1982-04-26 第96回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第9号
一八三三年ということを振り返ってみますと、まさに日本も明治維新の前で、ペリー来訪前後ということになると思います。そういう意味で、こういう歴史的な経緯を見ていると、やはり植民地時代のいろいろな領有関係が今日にまでかなり尾を引いている部分があると思うわけです。
一八三三年ということを振り返ってみますと、まさに日本も明治維新の前で、ペリー来訪前後ということになると思います。そういう意味で、こういう歴史的な経緯を見ていると、やはり植民地時代のいろいろな領有関係が今日にまでかなり尾を引いている部分があると思うわけです。
そしてまた、それが明治維新後になっても道路というものが大変整備がおくれていたのですが、このところへ来て、道路の整備状況が、努力の成果も上がって大変によくなってまいりました。あるいはまた、港湾の整備がされるに従って内航海運の利用もふえてきたということなんですね。
この人の訓練所を私も見学に参りましたけれども、その人は日本の歴史に非常に関心が深うございまして、明治維新に非常に関心を持っておりまして、明治百年のあの歴史が今日の日本の大きな原動力になっている、しかも明治維新というのは青年でつくられたということで、私も新生インドをつくるためにいま青年教育に力を入れていますというお話だったのでございます。
これは毎日新聞の四月一日付の夕刊で大変おもしろい指摘がございましたので、失礼ですが披露させていただくと、「今や鈴木幕府は土光臨朝に大政を奉還し、維新の大業はおまかせの感。外には門戸開放を迫る黒船が浮かんでるし。トコトンヤレ、トンヤレのご時世だ。」ここでは恐らく中曽根さんは副将軍という位置になろうと思いますが、こういう指摘があるわけであります。
武力だけで、恫喝外交でもって、ソ連とアメリカの軍部がなれ合いでやっているとしか見られないようないまの核兵器の恫喝は、明治維新前における黒船の米、ロシアの恫喝と同じであって、あれがために明治維新のときには神奈川条約、下田条約、腰抜けの幕府、主体性のない幕府の主体性をさらに崩して、尊皇攘夷、開国攘夷入り乱れた中にあっても、高邁な見識を持つ開国派の佐久間象山なりあるいは攘夷党の吉田松陰なり、ともに胸襟を開
中曽根長官がどこかで披露したそうだが、岸さんの話だといって、明治維新とマッカーサーしかやれなかったことをやらねばならぬ、こう言ったそうですがね。そうするとさしずめ明治維新の次はマッカーサーで、マッカーサーの次は中曽根康弘と、こうなるかしりませんけれども、この理由はずばり何だと思いますか、何と何と何がやっぱり障壁だと。
考えてみますと、明治維新より百余年、敗戦後といいましてもすでに四十年近くになる現在、しかも経済力においてはその生産においてすでに世界の最先端を行くに等しい日本の現状を考えますとき、いわば明治維新後の政策が富国強兵、先進国に追いつくことのみを念願とした大正期までの政策、また戦後の復興、再建を最大の念願とし、必死になって事業の近代化と規模の拡大を図ってまいりましたこの戦後の復興、これに伴う必要な行政的措置
そこで、総理大臣にお尋ねをいたしたいと思いますが、道州制をもし施行して県を廃止するということになってきますと、廃藩置県が行われた明治維新以降、これは非常に大きな改革になると思います。総理は、道州制についてどのような見解を持っておられますか。
つまり明治維新が第一維新だと、敗戦が第二の維新、今行革はまさに第三の維新であると、それぐらいの意気込みで行官庁は取り組んでもらいたいという意味の激励があなたに寄せられ、あなたもそれに、もとより私もその取り組みをいたしたいというふうにお答えになったわけでしょう。
実際、本格的にやったのは明治維新とマッカーサーぐらいのものだろう、そういう比喩をもって激励された。それぐらいむずかしいものだから、おまえも決心を固めて本気でやれ、そう激励されたのでありまして、非常にありがたいお言葉であると思いました。
