飽くまでもロシア側でそれは出させます。
すなわち千島列島中のエトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイの諸島は過去三百年来日本の領土であつて、安政年間の下田條約におきましても、「今より後日本国とロシアとの境は、エトロフとウルツプ島との間に在るべし」というようなことが明記されているのであります。また明治八年の條約におきましても、エトロフ水道以東の千島諸島が樺太と交換に日本の領域となつたのであります。
それではヤルタの秘密協定は、一九四六年の二月十一日になされたのでありますが、その関係する点を申上げますと、「ソヴイエト連邦が左の條件により連合国に與して日本国に対する戰争に参加すべきことを協定せり、二、一九〇四年の日本国の背信的攻撃により侵害せられたるロシア国の旧権利は左のごとく回復せらるべし。(イ)樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソヴイエト連邦に返還せらるべし。
諸君、日本共産党がソビエト労農ロシアの共産党と関係がないならば別なことだが、そんな共産党というものは、世界には存在ができないのです。従つて、彼らの祖国はソビエト労農ロシアである。(拍手)従つて、ソビエトの農業政策は本質的には農地の国有であり、集団耕作である。全面供出の圧力的、圧迫的な政策である。
もう一つお伺いしたいのは、小麦国際協定に加盟していないロシアなりアルゼンチン等の食糧の供給事情はどうなつておるか、これらの協定に加盟していないアルゼンチンなりロシアが、一体どの程度輸出力があるか、また現在これらの国が輸出する場合に、その輸出価格の見通しについても、ひとつこの際十分御説明いただきたいと思うのであります。
是非帰して貰いたい、これは関東公署の主席に向つても嘆願をいたしましたし、同時に主席に向つてこれからロシアの司令部に行くのであるということも明らかに申しまして、嘆願をいたしました。当時ゲルハノフという中佐が私に面会いたしまして、彼曰く、中共の関係のことはソ連としては何にも言われません。私はそれに向つて、ソ連の進駐下にあるところの市政府があなたの管轄に、指導下にないとはどうして言えますか。
労働歌を歌いスターリン万歳を唱え、勿論ロシアにお世話になつたのでありますから当然のことであります。労働組合の任命した幹部に対してあきたらないのがみんなの総意でありまして、そこで乗りましたのが二十八日でありますが、三十日に総選挙が行われまして、全部組合の幹部が代りました。そして不肖私らが梯団長になり、そして以下幹部が決まつたのであります。
私はロシア文字は見えませんから分りませんけれども、そういうようなはつきりした記憶があります。併しそれが実行されたかどうかは又別問題であります。
ベルサイユ條約は、旧ロシア帝国から革命によつてかわつて出て来たソビエト同盟を除外したために、その運命は結局どうなつたか。これは第一には経済恐慌——今、戰後再び大きい経済恐慌が来ておりますが、そのために関係諸国が破産をし、そうしてドイツにはナチスが興り、遂に第二次大戰に落ち込むことになつたのであります。
殊に武器使用は、これは私はなかなか愼重を期さなければならん問題でありまして、ロシア革命におきましてロシア帝國が倒れた、あの場合も軍隊が民衆の反動に対しまして銃器をとつて発砲いたしました。数十人が斃れ、死に、負傷したという事件が起きました。それが切つ掛けとなつて革命が成功したのであります。
これは御承知のように当初日本政府におきましては、千島、樺太、サガレン、ロシア等に約三十万人の日本人が抑留されておつて、その者が大部分本年度中に全部帰るものと推定をいたして今日まで來ておつたのでございますが、御承知のように、ソ連邦におきましては、日本人は九万五千きりおらんと言うておりますし、その九万五千きり本年度中に帰つて來ないとするならば、約十万人といたしまして、その七〇%の七万人程度が失業者になりはせんだろうか
連合國の一つとしてアメリカがありソビエトがありながら、アメリカの場合はそういうふうにして行かれながら、ロシアの場合はどうして行かれないのか。そういうような意味合いにおいて、何とか各党の代表者が早く帰してくれと言つて懇請に行かれるように、民自党の方、政府において講じていただきたいということが一点。
○小杉イ子君 ロシア辺では女の船長なんかいるということを聞きますが、日本では婦人のそういう人がございますかどうか。婦人というものは誠に移動の激しいものなのでございまして、その保險料金に差支えると思いますがどうでしようか。そういう移動の激しいものでございますかどうか。その点で保險金の方は、給付の点が違つて來るのではないか。
問題は名簿を発表して欲しい、そういうことでそれの特別な例としてシーボルト議長は出してありますが、この問題の國際性に鑑み、そんなものは持出さない方がいいんじやないか、そのことなら共産党も同じことをロシア共産党に電報を打つておるので、むしろそれでも持出して置いた方がいいんで、特にシーボルトを持出すことはないと思います。
それからタス通信から入るのが、これはロシア人の新聞記者が持つて來るのでありまして、私達には分りません。ただ私が不思議に思つておつたのはアカハタであります。アカハタは私もあすこで二三回見ております。これはどういうふうにして來るか、これは全然見当がつきませんし、ただ雜誌なんかは引揚船が行つた場合に、宗像肇、それから高山正雄、この両名がナホトカに來まして船を探します。船の中に必ず雜誌があります。
