1966-06-01 第51回国会 衆議院 建設委員会 第28号
思えば、だれしも思うことですけれども、戦いに敗れまして、国民の大多数が、東京都民の大多数が郊外に、また遠くに疎開いたしました、また爆撃によって大半が灰じんに帰しました、あの終戦の直後に、一人の後藤新平伯のような人が知事に選ばれて、政府と協力してしっかりした都市計画を立てて、われわれ年とともにこれを理解し協力したならば、いまごろは東京の町はいにしえの奈良の都のように一条通り、二条通りと、町全体が原宿駅前
思えば、だれしも思うことですけれども、戦いに敗れまして、国民の大多数が、東京都民の大多数が郊外に、また遠くに疎開いたしました、また爆撃によって大半が灰じんに帰しました、あの終戦の直後に、一人の後藤新平伯のような人が知事に選ばれて、政府と協力してしっかりした都市計画を立てて、われわれ年とともにこれを理解し協力したならば、いまごろは東京の町はいにしえの奈良の都のように一条通り、二条通りと、町全体が原宿駅前
願わくは、後藤新平伯のおいごさんであるといわれておるそのよき御家風を生かされまして、そして、やはり最初の、政治的雑音にわずらわされずに、経済は経済のこととしてなしたいという御主張を貫かれんことを切望する次第であります。
かつてソビエトが資本主義の国々から鬼か悪魔のように見られていたとき、われわれの先輩の後藤新平氏は、断固として日ソの国交を開きました。第二次世界大戦後、同じく自民党の鳩山一郎氏は、断固として日ソ国交回復をなし遂げたのであります。(拍手)このとき鳩山一郎氏は、日本の右翼勢力から親ソ容共という非難を受けました。
もし疎開が進み、都会の半分、三分の二近くが廃墟となったときに、一人の後藤新平伯のような先見の明のある人が都知事に選ばれ、それを助けるまたいい政治家がおったならば、結局大東亜戦争とは、日本民族に残った封建的脳梅毒をなおし、そうして農業改革を断行する機会を与え、都市改造を断行する機会を与えた戦争であった。
そこで四十八年というと、あとまだ八年かかるので、そんなことでやると、その間にまた汚物を流すような工場ができてくるとかなんとかいうことで、いわゆる百年河清を待つがごとし、いまのお話では十年河清を待つのだけれども、これは何省がなにする、かに省がなにするというようなことじゃなくて、変なあれですけれども、後藤新平さんのような人が出まして、大いに科学的技術を総合的にやる、新渡戸さんなんかを使ってやるというような
構想を明示するという点でいうならば、後藤新平という人がいましたけれども、大きな構想を明示をしていかなければならないのじゃないか。私は前からこういう気がするんですよ。第三次計画も発表されましたけれども、東海道新幹線を今度延長して、山陽新幹線だ、岡山まで延ばす、といっているわけでしょう。実に私はけちだと思うのです。ああいうことは。
あの外務大臣は、あれは後藤新平のおいっ子だ、後藤新平は、大正十年東京の市長をやっているときには、ヨッフェなどを呼んで日ソの国交回復を先べんをつけた先覚者である、そういう先覚者のおいでありながら、何で一体そのおじの血を引かないで、こういう反動的な外交方針をやっておるんだろうか、その点をよく教えてやっていただきたいと。
戦いに破れて東京の町が廃墟になったときに、せめて一人後藤新平伯のような方がおって、都市計画をちゃんとつくって、一条通り、二条通りとつくっていたならば、今日の東京はいにしえの奈良の都のように美しい町になり、東京の町全体が原宿通り、神宮外苑近くのようになっていたであろうと、時期を失したことを、政治に互いに先見の明と責任感が十分でなかったことを残念に思う次第でございます。
私ども少年のころの、後藤新平氏とカラハン氏との交渉を思い出します。あるいは北京における芳澤大使とソ連大使との交渉を思い出します。こういうことについてはあまりこだわらないように、ぜひとも前向きでやってもらいたい。日本人は、これによってずいぶん外貨の節約になるのじゃないか、かように思うのです。
私、たまたまかって、よほど前ですけれども、後藤新平さんが秋田鉄道をつくるときに、これは輸送でもうけようとしないんだ、この辺を開発してもうけるんだ、こう言っておられた。
よって議長は、中央選挙管理会委員に大浜英子君、山浦貫一君、藤牧新平君、岡崎三郎君、山崎広君を、 同予備委員に近藤英明君、小島憲君、中村勝正君、仲井英雄君、米山雄治君を指名いたします。 —————・—————
