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参考人(
熊岡路矢君) 本日のこの参議院の
調査会にお招きいただき
お話をする機会を与えていただいて、心から感謝申し上げます。
私
自身は、一九八〇年以降、
日本のNGOの一員として、タイ、カンボジア国境のカンボジア難民、ラオス難民、ベトナム難民の救援から関わり、その後、約十二、三年、タイ、シンガポール、カンボジア、ベトナムなどで十二年、十三年ほど過ごしてきました。その後は訪問ベースで現地の
状況を確認しておりますけれども、という立場で、NGOの働き手として、政府、政治、行政、それからあとは経済、ビジネスの方々とちょっと異なった視点で考えた、あるいはまとめたことを申し上げたいと思います。
本日も、三番目に
お話しする中で非常に
感じたのは、今日、
アジアの
お話、
アジア太平洋の
お話であろうと、もっと遠くを
お話ししようと、必ずやっぱり
中国の要素が出てくることは避けられない、チャイナ・ファクターみたいな言い方あります。ASEANも全く同じです。おいおいというか後ほど
お話ししていきたいと思います。
本日は、ASEAN全体を見て、それから
日本のASEAN
外交、それから、私たちの場合は
日本政府、外務省の国際
協力ですね、援助と並行する形で民間で支援をしてきたので、その
外交と、開発
協力大綱といいますか、考え方との
関係なども
お話ししていきたいと思います。
一九八〇年あるいはそれ以前ですと、ASEANといっても五か国で、ブルネイが参加するまでは五か国で、割と小さな
地域の共同体、親米、
アメリカに近い、それから反ベトナム、反
ソ連という色彩の強い
地域の共同体だったという
感じで、必ずしも余り大きなプレゼンスは
感じられませんでしたけれども、その後三十年以上、四十年近くがたつ中で、福田ドクトリン以後四十一年たつ中で、非常に大きなプレゼンス、つまり、
インドとチャイナ、
中国の間の国という受け身の定義ではなくて、積極的にそこに、もちろん十か国あるのでそれぞれの違いはあるんですけれども、かなり大きなどっしりした存在として
認識されるようになったというふうに思います。
国とか
地域の力というのは、ある
程度、人口、経済、それから政治力、それから文化の力ということの総合的なものだと思いますけれども、各数字、細かい数字は今日並べていませんけれども、どの数字を見ても、ASEANというのは
一つの大きな
地域の共同体になっているということは確認しておきたいと思います。
少し古いところから
お話ししてしまいますけれども、今日の二〇一八年の問題とつながる形で
お話ししていきたいというふうに思います。
福田ドクトリン、これは基本的に三項目、今でも生きているといいますか、大事な考え方だと思いますけれども、この前後、一応ベトナム、
インドシナで大きな戦争は終わったとはいえ、難民がそろそろ出てきた時期で、一九七九年のカンボジアにおけるポル・ポト体制崩壊以後は、第三次
インドシナ戦争という言葉を使わない先生の方が多いと思いますけれども、そういうような戦争、内戦が特にカンボジアを中心に入り乱れたといいますか、混じった
地域というか、そういう時期になってしまいました。
その中で
日本は、
日本政府あるいは民間も含めてですけれども、戦後初めて、このカンボジア和平、広く言えばカンボジア及びラオス、ベトナムを含む
インドシナの和平、この和平は現在のASEAN十か国の全
地域に
関係している、直結する問題だったんですけれども、
日本政府、イニシアティブを発揮して、もちろん単独ではないですけれども、国連、それから各超大国、大国などと
協力してこの和平を導いたということで、カンボジア、あるいは広く
インドシナ紛争というのは
日本にとって非常に大事な体験であったというふうに思います。
これは
一つ成功例として
日本政府が自負している
部分でもありますし、その成功の中で、単に
インドシナの紛争を解決したわけではなくて、ASEAN全体が、言わばASEAN六か国が敵対していた相手側の
インドシナ三か国、それから後にミャンマーも含めてですけれども、参加して、非常に劇的な変化だったと思いますけれども、成ったというところを
日本が、これは
日本の民間のNGOの難民支援その他、あるいは現地での復興
