1965-02-23 第48回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第2号
徳川時代から水資源をどうしようかと苦労して、そこに江戸城を築くべきかどうかという研究の対象になっておったのに、しかも江戸時代から培養した水源地があるにかかわらず、それを軽々に処分した。いま矢木沢ダムをつくっているが、東京都がまたよそへ売り払うならば、ますます枯渇するでしょう。去年のような水飢饉なんというものは起きないで済んだはずの東京都であるべきなんです。
徳川時代から水資源をどうしようかと苦労して、そこに江戸城を築くべきかどうかという研究の対象になっておったのに、しかも江戸時代から培養した水源地があるにかかわらず、それを軽々に処分した。いま矢木沢ダムをつくっているが、東京都がまたよそへ売り払うならば、ますます枯渇するでしょう。去年のような水飢饉なんというものは起きないで済んだはずの東京都であるべきなんです。
江戸時代につくった際の二重橋というのは、上のほうの橋でありまして、その時代は木の橋ですから下のほうに一応橋をつくり、その上にまた重ねて橋をつくった。要するに堀が非常に深いものですから、一本の橋で上までいけないから一本橋をつくって、そのまた上に橋を重ねてつくった。それでそれから二重橋と言われるようになった。
といいますのは、その本丸のあとは江戸時代から見ますと低くなっているのです。と申しますのは、そこの土を掘ってあの構内にあった堀を埋めたり何かした関係で低くなっているわけであります。その低くなっているところへその工事の掘った土を持っていってずっと盛ろう、その盛る工事の関係も、宮殿のほうの工事がある程度進んでいかないとできないわけで、そういうこともやはり幾らかおくれているということの一部でございす。
○暉峻参考人 トルコぶろの話が出ましたのでついでに申し上げますが、江戸時代には、ことに上方前期、元祿以前には、ここの東京、もとの江戸でもトルコぶろと同じものがございました。
江戸時代は十五歳、数え年十六歳からは、法律的にも道徳的にもすべておとなとして扱われました。現在は満二十歳にならないとおとなとして扱われないというのはおかしいと思うのです。実際はわれわれの心の中にある青年というものは、ここにもありますように、やはり満十八歳までを未成年として扱っておるのです。法律的には満二十歳ということになっています。
これが江戸時代になりますと少し延びまして、先ほど申し上げましたように十五歳までが少年、大体十七歳ぐらいで成人式の元服の式をあげました。現代では、私は、やはり高等学校がもう準義務化しております。日本は御存じのとおり、世界じゅうで一番教育のレベルが高いですから、これは誇ってよろしいかと思います。高等学校ももう大体準義務化しておりますから、高校卒業を限度とすれば、やっぱり十八歳くらいが適当ではないか。
そこで、たとえば、大阪のあの市内に非常に堀が多い、東京でもそういうものが、江戸時代から遊水池にかわるような堀がたくさんあった。そういうようなものが一時的に水を吸収したゆえんだろうと思うのでありまして、今後都市計画等につきましては、これらの水の関係について、十分勘案して計画を立てる必要があるということは、私も考えておるところでございます。
もちろん、これは奈良朝時代にさかのぼるとか江戸時代にさかのぼるというようなことは、従来の研究結果によっておおよそのことはわかっておりますので、特に明治以後のその地区の変遷というようなことを調べております。
それから、そのときに、あとで江戸時代の纏の消防のほうを拝見したのですが、今、纏のああいう方々は、消防、消火の上でどの程度役に立っておりますか。
なお、江戸時代からの文献によって見ますと、この明治のころにかけかえる前の木造の橋は、下のほうに一つ橋がありまして、その橋の上にもう一つ橋脚を建てて、その上にまた橋があるようになっていますが、これはその当時、あの堀が相当深かったものだから、そう下まで木の脚を持っていけなかったためだろうと思います。それで、下のほうに橋を作り、その上にまた脚を建てて木の橋を作る。
きょう判決が下されるわけですが、その問題になったのは例の登録用紙——文化財の仕事をされておる人は知っていると思うのですが、事務局長は知らぬかもしれませんが、要するにこれは江戸時代の火繩銃でございますというのを登録するわけですね。その登録をする場合に審査員というふうなものが県の中できめられるわけでしょう。
ところが、視力障害の方は、昔から、江戸時代からこのあんまということが視力障害の人の専門の職業になっている。これがうまく——うまくというわけではないけれども、あのような封建時代で、勤労の権利を正式に認めるとか、あるいはまた国民の健康で文化的な生活を認めるというような法律体制のない時代ですらそのようなことが行なわれて、そのような状態にあったわけです。
丈六寺は曹洞宗の古刹でありまして、その三門は室町時代の末期、本堂及び観音堂は江戸時代の建造にかかり、いずれも国の重要文化財に指定されております。そのうち、三門及び観音堂は昭和三十二年に解体修理を終わり、境内の六カ所に消火栓を設けた防火設備が完備されて、保護の万全を期しておりました。
