1983-03-25 第98回国会 衆議院 運輸委員会 第5号
明治維新によって日本が先進国に追いつき追い越せといった段階において、国家社会主義を施策として推し進めていった、これは一つの方法として非常に効率的な、場合によっては必要であった方法かもしれません。もちろんドイツもイタリアもその方法をとったわけでございます。当時においては民間の資本が蓄積されてないわけで、また、国民もそれだけのゆとりがない。
明治維新によって日本が先進国に追いつき追い越せといった段階において、国家社会主義を施策として推し進めていった、これは一つの方法として非常に効率的な、場合によっては必要であった方法かもしれません。もちろんドイツもイタリアもその方法をとったわけでございます。当時においては民間の資本が蓄積されてないわけで、また、国民もそれだけのゆとりがない。
○長谷川国務大臣 おっしゃるとおり、日本は明治維新の後は、農業国でございますから、その中で鉄一つやるといっても大変なことでして、官営でやっても技術者がおりませんからドイツ人を呼んだ。呼んで、溶鉱炉のそばに九州の農民を集めても、火花の散るのを見るのは初めてですから、びっくりして大変なことだった。中には技師を溶鉱炉に投げ込もうとする空気もあった。
明治維新になって世界を見ると、世界はみんないろんなことをやっておるじゃないか、自分の国をよくするためにそうしなきゃいかぬのだという西洋先進諸民族のことをならってやってみて、大失敗をした。これは大変な失敗だった。そんなことこんりんざいしちゃならぬと、いまその反省期に入っておる。
、そして同じく「第一次の教育革命は明治維新の学制発布である。」云々、「ついに明治二十三年、教育勅語が発布されるに至った。」後略、「第二次の教育革命は終戦後の六・三制の採用であった。このときは教育の機会均等が旗印で、従来の複線型の教育制度から、誰でも高校、大学に進学できる単線型の六・三制に踏み切った。その結果、教育はすばらしく普及した。
明治御維新の後で国が本当に財政も何も苦しい時代に、たしか明治五年に新橋と横浜の間に「汽笛一声新橋を」と小学校唱歌で歌われたあの鉄道が敷かれた。しかも、それはイギリスの資本百万ポンドを借りて、技術も人間も来て全部やってもらったという話を私は聞いております。そういうことからして、日本の輸送の体系の中枢をなしたものは鉄道である、これは間違いないことだと思います。
そこで、労働省に聞きたいのは、私は鉱山出身ですが、金属鉱山のなかった県は、東京都以外は全部あったというだけに、徳川幕府のドル箱が金属鉱山だったと思うのですが、明治維新以降は六財閥のもとになったわけですが、これが非常に東北、北海道に点在しておる。
明治維新で廃藩置県のときにできた都道府県というものはほとんど二百万以下で、東京も新潟も一番大きい県だったわけです。そうして少ないところも五十万くらい、鳥取だったわけですね。平均化しておる。しかも、大体交通事情とか通信とかそういった事情で都道府県を置かれたと思うのです。鳥取県の方には悪いですけれども、いまや東京の一つの区に当たるようなところの県になって、格差ができているわけです。
日本でも初めは太政官制度でありまして、ある意味においては専制権力のもとに明治維新がスタートしたわけですが、それが明治十四年の政変、明治十八年の内閣総理大臣制に移行して太政官制度を捨てた。二十二年に憲法をつくり、二十三年に議会政治が始まった。そういう過程を通って民主主義は成熟してきた。やはりそういう歴史的発展段階で、温かい目で見てあげるということが大事ではないかと思います。
戦後の日本の平和な繁栄というものを見ますと、これは徳川時代以来いろんな時代があったけれども、あるいはその前の織豊時代あるいは元禄の文化あるいは明治維新以後の日本、大正の民主主義、そういういろんな中でも最も輝かしい時代が後であの時代であったと言われるのじゃないだろうか、それは汎国民性という面において元禄時代よりまさっているし、非軍事性という面において明治時代よりまさっているし、そのほかいろんな面において
明治の時代は、封建時代からそして明治維新というものを通じまして、新しく日本の国の行き方を決めるために憲法論議をやった。これは何もないところから新しいものをつくろうとしてきた。この間、私は大いに議論があってもいいと思います。しかし、戦後わが国は平和憲法というものを持ち、それを国の基本とし、国民の中にもすでに定着をしておる。その問題と明治の時代とは情勢が違うのじゃないですか。
日露戦争というのは明治維新から三十七年であります。それで、そのころから日本の資本主義というのは一応成熟したわけです。その日露戦争が終わってから三十七年目に太平洋戦争が勃発した。太平洋戦争が終わってから昨年は三十七年目であります。日露戦争が終わってから三十七年目の太平洋戦争の勃発というのは、一言で言えば、日本の無定見な軍事的膨張が日本を世界の孤立に追いやったその結果ではないであろうか。