協力も含めて役に立ったというふうに思いますけれども、そういう大事なものとしてこの時期があったというふうに思います。その中で、現在、カンボジアを中心に政治
状況はどうなっているかを
お話ししたいと思います、後ほど。
当時、非常に、皆さんも覚えていらっしゃるとは思うんですけれども、紛争、戦争絡みで本当、現地の人は疲弊し、たくさん亡くなり、けがをし、手や足を失いという
状況の中で、いろんな
日本を含めてアクターが
動き出したんですけれども、タイの当時の首相の言葉が非常に印象的でした。
インドシナを戦場から市場へという、マーケットプラス社会の相互扶助の
地域というような主張であっても、NGO的にはそういう
発言の方が合っているとは思いますけれども、少なくとも、戦争ではなくてマーケットで競うといいますか、助け合おうということで
発言した。この
発言した首相はその後間もなくクーデターでその席を追われてしまったんですけれども、この言葉は非常に印象的でした。長い二十年以上続く戦争、紛争の中でこの呼びかけがありました。
そこから
日本も本当に深く関与して、
外交官でいえば今川幸雄さんとか、それから後にUNTACで総
選挙を管理した明石先生なども含めて人材、それからエネルギー、人ですね、人材と人は同じですけれども、資金等々を投入して、もちろん、ほかの国連とか大国、それから地元の人々の力が大きかったと思いますけれども、一九九一年十月、パリにおけるカンボジア包括和平協定が成り立ちました。
それから、その二年後、カンボジアでUNTACですね、国連のPKOの管理下での総
選挙を経て現在の再生カンボジア王国といいますか、一九七〇年、一回クーデターで追われて途切れたカンボジア王国がそこでつながったという形になり、非常に自由、民主主義、人権に配慮した憲法が成立しました。
個人の体験としては、非常に私
自身こういう機会をいろんな形でいただいたと思うんですけれども、三十年以上、ビジネスということではなくて、NGO活動ということで相手の、言わば一般の人々、普通の人々と直接一緒に働ける立場に立てたことで、もう本当に何十冊、百冊の本に勝るような体験をさせてもらいました。もちろん、本を読むということも大事ですし、そういうところから学ぶことも大事なんですけれども、そこは非常に大きいところかなと思います。
それから、そういう機会が、そういう意味では、ASEANに限らずですけれども、
日本政府あるいは
日本が、社会全体として、特に若い世代の人たちが、国際交流という形でもいいですし、国際
協力という形でもいいですけれども、同じ立場で、福田ドクトリンでいう対等な立場で、相手側のいわゆる
政治家と
政治家の人間
関係などから和平、紛争解決が生まれることもあるし、そういうことは非常に重要だと思いますし、ビジネスの間での人間
関係でもプラスのものも生まれるというふうに思いますけれども、市民社会の活動から長期的な平和とか共同で助け合っていくというような形、精神がつくられていくという観点から、是非これからも、議会の中で、あるいは政治、行政の中で、このような形で
日本の青年が外で多く国際
協力、国際交流で働けるように、また、言い換えれば、結構
日本で現在進んでいますけれども、ASEANの青年たちを含め、海外の青年を受け入れてということが進むことが
一つ大きな、直接なかなか数字にはできないんですけれども、大きな力になるというふうに思います。
福田ドクトリンの二番目、ASEANと心と心の触れ合う
関係を構築するというところは、必ずしも目立つ言葉でないのかもしれませんし、普通、二番目
辺りには経済の
協力が来ると思うんですけれども、この一、二、三、
日本は
軍事大国にならない、ASEANと心と心の触れ合う
関係を構築する、
日本とASEANは対等なパートナーであるという文言が出てきたところを私なりに考えますと、その前に田中首相がタイや
インドネシアを訪問したときに、当時ちょうど、現在
中国の製品があちこちで広がっていたというか洪水のように売買されていたように、当時、
日本の商品が
日本のビジネスマンの力でたくさんタイ、
インドネシアなどで使われていたという中で、カラワンとかカラバオというタイの歌い手たちの言う、朝歯を磨いてから昼間食事して、午後も、午前午後仕事して夜寝るまで
