1958-03-26 第28回国会 衆議院 法務委員会 第16号
その点は、佐竹委員も、戦後の刑において姦通罪が削除になったことを御記憶であろうと存じますが、この姦通罪が決して放任行為、許された行為、そこで抜け道ができたというふうに理解すべきものではなくして、このような行為は刑罰をもって強制すべきものではないという、もう一つ高い、高次元の観点から、道徳あるいは倫理の問題として、個々の人の良心の問題として理解すべきものだという考え方に立ったものと私どもは考えるのでございます
その点は、佐竹委員も、戦後の刑において姦通罪が削除になったことを御記憶であろうと存じますが、この姦通罪が決して放任行為、許された行為、そこで抜け道ができたというふうに理解すべきものではなくして、このような行為は刑罰をもって強制すべきものではないという、もう一つ高い、高次元の観点から、道徳あるいは倫理の問題として、個々の人の良心の問題として理解すべきものだという考え方に立ったものと私どもは考えるのでございます
さらに、道徳、倫理の面より云々されましたが、もしあなたのお説のようにいたしましたならば、日本の刑法は半分ほどなしにしたらいいのです。ところが、やはり必要なのです。ことに、あっせん収賄罪は、イギリスにもドイツにも必要でないのに、日本がここに新たに作らなければならないのは何か。それは倫理、道徳の面において非常に欠けているからなのです。
(拍手)この公けの地位、権限を私有化して利益と結びつくところから公務員の倫理が乱れるのであります。規律がゆるむのであります。腐敗が生ずるのであります。公務員が、自己の職務の権限外の行為であっても、その地位を利用して他の公務員の職務行為をあっせんするのであるならば、いわば間接的に他の職務に関与することとなるのであって、これに関係して金銭その他の利益を得るということは何らの合法性もない。
○矢嶋三義君 スポーツ団体、ことに社会体育のスポーツ団体等は、自主的に問題を処理していくのが最も望ましいと思うんですが、これらを指導するに当つては、また学校体育を指導するに際しても、私は、映画界に映倫というのがあるように、一つの倫理綱領みたような基準を設けて、それに反して学校体育あるいは社会体育を非常に汚すようなチームあるいは学校は、公けの試合等に出場することを何らかの形で規制をされる、抑制をされるというような
しかし、この法律の目標とするところは、報道、教育、教養、娯楽というものか、均衡のとれるもの、調和のとれるものを希望いたしておりますから、全くの倫理規定でありまして、この法律が改正になることによって、明確な指標ができ、放送が健全化されて行くだろうということを期待しておるわけでございます。
しなければならないというような問題がありますし、特にそうなりますと、民放連または放送連合に加入しない業者は、波が出せない、こういう問題にぶっつかるので、業者の自主的な面を幾ばくかでも規制してはならないという意味で、現在の段階においては、各自、放送番組審議会を作ること、しかも審議会の意見も尊重しなければならないと規定してございますが、尊重しない場合の罰則も何も設けてございませんから、尊重をしなければならない、こういう倫理規定
この規制は、ただいまの郵政大臣の御説明にもありました通り、法律面では、法文の上では放送事業者の良識にまかせられておる倫理規定でありますことは明瞭であります。その点は、その限りにおいては、心配がないといえば心配はないのであります。
少くとも倫理規定を設けまして、法律では番組審議会を作らなければならない、番組審議会の意見を尊重しなければならない、こういう倫理規定を作ることだけでも番組の向上に役立つであろうということは、これは論を待たないのであります。
ただ非違を摘発いたしますほかに、やはり公務員の倫理性と申しまするか、さようなものを高揚いたす積極的方面も必要であろうと存じまして、人事院といたしましては、公務員に対する研修の制度を漸次規模を拡げて行いつつある実情でございます。
カットスロート・コンペティションと言ってもいいようなあさましい競争のあることを聞いておる、これはまことに遺憾しごくなことである、しかしながら、戦争に従事しておりまするものに職業的な軍人、あるいは戦争のもっぱら行われておりました封建社会というようなところにおきましてだんだんその間に武士道というものが発達してくる、今はただ利を得んとして進んでおられまする諸君も、その間に一種の道がある、当然守っていかなければならない倫理
○猪俣委員 永田さんのお話を聞いておると、映画の倫理性の前に道徳教育がなっておらない、賃金なんか要求しておる教員なんかけしからぬ、それからまた、悪政治家というのは監督が権力者に反抗する趣味からやるのだというようなことになりまして、永田さんはりっぱな映画製作者であるからさような批判をなされるかもしれないが、私の見るところは、現在の日本において、映画製作者と申しますか、映画企業と申しますか、このくらい自由商業主義
ただいま映画倫理規程管理委員会の委員長でありますところの高橋先生が、倫理規程の制定並びにその運営に対し、また先ごろ改組されたことについてきわめてアウト・ラインを御説明になり、しかして管理委員会の任務ということの一端について誠意あるお話をされました。私は、日本の映画製作者の立場から一言申し上げて、各委員の御参考にしていただければまことに仕合せと思います。
欲情を刺激するような、わいせつにわたる文書につきましては、これはもう刑法に規定があることでございまして、これの検挙、処罰の励行は戦後つとにきびしく実施をして参ったのでございますが、この売春防止法施行後における取扱いにつきましては、なかなかむずかしい問題がありましょうけれども、なおこの面からの強力な、さらに範囲の広い取締り、処罰ということは当然考えられなければならぬ問題でありますが、それでは、映画の倫理化
○三田村委員 当委員会で審議中の売春防止法関係の二法案、並びに年来当委員会で問題になって参っております青少年犯罪の問題、さらにやがて当委員会に付託される予定になっておりますいわゆる暴力追放に関する立法、これらに関連いたしまして、世上長い間論議の焦点になっております映画の倫理管理の問題であります。
