○青山(大)
委員 もちろん、沖縄県民の方たちに訪れてもらうのも大事ですけれども、やはり、沖縄県以外の、我々、これは
日本の国民みんなとして、こういったことがあったんだよというのをしっかり私はこれからも後世に伝えていくのが大事だと
思います。
是非、沖縄以外、いろいろな、子供たちに限らず大人も含めて、対馬丸事件、こういうことがあった、そしてこういう記念館があると。
あの記念館、私も行ったときに、
鈴木貴子
委員もいますけれども、お父様の宗男さんが非常に御尽力をされたということもお伺いしました。ああ、やはり政治家というのはこうあるべきだな、そういうふうに
思いました。なので、是非、今後もよろしくお願いいたします。
ちょっと戦争に関してまた
質問しますけれども、私、たまたまある広報誌で、全国樺太連盟が今年の三月末で解散する、そういったお知らせを目にしました。終戦まで
日本が統治した南樺太の出身者たちの皆様でつくっている一般社団法人全国樺太連盟、高齢化に伴い解散を決定されたとのことでございます。
実は、私の祖父も南樺太の敷香町で終戦まで過ごし、その後、シベリアへ抑留されました。先ほど
質問した沖縄もさきの大戦で多くの犠牲者を出しましたが、実は樺太でも多くの犠牲者が出ており、ただし、樺太がたどった歴史というのは余り知られることがなく、時代とともに風化してきております。
現在、全国樺太連盟は残務処理の段階にあるとのことで、保有している貴重な資料の今後の保存について大変御苦労されているというふうに伺っています。保有する約一万点を超える資料のうち、約八千二百点の資料は既に札幌の北海道博物館や稚内の樺太記念館、又は北海道庁の樺太
関係資料館のあった赤れんが倉庫へ寄贈したとのことでございますが、いまだ連盟の東京本部には行き先の決まっていない貴重な資料、約三千点が置かれております。
これらには、当時の写真はもちろんのこと、現在の住宅地図のように一軒一軒お名前が書かれている樺太の町の地図、これは戦後、本当に、引揚者さんたちに聞いて、町のここは誰さんが住んでいましたかと一人一人聞いて町の地図を再現されたそうです、そういった地図、樺太庁名義の資料なども含まれています。これらの資料を保管するには、たった三十平米の間取りがあれば十分とのことです。
今後、高齢化に伴う団体の解散などで同様のケースはますます生じますし、既に、シベリア抑留者支援センターや、近年、歴史学者の方たちも資料の保管場所探しに大変苦労していると伺っています。
一方、貴重な資料が韓国やロシアなどの海外に流れているとも伺っています。終戦前後に樺太から脱出する際にソ連側に家族写真が没収され、その写真が現在ロシアで公開されているという事例もあると樺太連盟の方から直接伺いました。
今月、四月十八日は、シベリア抑留死亡者の埋葬地保存や遺骨収集等について、一九九一年、ゴルバチョフ当時のソ連大統領が来日した際に
締結した日ソ共同声明、そして捕虜収容所に収容されていた者に関する
日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の
協定からちょうど三十年でもございました。
戦後七十五年を経て、民間で収集されたさきの大戦に係る貴重な資料の保存、活用が、歴史的にも学術的にも国際的にも
我が国のために重要であることは言うまでもありません。団体の高齢化に伴う解散で歴史的資料が散逸していくのは大変もったいないことであり、資料の保存について国がもっと関与すべきではないでしょうか。私としては、東京にも樺太引揚げの貴重な資料を見られる場所が必要であると
思います。
樺太については、戦後北海道に居住された方が多いため、北海道内での資料展示の
機会もありましたが、都内には資料館がなく、北方領土問題を身近に
考える上でも、当時周辺の
地域に居住していた
日本人がたどった歴史に触れる場を身近に設けておくことは有用と
考えます。
そこで、提案します。
内閣府が永田町の合同庁舎に設けている沖縄戦
関係資料室のように、シベリア抑留、樺太、北方領土引揚げをテーマにした日ソ戦
関係資料室を設けることはできないでしょうか。また、新宿住友ビルにある総務省委託の平和祈念展示室の一部を資料の保管場所に活用できないでしょうか。また、九段下にある昭和館の展示室の一部を使うことはできないでしょうか。
政府の見解を伺います。