している。従来フリーであったものまで今度は長期間にわたって対外の支払いを行なうということになりますと、これは当然雑誌の製作費にも影響しまして、コストが高くなる。そうすると、必然的に定価にはね返る。定価にはね返るのは、大衆の利益を阻害するに至る。どうもこういう理屈はあまり言いたくないのですが、そういうふうなこともあり得るわけであります。  それから大事なことは、写真がすこぶる多様性を持っているという点が一つあると思うのです。写真のメカニカルな発達により、現代写真は、一つは芸術性の方向、一つは報道的な面、あるいは非創作的な単なるコピー、記録の面へも進んでいるように思われます。明らかに芸術的な写真とか学術的な写真が著作権保護対象であることは、全然異論はありません。しかし、ほかの単なる記録とか報道というものは、若干別途に考える必要があるのじゃないかと思います。現行法で、新聞・雑誌の時事を報道する記事は、いわゆるストレートニュースといっていますけれども、その社会性、公共性の点から著作権の対象とせず、フリーとすることは、先ほど申し上げたとおりであります。このことは新法案にありましても同様で、事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、著作物の範囲に属さない。よけいなことですが、この雑報とか時事ということばは非常に古いことばでありまして、現行法でいまだに雑報——これは明治時代の新聞用語でございます。新聞紙またはいまのようなニュースは、フリーの著作物の範囲にも属さない。これは全然市民権を与えられていないわけです。このほかに、新聞または雑誌に掲載して発行された政治上、経済上または社会上の時事問題に関する論説(ただし学術的な性質を有するものを除く)というものでさえ、他の新聞または雑誌に転載、放送または有線放送することができるというふうになっているわけです。これは先ほどの私のほうの主張の第二段階のものです。このように雑報、時事の報道、時事についての論説と同様な性格と内容を持つ写真までが、一つは書かれた文字であって、一つはカメラで撮影されたものであるという差異だけのために、一つ著作権保護対象の外にある、市民権を与えられない、ほかは厚い保護を受けるということに、疑問を感じないわけにいかないのです。  いままで申し上げましたように、写真の多様性を区別しないで、何もかも十ぱ一からげに保護しようとすることに対しては、おそらく写真家の方も矛盾を感じているのじゃないかと考えます。かといって、私どもは、写真著作権を、いまの芸術性その他明確でないもの、単なる報道的なものを全部ただにする、フリーにしてしまえ、ゼロにしてしまえということは、暴論であろうと思います。少なくとも現在までは十三年の保護を受けているという一つの既得権的な事実がありますので、これはやはり認めるにやぶさかではありません。何がしかの保護を与えねばならないと思っております。これは専門家がそこにおられますので、後にお尋ね願えればわかると思いますが、外国でも、その区別をしている国は、イタリア、オーストリア、スウェーデンとかたくさんございまして、イタリアなんかは、原則として製作後二十年、ただし芸術的写真は登録後四十年とするという特例で保護しているというようなことがありまして、こういう国が、デンマークその他ドイツとか、まだここに一ぱい書いてありますけれども、勘定しますと十六カ国もあります。こういうものは、写真の実態をかなり正しく把握した立法じゃないかと思います。われわれは従来の著作権法の立法の精神に立脚して、写真の過保護を妥当なものに修正していただきたい。と同時に、写真そのものの多様性を認識していただいて、明らかに芸術的なもの、当然保護すべきもの、保護はするけれどもストレートニュース、さっきの新聞記事その他に準ずるもの、全く保護を必要としないものというふうに区別して立法をしていただくよう、御審議いただくように主張したい、提案したいと思います。  われわれは、雑誌協会、書籍協会もそうですが、写真家協会とは実は持ちつ持たれつの間にありまして、写真家の方とは一緒に仕事をしている。ですから、これはもちろん和気あいあいたる関係を保っているつもりでおりますが、こういうものに関しては、やはり言うことは言わなければならないのではないかということが、私どもの主張の根本にもなっております。われわれの現場の問題でありますが、写真に著作権の表示をつけていただきたい。現在でも、少し古い写真になりますと、だれがとったのかわからなくなることが非常に多い。保護期間が一挙に延長された場合、またこれが非常に混乱を呼ぶわけです。雑誌というものは締め切りに追われていますので、編集製作時間が非常に短いものですから、その間に、何かこの写真が使いたい、非常にいい写真ではないか、絶対に報道としても使いたい写真だが、だれが著作権者だかわからぬというために、利用を断念する、これはお互いに、権利者のためにもマイナスだろうと思うのです。発表したものは、ぜひ著作権の表示を必ず写真につけるという必要があるのではないかと思います。これは御参考までに申し上げますと、イタリア法の場合、写真の中にそういう表示がないものは、撮影者が複製者の悪意を立証しない限り——複製者というのはおおむね出版社か新聞社であろうと思いますが、この複製は不法とみなさない、かつ、報酬の支払いを要しないという規定をしております。これなどは、非常にいい参考になる条文じゃないかと思っております。  それからもう一つつけ加えたいのは、これは先ほどの写真の特異性にあるわけですけれども、最近は、写真のメカニズムの発達、それからフィルムが非常に安くなった。そういうことで、同じ被写体、対象を何十枚も一ぺんにとってしまう。そのうち一枚か、多くも数枚だけを使うということが非常に多いのです。一連の同じような数十枚の写真が、かりに公表の時期によって、それぞれ保護期間が違ってくる。しかも短いものでも延々五十年間であっては、写真を使う場合非常に混乱が起こる。たとえばケネディの暗殺のときに、十六ミリの写真をとった男がおりまして、これを「タイム」、「ライフ」でものすごい高いばく大な金で買った。それがまた外国へいろいろ売られた。日本出版社でもずいぶん買ったところがあります。あの場合は、ああいうものと同じものが何十枚もある。その中からちょきんちょきんと三枚ずつ切って、それを渡す。それでこれを買ったほうは独占したと思う。それで高い金を払った。ところがほかの雑誌にも出た。たとえばジャクリーヌ夫人がそばにおりますけれども、御夫人の手の指がちょっと違っているだけだ。あとは全部同じだ。そういうことがあり得るわけです。こういうものはほかの芸術品にはありませんわけで、たとえば丹羽さんの「親鸞」という作品は、丹羽さんの「親鸞」ただ一つしかない。かりに丹羽さんが「親鸞」とそっくり同じような、写真でいえば絵柄のものをおつくりになって発表されて、これは全然別個の著作権が成立するんだと主張されたら、おそらく丹羽さんはそんなことをされるはずはありませんけれども、文壇からも言論界からも袋だたきにされるにきまっております。そういったようなものは、一つしかできないけれども、写真の場合は同時に同じようなものが幾つもつくれるというふうな特質もありまして、それに対して一つ一つわれわれは認めなければいけない。御存じのように、例のアイモ改造というカメラでとりますと、一ぺんに何十枚もとれます。同時にそういった報道的なものというのは、それは先ほど渡辺写真協会会長もおっしゃっていたように、職務著作ないしは法人著作が非常に多いわけです。新聞社のカメラマンがとった、雑誌社のカメラマンが商売でとったというものが非常に多いのです。そういうものは、少しでも早くこういうふうになったほうがよろしいんではないかというふうに思っております。  次に、時間がなくなりましたので急ぎますが、第三十九条にありますのは、先ほどちょっと申し上げましたが、無断転載ができるわけです。これは不当に拡大解釈される危険性が非常にありまして、実は現実に幾つもそういう例がすでに起こりました。それをそのつど食いとめをしておるのですが、ときにこの法案を振り回されますと非常に困る場合があるのです。これは現行法もそうなんですが、現行法よりも、改正法案の三十九条はさらに拡大解釈される危険性を持っておる。現行法は政治上云々しかないのですが、今度は新聞、雑誌に掲載された政治上、経済上、社会上の時事問題に関する論説となりますと、これはほとんどのものが含まれてしまう。しかもこの条文でいいますと、全文ですらとり得る。署名原稿でもとれる。現実にそういうことを商売にしている不徳の者がおるわけでありますが、こういうものは、やはり少なくとも署名原稿までかってにかっぱらわれたんじゃかなわぬじゃないか。著作権保護もへちまもないじゃないか。特にこれには転載を禁ずる旨の明記なきときは、というクローズがついておりますけれども、現行法で、現在の著作権思想において、そういう何かしるしをつけておかなければかっぱらわれてもしようがないんだよというのは、時代錯誤もはなはだしいのではないかというふうに思うのです。ところが、事情を承りますと、最初新聞協会がこの条文を支持したという事情があったわけです。ところが、新聞協会では、もちろん報道はなるべく幅広く報道したいという観点からばかり考えまして、拡大解釈されて起こる不当に利用されるところを考えなかった。それで私が実は雑誌協会を代表してまいりまして、新聞協会と話し合いまして、こういうこともあるんだといったらびっくりしまして——きょう実は新聞協会の方がお見えになると思っていたのですが見えないのですが、この問題を一緒にやろうということになりまして、これはいかぬということでわれわれのほうに新聞協会は同調してくれました。ですから、このかつての理由であったということになっております新聞協会がこの条文を支持したということは、現在においてはございません。これはほんとうを言いますと、私から申し上げるのじゃなくて——実は私新聞協会のほうも、若干新聞社にも私は関係があって、二またと同じなんですが、聞いていただけばわかると思います。あれはしかし協会のほうからもたしか要請書みたいな形で出ているんじゃないかと思っております。ですから、これに対しましては、新法案も他の新聞紙もしくは雑誌に転載使用を認めていますが、これを公正な慣行に合致する形式で、つまりほかの署名原稿の引用は困るとか、いろいろな著作権の制限があるわけですから、自由利用、フェアユースというものがあるわけですから、それと同じような形で通用するような、社会通念においても通用するようなりっぱな転載のしかたであり、同時に署名原稿までやるのは、これは非常な著作権無視に通ずるわけでありますから、そういうものを織り込んだ条文にぜひ御修正を願いたいと思います。  たいへんかってなことを申し上げましたけれども、その二項に尽きますので、ひとつよろしく御審議の上、ぜひ今度の国会では、ずいぶん長くもう宙ぶらりんのままでおりますから、著作権法を成立させていただきたい、かように考えます。どうもありがとうこざいました。(拍手)
  12. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 以上をもちまして参考人の御意見の開陳を終わりました。  質疑の通告がありますのでこれを許します。川村継義君。
  13. 川村継義

    ○川村小委員 参考人の皆さん方には、たいへん御多忙の中をおいでいただきまして、貴重な御意見をちょうだいし、ありがとうございました。他の委員方々もおそらくお尋ねしておきたいというお考えがおありでございましょうから、私、一言二言お尋ねをしてまいりたいと思います。  まず、美作参考人にちょっとお尋ねしますけれども、あなたからこの翻訳権十年留保の問題についていろいろと御意見をいただきました。これは前々からも問題になっておったのでありますが、大体お考えはよくわかるわけであります。ただ、あなたのことばの中で、私の聞き方が少し悪かったかもしれませんが、国内と国外の場合を考えたときに、相互主義のたてまえになっておらぬ、相互主義でない、こういうことをお話しになりましたが、その辺のところをもう一ぺんひとつ御意見をいただきたいと思います。
  14. 美作太郎

    美作参考人 きょう資料を持っておりませんので、確実なことは資料に即しては申し上げられませんけれども、御承知のように、著作権法国際的には相互主義原則でやっております。それで、十年留保につきましても、相互主義が行なわれて、そうして日本で十年留保ということであれば外国でも十年留保である、外国日本の本を外国語訳する場合でも、やはり十年留保を適用できるというふうに、私どもは不覚にも考えておったわけでございます。ところが、先年のストックホルムの修正会議ではっきりその点が確認されているわけでございます。それは、この十年留保については相互主義は適用しない、日本外国のものを翻訳するときには十年でいいけれども外国出版社日本のものを外国語訳するときは普通の著作権保護期間によってやるということが、確認されているわけでございます。その点を申し上げたわけでございます。もし相互主義が行なわれますと、これは先ほど申し上げましたように、日本の著作家のものがどんどん外国語訳がされる機会がふえてまいりますと、それだけ日本の著作家の保護が薄いということになりますけれども、さっき申し上げたような理由から、そのおそれはないということを申し上げたのであります。
  15. 川村継義

    ○川村小委員 著作権者の立場で考えますと、日本外国語著作物を十年間の留保期間が過ぎたら、これは自由に翻訳をしていいということに、現行法でなりますね。とすると、日本著作者外国に行った場合には、外国の国によって違いましょうけれども、そうはできない、あくまでも著作権を大事にするという立場で翻訳に対する許諾等が行なわれるということになりますね。そうなりますと、著作権者から見ると、外国のほうがそれだけ権利保護されている、こういう見方にはなりませんか。ちょっとその辺もう一度……。
  16. 美作太郎