私達はこの部屋に日本人側新聞記者、その頃日本人五名、支那人七名が一緒におりましたが、直ぐ隣りの部屋にロシア人の新聞記者がおりました。情報部長、これは官舍がありまして官舍に帰りますが、その外の新聞記者は殆んど新聞社におりますから、朝から夜晝までお互いに話合つております。そこで明日はこういう仕組で以てある收容所を一つ行つてやつてやろう。
昨日ながながと御説明申上げておりますが、先ず第一に反動ということをどういう尺度によりまして、誰が決定して、そうして思想が違つたら残すという権限をロシアで持つておるかどうか、そうして日本人がそれを行使しておるか、日本人にその権限を與えておるかどうか、こういう質問を第一條項に書きました、次は民主グループの連中らはすでに御承知かも知れません。
そしてソ軍側の大尉が個人個人に、顔色を見ながら、お前はロシア語ができるか、或いは、家庭の状況はどうだ、二、三ケ月ここにおつて勤務して呉れないかということを漠然と申したのであります。何百人か並べられた中に、不幸我々七名が選拔されたのであります。そうして直接ソ軍側の指示によりまして、我々が我々の中隊から乘船見合せのため削除いたされました。
そのときにロシアが君らの身分というものを認めて作業をさせないということを君らは何と思うのか、そういうことにまで君らは恩義を感じないのか、それじや馬鹿者だ、恩を感じないような者は馬鹿者だというような暴言を吐いております。尚増渕証人の言葉にもありました通り、こちらからもその言葉が相呼應するものがあるのじやないかというお話があつたと思いますが、その通りであります。
これはロシアの司法制度にそういうものがあるということを聞いておりましたけれども、それから又中國において中共軍によつて……
そしてロシア側の院長が女の院長であつたそうでありますけれども、その院長に信用がなくなりまして、そして外の方へ轉属になつた。そのあと後任者として本木元少佐が日本側の責任者となられたというふうに聞いております。
○高橋証人 ロシア人の院長、向うの軍医少佐の方でありましたけれども、非常に日本人をかばつて呉れたということは私なんかも感じております。そうして藥物なんかの点にしても、こちらが請求すれば、大体手に入るものは無理をしても手に入れて呉れるといつた状態であります。
この患者の退院については全然、或る程度百名なら百名の退院患者を用意して置きまして、收容所からトラツクが参りますると、それに何名と向うの要求するだけの人員を帰すということが、これはロシア人の院長の命令であります。
○委員長(板谷順助君) そうすると今度の試驗というのは、例えば英語とかロシア語とかフランス語とかいう各國語に亘つての試驗を全部設けることになるのですか。
南洋その他一切、ロシアあたりも入れてもよろしいが、大部分が千対四十以上になつております。アメリカ、イギリス、フランスのごときは千対二十くらいになりますけれども、日本は大体その中間を行きよつたのです。そういうふうでありましたが、どうしても千対二十程度のところまで低下して行かすべきであると思うのでありますから、この問題は強力な手を打つて貰いたいと思うのであります。
それから特別に一つ申上げたいのは、船に乘るときに、共産主義そのものを礼讚する意味ではありませんが、共産主義のロシアを毆歌し、又感謝し、從つて日本に帰つて又それらを宣傳する、実践するという誓約書を書いて堂々と宣誓しなければ船に乘せられないらしいのです。私共もやらせられました。或いはこれは國際的儀礼かも知れません。
そうでありますが、酒井先生のことについても申上げますと、非常に熱心にやつて頂いたこともありますが、今の栄養失調とか或いは入院患者の薬のことについては、私はいつも原田君と一緒に酒井先生をロシア人の院長のところにやつておりますが、酒井先生は医者の所まで行かれずに、そうして途中で、原田君にだけ頼んで帰る、積極的なことがないという関係上、私の方からやかましく言われたことも一、二回あります。
○證人(阿部忠君) 私は少くともそれらの者が残された……、民主裁判によつて残されたという者は、それは向うのロシアの取調によつてそれに該当する者、一應その審査を通して向うでも残すべきだと思つた者が、恐らく残された。例えば特務機関の一部、佐官級の一部、そういう者は蒙古におるときも帰されないのだ、そうして最後まで残されるのだということを傳聞しております。
○証人(原田春雄君) 蒙古人民共和國にはソ連からいわゆるロシア人が相当数見えておつて、その人々がどういう仕事をしておつたかということは審らかでありません。私が直属しましたいわゆる日本人俘虜收容所の蒙古人民共和國における最高の責任者は、ソソロバルムという少將でありました。少將でソソロバルムという名前の方が最高の命令を出しておられたのであります。これは蒙古人であります。
○証人(原田春雄君) 重態に陥つた患者は日本の軍医がこれを診断して、工場に施設しておりました工場病院の院長がロシア人の婦人の方であります、そのロシア人の院長の許可を、日本の軍医の診断書をロシア人の院長が見て、それによつて許可をして入院の許可書を出すこともありますし、院長がわざわざ、日本の軍医の診断書に疑いを持つた場合には兵舎に來て、それを見た後許可書を出すこともありましたが、いずれにしましても、ロシア