2021-03-24 第204回国会 衆議院 法務委員会 第7号
あるいは、庶民は江戸時代は姓も名のれなかったとか、そういう状況ですから、きちんと制度化されたのは明治三十一年から、百二十年ちょっとですよね。これを長いと見るか短いと見るかというのはありますけれども。
あるいは、庶民は江戸時代は姓も名のれなかったとか、そういう状況ですから、きちんと制度化されたのは明治三十一年から、百二十年ちょっとですよね。これを長いと見るか短いと見るかというのはありますけれども。
歴史教科書では、これまで伝統的に発達段階として不適切だという理由で例えば江戸時代の吉原についても書いてこなかったんですね。慰安施設、どうやって教えるんですか。不適切だと考えませんか、大臣。
江戸時代の吉原は、これいろいろ発達段階の中学生にはなかなか教えるの難しいからといって、これまで教科書には記述されてこなかったんです。じゃ、何で第二次世界大戦中のこの慰安施設はこれよろしいんですか、教科書に載せて。大臣のお考えをお聞かせください。
江戸時代の二百数十年間、日本はオランダから学び続けました。農業に関しては、今もなおオランダから学ぶべきことが多いと思っています。オランダは、九州と同じ面積と人口であるわけですけれども、にもかかわらず、アメリカに次ぐ世界第二の農産物の輸出国であります。しかも、農業の形態は家族農業が中心であります。
サービスエリア、パーキングエリアは、私、埼玉県なんですけど、羽生サービスエリアで独自の、何というんでしょう、江戸時代というか、企画した建物を造ってすごい人気だったりとか、蓮田サービスエリアも東日本で一番大きなサービスエリアを造っていただいたりといったところで、そういったところは民間の手法を使ってすごく努力しているのはよく分かりますが、是非、道路が保有機構とNEXCOに分かれて、どうしても管理したところとか
実は、歴史的に振り返ってみますと、江戸時代、意外と日本は男性が子育て、家族生活に参画をしておりました。明治以降の近代化の中で、男性は軍事、政治、経済、女性は銃後の守りで家族、子育て役割と分断をされてしまい、そして、明治民法の古い伝統を受け継いだまま、今の日本の離婚後単独親権制度が残っております。
伝統文化に欠かせない用具や材料、例えば鼓の革、これは江戸時代から続く革の問屋さんがあったそうですけれども、このコロナ禍で製作から撤退してしまった、そして、鼓の革や麻の加工など、我が国の伝統文化のわざの存続が危うくなっているとのことでございました。
防災でも使われる三助ですが、江戸時代、出羽国米沢藩の藩主である上杉鷹山は、三助の実践を唱えています。自助については、それぞれの負担能力に応じて求められる範囲は異なり、それに応じて共助、公助の守備範囲も変わってくるものです。同時に、社会構造等の変化により、所得のみを勘案して負担能力を測ることがふさわしいのかという議論も必要です。
宮司さんによりますと、楼門とか拝殿まで浸水するのは寛文九年、一六六九年、あるいは正徳二年、一七一二年、この江戸時代の大洪水以来のことというふうに伺いました。まさに今回の水害は歴史的洪水であったというふうに言えると思います。
御案内のように、江戸時代に利根川の東遷という形で、現在久喜市というところで大きく曲げて、千葉県側に、海に流していくという形で、一部支流として江戸川が東京湾に注いでいるところでございます。この曲げた場所などがやっぱり弱くて、昭和二十二年にカスリン台風で決壊して、約千名以上の方々がお亡くなりになりました。大変な被害だったわけです。
また、次のページですけれども、青井阿蘇神社という国宝の神社が人吉市内にありますけれども、この神社は楼門とか拝殿まで浸水したというのは、江戸時代、寛文九年、一六六九年、あるいは正徳二年、一七一二年、その大洪水以来のことだそうで、明治以来つかったことのなかった楼門だとか拝殿がつかるような大洪水、まさに歴史的な大洪水を今回迎えたというふうに言えると思います。