    美作参考人 御質問の趣旨がよくわからないのですけれども外国著作権者のことでしょうか、日本著作権者でしょうか。
  17. 川村継義

    ○川村小委員 いま私は、日本著作者の皆さんの立場でそのことをお尋ねしたわけです。
  18. 美作太郎

    美作参考人 日本著作者につきましては、相互主義が適用されない限り、著作権法保護がほかの著作権と同じように翻訳についても行なわれますので、著作権者保護されるということになるのじゃございませんでしょうか。
  19. 川村継義

    ○川村小委員 ちょっと不明確でございますけれども、それじゃ済みませんが、この機会にちょっと次長にいまの点についてお尋ねをしておきます。あとまたお尋ねします。あなたの考え方をあわせてお聞かせいただきたいと思うのです。日本には、現行法で翻訳権十年留保ということがあります。それから今度の新法でそれがなくなっておるのですね。わが国ベルヌ条約のローマ規定に参加をしておる。ところが、わが国がローマ規定に参加したときには、この問題については留保しているはずですね。留保して現行の翻訳権の十年留保をずっと守ってきたんですね。それが今度の新しい法律では、ワクをはずした、その辺のいきさつ。それからいま私が美作参考人にお尋ねいたしましたわが国著作権者著作権保護という立場から見ると、一体それがどう評価されるのか、その辺をあわせてあなたのほうからちょっとこの際お聞かせいただきたい。
  20. 安達健二

    ○安達政府委員 最初に相互主義の話が出ましたので、それを念のために御説明させていただきますと、先年ストックホルムで開かれましたベルヌ条約改正会議におきまして、この翻訳権の問題が議題になりまして、原案では、その留保の規定を削除するという提案がなされました。それに対しまして、日本といたしましては、それは従前からの既得権である、そしてそれが条約改正によって行なわれるべきではなくて、その翻訳権留保の制度によらないというようなことになることをするのは、むしろそれぞれの国の自主的判断においてなすべきであるから、この規定はなお維持すべきであるということを発言いたしまして、それによってこの規定が存続することになったのでございます。当時からすでにこの問題は、審議会の答申では放棄すべき時期に来ておるという話でございました。しかしながら、これは国会において十分審議をされるべき問題であるから、にわかに条約改正によってその規定を削除して、それによって留保ができなくなるのは、それぞれの加盟国の自由意思を阻害するものであるという観点から、その規定の存続を主張したのでございます。その結果存続されたわけでございますが、その際イタリアから提案がございまして、相互主義の規定を入れるべきであるという提案がございまして、その提案が入れられたのでございます。その際、従前から留保をしていた国に対し、新しい相互主義の規定が適用されるかどうかということにつきましての解釈といたしまして、相互主義原則は当該留保をすでに利用している同盟国に関しては適用することはできない、日本のように昔からこういう規定を適用している国については、相互主義は適用できないのだという原則が確認されたということが、先ほど美作参考人からおっしゃった内容でございます。  具体的に申しますると、日本の、たとえば丹羽先生のものがフランスで翻訳されるという場合において、もしも丹羽先生の著書がフランスで発行されて、フランスにおいて十年たった後、フランスは丹羽先生の小説をフランス語に自由に翻訳できるかどうか。逆に、向こうは十年留保の規定をとっておるから、日本人の著作物についても十年留保の規定を適用できるか、相互主義を適用できるか、そういうことに対して、この会議の結果といたしまして、そういうことはできない。したがって、フランスについては、丹羽先生のものについても、丹羽先生の死後三十八年あるいは死後五十年まで翻訳権を認めなければならない、こういう原則が出たということをおっしゃっておると思うわけでございます。他の同盟国が日本翻訳権について相互主義を適用しないということは、それだけ日本著作物について差別待遇をしないということであるわけでございます。ただ、その点については、逆に考えますと、外国人が保護してくれるから自分のほうは自分の都合だけで切ってもいいのだというのは、著作者の尊重を基盤とするところの今度の法案の立場からすれば、やや逆行ではないだろうかという感じがするわけでございます。  そこで、この翻訳権の問題についての従来の経過を申し上げますと、審議会におきましてこれについてはいろいろと御議論がございました。一面におきましては翻訳権留保は継続すべきである、あるいはいまや日本としてはそのような制度を存続すべきではない、こういう両論の意見がありましたが、結論といたしましては、いまや世界の大勢からしてこの翻訳権留保を放棄すべき段階に来ておる。しかしながら、これは多年わが国において採用された制度であるから、この経過措置については十分万全を期するように、こういう意味の答申があったわけでございます。そのことは、理由といたしましては、このベルヌ同盟国五十九カ国のうちで、この留保を利用している国は五カ国でございまして、わが国国際的地位からしても、いまやこれを放棄すべき段階にきておる。あるいは万国著作権条約にのみ加入している国、たとえばアメリカとの関係におきましては、この規定は適用がないわけでございまして、万国著作権条約につきましては、原則として著作権保護期間翻訳権保護しなければならないということになろうかと思うのでございます。  それからまた、現在発行されておりますところの翻訳物のうちで、先ほども少し数字が出ておりましたけれども翻訳出版物のうちで、保護期間の切れているものが全翻訳出版物の中で三三%でございます。それから保護関係にない国、たとえばソビエトなどの国が七・五%、保護期間内のものは五九%ございます。そのうちで、このベルヌ条約国のもので、十年留保によるものが全体の翻訳出版物の中で二一%、それから印税を払っているものが一七%、それから万国著作権条約国のもので許諾を得て印税を払っているものが二一%というようなかっこうになるわけでございまして、全体の翻訳著作物の中で二一%くらいが、この十年留保の規定によってやっておるわけでございます。しかしながら、考え方は先ほども申し上げましたように、著作者ないし著作権者を尊重するという精神があくまでも大事である。先ほど新興国の話が出ましたけれども、いまや日本が新興国ではないということは明らかな事実でございまして、この段階においては、やはりこういうものを放棄して、著作権世界において先進国の仲間入りをすべきである。しかしながら、先ほども申し上げましたように、この制度がわが国において多年の間行なわれてきましたので、なお十年間はこれを継続しようということで、この経過措置といたしておる次第でございます。
  21. 美作太郎

    美作参考人 いまのに補充したいのですが……。ただいま安達次長からお話がありましたように、今度の法案の附則八条には、施行のときまでに著作権の発生したものについては、旧法第七条、現行法第七条を適用するという規定が設けられております。これはいまお話ございましたように、経過規定にすぎません。つまり今度のこの法案が法律になりまして、一九七一年の一月一日から施行されるといたしまして、その前日までに著作権のあるものについてはこの十年留保を適用するといたしますと、それは十年間でよろしいのですけれども、一九七一年一月一日以後にベルヌ同盟国で出版されたものについては、もう今度十年留保はものをいわなくなるわけでございます。つまり十年間というものは単なる経過規定にすぎないわけであります。先ほど私が強調いたしましたこの翻訳権十年留保の重要性という点から考えますと、単なるあと十年間経過処理としてやるというようなことではどうにもならないわけでございまして、もっと根本的、原則的に日本著作権法の問題としてお考えをいただきたいということが一つでございます。  それからもう一つ、いま安達次長から、アメリカは万国著作権条約だけに入っているから、この十年留保はものをいわないのだということをおっしゃいました。そのとおりでございます。ただ、万国著作権条約には、十年留保にかわるものとして、本が出てから七年たったら云々という一つ強制許諾の制度が設けられておりますけれども、これはほとんど実行されません。もう一つアメリカについて考えていただきたいことは、アメリカで出版されました本のかなりの部分、もうほとんど重要なもの全部といってよろしいのですけれども、それはベルヌ同盟国であるイギリスとかカナダとかで、同じ英語版として同時に出版される例がございます。これを同時刊行と申しておることは、御承知と思います。この同時刊行のものにつきましては、万国著作権条約の規定から自動的にベルヌ条約が発動しまして、そしてアメリカで出版されましても、それは十年留保がものをいうということがあるわけでございます。これは、マクミランなどはロンドンとニューヨークと両方にブランチを持っております。それからそういう両方に店のない出版社でも、お互い同士、英米の間では同時公刊について非常にたくさんの契約の例がございます。大部分のアメリカ版の代表的な書物は、ベルヌ同盟国であるイギリスとかカナダで出ている。出るとたんにそれは十年留保がものをいうという状態であることも、ひとつ御留意いただきたい。そういう点からひとつよろしく御考慮をいただきたいと思います。
  22. 川村継義

    ○川村小委員 出版協会の立場から、美作さんからいろいろ御意見をいただいたことはよくわかります。  そこで、皆さん方の御意見をというと時間がかかりますから、申しわけありませんけれども、創作家の立場から、著作者の立場から、丹羽先生、いまの翻訳権十年留保について、あなたのお考えをちょっと聞かせておいていただけませんか。
  23. 丹羽文雄

    丹羽参考人 文芸家協会は、十年留保はもういけない、五十年だというふうに意見が固まっております。先ほど書籍出版協会美作君のお話を聞いておりますと、これはやはりあくまで利用者側の話でして、私たちの言うのは著作権者の話でございまして、どうしても食い違いがございます。書籍出版協会文芸家協会とは密接な関係がございますので、けんかしちゃ困るのですけれども、こういう肝心なことですから、はっきりさせたいと思うのです。  私のものが英国やフランスで翻案されております。これが向こうでは、向こう保護年限五十年でちゃんと著作権を守ってもらっているのです。ところが、向こうのやつだけは十年間では、ちょっとこれは考えても矛盾していると思うのです。十年保留ということは、日本が後進国であったときに、世界著作権の会合に行って、そうしてやっと十年保留ということをかち得た。その当時は十年保留ということは非常な意義があったと思うのです、日本の文化のためにも、出版業界のためにも。しかし、それはもう今日では古い昔のことになっておりまして、著作権者としましては、自分のものが外国外国の五十年できちっと保護されているのに、外国のものを翻訳して十年でいいとなると、これはお金の問題じゃなくて、著作権者の一種のプライド、というと変ですけれども、プライドの問題にもなると思うのです。向こうでそれほど尊重されるのであったら、こっちだって尊重すべきじゃないか、これは損得の問題じゃないと思うのです。これは著作権者の正直な気持ちだと思うのです。日本もこういう国になっておるのですから、五十年というのは当然じゃないかと思うのです。審議会の空気もほとんどそうでしたが、ただ十年留保というのは歴史的なものになってしまっただけで、その点では過去においては業績があって十分尊重するけれども、今日は通用しない。これはもう私がものを書きます立場から、著作権者として、相互的に、自分のものが五十年保護されるのであったら、向こうのものも五十年保護すべきではないか。先ほど安達次長からの話でも、そういうようなのは二一%ぐらいのものですから、書籍出版協会はそんなに十年留保にこだわる必要ないと思うのですが、おそらく書籍出版協会の中でも、これは五十年しょうがないんじゃないかというような空気になっているんじゃないか、私はそういうふうに考えております。一応利用者としてはこれを主張しなくちゃならなかったのじゃないか、私はそう考えております。
  24. 川村継義

    ○川村小委員 次に、鈴木参考人にちょっとお伺いしたいと思うのですが、あなたの御意見を賜わっておりますと、写真家協会渡辺さんの御要望、お考えとはずいぶん隔たっておるのでありますが、あなたのお話の中で、この写真というものを、つまり大事に、いわゆる保護すべきものと、そうじゃなくて、何か雑報というか、雑物みたいな——これは失礼ですけれども、そういうものもあるのだから、区別をして取り扱ったらどうかという御意見があったのですが、その辺を区別する基準というものは、一体可能なんでしょうか。どこからどこまでが五十年保護する、いやほかのやつはそうしないでいいというような写真創作、創作という——御意見でいうと、どうも創作にならない部面もだいぶあるようですけれども、写真のそういう区別が一体可能なのかどうなのか、どこに基準を引くのか、その基準というものを求められるものなのかどうなのか、ちょっとお考えがありましたら聞かせていただきたいと思うのです。
  25. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 御質問いただきましてありがとうございました。先ほどは持ち時間がなくなりかかったものですから……。  その前に申し上げますと、われわれいままで写真家の著作権に対しまして、実はもっと短いものを主張しておりましたんですが、今回死後二十五年ということを言いましたのは、当然認めるべきものであったならば、死後——死後でなければいかぬ。これは実を言いますと、従来よりもかなり大幅な延長になります、現在公表後ですから。たとえば渡辺さんは、失礼ですが私よりもだいぶ先輩でありまして、渡辺さんのおとりになった、たとえば古美術の写真なんかも、切れているものもずいぶんある。そういう人はずいぶんいるわけなんです。岡田紅葉さんのあの有名な富士の写真なんかも、もう切れているのがずいぶんある。どうせ認めるならば、当然死後であるべきである。ですから、ほんとうは思い切って死後五十年といきたいところなんですが、先ほど私がるる申し上げましたように、若干特殊性がございますので、五十年ではやはりちょっと……。多少違ったものがあるのだから、二十五年ということを申し上げたわけでありまして、それを補足しますと同時に、ただいま川村さんがおっしゃった立法的な、これは立法技術の問題だと思いますが、これはいままでもたいへん問題になったところでございまして、一番いいところをお突きくださったと思うのです。これはいろいろむずかしい点もございましょうけれども、私は一つの案としましては、制作時の目的、撮影時の目的、これはやはり芸術は芸術なんですから、その場合に、いろいろな作製の動機とか、モチーフとか、いろいろなものがあると思いますが、その主たる目的が時事報道であるとか、そういうことによってかなり一つの分け方ができるのじゃないか。これは私の一つの案にすぎませんので、文化庁には日本著作権界の至宝ともいわれる安達さんとか佐野課長とかおられますので、そちらのほうはその名人のほうにおまかせしてはどうかというふうに考えております。私の考えておりますのは、やはり一つの制作の動機、目的、新聞社のカメラマンは、もちろんこれは報道するために火事場へ行ったり、殺しの現場へ行ったりしてとってくるわけで、これは目的がはっきりしております。雑誌社の場合もそうであります。ですが、たまたまその結果が、報道写真でありながら芸術くさい——といっては悪いんですけれども、一見芸術風のものができる場合もあります。ロバート・キャパがよく引き合いに出されるわけですが、キャパが芸術写真をとりに行った場合もあるでしょうし、明らかに戦争を写しに行って、報道しようという意図で行ったものと、いろいろあると思います。そういうふうな動機で分けるのも一つの案ではなかろうかと、これは絶対ではございませんし、また立法技術の専門家のほうにおまかせしていろいろうまい方法を考えていただけばいいんじゃないか、かように考えております。
  26. 川村継義