明治維新のときも、これはもうまさに日本の国がどうなるかわからないような状態の中を、明治の若い政治家は衆知を集めてあの激動の中を一滴も血を流さないでこれを乗り越えた。
これは、しかし、私は、明治の維新をやったあの伊藤博文を初め元勲、あの終戦のときに、日本の国は下手をしたら奈落の底に落ち込むかわからぬといったときに、吉田総理がとられた政策、これは、私は、同じくらいのやはり決断力と判断力と勇気を持ってこの行革をやっていただくことが中曽根内閣の表看板の事業である、これは総理もおっしゃっておるとおりでがんばっていただきたいと思うのでありますが、若干心配のような、何といいますか
と同時に、明治のあの維新のころ、ちょんまげを切って刀を捨てて何をやったかと思ったら、明治の政治家は教育をやったんですよ。だから山のてっぺんから谷底までくまなく小学校をつくった。補助金もなければ道路もなければ、トラックもなければ、グレーダーもダンプもない時代に、全くそれこそ九州から北海道の果てまで、山の中まで小学校をくまなくつくった。
第三憲政とは、あなたが塾長をやっている青雲塾の綱領的文書によれば、現憲法下の日本を第二憲政の時代と位置づけた上で、これに取ってかわる新日本国民憲法を創定しようというスローガン、戦前昭和維新を唱えたいわゆる革新将校の再現を思わせる昭和革新運動なるものの行動スローガンではありませんか。
それで明治維新の当時の日本の政治家の中に、これはどうしても中国、朝鮮それから日本と組んで、欧米列強のアジア侵略を防がなきゃいかぬという意味でそういう外交方針でいこうとするのと、大体それは明治初期の外交の所信ですけれども、だんだん曲がってきまして、それで特に中国、朝鮮問題なんかでは列強の植民地主義と同じようなまねを始めたわけですね。
ただしかし、明治の維新というものは、封建国家、封建体制を打倒して近代国家を生誕させた変革でございましょうから、近代国家の骨格を定めた憲法には進歩的な側面もあった、これは否定できないと思うのでございます。いささかでもそういう点について書くと、これは何か非常に反動的なやり方であるような御批判をいただくということは残念に思っておるわけでございます。
それぞれの国の成り立ち、仕組み等々、それについての評価によって構造的に決められてくるものでして、したがって、日本がいまの状態でしたらそう簡単にドイツのものや外国のものを、かつては明治維新のときは輸入しましたけれども、いまならそう簡単に輸入できるものではないと思います。
それだけでなく、百年の計は、貧乏人でも勉強ができるような、日本のインチキ教育と違って、本当の教育を大衆に、政府が責任を負うようなものをつくり上げなけりゃならぬというところへ発想の転換が来たということは、苦労したかいがあって、中国は、日本の明治維新の後におけるああいう官僚、軍閥の、薩長藩閥の明治政府の自由民権をつぶしてきたものと違って、中国革命の進展過程において幾多の試行錯誤はあったけれども、現在、内部調整段階
あの明治維新、そして戦後の民主化、そしてひたひたと、そうはでではないが、日本に対して経済的な面で市場開放を求められる。そして、世界第二のGNP大国としての安全保障についての責任を求められている。今度の技術供与、技術交流という問題もそういう側面を含んでいると思いまして、春の予算委員会で議論をしたわけですね。
中曽根長官の言葉に従えば、今度の行革は明治維新、戦後のマッカーサー改革と並ぶ三大改革とも称すべき大事業である。その大事業のもととなる七月の答申について、この機会に国会を通じて国民にできるだけその内容を伝え、その反響を呼び起こし、国民の支持を求め、その協力を得るという姿勢がなくしてどうしよう。この機会を逃せば七月答申前に国民に呼びかける機会を失うのではないか。
危なくてこのごろはもう目を明いちゃ歩けないような状態ですが、大きな日本の維新です。日本が変わることによって中国も変わります。お互いにけちな考えを持たないで、戦争をやらないでまともに技術協力、文化交流をやりながらじみちにいくならば、日本と中国というのはもっともっと私は伸びる。そういうつもりで日中の問題に対しては、特に西欧の腐れ切った……
それから、明治維新において諸外国の制度を導入した、こういうことはありますけれども、大まかに言いますると、どちらかというと閉鎖社会なんですね。それであるがゆえに、諸外国の人を変わった人とあるいは敵視してきたということもあり得る。それはむしろ逆に言うならば、日本の独自性、独立あるいはそういう平和な社会を守ろうという気持ちから来た。