日本製品に追われまくるといいますか、ずっと囲まれているというような皮肉な歌もあったんですけれども、そういう中で田中首相がかなり激しい学生のデモとか抗議集会に直面したという、そういう時期の後で福田ドクトリンができたということで、そこはつながっていて、この心と心のということで。
あと、約九年前、十年前、バンコクでUNHCRの主催でタイ及びASEANの人と
日本のNGOが
対話をするという会合があったときに、
自分たち、
日本のNGOとしては考えていなかったんですけれども、一九八〇年前後以降、九〇年代も含めて、
日本の青年、NGOなどがタイなどで活動したことで、タイの現地の知識人、チュラロンコンの先生とかネーションのスタッフライターの人とかが言ったのは、そうですね、一九四五年まで、非常に年を取った世代にとっては戦争あるいは兵士のイメージが近いイメージで語られる
日本というのがあって、一九七五年を中心に七〇年代、非常に経済、ビジネスの戦士といいますか、
日本の企業の激しい活動があるという中で、一九八〇年以降、そのどちらでもない、政治、
軍事でもないし経済でもない形で
日本の普通の青年、市民がタイに現れたというのは非常に新鮮な
感じがしたというふうに言ってくれました。多少は私たちがいたのでリップサービスである
部分もあるかもしれませんけれども。
そういうことで、そういう心と心といいますか、経済指標と違ってなかなかそういう
部分は定量化、数字化できないんですけれども、そういうことが国と国の
関係の中で非常に大事であるんだということを過去三十五年の活動の中で
感じてきました。
それから、
日本のASEAN
外交、福田ドクトリンに関しては今申し上げたとおりです。
それから、対ASEAN
外交五原則、それぞれ大事な
部分がありますけれども、一番目の自由や民主主義、基本的人権など普遍的
価値の定着と拡大、時間の限りがありますのでこの一に集中しますけれども、ということが
日本の
外交及び
日本の国際
協力の中心になって明確にうたわれています。国際開発
協力の大綱ということですね。一種の宣言された形になっています。それが後でどうなっているかという
辺りを
お話ししていきたいと思います。
それから、ASEANへの評価という意味では、先ほど申し上げたように、もはや
インドと
中国の間というような受け身の定義ではない大きな存在になった
日本の大事なパートナーであるということは、繰り返しになりますけれども、申し上げておきたいと思います。
あと、今後どうなるか分からない
部分はあることはありますけれども、
地域内で、かつてのベトナム戦争、
インドシナ戦争のような、複数の国々を巻き込むような大きな戦争が起こる可能性は当面は低いというふうに思っています。
現在、政治的にはロヒンジャの難民問題が容易に解決しない問題としてASEAN諸国と南
アジアの一部に広がっていますけれども、これを、
日本政府にとってプライオリティーと言えるかどうか分かりませんけれども、このロヒンジャ問題なども
日本政府が、あるいは議員の皆さんが、
政治家の皆さんが積極的に対応して解決することでASEANとの結び付きが更にまた広がるといいますか、強まるのではないかというふうに思います。
あと、言うまでもなくASEAN諸国も我が
日本も非常に自然災害が多い国で、これは既に始まっていますけれども、いろんな形で
日本とASEANの防災のための、防災あるいは起きたときの災害救援の共同化というか、そういうものがこれからも必要とされているというふうに思います。
それから、ASEANの場合、市場経済
部分の共通性はありますけれども、政治体制としてはかなり幅と違いがあります。一党支配の国が少なくとも二か国あります。その中で、先ほどのドクトリンの方で出ている自由、民主主義、基本的人権等、それから人治、人がですね、強い人が治める政治ではなくて、社会ではなくて法が治める社会、これをより
実現していくという原則や
価値観、
日本は持って活動し関わっているんですけど、そこから遠ざかっている国もあると思います。野党あるいはメディア、NGOなど市民社会セクターが政府によって強硬に抑え込まれている国もあるということになります。
それから、
中国との距離の取り方もそれぞれであるけれども、全体としては、もう本当に