    ○川村小委員 ありがとうございました。私一人では恐縮ですが、文化庁次長丹羽先生から実は五項目ばかり指摘になっております。三十三条二項の教科書許諾の問題、それから盲人点字の問題、それから三十一条の図書館定義をしっかりせい。会社などの図書館まで利用されたら困る。それから六十八条の問題。それから題名保護の問題。大きく大体五つばかり御指摘があった。これについて実は参考人の皆さん方がいらっしゃる前であなたのお考えをあわせて聞いておきたいのですが、これは時間がございませんし、ほかの委員の方もいろいろ御質問があると思いますから、またいずれかの機会にいまの五項目についてお聞きしたいと思いますから、ひとつよろしく考えておいていただきたい。お願いしておきます。終わります。どうもありがとうございました。
  27. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 山中吾郎君。
  28. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 非常に参考になる御意見をいただきまして、ありがとうございました。川村さんの御質問にダブらないようにごく簡明に、次の審議の参考にしたいと思います。  丹羽先生、六十八条の中で強制許諾ということばが使われておるということを言われたのですが、六十八条には強制許諾ということばがないので、誤解のないようにもう少し御説明をいただきたいと思います。六十八条ですね、裁定の意味ですか。
  29. 丹羽文雄

    丹羽参考人 私ちょっと失礼しました。ことばは使ってないのですけれども、この法文を読むと、強制許諾にとれるのです。私たちの間では、あれを強制許諾として解釈して、それで文句も言っておったわけなんです。そういう意味です。
  30. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 強制許諾ということばを法律で使っているように御説明になったから、ここで訂正しておかないと……。おそらく協議がととのわないときに文化庁長官の裁定によって許諾をすることには困る、そういう御意見ですね。
  31. 丹羽文雄

    丹羽参考人 そういうことです。
  32. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 いま川村委員から指摘がありましたが、丹羽先生のほうで、教科書問題、盲人関係、図書館等、それから六十八条のこの裁定許諾ですか、それから題目の保護、特異の人物名も入れたらどうか、全部もっともな御意見で、著作権保護という思想からいったら常識だと思って、頭にすっきり入ったわけなんです。この部面について、皆さんのほうで、この法案審議について、私らはまた自主的に審議をしますけれども、御要望の程度が非常にやわらかいお話でしたので、著作権者の立場から、もう少し簡明に御意見を参考に聞いておきたいと思うのです。
  33. 丹羽文雄

    丹羽参考人 どうも文学者というのはこういう法律文書がとても苦手でして、一ぺん読むだけではわからぬということがございまして、事実非常に関心の度が薄いのです。ところが、文芸家協会でいろいろな部門がございまして、著作権の部門もございまして、そういうところの者だけでもしっかりしておかないと、会員から質問されたときに非常に困りますので、本日もこういうところだけはもう少し直していただいたらどうか、はっきりした文章にしていただいたらどうかということを要望したのでして、七百五十名の会員がおりますけれども、そういう点になりますと、全部協会の理事会にまかしておりまして、何か不都合が起こると私たちがしかられるのですが、みんな信頼をしておるのです。そういう意味で、私たちだけでもその点をはっきり知っておきたい。で、そういう文章なんかも、もう少しはっきりとした文章に直していただきたい。ですから、理事会というのは、協会の代表的な機関でして、理事会の考え方が全部の協会の会員の考え方に通じておるわけでございまして、今度の問題でも、そうこまかいところを会員全体が知っておるわけじゃないのです。また第一、こういうものを文として送ったところで、読みはしません。また、何か自分に問題が起こると、書記局に電話がかかってきて、ここはどうなっておるか、どうなっておるかと聞く、そのときそのときに問題を処理していくというような調子で、いずれすっかり私たちにまかされておるような状態なんです。どうも昔から文士というものはそういう悪い習慣がございます。
  34. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 次に、写真のことについてお聞きしておきたいと思うのですが、鈴木先生のほうからでしたか、写真というものの芸術性そのものが一般の著作物と比べてやはり血が薄いということをお話しされたのですが、そうすると、その保護の方法その他が変わってくるので、非常に大事なことだと思うのです。そうでなくて、いままでの保護の程度を急に高く保護するという過渡期の一つの問題もあるし、それから、写真の中にある程度区別をすべきものがあって、そこで、最初から死後五十年にすべきであるけれども、過渡的には一定の暫定的な規定になっているということが正しいという考えか、最初から、芸術性が違うから別な薄い保護ですべきかということは、非常に大事だと思うのです。そういうことが鈴木さんのお話のほうから耳にしっかり入らなかった。これについて写真の関係の渡辺さん、あなたのほうから、写真の芸術性そのものについて、もう少し明確にひとつお話をしておいていただきたいと思うのです。そうして、いわゆる著作物として、人間の精神的産物として、同一の保護というものを思想としては確認できるかできないか。そのあとに具体的に、法律ですから、現実に即して立法技術上どうするか。あるいは国際関係もありますので、われわれはそういう立場でいろいろ検討するので、いま写真のことについて、私がお聞きしておるときに一番問題になったのは、写真という著作物が文芸作品その他と質的に違うのだということをもし前提にお話があったとすれば、非常に審議の過程が違ってくる。その辺、鈴木さんと渡辺さんの御意見を聞いておきたい。
  35. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 お答えします。いまの問題もかなりものさしのっけ方がむずかしいわけですが、たとえば写真の中にも、一般芸術と少しも遜色ないものも、当然あると思います。ですから、われわれが、少なくとも現状のあれでは、この間までの公表後十三年なんかではまことにお気の毒にすぎるといって、死後といったのも、そこに理由があるわけです。著作者が生きている間に著作権がいつの間にかなくなってしまうのは、とんでもないことでありまして、これはまことに残酷むざんなる話で、そういうものはやはりいけません。われわれは、著作権を使用する立場におりますけれども、いってみれば同業者みたいなものでありまして、仲間ですから、そういうものも当然認めるべきものは認めたいし、また認めなくちゃいけないものもあるのじゃないか。  ただし、写真というものは、特質が若干ありまして、先ほどもるる申しましたが、多様性、メカニズムにたよる、依存度がかなりあるとか、そういったものがあります。同時にたくさんのものが作成できるというものがありますので、そういったものまで十ぱ一からげに、写真といえば何でもかんでも同じ芸術であるというふうには、根本的に考えておりません。ですから、根本的に芸術と同一視し、全くほかの一般芸術と同格に扱ってよろしいものもあるのじやないかということは私ども考えておりますが、それが全部であるとは決して思わない、その点が一番の問題だろうと、私は思います。  いまの問題で、先ほど申し上げたボーダーラインが非常に不明確であるということは、実は写真に限らず、ほかの著作物にも常にあることでございまして、これは結局裁判になった場合に、裁判官の最後の判断によってきめられるというような形になっております。それは、ほかのものでも、一般著作物の中にも、ボーダーラインのあいまいなものは、あげろと言われれば時間がありますれば幾らでも言いますけれども、たくさんあることは、この専門家がここにおりますから、お聞きになればおわかりになると思います。そういうことですから、これはやはり何かのものさしを一つつくって、あるいはイタリア法というものも一つありますので、そういうものも参考にし、あれがベストとは思いませんが、立法技術の専門家並びに優秀なる国会議員の方々の御頭脳で、うまいものさしを見つけていただくことをわれわれは非常に期待しておるわけであります。われわれの言わんとするところは、とにかく芸術もあるし、そうでないものもあるし、多少芸術性があっても若干制限し、共有し、国民に対して還元すべきものは、早く返してあげたほうがいいのじゃないか。新聞のあれと同じじゃないか。新聞記者が記事を書くときに、全然無神経に書いているわけじゃありませんので、あれはやっぱり思想もあり、感情もあり、創作的な態度もあるわけです。そういうものでも、公有すべきものは喜んで公有に応じているというのが現状であります。社説なんかはそうですね。社説なんかも、みんなオープンになっておりますけれども、あんなに思想もあり、創意性もあるものはないと思います。そういうものでももちろん出してあるわけですから、そういうものとの、バランスから考えても、ということをわれわれは言いたいわけであります。
  36. 渡辺義雄

    渡辺参考人 先ほど私はちょっとことばが足りないことが多々ありましたので聞き苦しかったことと思いますが、ただいま芸術性の問題について御質問がありましたが、芸術性の高さ、低さは、文学においても、美術においても、なかなかきめがたいことだと思います。かりに美術の世界で、これは名画だ、傑作だと言われるものは、どういうふうにしてきめられますか。これは時間でございます。どこの美術館におきましても、たびたび秘蔵品を展示をいたしますけれども、その際に多くの人たちがそれを見、あるいは専門家がそれを見、評論家が見て、これはいいというような判断が毎回ふるいとなりまして、だんだん残っていくのが名画であり、傑作であろうと思います。こういうことでないと、実際には容易にその瞬間で判断をするということはできません。たとえばコンクールのような場合がありますと、そこで多少技術的な面とか、あるいはその着想とか、その主題のあらわし方の表現技術の面とか、いろいろな点から、これはよかろう、これはやめておこうというようなことはあります。しかし、これは絶対的な意味の評価ではございません。その場で何らかの点数を選ぶためにやむを得ずやられる一つの方法でありまして、必ずしもそれが絶対でないことは、落選の作品が他の展覧会に出品されることもございます。そういう例もございますから、何ごとにつけても、まず芸術的な作品の場合は、時間がそれをふるいにかけていくというふうに私ども考えます。  それからもう一つは、先ほど、目的によってある一つのふるいができるのではないかというお話がございましたが、かりに新聞の用のためにとっさにとって発表をします。しかし、それは時間がたてばたつほどまた光を増すというような作品もあって、ついにはニュース写真であったけれども、いつの間にやら芸術的効果のほうが高くなり、人の感動を受ける、称賛を浴びるというような事例は、数々ございます。したがって、芸術性の問題について甲乙をつけることは、この審議会のどのような方々においてもとうてい困難なことではないか。ましてや法律でもってそれをきめるということは、きわめて困難なことではないかと思います。したがって、私ども著作権という問題については、自然と利用価値によってふるいがかけられるのだから、一応同じように著作権を与えても、自然とそこに効果があらわれるというふうに私どもは考えているわけでございます。
  37. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 写真は非常に悩みの多いわれわれの審議のテーマなんですが、いまのいろいろな御意見を参考にして、大いに悩みながら審議をさせていただきたいと思います。  最後に一つだけ、これは和田さんですか、非常に頭に残った問題ですが、著作権人格権の帰属と財産権という所有権の帰属は、常識的には一つ著作物が移譲されれば、人格権ですか、それもすぐ移譲したと錯覚を起こす者が多い。それで所有権が移転をしても、その人格権は移転をしないんだというのだけれども、一般の人はそれを誤解をして、何か芸術作品を買えばこの著作権も買ってしまったんだというふうにみんなが考えておるので、芸術作品の所有の移転はそういう移転を含まないということをどこかに規定をしてほしいという御意見に聞こえたのです。私らがもっと勉強すればいいのですけれども、この法案のままでしたならば、いまあなたがおっしゃったように、著作物の所有権が移譲されたときには、あなたのおっしゃる著作権というのですか、それも移譲することになっているのですか。どういうことなんですか。
  38. 和田新