江戸時代の面影があってなかなかいいものです。これは大臣もよく御承知だと思いますけれども、あれは公園にしても何にしてもいいのです。しかし道路を作ることも必要です。ましてや高速道路の二号線でしたかな、例の五反田から白金の自然公園を通るあれも、文部大臣に言ったところが、文部大臣は何とか年内にしようと言っておりますけれども、あれなんかも残したいけれども仕方がない。
江戸時代の日本の芸術家の中ではいわば日本調を、これは光琳もそうでありますが、いわゆるやまとぶりと申しますか、日本調を復興して、しかもその間に非常に装飾的な効果をあげた画家でありまして、焼きものの方は、先ほども高津先生の御指摘のように独特の焼きものを作り出して、焼きものの方では非常に高く評価されている人であります。
江戸時代に裏松固禅という人が四十何年間苦心をして研究いたしました、それが大内裏図考証という書物になって残っております。これがもとになって江戸末期の皇居の造営も古式に即してやれたわけでありますが、平安宮につきましては、大体どういう役所が宮城内に配置されてあったか、御殿がどういう工合でありましたか、わかるのでありますが、平城宮については全くわかっていないのであります。
しかもその中に冒頭のところから見て、「今日の未解放部落、すなわち江戸時代に穢多、あるいは非人という名前で呼ばれました特殊部落の祖先は、中国から日本に帰化してきた民族の末裔であるというのが私の結論であります。」
だから江戸時代の塾教育だって、あれは適正規模でないとはいえない。そうでしょう。法律に、やたらにいつでも適正規模を最低ばかりとるのは、いわゆる教育的でない表現で、非教育的だと思うのです。そうじゃなくて、文部省はそうでもないけれども、どうも自治省その他から圧迫されてこうなったのだといえばわかりますよ。だから局長のおっしやるのは詭弁ですよ、そうじゃないですか。
むろん自動車の台数が十年たったらこうなる、二十年たったらこうなるという予想が多小狂いがあろうとも、日本の歴史的な既成都市、ことに江戸時代からこの町並みというものはでき上がっておるのです。従ってあの大戦災によって大部分のものがなくなった場合に、これに対処するところの政治的な、行政的な熱意があったならばこういう不幸はみなかったわけなんです。
また、公営住宅等を割り当てる場合にも、できるだけ木造以外の構造の割合を多雪地区には多くするというようなことをいたしておったわけでございますが、ただいま非常に参考になるところの御意見を拝聴いたしましたので、従来から、江戸時代から日本の消防におきましても、火災の場合に屋根を抜いて火勢を衰えさすということはあったわけでございますので、そういうような構造が日本の多雪地区の木造住宅にも何か工夫してこれを利用することができるかどうか
貧乏であり苦しいのは事実であるけれども、ただそれだけということで農民を割り切つてしまう、こうなると、江戸時代の農民、室町時代の、あるいは昔の奈良時代の農民、区別する必要がないから、農民イコール貧乏、そのくらい感じられるくらいな記述がよくあるのでございます。そういうところはもう少し整理する必要があるのじゃないか、そういったような指示をしているところがあります。
また、「尊王攘夷」のところでは、A社に対しては、「天皇と国民との本来の関係を明らかにせよ」、B社に対しては、「江戸時代における天皇に対する国民感情の記述がないと明治維新になって唐突である」、こういうように言っている。
ただ、それだけであったとすると、江戸時代の記述として不十分であろう、そういう指示は多分すると思います。そうして、それがあとでお読みになったように変えられましても、著者がそういうように変えられてもけっこうでございます。先よりもやや要素が余分に入っているのじゃないかというので、幾分前にお読みになった部分よりは幅が広くなっております。
○説明員(太田和彦君) ある教科書で江戸時代の末期の騒がしくなってきた状況を記述したところに、どうしてもその当時の尊王攘夷のことを記入しないと前後がわからない、そういうのでございまして、そこでは尊王攘夷のことをあらまし入れた方がいいだろう、そういう指示をした教科書がございます。それがそれに当たるかどうかわかりませんけれども、多分それをそういうふうに書いたのだと思います。
それで江戸時代の全体がわかりますか、それで。江戸時代の中の士農工商という題目なんだから、士農工商というならば、その身分制度、その封建的な身分制度というものは士農工商だけではなくて、さらにその身分制度が家族の中にもあったという説明が加えられてこそ、江戸時代の封建制度というものははっきりするわけです。
せめて隅田川のあの川の水が、白魚が住んでいたような昔の江戸時代に返れとは申しませんが、宮城のお堀の水程度にまできれいになるくらいに下水の終末処理をする、糞尿の処理をするというところまでやらなければ、総理のいわゆる文化国家建設、社会福祉国家ということに私はならないと思うのです。そういう点についての所信と申しまするか、決意と申しまするかを伺いたい。