中国の、ASEAN諸国だけではないんですけれども、ここではASEAN諸国への投資、援助、貿易、これは三つの要素一体でやっているだけではなくて、この辺は
日本のかつてのODAその他もそういう時期があったと思いますけれども、
中国は更にそこに
中国の企業と
中国の労働者を連れていくという点で四つのファクターを一緒にしてASEANに入るというか、
影響を与えているということになります。
日本のASEAN
外交に関しては、先ほどASEANのところで申し上げたという中で、今後ASEANと
協力して、
一つの希望としては、両方とも太陽光、太陽熱、その他風力、あと潮の力ですね、自然エネルギーの強い
地域なので、
協力して一緒に行っていく構想が必要だろうというふうに思います。
それから、水俣病など公害問題に関して、
日本はそういう意味で体験した国として非常に教えてもらいたいという団体や
地域、場合によっては政府があるので、そういうことでも
日本がASEANとつながっていけると思います。
時間が大分迫ってきたので、
最後にカンボジアの
部分を
お話ししたいと思います。
先ほど申し上げたように、
日本が八〇年代以降、かなりの相当の力を入れて達成したカンボジア和平ですけれども、現在カンボジアでは、先にお届けした方の資料に詳しくありますけれども、二〇一三年の総
選挙の結果、与党の人民党の議席が減って、二つの政党が
一つになった野党がかなり追い上げたということから与党が危機感を持ったということがあって、政党法、それからメディア法、NGO法などで批判的勢力を包み込むだけではなくて、ここ六か月、非常に大きな変化といいますか
状況が起きておりまして、昨年の九月に野党の党首、救国党の党首が国家転覆罪ということで逮捕され、それから、十一月十六日でしょうか、最高裁で、党首が逮捕され有罪になるようなところの政党は解散が命じられるということで、最高裁によって解散が命じられました。関連して、英字紙カンボジア・デーリー、その他FM局、政府に批判的なラジオ局、新聞等が廃刊、廃局に追い込まれました。
あと、人権NGOのADHOCなどのスタッフが、通常の貧しい被告や証人、裁判に通わなきゃならない貧しい人たちへの通常の食費、それから交通費の支援を、これは偽証のための、偽証を呼び込むための賄賂として判断されて、逮捕、勾留されたということになります。
ということで、
最後に申し上げたいのは、二〇一八年七月二十九日に予定されているカンボジア総
選挙、事実上、基本的に、国会内の唯一野党、五十五議席持っていた野党が解散に追い込まれたために、実質的に総
選挙としては内容はなくなるといいますか、総
選挙の形は取れるのかもしれませんけれども、それから複数政党の形は取れるのかもしれませんけど、内容的には全くそれを満たさない流れに今あります。残りの数か月で何かいい方の変化があるのかもしれませんけれども。
カンボジアの民間の
選挙監視団体等々があるわけです。それから、
アジア全体を包むANFRELという
選挙監視の団体があるんですけれども、ほぼ信頼し得る自由で公正な総
選挙とならないのではないかという判断、見通しの中で、
日本の外務省ともずっと
お話ししてきましたけれども、
日本政府、外務省としては、カンボジア政府に批判的、否定的なことを強く言うと、より
中国寄りになってしまうので、それはしない、できない、それから広い意味で内政干渉に当たることはしないというふうに言っているんですけれども、片や、カンボジア政府の現
トップは、パリ和平協定の精神、条項は既にゴースト、幽霊だと、死んだとまではっきり公的な場で言っています。
それから、この総
選挙をできない、あるいは野党を完全に追い込んで潰した等々のことで、もし
ヨーロッパ、EU、
アメリカ、
日本などが援助を止めるなら全く構わないと。止めても構わない、
自分たちにはなぜかというと
中国の援助があるからだというふうに相当強い言葉で言っていて、これで、このままで、もちろんいろんな対処の仕方はあると思うんですけれども、
日本政府、外務省、それから議員の皆さんとして、そこをどう受け取るかお聞きしたいなというふうに思いましてこのプレゼンテーションを作成し、ここでカンボジアのことを
最後にして、このプレゼンテーションを終わらせていただきます。
どうもありがとうございました。