1953-12-18 第19回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第3号
江戸時代以前におきましては、無主の地と申しますか、山などについてはたいへんあいまいに放擲されていたことがあるので、何かのきつかけを得まして、そのことについてだれが扱うというふうな判断が下されるのじやないだろうか。
江戸時代以前におきましては、無主の地と申しますか、山などについてはたいへんあいまいに放擲されていたことがあるので、何かのきつかけを得まして、そのことについてだれが扱うというふうな判断が下されるのじやないだろうか。
だんだんとそういう考え方というものでは承知できなくなりまして、神領と称する概念に内容がかわつて参りまして、江戸時代となりますと、そうしたところを明らかに社領——どつかの社殿を持つて、いる神社が持たなければならないものというふうな割り切つた考え方をするようになりまして、そこでいろいろなところで紛雑な争いが起つて来るわけでありますが、江戸時代には、富士山の場合におきましても、大宮浅間神社の側といたしましては
しかしながら日本におきましては、江戸時代のその昔から、近代の日本におきましても、国力不相応な軍備のために大きな国費を費しまして、住宅問題は、政治の面で遺憾ながら取上げることができなかつた。そして住宅の解決は、あげて民間の借家企業というものに依存して参つたのであります。
鎌倉以来朝廷の勢力が衰えまして、政権が武門に移りまして、江戸時代になりましても、国民のそうした位に対する憧憬と執着の念は消え去らなかつたのであります。この時代には何らの位階に対する特権というものはなくなつております。にもかかわらず、諸国の大名、旗本、さては刀鍛冶、或いは浄瑠璃語りといつたようなものまで、皆将軍家、或いは宮内跡を仲介にして宮位を朝廷に秦請いたしました。
○山本(利)委員 竹島は江戸時代の初期から日本と密接な関係があつたものであり、さらに日本領土として宣言されたのは明治三十八年の二月のことでありますから、日韓併合より以前のことであつて、もうこれがわが国の領土であるということは、いささかの疑いもないところであります。
福沢諭吉は、日本には正月の初捕りということがあつたと、江戸時代にはいわゆる岡つ引というのですか、目明しというのですか、正月の二日に仕事始めといつて江戸の市中を徘徊する、正月の二日だか元日だか知りませんが、別に悪いことをする人があるはずはありません。併しその日は何も仕事がなくて役所へ帰つて来ては甚だ縁起が悪いというのです。
東京の場合におきましても、江戸時代以来、やはりそういう一つの、江戸という意味で表現をせられる一つの都市的な地域というものがあり、その下に明治初年におきまして、非常にかつて気ままにおお区とか小区とか、いろいろな区の組織を数十つくつたりしておるのでありますが、それが郡区町村編制法でありますか、その時代に約十五区というものが、だんだんと固まつて来たわけであります。
しかしながら私どもとしては住民を中心に考えますときに、やはり道路は、区道であろうと、都道であろうと、県道であろうと、同じ窓口ですべてが行われることが望ましいことでありまして、私ども東京都の発展過程を見ますならば、江戸時代から八百八町、それにおのおのひさしをおろして参りまして、いわばアパート的性格を持つております東京市を分断するということは、まさに都民生活を破壊する以外の何ものでもないと考えているのであります
従いまして私どもは基礎的な公共団体というものは、先ほど申し上げました通り、東京市自体が江戸時代から今日まで発展した過程にある。
小野田市は石炭については三百年の歴史を持つており、江戸時代からの採掘の跡がある。たぬき掘りなどをやつている。しかもこのごろは残柱掘りといつて、残つた柱をのけます。その上に脱水がある、排水があります。どんどん鉱害は続出して来ている。特別鉱害のものもまだ残つておる。町の底ははちの巣のようになつておる。これで国土の有効なる利用や、保全並びに民生の安定が一体できるか。
それから最後に一点だけ伺つておきますが、私はこれは私の所感ですが、こういうこの取締りの関係の法規ですねを作る場合には、民主主義的にはどこかに穴を作つておくということが当然じやないか、官僚主義的に考えれば、穴のない法律を作るというのでしようが、併しまあ例えば江戸時代の大岡裁判なんというものの昔語りにしてからが、どこかに穴があつて、よほど困る人は逃げられるようになつている。