議長は、中央選挙管理会委員に 大浜 英子君 山浦 貫一君 藤牧 新平君 岡崎 三郎君 山崎 広君 を指名いたします。 また、中央選挙管理会委員の予備委員に 近藤 英明君 小島 憲君 中村 勝正君 仲井 英雄君 米山 雄治君 を指名いたします。
————————————— 中央選挙管理会委員及び同予備委員指名の件 委 員 大浜 英子君(自推薦) 山浦 貫一君(同 ) 藤牧 新平君(社推薦) 岡崎 三郎君(同 ) 山崎 広君(民社推薦) 予備委員 近藤 英明君(自推薦) 小島 憲君(同 ) 中村 勝正君(社推薦) 仲井 英雄君(同 ) 米山 雄治君(民社推薦)
地震の問題ですけれども、関東大震災のときに、私若かったのですが、後藤新平さんが内務大臣だったのです。それで、こういう災害があっても、災害を少なくするような根本的の都市計画を立てたわけですね。あの人は、いまから考えても非常に偉かった。そうして土地の強制買収とか、そういうことを計画して着々と進めていった。
○臼井説明員 今回の新潟地震に際して、かつて関東大震災のあとの対応策について、当時の後藤新平総裁がいろいろ考えたことが縮小されて、それが今度の戦災の際にも非常に災いしたというふうに、これは私も当時関東震災で深川で焼け出された者の一人として、まことに痛感するわけでございます。
したがって、遠藤さんはいつでもこのことについては自分の良心に誓って証言をする、こういうように言っていらっしゃいますので、本人も快く協力しようという希望もありますので、ぜひこの遠藤さんと、それからできればその当時やはり読売の担当記者をやっていらっしゃいました、いま報知新聞の事業部にいらっしゃいます小林新平さん、このお三人を呼んでいただきたい、こういう希望でございます。
それから小林新平さん、これも当時やはり読売の事件記者で、現在は報知新聞の事業部につとめていらっしゃいます。とりあえずこの二人を参考人に呼んでいただきまして、さらに参考人の証言いかんによっては、現在警視庁の通信指令部におられまする冥賢岩雄さん、警部補でございますが、この人を呼んでいただきたい、こう思うのであります。
思うてみますると、終戦直後、東京が焼け野原になったあのとき、せめて後藤新平伯のような人が知事に選ばれていたならば、いま東京の町は区画整然、せめて名古屋の町くらいに、またいにしえの奈良の都のように一条通り、二条通りと——原宿駅前のあの神宮通りを見るたびに、私は夕焼け雲を眺めながら、こんな町になり得たものを、安井都政などという俗物行政に十数年も都政をまかせ、また東竜太郎さんといいますけれども、実際は安井竜太郎
今こそ私らは、後藤新平さん、大隈さんが持ったような、ああいう今の行き詰まりを打開するためには、もっと一つの夢と構想を持った政治をしないと、やはりどうしても――吉田、岸、池田はみんな官僚のくそおもしろくない政治ばかりやっておる。
それにつきましては、後藤新平時代からの道路があのままでたくさん残っておるという御批判もございますけれども、実際に現在の財政投資の状態から見ましてやむを得ずに二十年先までのことは考えている。
後藤新平という人が鉄道を広軌に変えようというふうに考えたけれども、国会で反対をされて失敗をしたという前例があるように聞いておりますけれども、同じふろしきを広、げるならば、日本国中を全部広軌に変えてしまうといったぐらいの調査なり構想を立ててみたらどうかという気がするわけであります。
後藤新平さんが、大震災の面後、大ぶろしきだといわれた道路計画をつくった。実際あの数十年前に、後藤新平さんの抱負をもっと生かしておればよかったんですが、その何十年間おくれた戦災の後でも、その考えがなかったんですね。だから、今交通面で、東京都というものが非常な動脈硬化にかかっているような状態だと思うんです。とれと同じようなことが、私は、このエネルギー行政に言われるんじゃないか。
後藤新平みたいなのが出てこなければいけない。原子力においても同様である。もうそろそろ三木先生は後藤新平になっていい時期である、私はそう思う。その二つの点についてもう一回承りたい。 それから、第一の点について私が申し上げたのは、原子力の重要性をわれわれは知っておるから、また将来に対する期待性を非常に持っておるから、発言権を強めておくために的確な資料を作れという意味なんです。