    和田参考人 お答え申し上げます。先ほどの私のお話はちょっと行き届かなかったと思いますが、御承知のように、美術著作物は、所有権が移りまして、所有者の財産になるわけでございます。ところで、人格権も移動するかというふうな御質問がいまございましたけれども著作権と広くいわれるものの中で、著作者人格権とそれから著作権というものと、はっきり区別することを今度の法律では明確にしておられます。それで人格権はどのような場合でも、かりにほかの著作権が移動した場合でも、人格権は最初の著作者の一身に専属して、譲渡することも相続することもできないということが明らかにされておりますので、私が申し上げましたのは、著作者人格権は当然移動しないものとして、それ以外の著作権、つまり複製権であるとか、展示権であるとか、放送権であるとか、そういったものを含めて著作権とされているわけでございますが、その著作権は所有権とは別の権利でございますから、美術作品がある人の所蔵になったとしても、著作権、つまりこれを複製したり放送に使ったりというようなことは、著作者以外の所有者がかってにすることはやはりできない。現行法では詳しいことは書いてございませんけれども、複製する権利著作者が専有するということが書いてあるだけでございますので、それはその趣旨を適用して、事ごとにわれわれは当たっているわけです。もちろん今度の法律にも著作権著作者が専有するということが書いてございますし、その点は変わりはないと思うのでございますが、ただ所有権という民法上の一つ権利、これは著作権とは当然別なもので、言うまでもない、法律家には問題ないことだというお考えから、おそらく新法の中にそういうことをお入れにならなかったと思うのであります。著作権ということをよく承知している者ならば、当然所有権が移っても著作権はそのままでは移っていないんだ、もし移るとすればやはり著作権譲渡の契約が必要だということを理解できますけれども、一般のしろうとは、そういうふうにどうも理解しない。しかも出版などを手がけている人たちが、やはりそれを理解しないで、作品を買い取ったんだから、これを複製することは自分のほうの自由だという理屈をつけて、そして作家のほうの抗議に対して反論してくるというのが、現在の実情なんであります。それでたまたま今度の法律に、現行法にもございますが、著作権は、その全部又は一部を譲渡することができるという法文がございまして、当然著作権一つの財産権として著作者から他の者に譲渡する。そうすると、譲渡を受けた者が著作権者になる、これは当然のことでありますが、それをしない場合は、かりに美術の原作品を譲渡して、他人がそれを所有するようになっても、そのままでは著作権は原著作者に残っているというのが、法律上の解釈であろうと思いますし、今度の法案もその趣旨でできていると考えるのであります。ただ、しろうとにわかるようなそういう条文をどこかのところに一つお入れくださることをお考え願えれば、これがたいへん誤解を避けて、将来の問題の解決の上に一番確かなものさしになるというふうに考えます。と申しますのは、私どもがしょっちゅう扱っております美術著作権のトラブルについて、そのほとんど九〇%くらいまでは、やはり所有権と著作権との混同からきている場合が多いのであります。たとえば、いま戦争当時の戦争記録画の複製を無断でつくって不正出版したある画集をつくった本屋がありまして、これは全く著作者の承諾を得ないで、過去に発行された絵はがきとか図録とかいうものからかってに複写をして、そして九十人ばかりの作家の作品を無断で色刷りもしくは白黒の大きな図版にして発行したために、その中の大ぜいの作家の代理として、美術家連盟が訴訟に持ち込んで、いま訴訟審理中でございますけれども、その先方の言い分は、あの当時の作品は全部国家に献納されたものである。陸海軍に献納されたものである。そうすれば、画家の著作権も当然一緒に陸海軍に帰属したはずである。そして陸海軍は敗戦で滅亡してしまったので、もはやその著作権はなくなってしまっているのだ。だれが使ってもかってではないか、こういう反論をしているわけです。裁判所はそのような暴論を取り上げられるとは思いませんけれども、いまそういう対立を生じている。そういうことも、所有権が移っても、著作権譲渡契約がなければ著作権は依然として著作者にあるのだということが、どこにも明文がないために、かってなそういうこじつけをするというふうにわれわれは考えて実は困っておるわけでございます。大体そういうことでございます。
  39. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 わかりました。そうすると、この法案でも、あなたのおっしゃるとおり、所有権の移転は著作権の移譲にはならないのだという注意規定をどこかに書いてほしい、実質は同じでも、それがないと、こういう紛争が起こるのだ、こういうことですね。
  40. 和田新

    和田参考人 そういうことです。
  41. 山中吾郎

    ○山中(吾)小委員 終わります。
  42. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 小林信一君。
  43. 小林信一

    ○小林(信)小委員 私がお伺いしようと思ったことを前の質問者が大体消化していただいておりますので、二、三残された問題をお聞きしてまいりたいと思うのですが、これは審議の技術的な問題ですが、皆さんがひとしくこの法案が宙に浮いているから今回はぜひ片づけろというふうな御意見でございました。しかし、その宙に浮いたというのは、そんなことはほんとうは言えないことなんです。どちらかというと、利害相反する立場の、きょう御出席なさっておる皆さんの事情が食い違っておったために、このような状態になっていたのではないかと思うのです。もちろんそういうことに拘泥せずに政府は政府の所信を明確にして、そして私ども審議というものを受けるべきだったのでしょうが、しかし皆さんこれまた異口同音にだいぶ文化庁の次長その他をほめておいでになるのですが、次長は、法案をつくるということよりも、皆さんの利害関係をいかに調整するかでかなり苦労したと聞いております。したがって、この法案というものは、著作権という本来のものを全うしておるということよりも、いかに安達次長が皆さんの御意見を調整することに苦労したかということを表明しておる法案だともいわれておるわけなんであります。宙に浮かしたのはほんとうは皆さんであるということも、十分御認識を願いたいと私は思うのですよ。そういう調整役を買って、うまくそれをやったから安達次長がほめられておるとすれば、私どもとすれば実際は心外なんです。もっと著作権本来のものを——世紀の法案といわれておるのですが、法案が通れば、これはもう簡単に動かすことはできない。相当長期にわたって皆さんの利害関係というものをこれは決定づける問題だと思うのです。したがって、いままで皆さんが長期間この問題で御心痛なさったということも、これは皆さんだけの問題でなく、将来の問題についての御苦労であったということで敬意を表しますが、しかし、よく問題の焦点というものをこの際明確に御認識願いたいと思うのです。  そこで、今回はどうでも通せ、こういうふうな御意見でございますが、しかしまたその中にさまざまな意見をお持ちになっておいでになりますが、皆さんのお持ちになっておるこの点が、こうしてもらいたいというものができなければ、しかたがない、今回はこの法案を通すことに全力をあげてほしいというのか。本来これは聞くべき筋じゃないかもしれませんが、一応そういうことを言われたから、私はこの際聞いておきたいと思うのです。最初の丹羽先生は、多少苦情はあるけれどもこれでいいわというようなお話の傾向なんですが、しかし、文芸家協会の皆さんからいままで私どもが聞いておった点では、第一条の目的はけしからぬというふうな強い御批判があったように聞いておるのですが、いつかそれはなくなったのか。法案を通すために、この際は残念ながらそこのところはがまんするというのか、お伺いしたいと思うのです。
  44. 丹羽文雄

    丹羽参考人 今度の法案は、大体——というよりも、八割方賛成です。それで、私たち文芸家にとって、今度の法案は正直に言って完全無欠なものではございません。先ほど私は四つか五つ、ここをちょっと直してほしいということは申しましたけれども、しかし、私たちの多年の念願が一応達せられるから、ぜひ今回通していただきたい。と同時に、私が先ほど申しましたように、ビデオテープとかカセットというような、こういう複雑な著作権を扱う時代になってきておりますから、こういうものが一つちゃんとないと、この新しい時代に対して対応策がちょっと立てられない。そういう意味でも、ぜひともという気持ちなんです。  この第一条は、先ほどもどなたかおっしゃいましたが、「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ」、これはとってほしいというあれなんですけれども、この「公正」ということばが非常にあいまいだというのです。文字のことには、ほかの社会と違いまして、専門家がみな集まっておりますから、それぞれこだわりまして、いろいろな意見が出まして、中で一番先鋭な、強烈な意見を出したのは石川達三ですけれども、私はどちらかといえば妥協的で、それほどことばにはきびしいあれはしないわけなんです。それで、いずれまた石川達三を呼んでお聞きになるだろうと思いますが、あれが来ましたら、全面が否定的な意見をひょっとしたら申すかもわかりません。しかし、石川達三にしても、今回はこれはいいんだからぜひとも通してほしいという希望を持っているのです。ただ、文芸家協会にとって、今度の法案が全部気に入ったというわけではないのです。いいことはいい、この点は感謝したいけれども、この点はちょっと理解できない、そういうことを正直に申し上げたいと思います。四カ条、五カ条申し上げましたけれども、だからといってこれを否定するというのではないのです。ただ欲を申し上げただけです。
  45. 小林信一

    ○小林(信)小委員 丹波先生が冒頭におっしゃられたように、これはどっちかというと文化庁顔なしになってしまうのですが、改正に火をつけたのは文芸家協会である。しかも、その内容等も、文部省を駆使したような御一助があったように思うのです。私どももそういうふうに承っております。したがって、文芸家協会だけの丹羽先生たちの利害関係という問題だけでなく、この法案全体に対して、たとえば映画の問題とかいうような点についても、文芸家協会としてはきびしい御意見を出されておったことも聞いておりまして、その点敬意を表しているわけなんですが、その当時の御意向からすれば、この法案には、そういう点で、文芸家協会の人たちの利害関係という問題でなくて、著作権という体制の中からきびしい御意見があったように承ったのですが、だんだん丹羽先生のようなやわらかいところがあったために、いま通すことを最大の目標としておいでになるというふうな御意見を承って、多少心外なものがあるわけなんですが、しかし御意思を尊重してまいりたいと思います。  その次に、最も強力な御意見を持っておいでになるのは鈴木さんですが、写真家協会の意向というよりも、この法案に盛られております公表後五十年ですか、これを芸術性のあるものに限って死後二十五年、その他は公表後何年というような御意見があるのですが、これは、もしそのために法案が通らぬというようなことがあっても、その点を固執されるような強いものであるかどうか、まずお聞きしたいと思います。
  46. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 法案が通らなければどうのこうのと、むしろ旗をおっ立てて取り囲むというような意思は毛頭ございませんので、これは国会議員の良識にまつしかないわけでありますから、もちろんおまかせします。と同時に、われわれは先ほど利害相対立といわれましたけれども、利害じゃなくて、これは使用者と権利者というのは、ぼくは車の両輪のごときものであって、そこに著作権の価値も発生すると思っております。したがって、われわれ立場立場におきましてその権利をいろいろ主張してまいりまして、そのために、いわゆる宙ぶらりんということばがお気にさわったかもしれませんが、その原因をつくったのは、確かにわれわれの側にもあったかもしれません。が、そういうことを重ねておりますと、いつまでたっても実際一種のいわば同業者的立場にある写真家協会と角突き合っていてはよろしくないということを考えまして、従来差し上げましたわれわれのほうの主張、たとえば昨年度に書籍協会と合同で出しましたものには、写真は二十年ということをうたっております。公表後二十年ということを前にうたっておりますが、それをあえて死後二十五年——これはもう公表後と死後ではえらい違いでありますし、むしろ場合によっては新法案の公表後五十年よりもさらに延びる場合すらあると思いますが、そこまでやったのも、とにかく両方でお互いに言いたいことを言っていたのではいつまでたっても実際審議のレールに乗らないじゃないかということで、少しでも歩み寄りたい。こちらが認めるべきものは、当然幾らでも認めようじゃないか、少しでも歩み寄って審議が円滑にいくようにということで、本日私が申し上げた死後二十五年というものが出てきたわけなんであります。ですから、この結果通らなければ云々、どうしても固執するというようなことは、もちろん現状のいろいろな社会のルールからいいましても、絶対にあり得ませんので、それは国会議員の良識ある御審議にまつつもでおります。もちろん、きまった以上は、それに対してどうのこうの言う必要はありません。と同時に、安達さんをややほめたと言われますけれども、安達さんが出版界で好評さくさくたる人物であるかどうかといいますと、決してそうではないのでありまして、それはいろいろ都合もありまして私はほめたのですけれども、たとえば翻訳権の問題に関しましては、翻訳権撤廃を主張した張本人のごとく安達さんは見られまして、当時はまるでかたきのように思われたこともあるわけであります。ですけれども、とにかくこの法案のために一生懸命御努力されている。もう一つはやはり佐野課長と並んで日本有数の著作権法の権威者であることは、われわれは認めるにやぶさかではありませんので、おほめしたわけでございます。おほめした理由まで一々言うのはおかしいと思いますけれども、そういうわけでございまして、とにかく相なるべくは、やはりわれわれとしての一つのよりどころのルールでありますから、今度国会のほうも持ち時間があまりないようでございますが、とにかく皆さんにおまかせしたのですから、これで、その上で御審議いただけば十分なんでございますから、結果はもうわれわれ甘受するわけでありますから、全部御一任申し上げます。要するに、げたを預けますから、その上でよろしくお願いいたします。
  47. 小林信一