「私は担当大臣を拝命したとき、官庁および政界の大先輩である岸元総理に知恵を拝借しようと思ってお訪ねしたところ「そりゃ中曽根君、日本で行革をやったのは明治維新とマッカーサーだけだよ。平時にやろうと思ったらクーデター以外できないね。それぐらい難しいものだから、そのつもりでしっかりやれ」と励まされましたが、まさにそういう性格があります。」こう言うておられるのですね。
古くは明治維新前のあの攘夷論を振り返ってみましても、あるいは満州事変以来、三国同盟、太平洋戦争のあの悲劇に突き進んだことを振り返ってみましても、やはり国内の議論というものと国際的な視野から見たセンスというものとがずれがある。
○高沢委員 いま大臣、日本民族のそういう単一民族としての歴史にも触れてお話しになりましたが、振り返って考えてみますと、たとえば明治維新、それで日本が新しい近代国家になった、そのころの明治の政府ですね、ずいぶん外国の学者あるいは外国の技術者、そういう人たちを日本へ招請してその知識を吸収する、あるいはまた、日本から外国へずいぶん積極的に留学生を送って、そして外国のいろいろな経験、知識を吸収して、それで日本
単に大学の建物がよくなった、教員の給与がよくなった、それだけでは大学の質的向上にはならないのでして、それならば、まさに徳川から明治維新に移る松下村塾における松陰先生の教えのように、昔は建物も惨めであったかもしれない、あるいは貧しかったかもしれない、教える子供は一人対多数であったかもしれない、だけれども、その時代を先駆するようなきわめて意欲的な教育がなし得たわけであります。
同時に、いま大学局長が申したように、一方においては、なぜ一体有名校に非常な競争を押し切っていきたいかといいますと、結局そこを卒業した後の生涯、人生において非常に優位に立つ、あるいはまた指導的な立場を持つ、これなんかというのは、まさに明治維新後の東京帝国大学というものを出たらばその人の生涯が約束づけられるといったような時代と、今日のような社会環境とは非常に違いまして、大学なども本当にあり余るほどのたくさんのりっぱな
御案内のとおりに、日本が新しく封建社会から新生日本として明治維新の新政府ができたとき、そういうふうなころからの一つの伝統的なものがあるかもしれません。
まあ日本の明治維新のようなことでしょうから、さまざまな試行錯誤はあると思います。しかし、その中で、日本の外交の一番大事なことで欠落しているものは、それぞれの国の民衆の中に溶け込んでいくつき合いと、それからそれを吸い上げてくる情報源がどうも外務省というのは欠落しているのじゃないか。私も昨年春に一人でずっと歩きました。一人で歩くといろいろな話が入ってきます。
それで戦災で焼けたりあるいは明治維新のときにつぶされたお城を復元したのがこの中でずいぶんあるのです。やはり何と申しましても、時代は変わっても歴史は歴史なんですね。そこにしか歴史はないわけですよ。
○長谷川信君 次に、文部大臣にちょっとお尋ねいたしますが、この前も教科書問題いろいろ、かなりいろんな激論——激論というか議論があったわけでございますが、日本の教育、明治維新にちょんまげを切って刀を抜いて何をやろうかと思ったら、当時の政治家は教育をやったんですよ。そして山のてっぺんから谷底まで小学校、もう予算もないし何にもない日本の国が本当に津々浦々まで小学校をつくった。
○渡部(行)分科員 これは明治元年ですから、明治維新後ですね。そこで、昔は所有なんという言葉は余り使わなかったのでしょう。「持ち」という言葉を使っているのですよ。「百姓持ち」というのは、いまの言葉で言うならば、百姓の所有として認めるということですよ。
あの文明開化の明治維新のときから、世界の経済大国と言われるようになった今日でも、雪国に期待するところ、負うところは非常に多い。