先般来たびたび申し上げた通り、最低賃金制の問題は経済政策、特に中小企業振興策と密接な関連があるのでありまして、最低賃金制度の実施についての危惧の念も、劣悪なる労働条件の克服という社会倫理的な目的は十分認めつつも、同時に、果して政府において中小企業の支払い能力向上のための諸施策をあわせ持っておられるかという点におきまして実は心配されておるように考えられるのであります。
もう一つは、教育上の問題として、いろいろ最近倫理的な性格を持った映画の問題が起っているのでございまするが、映画及びその他の喫茶とか、ああいういわゆる社会環境における青少年の保護、育成をどう考えていくべきかという施策を何かの形で、お示しいただいたら、質問しなくて、それだけ拝見すればいいわけです。
しいて外務次官がそれほどまでに道徳倫理的にこれを取り扱って拒否しなくてもいいのではないですか。そういうことをやられると、かえって何かその裏にあるのではないか、口ではそう言っていても、結局しまいには核兵器を持ち込まれることは拒否できなくなるのではないか、もっとそんたくすれば、腹の中では核兵器で装備して強い防備力ができた方がいいのではないかと考えているのではないかとまで言いたくなるわけです。
しかしこれは最初に申し上げましたように、私どもは適正な医療を算定いたします際に、その特別措置、税措置の問題を入れて考えますと、これは非常にめんどうな複雑な問題になりますので、一応倫理的には引き離した考え方で算定いたしております。用いた資料から申しますと、今のようなことになるわけでございます。その点は一つ御了承を願いたいと思います。
この点につきましては、いろいろ御議論のあるところでございまして、法務当局としましては、そのニュース・ソースの秘匿という問題につきましての新聞界に厳然として存する倫理、慣行というものにつきましては、終始敬意を払い、尊重して取り扱うべきものであるという考えを持っておりますが、本件の立松記者の逮捕は、犯罪事実そのものに該当するわけであります。
誠意を持って団交に応じなければならないという倫理規定はあるけれども、罰則も何もあったものではない。結局商工業者の団結は、最初は問屋筋や大企業者に向いている。しかし、そのうちに向けて見たけれど、これはどうにもならぬというので、その団結のほこ先はあわれなる弱い消費者の方に向いてくるということは、火を見るよりも明らかである。
、(牧野委員「ますます必要だと思いますな、道徳を教えたり勤務評定をやることは」と呼ぶ)今議席から牧野先生のお言葉でありますが、われわれが古くから覚えておる言葉に、修身齊家治国平天下、まず身をおさめ、それから家をひとしゅうし、そうしてその当時の治国は日本でいえば藩くらいのものであって、それを治め、平天下が全国を治めるということであろうと思うが、文部省のおひざ元でそういうようなことがあって、いかに道徳倫理
就任当時、当時の文部大臣灘尾弘吉さんも私も、文部省というところは大事なところで、倫理性ということについては特に厳格にやろうということでやってきておりましたので、そういうことのあろうはずがない。そういう無根の事実を根拠として、いかにも文部省は、やれ賭博の巣であるとか、石川五右衛門みたいなやつがたくさんいるとか、でたらめを言うにもほどがある。
しかしながら情操教育、芸術的な陶冶、品性の陶冶というものは、単に善悪の倫理的な面からのみの陶冶ではなくて、やはり芸術的な面の品性の陶冶ということが重大である。そのために明治の学制頒布以来、音楽や図工というものは、何も一流の音楽家に仕立てるとか、あるいは美術家に仕立てるということではなく、そういった品性の陶冶をねらってやってきているのです。その時間をぴんはねするというようなことはやはり問題がある。
あなたが文部大臣になられましてから、あなたは、道徳教育がきわめて大切であるから、道徳科というか、倫理科というか、修身科というか、その名目はいずれになるかわからないけれども、何とかそういった科目の独立を考えておるということを新聞記者諸君にも話しておられるようであります。
そこでもう一つお尋ねをいたしますが、来年の四月一日からあなたはそういったような時間その他についても成案を得てやられるとした場合に、斎藤課長はこれは教科外の考え方も可能だというようなことを申されますけれども、名前が倫理科とか道徳科とつこうとつくまいと、やはり一つの目標を立てて、学習指導要領についても一定の学習指導要領なるものを出して、小中高等学校の教科として児童生徒に教育することが、名前がどうあろうとも
そういうふうな制度を拡充発展させまするためにはどういたしましても、何と申しますか、一つの社会保障の倫理というものがなければならぬと思うのであります。これが、さようなことに対する用意なくして、ただいたずらに給付々々とやっておりますというと、しまいには全体がつぶれてしまうというようなおそれもなきにしもあらずと思うのであります。
特に自分のうちや庭はりっぱにしますけれども、公共的な施設とかそういうものに対しては日本人というものはどうも倫理観念が低い、こういうお言葉に対しては全く同感でございます。
しかしいいものの中にはあながち古事記、日本書紀に頼らなくても新しい時代の新しい倫理、新しい道徳というものははっきりあると思う。あなたは非常に古いものを美しいと感ずるでしょうが、昔の変な着物をぬいで洋服を着ており、くつをはいておると同じように、思想も新しい時代に求めて幾らでも日本の民心を指導すべきものが私はあると思う。
しかし、これを実際に矯正し、善良な風俗にのみしょうということになりますと、これは旅館だけを責めてもいけないし、その旅館の従業員だけの責任でももちろんありませんし、国民の倫理観念が一般に高揚して、たとえそういう施設が提供されてもそれを利用する者がなくなるような道徳水準にまでならなければ、これは多かれ少かれ、この危険はあるものと私たちは考えております。