    ○小林(信)小委員 もちろん、良識というよりは、私どもの責任とか判断とかいうものでこれは決をつけなければならぬわけですが、いまのような内容が多分にあって今日まで延びてきた。それだけりっぱなものをつくって皆さんのためにもなりたい、こういう考えでわれわれは努力をしているわけなんです。  そこで、お伺いをしたいのですが、先ほど写真の問題に触れて、まず過保護だという、こういうきびしいことばを使われて、その多様性という問題からこれを論断されたわけでありますが、それは確かに芸術性の高いものもあるし、あるいは記録的なものもあるし、あるいは雑報的なものもある。多々あると思うのですね。それはおっしゃるとおりだと思います。しかし、あなたがおっしゃっておる中に、芸術性の高い、死後五十年保護しても差しつかえないものもある、こういう点をお認めになっておるように私は思います。とすれば、私はみんなと同じように五十年でいいんじゃないか。ということは、これを使用するあなた方は——大体あなた方ですが、価値がなければ、あなた方も決して使わないと思うのですよ。あなた方がこれを掲載して出版すればもうかる、そういう算段がついた場合にしか利用されないわけなんで、これは記録的なものであって芸術性はないのだといえば、それは使わないわけでしょう。単に記録というものであるなら、ほかからも利用できるというふうな場合があると思うのです。しかし、記録的なものであってもこれしかないのだ。これを入れなければ、その体制からいって、あるいはその出版物の価値からいって意味がないのだという場合には、やはりこれは認めて差しつかえないと思うのですよ。だから、全体をどうだこうだ言わずに、その中にあなた方がそれだけの価値があるものだという判断をするなら、みんなと同じように五十年を写真に認めても私は差しつかえないと思う。価値がなければ、あなた方は使わないのですから。それが著作権の本質的な問題じゃないかと思うのですよ。妙に、向こうの文化庁のほうでもって、あとのほうへ「文化的所産の公正な利用に留意しつつ」あるいは「もって文化の発展に寄与する」なんということをつけ加えるから、そういう理由が成り立つわけで、著作者著作権を認めるのだ、こういう考えになっておれば、その写真の何千枚の中に芸術性の高い、死後五十年の著作権を認めてもいいものが一枚でもあるならば、それを私は認めていいのじゃないかと思うのです。何もかも雑報にしろ記録的なものにしろ認めるといったって、利用してくれないなら価値がないのですから、そういう中で、丹羽さんたちのおつくりになるいわゆる文学も、あるいは絵画も、彫刻も、すべて私はそういう性質の中から著作権というものは出発しなければならぬものだと思うのです。私はこんな考え方で、過保護とか、写真の特性にのっとってもっと年限を低くしろとか、あるいはかつて十三年であったから、その比率からいって二十五年でよろしいじゃないかというふうなことを言わなくたっていいと思うのですがね。したがって、そこが著作権の本質的な問題になると思うのですが、鈴木さんの先ほど来の御意見を私は敬服して聞いておったわけですが、もう一ぺんその点のお考えをお述べ願いたいと思います。
  48. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 もうかるから使うんだろうということばには、いささか抵抗を感じます。出版というものは、これももし大上段に言いますれば、必ずしも銭金をもうけるためにばかりやっているものばかりではないように思います。しかしながら、おおむねそうでしょう。ですから、そこにまた利害の対立や何か、あなた方がおっしゃるようなことが出てきたわけですけれども、その価値をもって判断するということには、私はちょっと何か次元が違ってくるような感じを受けますのは、ほかのものの場合、いわゆる著作権の制限というものがございまして、小林先生御存じかと思いますけれども、フェアユースというやつですね、そういうものの場合でも、価値のあるものでもフリーになっておるものがずいぶんとあるということなんです。価値があるからないからとかということをいっているのではなくて、価値があるものであってもフェアユース、要するに社会性、公共性のあるものは早く開放しているではないですかというのが、われわれの発言の趣旨でありまして、その価値云々という発想とは、ちょっと発想が違っておるようにわれわれ思います。  それからボーダーラインの問題でありましても、その場合でも、たとえばわが国の現行法では応用美術——これは和田さんのほうの領分になりますけれども、応用美術、いわゆるデザイン的なものの場合ですね、非常に低く見られている。これなんかも非常にあいまいなわけですね、デザインに関しましては。それと同じようなものがやっぱりあるわけでございますので、そういうふうなものさしを何とかつくり上げれば、そういうものは救い得るのではないか。それから、特に社会性、公共性の強いものは、早くこういうふうにすべきである。価値云々からいいますと、たとえば新聞の社説がオープンである。あれは公に知らしめるのが目的であるから、なるべく早く開放しろ、あるいは自由に使用しろ、これが立法の精神だろうと思います。著作権法の精神というのは、そちらのほうにあるんではないかと私考えております。これはいろいろ個人的な考えが入ったり、解釈のしようによってそれぞれの立場は違うかもしれませんが、単に価値があるからだけじゃない。と同時に、また、芸術性の強いものは死後五十年でもいいじゃないかということをおっしゃいましたけれども、私は、正直言いますと、どうせされるならばそれでもいいじゃないかという気も、多分に持っております。私としては、これは個人の意見を出すのではなくて、雑誌協会の代表だものでございますから、それぞれの意見を統一したものとして発表するわけですが、差別するということは、理由——差別ということば自体がぼくは非常にきらいですが、一般が死後五十年であるのに、死後二十五ねんというふうな、値切りました理由は、先ほど何度も申し上げました、写真そのものが多様性を持っておる。若干一般芸術と違うものがある。同時に、たくさんのものが複製——複製じゃないのですね、複製ですと、もう著作権の使用になりますから。そうじゃなくて、一ぺんに何枚もあれができる。たとえば、先ほどもケネディの暗殺のときの写真の例をあげましたけれども、そういったことが他の芸術については全然ないわけです。ですからそういうもののためにも、ぜひ——これは文字の文学、あるいは絵の芸術とか、そういったものと若干違うところがあるということは、確かではないかと思うのですね。それが従来、この法律が、初めてできた日から七十年になると思いますが、一般の著作物と写真との間に何か違った扱いをずっと受けてきた根本的な理由というものは、確かにそれだけの理由があったんじゃないかと思うのです。そういうところから発したものであります。ですから、なるべくならばわれわれの主張を通していただきたいのですけれども、もし国会議員の方が御審議の途中で、これはやっぱり死後五十年にすべきであるという御結論が出たならば、これはそうなすってもちっとも、もちろんあたりまえのことですけれども、差しつかえないのでございまして、われわれそれに固執なんかもちろんするわけではございません。それよりも、なるべく早く、とにかくこの際は——途中いろんなことがございましたでしょうし、小林さんとしてみれば一言言いたいこともございましたでしょうけれども、われわれとしても、やっぱりこの場合は少なくとも成立のほうにできるだけ協力をすべきではないかという考えを持って、若干これまでの考え方も修正してここに臨んできたわけでございますから、その点はぜひ御了解いただきたいと思います。
  49. 小林信一

    ○小林(信)小委員 私も、問題をしぼって率直に解明したいというようなことから、もうけさえすればいいのでしょうというような、最近全国的にそういう思潮が、政治姿勢がそうであるために、強いんですね。これがやはり本質的なものだと思うのです。それは確かに私は言い過ぎたかもしれませんけれども、しかし、それを強く否定をするようになってきますと、出版界あるいは著作者である著述家、こういうふうな人たちも、芸術という問題とそしてこの著作権という問題では、何かそこに矛盾が出てくるわけですよ。やはりこの著作権という問題は、あくまでも著作者権利保護する、そういう財産権を守る、そういう趣旨に立っていると私は思うのです。したがって、どこかに、全面的じゃないかもしれませんけれども、もうかるかもうからぬかということが、これが公表の機会が与えられたり、あるいはそれが文化に影響をするというふうなことになったり、あるいは著作者の芸術性が高まっていくという、そういう基本的なものがあると思うのですよ。だから、もうけるということを基本にしてこの法案を考えているわけなんです。  そこで、いまの私の意見に対しまして、一番当事者である写真家協会のほうから、御意見を承りたりいと思うのです。渡辺さんのお話の中にもこの芸術性云々の問題があったのですが、そういう点から、なお写真家協会のほうからは、この法案よりももっと長期な、死後五十年という、ほかの著作権と同じような保護を受けたいという御希望が強くあるように聞いておりますので、いまのような問題から、ひとつ御意見を承りたいと思うのです。先ほどから鈴木さんのほうが挑戦的になって、渡辺さんのほうが受け身になっているのですが、この際渡辺さんのほうからももっと強い意見を出してもらって、そうして私たちに判断の材料をつくっていただきたいと思うのです。
  50. 渡辺義雄

    渡辺参考人 文化庁には著作権謀がありますが、同時に芸術課というのもございます。芸術課では毎年芸術選奨、文部大臣賞をお出しになっておりますが、美術部門の中に写真も入っております。これは創設以来入っておりまして、今年も、ついこの間発表になりましたように、写真部門の業績が買われて、大臣賞をいただくことになっておる写真家がおります。そのことから考えましても、今日美術の中で写真、書、彫刻、油彩、日本画、そういうものが区別なしに全部芸術として扱われて、その高下はないものと私どもは信じておるのでありますが、どういうわけか、法律的になりますと、著作権法になりますと差別があるということは、どうも私にはよくわからないのであります。これは文化庁のほうに私のほうから質問申し上げなければならぬのかもしれませんが、それは別問題としまして、そういう事例がありますということを申し上げて、御理解を願いたいと思います。  それから、写真をただで使おうという気持ちから保護年限を短くしたほうがいいというふうなお考えではないと思いますけれども、ただで使うということは、どんな場合でも、これは悪質な行為だと思います。かりに写真がただで使えたとすると、印刷をすれば印刷所がもうかります。またそれを売る本屋さんはもうかります。ところが、それを提供した写真、あるいは無提供で拾ってきた写真かもしれませんけれども、その写真には何も払われないという状態になるわけであります。将来もしこの著作権法が私どもの理想のように生まれた場合には、写真に対してはどういう方法をしようかということは、もうすでに私ども考えております。しかるべき機関をつくってそういう行くえを監視するとか、あるいはそういう場合に何らか文化庁できめられる音楽やその他のものと同じような料率によってそれを寄託していただいて、それを写真文化の向上あるいは日本全体の何らかの文化の向上のために使うとか、いろいろなことを考えているわけでございますけれども、当面は著作権保護期間の問題だけにしぼって運動をしている次第でざいます。  もし私どもがなるほど、なるほどと思われるようにこの写真とほかのものとの差が明確にあるということを御指摘願えれば、それならば、なるほどそうですが——今日の事態ではまだまだそこまで進んでいない、こういうふうに考えて差しつかえないと思いますが、どうもいままでいろいろあげられました例では、まだまだ納得をいたしません。先ほど私がことばが足りないために、条約の問題でも、今度のストックホルムで二十五年というふうになっておったことは申し上げませんでしたが、そのように条約で各国の国内法にゆだねられておりながらも、なおかつだんだん引き上げていこうという傾向がありますし、もちろん世界の三大写真国といわれますフランス、アメリカあたりでは、写真とほかのものと何らの差別を設けておりません、同等に扱われているということは、何よりの証拠であり、またそれに伍している、あるいは日本のほうがもっと盛んではないかと思われる写真界が、違った待遇を受けていることによって、実はアメリカあるいはヨーロッパから来る写真家から、日本の写真の保護というものが意外に低いのにみんなびっくりしているのでございます。それは皆さんはお会いになったことがないからわからないかもしれませんが、私どもが絶えずその問題で話をしますと、驚いています。何という低開発国かということになるのであります。文化の輸入国の場合は、なるほどなるべく安く、ただでも使いたいとか、安く入れたいとか、どんどん外国のものを吸収するためにそういう立法をされたかもしれませんが、今日は、先ほど日本のほうに入ってくる量が非常に多くて支払いが過大だということをおっしゃいましたけれども、実はそういうものの中には、科学の面などでは交換があったり、必ずしも金で買わないものがたくさんございます、使用されているものでは。ただ娯楽ものの中で利用されるようなものの中には、先ほどもちょっと話がありましたが、裸体その他あまり文化庁などではおすすめできないような作品に支払いをしているというような状態でありますし、なおそういった日本の作品がいまどんどん外国で使われるようになっております。一ころは占領期間中はもちろんでございましたが、その後も、その余波で日本に旅行に来れるということから、たくさんの外国人が日本に取材に来ておりますが、それも実はだんだん日本人の作品でなければならないということで、日本人の作品をどんどん使うような状況になっているわけでございます。そういうことから考えましても、私は、そこに差を設けたりするよりも、むしろ先進国と平等な待遇を受けられて差しつかえないのではないかと信じておるわけでございます。まあこれを国会の先生方が、まだ写真の世界においては開発途上の国と同じ状況日本であるという判断をされまして、現在出ておりますような法案をお通し願うとなると、私どもたいへんがっかりするわけでございまして、先ほどいまの法案はどれくらいかというお話がありましたが、私ども人格権の尊重ということも先ほど申し上げましたけれども、そういう問題も含めまして、現在のままでしたらば三割くらいしか賛成いたしませんけれども、もし写真の部面が全面的に要望どおりに実現させていただければ、おそらく七割くらいのりっぱな法案ではないか。これは人格権の問題を除いてでございますが……。それがもし私どもあるいは文芸家その他から要望のようになったとすれば、一〇〇%りっぱな法案ができるのではないかと期待をいたして、なるべく早く通していただきたい、こう思っております。
  51. 小林信一

