1949-12-23 第7回国会 参議院 運輸・労働連合委員会 第2号
併しGHQの某氏が帰国されるのに横浜の埠頭に送りにおいでになつたことは事実であります。それが私は怪しからんと申すのではありません。それでありますならば、議会に一分間でも出席されるところの誠意があつて然るべきだと思う。今増田官房長官の御説明によりますれば、医者に行つたついでに銀座へ寄られた。医者に行つたついでに国会にお寄りになつたらどうでありますか。
併しGHQの某氏が帰国されるのに横浜の埠頭に送りにおいでになつたことは事実であります。それが私は怪しからんと申すのではありません。それでありますならば、議会に一分間でも出席されるところの誠意があつて然るべきだと思う。今増田官房長官の御説明によりますれば、医者に行つたついでに銀座へ寄られた。医者に行つたついでに国会にお寄りになつたらどうでありますか。
○中野重治君 簡單なことですが、これはむしろ外務省の人に聽くべきことだつたのですが、若し何か外務省の方から委員長なり委員会の方に話が出た機会に、アメリカのワード総領事が帰国された際、横浜で新聞記者会談で、いわゆる満州地方に今残つている日本人の数についての発表があつたとなつているのですが、あのことに関して日本外務省からは委員長へは何らかの話がありませんでしたか。
終戰以来今日まで連合軍総司令部の御好意により、六百余万の同胞が引揚げて参りましたが、なお海外には、ソ連地区三十万、中共地区七万の日本人が帰国を待ちわびております。
(拍手)終戦後すでに四年、その帰国の日を一日千秋のの思いをもつて、あらゆる困難、耐えがたき労苦に耐えつつも、今日なおやむを得ず異境の地に残留せられておるところの人々を思いますときに、またそれらの人々を持つところの家族の方々の心情を考えますときには、いまさら私がここに申し上げるまでもないことであります。従つて、本決議にもありますように、国民及びその留守家族の集慮は、今や頂上に達しておる。
帰国の一日も速かならんことを念願しておりまするところの留守家族の心情を思いをいたしますと、誠に心痛の至りでございます。本特別委員会といたしましては、留守家族の心情を体しまして、これが実現化のためあらゆる方面に折衝して参つたのでありますが、今まで何らの手がかりが得られなかつたのであります。
昨年の……昨年じやありません、二十二年の四月に、向うの王使節が見えまして、話がだんだん進みまして、大体日本車輛の五輛その他で合せて二十輛の車輛の商談がまとまることになりまして、そうして当時の貿易管理をいたしておりました司令部の認証を得ようという間際になりまして、相手方の王氏が帰国したというために、この問題が進展しなかつたのであります。従つてこの商談は成立しないままで、商談が不調になつた。
さきの天然資源局の農業課長をしておられましたデーヴイス氏は帰国の際、過露な税金は土地改革の計画を水泡に帰せしめるであろう、租税政策または過重負担により、農民は戰前の事情に復帰するを余儀なくされるであろうということを申しておられるのであります。農業者の負担がいかに重いかということについては、私どもはここにたくさんの資料を持つておるのでありますが、いまさらこれを申し上げません。
しかしながら同地の対中国共産軍との戰況は、国民政府軍に不利であつて、福建の命数も予測にかたくない状態に置かれましたゆえに、帰国したいという意思を伝えまして、湯の許可を得まして、吉川、照屋、中尾の三名は、九月下旬に中国船に便乘して日本に帰つたと申しております。これは吉川の陳述であります。
学田地で、九月中旬だつたと思いますけれども、第一の帰国がございました。そのときに意見を提出しましたけれども、それは聽き容れて貰えなかつたのです。そのときに、日本人が約十五名ばかりおりました。そのときの帰国者は八名でした。女が五名、男が三名。どういう者が帰国命令を受けたかといえば、子供、家族連れ、又は病人ばかりだつたのです。
○証人(今井かね君) 私は帰国ということに対して、大して希望していなかつたというのではありません。やはり私も祖国を持つた人間ですから、帰りたいということは希望しておりました。しておりましたけれども、あちらにおりまして、自分が学んでいることが、大変中共の日常の学者というものに、非常に私は興味を持ちました。初めは興味でした。
そしてもう一つ、去年の八月に、帰国問題がハルピンで起りまして、その時に私達の中に林という東京出身の男の方がおりました。その人は地方に出て、ハルピンの街に出て帰国運動の話を聞かれて、病院に帰つて、吹聴されたのです。そのためにいろいろ検討会、担白会なんかありまして、その担白会の怖さに、担白会が済んで闘争会に掛けるという事実を聞いて、林さんは逃亡されたのです。
次に講話に関連いたしましての問題といたしまして、朝鮮人の処遇の問題であるのでありますが、朝鮮人は敗戰前、日本国民であつたのでありまして、敗戰後朝鮮の独立が既定の事実となつております関係上、外国人と認められているのでありまするが、併しながら嚴密の意味におきましては、すでに朝鮮に帰国した人達乃至大韓民国人として大韓民国の在日代表部にすでに申入れまして登録せられているといつた人達は別といたしまして、結局朝鮮人
そうして西岡氏は、文部省の庇護があつたかどうか、とにかく帰国して追分分校の主事となつておるのであります。而も絶えず沖縄戰のときに如何に自分が協力したかということを豪語しておるということも聞いておるのであります。而も実は私一方的な話を聞いて問題にしたくないので、いろいろと調査をいたしました。
この引揚げの経過につきましては、非常に急であつたようでありまして、本年の六月二十七日に東北中共の政府から、突然日本に帰すという通知が各人に示達せられまして、引揚者は十分の帰国の準備をするひまもなく、それぞれ翌日各地に集結いたしました。それから奉天に集まり、大連に送られた、こういう状況でございます。
そういうようにしたいということで、ドツジ公使は御承知のように比較的早く帰国をされる、こういうことに相成つたのであります。いわば予算を通じて示されましたところのドツジ・ミツシヨンの精神を、今度は新しく金融界に滲透せしめるところの一つの機関といたしまして、こういうものが作られた。かように承知をいたしておるのであります。
日本側といたしましては、終戦後できるだけ帰国できる者は帰国せしめるような措置を講じてまいつたのでありますが、いろいろな事情で国へ帰れない者がある。またなお残つて最後まで日本で勉強して帰りたいという熱意をもつている者が、ただいま申し上げましたような数字になつているのであります。
これらの團体は、太平洋戰爭で日本が大勝利を博したとか、近くブラジルにも、日本の大船團が在伯同胞の帰国希望者を迎えに來るとかいう、まつたく荒唐無稽な大宣傳をなし、祖國日本が太平洋戰爭に大敗を喫したという眞実を口にする日本人は片つぱしから暗殺するという、まつたく血で血を洗うような事件を起し、在伯同胞を不安のどん底に突き落し、さらにはブラジル政府に対しても非常なる迷惑を及ぼしたことに対し、私は、去る九月二十二日