古い例でありますけれども、江戸時代に寺社奉行が僧侶を呼ぶこと奴隷のことしと熊澤蕃山がこれを批判しておるのでありますが、寺社奉行というような政府の役人が高邁なる僧侶を呼びつけて、それをいろいろ指図する、どうして国民の間に宗教的情操というものが養えるか、立派なお坊さんのように見えるけれども寺社奉行の前に行けばペコペコしているだけだ。そんなことでは国民の宗教的な感情を充たせることができない。
それから請願一九八の、大森、木下地区、ここは千葉県北部に位する利根川の沿線でありますが、江戸時代に非帶に栄えた町でありまして、一時さびれましたが、現在におきましては、東京の効外地区といたしまして、終戰後東京関係の消費者が相当多数入り込みまして、物価の点におきましては、最近驚くべき騰貴をいたしております。
事実、でまあ余りひどく、例えば、この際引用することを差控えますが、江戸時代の川柳、明治、大正、昭和まで、現在まで随分官吏にとつて耳の痛い、痛烈な民衆の批判がありまして、事実官吏の不正、官吏の腐敗を官吏が取締るという考え方が、私法務総裁としては非常にどうも残念に思うのです。
ただ一言だけ古い言葉を引用しておきますが、熊沢蕃山の言つておる言葉に、江戸時代のことですが、官吏の腐敗、或いは僧侶の腐敗、その他の当時の腐敗一般を指して、今の僧侶とか、官吏とかいうものはキリシタンにあらずということだけで世を渡つて行くということを書いています。
これは江戸時代には御承知のように、さむらいは両刀をたばさんでいる、さむらいが両刀をとつてしまうということは、恐らくさむらいにとつては非常な真空状態が発生するように考えたのじやないかと思うのです。併しこの真空状態というものを武器で満たす、或いは軍事的に満たせば、必ずそこに社会的な不安が起つて来る。今度は社会的な不安がその真空を満たすということになつて来る。
恐らく利根川の問題は、これはもう昔江戸時代からの問題でありまして、それを治めなければならない、利用しなければならないことは、今更その土地の地元関係者の声を待つまでもなく、これはもう既定の事実であつて、誰もそれに異論はないと思うのです。
(「その通り」と呼ぶ者あり) 江戸時代に寺社奉行が僧侶を呼ぶこと奴のことしと記録されている。政府の命令に服従する関係に置かれて、何の宗教の尊嚴、何の芸術、何の学問教育の尊嚴があるか。旧日本帝国の政府や文部省が、大学の総長や一般の校長をもその支配のもと呼びつけて命令を下し、訓令し、奴隷のごとく取扱つたことはないと言えますか。本議員は誇張しているのではありません。
まず米国の制度と日本の制度を比較し、それからドイツの制度と英国の制度を比較するというような、あるいは沿革的に日本でいえば、平安朝の医療制度と鎌倉時代の医療制度はいいか、江戸時代の医療制度と今のがいいかということは、言うまでもなく主観とか利益の問題でもなければ、ただ漠然とこうすれば世人が喜ぶとか、こうすれば世人が困るだろうというだけでは割り切れないのでありまして、おのずから一つの標準がある。
従来江戸時代からあり、愛好されました夜店と、最近までありましたいわゆる街商の実態から見まして、非常に困難な状態に陷つております。そこで今代替地が指定されまして、おそらくは相当な建設をいたさなければならぬ。これについては関係当局、あるいは中金等の資金的あるいはいろいろな方面からのあつせんにまたねばならぬ。そうしてこれに対しては相当な年月を要することが考えられる。
そうなると、どうしても各地の水防要員というような人が参加して協力してやるということが必要になると思うのでありまして、そうだとするなら、ここに昔江戸時代に防火に当つた火消しが、実際、仕事に出て消火に当つた場合には手当を出したという古い例があるのでありますが、何かやはり技術を持つた者が自分の利害関係のある所を離れて、他の地域に応援に行つた場合においては、何かこれを経済的に簡單な言葉で言えば日当のごときものを
これは一応調査を要するのでありますが、それが明治時代の工作物であつたかどうか、あるいは江戸時代のある城郭築造のために関係したものであつたかという、いろいろな問題が起つて来まして、その価値の認定は相当むずかしいと思うのであります。私は考古学の專門でありませんけれども、一体それはどの程度まで価値の線を限定するのであるか、それには非常に限定しにくいものもあると思いまして申し上げる次第であります。
これにつきましては取立ててそういう、明らかにこれといつて取上げて申上げることはございませんが、例えば東京都の一番の、在来の都市の在り方、形態といたしまして、世界の都市に比べましても最も封建的であつたと思われますのは、中心部に城郭があるという形態でございますが、それに対しまして、復興計画におきましてはその可なりの部分を公園といたしまして、都民一般がこれを活用できる、又それを通じまして交通の……在来江戸時代