    ○小林(信)小委員 さっき鈴木さんからシャッターチャンスだ、こういうことばがあっのですが、確かに写真というものには、軽率に見ればそういう点があるかもしらぬ。しかし、またそのチャンスをつかむために苦労する、そういうものも私ども知っておるし、また芸術性の高い、創作性のある、決して絵画や彫刻に劣らない、そういうものもあることを考えておりますし、また渡辺さんがおっしゃった明治三十二年の最初の著作権法がつくられるときに写真というものが入っておったという点から考えても、これは簡単にその差をつけるべきものではないというような意見もあるわけなんですが、なおこまかく御質問を申し上げようとしましたら、いま御注意がありまして、参考人ですよ、すでに一時を回っておりまして、もっと慎重に扱えというふうな御意見もありましたから、以上でやめさせていただきますが、もう  一つお聞きしたいのは、美作さんからのお話で、これは議員の中からもそういう強い声が出ておりますし、皆さんからもそういう意見が出てきているのですが、あなたが一番最後におっしゃった、幾ら読んでもわからぬ、まことにこれはもう適切なおことばでございまして、私も同感でありますが、ただし残念なことに、それが表現的なもので、表現方法でわからぬとおっしゃっておるのか、あるいはその内容がそのためにわからぬとおっしゃっておるのか。そこが私は聞き捨ててはいけない問題だと思いまして、内容的にこうも解釈できる、ああも解釈できる、わからない文章法案だ、こうおっしゃるならば、そういう点もお聞かせ願いたいと思うのです。もう一ぺん申し上げますと、表現方法がわからぬという単純なものか、内容がいろいろ解釈できるとか、わからぬとかいう、内容の問題に触れてわからぬ法律だ、こうおっしゃるのか、その点を最後にお聞きいたしまして終わりにいたします。
  52. 美作太郎

    美作参考人 表現が幾ら読んでもわからないという実感を申し上げましたら、それについての御質問ですけれども、これはもう単にことばの表現であるかどうかということは、問題だと思います。表現というものには必ずその表現の背後に論理がありますし、その論理に盛られた内容があると思います。それが理解できないというところに問題がある。その条文を取り上げてここで申し上げるのは、これは時間もございませんけれども、結局今度の法案の全体の中に、何かそういう論理的なもの、体系的なものにどこかにまだ欠けているところがあるんじゃないか。それをひとつ先生方で御検討いただきたい。そしてりっぱなものに、すっきりしたものにしていただきたいとさつき申し上げたわけであります。  それで、これに関連して、さっき小林委員から、どんなことがあっても今度ひとつ可決して法案を法律として通していただきたい、参考人がみんなそう思っているとおっしゃいましたけれども、私は少しばかり違います。それもさっき申し上げました参考意見の中に盛られておりますけれども、私も、また出版界も、今度法案が成立することを非常に希望しております。しかし、それはどこまでも、この法律の性質上五十年百年の非常に大きな影響力を持つものであるだけに、慎重な御審議をいただいて、そしてそれぞれの関係者の意見も十分ごしんしやくの上に法律にしていただきたい。もしそれがいいかげんなところで妥協されましたり、そして継ぎはぎというような形でこの法案が成立いたしますということは、非常に私としては残念で、むしろそれならばあと二年でも三年でも暫定延長をやっていただく。外国の例からしましても、十年ぐらいの審議期間は、これはどこでもやっているのでございます。日本でもそれをやれないはずはない。とにかくこの法律の非常に重大な影響力からしまして、それだけの心組みで今度の御審議に当たっていただきたいという点で、どんなことがあっても今度成立さしていただきたいとは、出版界は思っておりません。その点を申し上げておきたい。  それからもう一つは、翻訳の十年留保の件でございますけれども、さっき文芸家協会丹羽先生から非常に冷たいおことばをいただいて、実はがく然としたわけであります。どうしてかと申しますと、実は丹羽さんは御自分では翻訳をなすっていらっしゃいません。ところが文芸家協会や著作家組合や学界、論壇、文筆家の中には、創作もやれば同時に翻訳もやるという方がたくさんいらっしゃる。そういう方に御意見を伺ったら、さっき御報告したように、八二・三%の方がこの十年留保に賛成していらっしゃるという数字が出ているわけでございます。この点を特に御留意いただきたい。さっきの丹羽さんの御意見では、ひとつ国際的に著作権保護してやるんだから、相手に対してもうここらあたりでいいのじゃないかというような御意見ですけれども、これも私の最初の参考意見で、実はそういうことでは相すまないのじゃないかということを申し上げておきました。  それからもう一つは、どうも丹羽さんだけを引き合いに出すようですけれども、主として小説をお書きになる文芸家として発言していらっしゃる。ところが、日本出版物ではすぐ文芸出版ということが頭に浮かびますけれども、学術出版、ノンフィクションの出版の領域が非常に多いということでございます。この学術出版の中で、この十年留保ということがどんなに大きな寄与をしているかをひとつお考えいただきたい。とにかく日本が一九四〇年代から五〇年代の間に戦争になりまして、ほとんど鎖国状態。そこで、外国で出たいろいろな本がまだ翻訳されておりません。そういう特殊な時期を除きましても、その後この二十年間、最も翻訳していい、しなければいけないというものが、翻訳されておりません。これは最近のイギリスやアメリカの出版点数から考えても、御推察ができる。それを日本の国民的な立場でできるだけ有利に利用するということが、どうして先進国の仲間入りができないことになるのか、私にはどうしてもわかりません。その点もお含みいただいて、翻訳権十年留保ということを、ひとつこの際存続さしていただきたい。それも単なる経過規定でなく、ひとつ御考慮いただきたいという結論になるわけでございます。そういう意味で、決してどんなことがあっても今度ひとつ成立させていただきたいというのでなく、十分この衆議院でも御審議をいただき、また参議院でも御審議いただいて、世界に誇るりっぱな著作権法にしていただく。そのためには一年や二年の時間というものは歴史的にたいしたことではない、こう考えております。
  53. 小林信一

    ○小林(信)小委員 私の本論よりもかえっていろいろな点を美作さんから御開陳願う機会をつくってしまったような形でございますが、私もその点で実はお聞きしようと思っておったのです。確かに丹羽先生のおっしゃることも私どもにはわかりますし、また書籍出版協会の御意向というのもわかるのです。そこで、先ほど外国で支払う翻訳料が二億、日本がもらうのが二百万というお話があったのですが、それは後進国、先進国の問題ではなくて、たとえ丹羽さんがいかにりっぱな文章をお書きになっても、日本語というものを向こうことばに直すということが、非常にむずかしい、ということよりも非常に文章意味というものが表現できない。そういう点から、せっかくの丹羽さんの文章であっても、そういう機会が与えられないということから、外国翻訳する機会が少ない。日本は、そこへいくと、外国のものは簡単に翻訳できるというふうな事情があって、それも翻訳権の問題について考慮しなければならぬ点だと聞いておるのですが、もう一ぺん美作さんにその点をお聞かせを願いたいと思うのです。要するに、日本語の特殊事情ですね。  それからもう一つ。四人の方にすでにこの法案に関するお考えをお聞きしちゃったわけですから、あと一人残されております和田さんに、和田さんの立場から私の考えのような趣旨に立って法案のお考えを述べていただきたいと思うのです。その二つをお願いいたします。
  54. 美作太郎

    美作参考人 お答えいたします。翻訳ということは、私も実は出版の実務に関係しております関係でよくその衝に当たるわけでございますけれども外国語から、ヨーロッパの英、米、独、フランス語というようなものから日本語に訳しますときには、これは横のものを縦にするという非常に困難がございまして、もうこれは翻訳家の方が非常にみんな苦心しておられる。そういう点から、日本翻訳水準というものは、残念ながらまだ高いとは私は思っておりません。それを、すぐれた翻訳家を養成し、そうして外国文化を日本が摂取するという条件をもっともっとつくらなければいけないとさえ思っているわけでございます。それで、その点で最近だんだん日本国際交流が盛んになりまして、そして日本語熱というのが各国でずいぶん高まっております。そういたしますと、日本語を読む人もふえてくる。そうすると、だんだんそういう翻訳事情もよくなるということがありますけれども、現状としては、日本翻訳家というのは、もう外国では考えられない特殊な負担のもとに苦しんでいるということを申せるのじゃないかと思います。御承知のように、英語からドイツ語、ドイツ語からフランス語という翻訳事業は、外国出版界では非常に軽く見られております。その翻訳者というのは、本の一括の支払いを受けましてもうそれで済みますけれども日本では翻訳が非常に困難なもんですから、著者と同じように翻訳家は印税をちゃんともらっております。それでさえも、翻訳家の状況に決してよくはございません。この日本翻訳家の状況をもう少しどんどん高めていくということが、やはり私ども出版の関係では大事なことだし、当然翻訳著作家と私どもの協力ということを今後考えているわけでございます。そういう点からも、十年留保の問題が当然問題になってくる、こう思われます。
  55. 和田新

    和田参考人 小林委員からお求めがございましたが、私、幾つかの問題があると思います。それにお答えしてよろしいでしょうか。——小林さんの御発言になりました一つの問題は写真の問題だと思いますが、この写真の問題については、いま両側の方の御意見が出ましたが、私どもはどちらかといえば第三者。しかし、私は美術のほうを取り扱っておりまして、写真と美術とは非常に近い関係がございます。有形的な、形を持った、広い意味では造形美術の中に入る親戚関係にあると思います。それで、私どもの美術家の中には、違った考えのある人がいるかもしれません。私は、統一した美術家の意見を代表してここに申し上げることは不可能ですけれども、私個人の考えでは、渡辺さんがおっしゃるように、写真というものを区別して、そして保護年限に差をつけるということはおかしいという御意見には、賛成でございます。ただ写真が違うことは、非常にたくさんの作品が——作品と言っていいかどうかわからないような、つまり芸術家でない全くのアマチュアが記念写真にだれでも写せる。無限に写真はあるわけです。ですから、それらをすべて著作物として扱うかどうかということは、もちろん疑問がございます。しかし、これは絵画についても言えることであって、芸術的な絵画とそうでない絵画とをどこで区別するかということは、不可能でございます。したがって、絵画というものは全体として著作物の中へ取り上げられておりますが、その中には、小学校の学童のかいた絵もある、これも絵画であります。じゃ、その著作権を世間がどういうふうに取り扱うか。これは世間の自然の慣行であって、著作権を尊重すべき美術作品と、そうでない、非常にたくさんつくられる絵画に属するものと、自然に著作権尊重の違いが慣行的に行なわれる。写真の場合もそういうことが当然あると思います。で、死後五十年後になってなお価値のある作品というのは、やはり時代の時間のふるいにかけられて残ったものであろう、そういうものが著作権保護を受けるのは当然ではないかという渡辺さんの御意見、賛成でございます。  それからもう一つは、発行後五十年という考え方にしますと、たいへん使用者のほうでは不便だろうと思います。同じ一人の作家の作品が、この作品は何年につくられた、何年につくられたということを一々確かめなければ、著作権があるかどうかということがきめられない。これは非常な混乱を起こすのではないかというふうに思います。  それからもう一つ翻訳権十年留保の問題かと思いますが、その点につきましては、私は丹羽さんがおっしゃる、つまりもう日本はここで留保をやめていいんではないかという意見に賛成でございます。これは、やはり著作者権利保護する立場から、日本人の著作者権利保護すると同時に、外国人の著作者保護するという相互関係は、これはいまの条約では相互関係でなくなっているということがむしろおかしいので、当然これは国際信義の上からも相互関係があるべきだと思います。それから、十年留保ということは、日本が文化輸入国、非常に激し輸入の必要に迫られていたときのやむを得ない措置だったと思いますが、今後それを続けるということは、やはり日本一つの文化開発途上国の仲間入りをすることであるし、それから、したがって、その国では著作権が尊重されないんだということを世界に宣言するようなものであって、日本のためにとらないと思うのでございます。それからなお、学術出版などが非常にたくさん行なわれる、しかも戦後新しい研究のようなものがどんどん出ているのに、日本が自由に翻訳できないことはマイナスだという御意見も伺いましたけれども、私はそのほうは全く門外ですけれども、私の常識的な考えから申しますと、学術的の新しい研究などというものは、十年待っているわけにいかないだろうと思うのです。必要なものは、どんどん翻訳料を払って、さっそくにでも翻訳していなければならないものだろうと思います。十年間翻訳が出なかったらフリーになるというのは、日進月歩の新しい学問的著作の吸収には意味がないというふうに考えますので、つけ加えて申し上げておきたいと思います。大体以上のようなことでよろしゅうございましょうか。
  56. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 この際、鈴木参考人から発言を求められております。鈴木参考人
  57. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 先ほどいたわっていただきまして、確かに腹も減ったのですが、非常に短いですから……。本日は何か写真のことが一見対立あるいは挑戦のようにとられたのは迷惑でありまして、挑戦なんかした覚えはないので、話し合い——シャモのけんかにきたわけじゃありませんからあれですが、それよりも、実はテーマとしてちっとも売れないのですが、先ほども一番最初に申し上げました三十九条の無断転載横行の件、これはあるいは先ほどちょっとペラペラと時間なしで急に大急ぎでしゃべったので、もう一を聞いて十をお知りになったのかもしれませんが、これは非常に危険な条文でございまして、おそらく全条文の中でこれが一番どうも立法的の根拠といいますか、理由といいますか、精神といいますか、あやしいのはこの条文じゃないかと思っております。私はいまPR中なんですが、これにつきましては、昨年の七月十九日付で国会議員の全部の方々に雑誌協会から要望書を差し上げてありますので、もしかしたらファイルしていただいているんじゃないかと思いますので、それをごらん願えればわかると思いますが、要するに、野放しに転載される危険性がある。署名原稿まで転載されるおそれがある。この中には、小説はまあまあ入らぬでしょうが、とにかく何でもかんでも、署名原稿でも、しかも全文引用されるおそれがある。現行の法三十条のフリーフェアユースをオーバーした、ものすごい、何か悪い影響を持つものでありますので、これは私のお願いでございますが、まさに最後のお願いでございます、これはぜひこの機会にチェックしていただきたいと思います。ぜひどうぞお忘れなく、この分をお願いいたします。よろしくお願いいたします。
  58. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 正木良明君。
  59. 正木良明