そこで、私、ある経済評論家の話を聞いていましたら、面白い話がありまして、江戸時代に口入れ屋と引込み屋というのがいて、この口入れ屋という、悪い人の口入れ屋は、時の権力者と、米問屋とか油屋とか塩屋といった独占企業と結託して価格を操作してぼろもうけをしたりするそうで、悪徳商人から手数料を取っていたと。また、寺の普請や橋の架け替えなど、いわゆる公共事業で中抜きをして大もうけをしていたと。
これを江戸時代のような鎖国時代に戻すわけにはもちろんいかないわけでありまして、日本こそ自由貿易の中で大きな利益を享受をしてきたわけでありますが、その中で確かなルール、WTOのルールの中で発展してきたわけでございます。
○国務大臣(麻生太郎君) 徳政令みたいな話を言っておられるんだと思いますので、昔、学校で徳政令というのは江戸時代にあったなという話は今伺いながら思いましたけれども、あの亀井静香金融担当大臣が似たようなことを言って私のところに来られましたなという記憶も今思い出しましたけれども、今私どもとして徳政令というようなことをやるつもりはありません。
山梨県は、御岳昇仙峡のところで千年前に水晶が発見されて、江戸時代、水晶を細工する技術が判この文化につながったということでありますので、水晶とか石とかツゲとか、象牙でないもので発展を、判この文化を残していただきたいというふうに思っています。
日本では江戸時代の話です。日本では江戸時代に当たるそのぐらいの時代から、匿名による批判というのが問題となっているわけなんです。ですので、このショーペンハウアーの言葉は、むしろ現代においてこそ重要になってきているんじゃないかなと思います。 この匿名化の問題について議論を深めていただくことを希望いたします。 総務政務官、ありがとうございました。
吉村昭さんの代表作は「戦艦武蔵」なのかもしれませんが、彼は、明治二十九年の津波であったり、昭和八年の津波とか、そういったことを取り上げていて、やはり彼のところを見ると、江戸時代というか、江戸の直前から江戸にわたってもかなりの頻度で東北地方を襲った地震が明記されております。
むしろ、江戸時代の幕藩体制においては、藩が領地領民を統治し、まさに自治がなされていたというふうに言えると思います。それが、明治維新後の廃藩置県以後、日本は急速に中央集権体制となっていったというふうに思います。 そして、この日本に地方自治の概念が初めて規定されたのが、冒頭に申し上げました日本国憲法であり、この八章の章立ては地方自治でありました。
その背景といたしましては、農業用ため池、これ全国に十六万余りあるところでございまして、しかもその大部分が江戸時代以前に築造されておりまして、現在の技術基準に満たないため池、劣化が進行しているため池がこれ多数存在をするという状況でございます。
七〇〇年代には大阪湾への分流工事というのが試みられるなど、その治水の歴史というのは非常に古く、江戸時代には大規模なつけかえ工事も実施されて、そうしたハード対策を積み重ねてきた結果、現在は、ありがたいことに、大きな水害というのは余り起こらなくなりました。
日本では、中世になりますと、織田信長なんかが中心ですけれども、取引、貿易とまではいかない、商取引ができるような、道路の交差点だとか、そういうところに町をつくっていく、それに便利なようなそういう機能を持たせていくというまちづくりが、江戸時代なんかのつくり方だったというふうに思うんですよね。
江戸時代を思い出してください。今回は、大干ばつ、大飢饉です。突然の天災。こういうときに、お代官様、庄屋さんが何やるか。年貢の減免ですよ。ことしは大干ばつだから百俵のところを十俵でいい、まけてあげる、だからそれで、うちから立ち去らないでくれ。国民が疲弊しないように、よその藩に行っちゃわないように。そういうことをやって維持するんですよ、国は。
ぜひ御忠告申し上げたいのは、江戸時代のまるで血も涙もない庄屋だ、悪代官だと言われないように、慈悲の心を持って接する為政者であると国民は今感じておりませんので、そこを重々留意されて対応されることを御進言申し上げまして、質疑を終わります。 ありがとうございました。