    ○正木小委員 お昼も差し上げないで申しわけないのですが……。私は、もうごく簡単に御質問を二、三点申し上げます。すでにもう私がお聞きしたい点は先輩議員からいろいろ御質問がありまして、了解はいたしました。残された問題で申し上げたいのでありますが、まず和田参考人お願いしたいのです。  一つは、先ほどもちょっと触れられましたが、二十条に関連する同一性保持の問題でございますが、これの第三号を削除しろ、これが希望であるという御意見でございます。非常にごもっともな御意見だと思いますが、和田参考人が御関係なさる美術家の皆さん方で、もし改変されるというような危険はどのような具体的なものがございますか、それをお聞かせいただきたいと思います。
  60. 和田新

    和田参考人 最近起こりました例を一つ申し上げたいと思います。画家の中で、普通の油絵とか、素描とか、そういうものを展覧会で発表して、それがおもな仕事になっている、これは一般の美術家でございますが、そのほかに絵本、子供のための絵本とか、あるいは漫画、さし絵といったようなものをかく画家があります。これはたいへん大ぜいの方がそれぞれ熟した技術をもって仕事をしております。これは一般的な展覧会などに並べる美術と違って、直接出版につながるわけであります。この出版につながる仕事をしている画家の作品は、版の原図としてかかれるものであります。で、最近起こりましたある大きい出版社との紛争でありますけれども、ある叢書、子供のための絵本の叢書をかなり前に発行しまして、大ぜいの画家に子供の絵をかいてもらって、それを絵本にしたわけであります。御承知のように、子供の絵本ですから、彩色があり、きれいなだれにもわかるようないろいろな物語その他をあらわした絵がたくさんできているわけです。ところが、その同じ出版社が、その作家から受け取ったその原画を保存しておきまして、今度は新しい企画をして、やはり三十何冊かの子供の童話集のシリーズを発行いたしました。このときには、前に使った絵をかいた画家には何のあいさつもなしに、そうして発行してから印税を払うとかいうようなことを連絡したわけであります。それはいいのでありますけれども、つまり画家があとでそれを承諾をしてしかるべき謝礼を受け取るならよろしいのでありますけれども、中には無断で再使用したということについて非常な不満を持つ画家があり、それから驚いたことには、できた新版の画集、子供の絵本を見ますと、ほとんどすべての絵が手を加えてある。つまり前のままではおそらくまた旧版の再版というふうに見られるためでしょう。編集部のだれがやったかわかりませんが、編集部の指図であらゆる絵に手が加えてありまして、たとえば、もとの絵には空があって木がかいてあるというようなところを、半分まつ白にしてしまって、木を削ってしまって、そこのところへ何かことばを入れるとか、それから部屋の場面がかいてありますと、そのころは部屋の装飾にいろいろ子供のおもちゃなどがあった。ところが、そのほかにまた新しいおもちゃをよけいにかき加えてある、こういったようなことを平気でやりまして、合計何百枚かの絵でございますけれども、それはほとんど手が入って、中にはほとんどかき直したように見えるのもある。しかも、これは作者に全く無断でやっておる。つまり出版の契約というようなものが、書類がちゃんと交換されていれば問題は少ないのですけれども、そういう契約なしに習慣的なやり方をしておりましたために、あまりにひどいので、美術家代表が集まって、出版社の責任者を味んで話し合ったことがあります。確かにそれは手を加えたということを認め、かつ著作権を侵害した、特に手を加えたということは人格権の侵害である。で、認めたのですが、それについてこちらから出した条件、つまり新聞に謝罪広告を出せ、賠償金を払え、こういう要求に対しては、どうしても応じない。訴訟するならしろという態度に出たために、やむを得ず訴訟に踏み切って、いま係争中でございます。それの一番大きい眼目は、やはり人格権の侵害、作者に無断で改変、切除を加えた。で、それに対しての謝罪文と、それから賠償金を要求するという訴訟をしております。ところが、先方の言い分は、全く代理の弁護士の作文で反論を書いておりますが、これは作者にそんなことを言う資格がない。つまり原画はすべて出版社が買い取ったものである。したがって、所有権とともに著作権もわれわれのものなんだ。それから人格権ということをいうけれども人格権という一もともと子供の絵本の原画というものは、子供のために一番効果のある、子供の気持ちによく合って、みんなが喜んで大ぜいの者が買うということが一番りっぱな絵の目的なんだから、それに必要な手を加えるというのは、これは出版社としては当然のことであって、むしろよくなったことを作者は喜ぶべきだと、こういうような暴論をして対抗しているわけでございます。裁判所はそれを取り上げられるとは思いませんけれども、そういう言いがかりをつけてくる。つまり作品は買い取ったのだ、したがって著作権人格権まで含めて買い取ったほうの側の自由になるのだという考えが、今日ですら大きな出版社の代理弁護人からそういう主張がされておる。こういうことは、まことに困ることでございます。したがって、その他やむを得ざる改変というようなことばがありますと、これを取り上げて、いやこれによっているのだということを言わせるおそれが非常にある。今後もそういう例がたびたび出てくるのではないかというふうに考えるわけでございます。
  61. 正木良明

    ○正木小委員 そこで安達さん、この第三号を立案されて、ここではどういうことを予想していますか。こういう場合というのは、どういうふうなものを予想し、何か考え方の中には限定された考え方があるのですか。
  62. 安達健二

    ○安達政府委員 まず、この二項第三号に当たるような具体的な例で申しますと、たとえば絵を写真によって複製した場合に、どうしても色彩が変わる場合がございます。あるいは劇場用映画のテレビ放送によりまして、画面の性質上四すみが切れる場合とか、あるいはコマーシャルを入れる。コマーシャルを入れるというと、興がそがれる、著作者人格権を害されるのではないかというような主張があるかもしれない。しかしながら、そういう場合は、著作物の性質、あるいは利用目的、態様に照らしてやむを得ない改変といわざるを得ないのじゃないか、こういうようなことから、そういうセービングクローズを入れたということでございまして、ただいま和田さんのあげられましたようなものは、もう明らかに人格権の侵害でございまして、こういうところに該当するとは全然考えられないものでございます。
  63. 正木良明

    ○正木小委員 そうすると、二十条の本文にある「その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。」ということが生きてくるという意味ですね。
  64. 安達健二

    ○安達政府委員 著作者としては、その著作物が同じ状態であることを希望するわけでございまして、それを著作者人格権として保護するわけでございますけれども、しかしながら、著作者がいいというような場合においてまでそれを禁止することもないということで、その意に反しない、つまり著作者許諾を得るとかいうような場合においては、もちろんその同一性保持権の侵害にならない、こういうことになるわけでございます。
  65. 正木良明

    ○正木小委員 またテレビにCMを入れるとかなんとかいう問題まで入ってくるなら、これはそこまで著作者の同意を得る必要があるのかどうかという問題も残りますので、これはまたいずれ後ほど申し上げます。  もう一つ和田さんにお尋ねいたしたいのですが、所有権が移ったからといって著作権が移るわけではない、これは非常によくわかりました。当然のことであろうと思うのです。そのために、所有権が移っても著作権は譲渡されないのであるということを明文化しろという御希望が述べられたわけであります。ごもっともなことだと思うのですが、そこで念のためにお伺いしておきたいのですが、「美術の著作物等の原作品の所有者による展示」ということが、第四十五条に定められておるわけであります。したがいまして、こういう特別展示に関しては、その所有者が展示権を持つということがあらためて規定をされているということについて、したがって展示権が所有者にあるということを規定したことは、その他の権利著作者にあるというふうに私は考えておったわけでありますが、これでは御満足はいただけないのかどうかです。
  66. 和田新

    和田参考人 いまの問題で申し上げたいと思います。この展示権の問題は、今度の法案で美術家の著作権一つ権利として認められたわけでございますが、しかし同時に、これは所有権が他に移った場合にどうするかという問題がありまして、これは審議会の第二小委員会で審議されましたときに、もともと所有権と著作権とは別の権利であるから、所有権が移ったとしても、それだけでは展示権も当然に移るとはいえない。したがって、そういう意味著作権と所有権とはそれぞれ別の権利であるということを規定するとともに、その善意の所有者に対して、自分の所有権による展示等をいかに便宜をはかるかということをあわせて考慮する必要があるというような小委員会の御意見をまとめてあらわしたことが、記録に載っております。それで、私どもの要望としては、美術家の展示権を認められたことは、たいへんしあわせである。同時に、所有者が常に美術家の許諾を得なければ展覧会に出せないということも、実情からいってたいへん困ることである。だから、これはやむを得ないと思うけれども、その場合、所有者が展示できるということは、展示権が所有者に移転したのであるということではなくて、美術家の著作権の制限の中で、所有者が所有権に基づいて展示を行なったとしても、それは美術家の著作権の侵害にはならない。つまり自由利用の一つとして取り上げてほしいというふうに要望いたしまして、その結果、やはり現在の法案では著作権の制限の規定の中の一条として所蔵家による展示ということが許されることを明記されたわけです。したがって私どもの解釈では、この場合は展示権は所有者にあるのではなくて、所有者による展示は美術家の著作権の侵害にはならないのだ、美術家の著作権はその点で制限を受けるのだというふうに解釈しているわけでございます。  先ほど私が申し上げました所有権と著作権とはそれぞれ別の権利であるということを、どこか差しつかえのないところにできれば入れていただくことが望ましいというふうにお願いしたわけですが、ほかに考えようはありませんので、私の考えでは、著作権の譲渡という条がございますから、その譲渡の中の二項あるいは三項に一つ項目を入れていただいて、たとえば美術の著作物等の原作品の所有者はその所有権とともに著作権も譲渡を受けたものと解してはならないというような意味のことを、法文としておかしくない形でお考え願えればたいへん将来のために紛糾と誤解を避ける上で有効ではないか、こういうふうに考えて申し上げたわけです。よろしゅうございますか。
  67. 正木良明

    ○正木小委員 非常にごもっともで、そういうふうに明文化するにこしたことはないと思います。思うのですが、いま御説明がございましたように、展示権すら移転しない。ただその著作権の一部を制限する、自由に利用できるという範囲にとどまるのであるという解釈であるならばなおのこと、所有権とともに著作権が移るものではないという、立法的な技術の上で、そういうように私たちは解釈できると思うのです。わかりました。その点はなお検討してみます。  なお、丹羽先生にちょっとお聞きしたいのですが、五つの問題の中で最後に、題名保護また作中の特異な人名を保護するように希望したというお話がございましたが、これはどういう形で保護するかどうか、条文を作成したりすることはわれわれの仕事でございますが、なお御都合がございましたら、ちょっと承っておきたい。
  68. 丹羽文雄

    丹羽参考人 これを押えるのには不正競争防止ですか、それでやればいいと文化庁のほうから聞きまして、それで押えられるのかなと思ったのですけれども、こういう例があったのです。尾崎士郎の「人生劇場」という、あれを薬でしたか何かの広告に使おうとしたのです。それでさっそく協会であわててそんな薬なんかに使ってもらっちゃ困ると申し入れましたら、向こうもすなおに承知して引っ込めました。つまりそういうときに不正競争防止、これをどういうふうに扱うのかわかりません。そういうものではなくて、何かはっきりした条文に書かれればそれにこしたことはないのですけれども文部省のほうは、そういう例があるからそれで押えられると説明してくれました。私たちはそうかと思っておりました。
  69. 正木良明

    ○正木小委員 ただ、その題名に創作的な意味があるかどうか、これは非常に問題があるのではないかと私は思うわけです。先ほど石川達三先生のお話がちょっと出ましたが、あの方がおつくりになった小説題名は、きわめて流行語になりやすい傾向がございまして、たとえば「風にそよぐ葦」だとか、「四十八歳の抵抗」だとか「悪の愉しさ」というのは、これはもう一世を風靡した流行語になったわけでありますが、こういう流行語と著作権の関係の侵害という問題とはいささか異にするでありましょうが、しかし、これはそういう流行語であるがゆえに、ほかの文章にも引用される例がきわめて多くなるということです。「アッと驚く為五郎」ということばがずいぶんはやっておりますが、これに著作権があるかどうかよくわかりませんが、たとえばこの間おなくなりになられました獅子文六先生の「てんやわんや」というのは、漫才師まで名前につけている。そういうことで、それはあの漫才師の場合なんか、頭に獅子という名前がついておりますから、これは完全に獅子先生の「てんやわんや」を引用したと思うのですが、しかし、通常てんやわんやというのは普通の慣用語でありまして、これに著作権という、そういうふうに考えてまいりますと、私のほうもちょっと迷路に入りまして、題名保護したり、作中の特殊な人名を保護するという著作者側の御希望というものはよくわかるのですが、取り扱いというものについてはきわめて困難なものが残されるのではないかと、こういうふうに思うのですが、その点なお御検討がされておりまして、具体的にこういう場合にはこうということがございましたら、お聞かせいただきたい。
  70. 丹羽文雄

    丹羽参考人 石川君の場合のことばは普通のことばとして一般に使われますけれども、ここでいう題名というのは、特殊な題名でして、ちょっとほかにだれかがその題名を使いますと、ああこれはあの作家のだというので連想が飛ぶというような、そういう特殊な場合に限っているのです。たとえば尾崎士郎の「人生劇場」とか……。ですから、そういう意味では、ここからここという線をひくのは、非常にむずかしいと思うのです。慣用によってこれはだれだれのものだということが一般の常識になっていると思うのですが、その常識の線でやはり判断するよりしようがない。それをはっきり区別するあれはございません。
  71. 正木良明

    ○正木小委員 ここで丹羽先生に最終的な文芸協会の結論を出せというのは、御無理でしょう。もしこれができなければ、不賛成ということではないでしょうね。−またいろいろお尋ねしたいことがありますが、これは別の機会に文部省当局にお尋ねしたいと思います。私はこれで終わります。
  72. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 河野洋平君。
  73. 河野洋平

    ○河野(洋)小委員 たいへん時間がおくれておりますので、私はごく簡単に一問だけ鈴木さんにお伺いをいたします。  鈴木さんは、先ほどから盛んに三十九条と五十五条、二カ所に注意を喚起しておられるのでございます。  まず最初に、五十五条のほうで写真の問題、先ほど来小林先生はじめ皆さんからもうすでにお話がございましたけれども、芸術的なものとニュース性の強いものという区別については、非常にむずかしい。これは鈴木さんもお認めになっておられるようでございます。ただ写すときの動機であるとか、非常にあいまいなことばのようでございますが、元来著作権のこの法案の第二条の一号には「著作物」というものは「思想又は感情を創作的に表現したものであって」、云々という文言があるわけでございます。この文言と、先ほど鈴木さんがおっしゃった芸術的なもの、ニュース性の強いもの、こう区別をされましたその芸術的なものという鈴木さんの発想と、どういうふうにつながるのか。つまり極端なことを言って、芸術的なものという鈴木さんの発想が、思想または感情を創作的に表現したものだということになれば、ニュース性のあるものというのは、そうでないもの、つまりそれは著作物ではないということに、極論をすればなってしまうのではないか。あるいはまた芸術性が多いか少ないかという議論は、あまりしてはいけないのではないか。芸術性が強いか少ないかなんということは、法案によってきめるものではなくて、それは世間一般がきめることでございます。この著作権法できめるものは、そういうものすべてを一律に保護する。その芸術性のバリューが高いものだと認めるか低いものだと認めるかということは、これはまた別の次元で考えるべきものだろうと思うのです。ということになると、芸術性の強いもの、ニュース性の強いものという分け方には、どうも私ちょっとひっかかるところがあるのでございますが、この点をもう一度御説明を願いたい。
  74. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 おっしゃるとおり、ボーダーラインの引き方が非常にむずかしい問題ですが、私が言っていますのは、要するに法のバランスということにかなり重点がありまして、一方において、やはり思想、感情の表白であり、創意があり云々のものが、自由使用になっているものが多々ある。手っとり早い例が、いまの三十九条の中にも入りますし、それから現行法の二十条にも入りますが、そういった自由利用できるものがたくさんあるのに、写真の場合には、同じ報道を主としながら全然文章その他とは違った保護を受けるものがある。そういった法のアンバランスを言っておるのでありまして、社会性、公共性の強いものは出したらいいではないか。ただそれをどうやって分けるかということは実際非常にむずかしいのですが、先ほど私が言いましたのは、やはり制作の主たる動機ですから、私が考えるのは主として事実を報道する目的において撮影した写真ないしは制作した写真というようなことばを使ったらどうかというふうに思っているのですが、たとえば文章の場合ですと、「わたしでも写せます」というような文章の、生活をモチーフ、動機にするというのは、明らかにコマーシャル、CM用のものであるでしょうし、丹羽先生が「親鸞」をお書きになる動機とはえらい違いがあるだろう。そういう点でかなり区別ができ得るのではないかという感じなんです。要するに言いたいことは、どんな写真でも全部なんでもかんでも十ぱ一からげにオール死後二十五年ないし死後五十年というようなことではなくて、そういった他の部門で公共性、社会性のために早くオープンにしているものにならって、右へならえしてしかるべきじゃないかということなんです。ですから、いまの立法技術上どういう判断をするかということは、私が言ったことは決して特別に名案とも思っておりませんし、ここには著作権界の知能がそろっているわけですから、たぶんうまいことを考えてくれるんじゃないか。国会議員の方々もきっとうまい方法を考えてくださるのではないか。ずいぶんこれはずるい考えですけれども、おんぶしたらどうかなというふうに考えております。要するにわれわれ言わんとするところは、問題はこういった新聞、雑誌に掲載されたニュースが自由に利用できる、その立法の精神はどこにあるか。その同じ立法の精神をそのような同類にも当てはめてしかるべきではないかということでございますので、その点を踏まえていただいて、いろいろ名案をひとつ国会議員の方にも御期待するわけです。ずるいですか、少し。
  75. 河野洋平

    ○河野(洋)小委員 まあ言わんとするところは大体わかるわけでありますけれども、立法技術上も非常にむずかしい。それのみならず、むしろ動機その他にそういうものを見分けるものを見つけよとするならば、これは先ほど、鈴木さんのことばであったと思いますけれども著作権を主張したいというものは、むしろ写した人が届け出る、たとえば署名をするというところに、むしろそういうものを求めてもいいのかもわからないという気が、私は若干しておるのでございます。それは三十九条にも若干関係があるわけですけれども、ここでは明らかに「これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。」といってそれを除いておいて、それ以外のものは利用してもいいよと書いてあるわけですね。ここでは、鈴木さんはそんなことを、一部だけを除いてほかはいいよといってはまずいんだ、こう主張されて、五十五条のほうでは、全部いいことにして、著作権留保したいところだけ何かしるしをつけろ、さっきはこう主張されていたので、どうも私は聞いておって若干てまえがってではないかなという感じがしたのでございます。したがって、これからむしろ鈴木さんの御意見を私どもがそんたくするならば、第二条の一項についてもう少し議論する必要があるのかもしれない。つまり著作物というものを定義づけるところの議論をもう少しする必要があるのかもしれないという感じが、実は私はしておるのですが、そう考えてよろしゅうございましょうか。
  76. 鈴木敏夫

    鈴木参考人 第二条をもう少し検討され、あるいは十分に御審議いただくということは、非常に高度な御意見であって、ありがたいことだと思います。まさにそのとおりじゃないかと思います。この辺のところで、たとえば社会性、公共性なんということの問題とか、フェアユースの問題とか、いろいろ入ってくれば、非常に明確になってくるのですが、この著作権法の解釈そのものは、たとえば学者の本を読みましても、著作権定義というようなものがなかなかむずかしくて、人さまざまな解釈をしておられる。やはり法案の生みの親の水野先生のほうが、根本的な点では、われわれにとっては一番ありがたい、わかりやすい本になっております。とにかくむずかしいのですけれども、ここでこの第二条著作権とは何ぞやということがはっきりされれば、非常に高度な、しかもこれは世界的な収穫になるんじゃないかと思います。ぜひやっていただきたいと思います。ただ問題は、先ほど三十九条の、特に転載を禁ずる旨の明記云々の問題につきましては、著作物というのは、元来こんなことをしなくてもかってな転載はできないのが本質だろうと思うのです。ですから、こういうところでもやはりいまの第二条のほうに全部かかわってくる問題ですが、そういうこと自体が少しナンセンスではないかということ。と同時に、ここに列席しておられる某々専門家に伺いますと、場合によっては、たとえば奥付なら奥付、目次なら目次一カ所では不十分である。これは外国の雑誌を見ますと、マルCが全部写真やなんかに一つ一つついておりますが、ああいうような表示のしかたをしないと、本来あぶないんじゃないか。どこか一カ所まとめて転載を禁ず、昔流で言いますと「禁転載」とよくついておりましたけれども、あんなもの一カ所じゃどうも効力が怪しいということも伺っております。そうしますと、あちこちにやたらにべたべた禁転載というのをつけたら、これはまたぶざまでしょうがない。雑誌にしろ新聞にしろ、そんなことをしていたらみっともなくてしょうがない。どこか一カ所で済ませられればいいのですけれども、ただ実害が非常に生じましたので、雑誌協会としましては、会員に全部意見を出しまして、十分であるかないかはともかくとしまして、対抗できるように奥付のところに、ここに出してあるものはかってに転載するなということを一応うたっておけというものは流しましたけれども、これでもほんとうはおかしいわけであります。自分でやったことをおかしいというのはあれなんですが……。というのは、雑誌にしろ新聞にしろ、その中に自由利用してもいいものが多分に含まれているわけです、堂々とフェアユースしていいものが。それまで一緒くたに転載を禁ずるような形になってしまう。これは奇妙なことになる。そこでもかなり問題があると思います。それから先ほど言った写真のノーティス、われわれの言うクレジットですね。クレジットよりノーティスのほうが正しいらしいですが、ノーティスをつけるということは、イタリア法なんかにありましたように、それをつけないのは初めからオープンなんだというのですけれども、撮影者はやはり自分のとったものにそういう表示をしないということ自体がおかしい。まあしないのは著作権放棄と見なすことになると思いますけれども、そういうものもあってしかるべきですが、それよりもむしろ、やはり写真も著作物なんですから、当然初めから写真家の義務であり、権利を主張する意味において、ノーティス、クレジットをつけておくという必要があるんじゃないか、また、それによってずいぶん混乱が救われるんじゃないか、そういうふうに思われるわけです。大体そういうことです。
  77. 河野洋平

    ○河野(洋)小委員 鈴木さんのお話の中から、写真も著作物なんだというおことばが出たので、私非常に安心しました。どうも著作物ではないとお考えになっているんじゃないかと若干思っていたものですから、いや、写真は著作物なんだ、これは非常に大事なところだと思うのです。この写真の場合、著作物だ、まさに著作物だということであれば、その著作物の中の芸術的なもの、あるいはニュース性の強いものなどという分け方は、やはりもっと検討する必要があると私は考えます。  きょうは非常に貴重な御意見を伺いましたので、私どもは私どもなりに検討する、というふうに考えております。委員長、ありがとうございました。
  78. 谷川和穗

    ○谷川小委員長代理 これにて参考人各位に対する質疑は終了いたしました。  参考人各位には、長時間にわたり御出席をいただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。小委員会といたしましては、各位の御意見は今後の法案審議に十分参考にいたし、審査を行なってまいりたいと存じます。ここに厚く御礼を申し上げます。(拍手)  次回は、来たる四月一日水曜日、午前十時より開会することとし、本日は、これにて散会いたします。    午後一時五十六分散会