○
議長(
大島理森君) 本日表彰を受けられました他の議員諸君の挨拶につきましては、これを
会議録に掲載することといたします。
おめでとうございました。
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穀田 恵二君の挨拶
このたび院議をもって、永年在職議員の表彰を受けました。望外の喜びであり感謝の念に堪えません。一九九三年、京都一区での初当選以来、四半世紀にわたり、私を
国会に押し上げていただいた京都と近畿ブロックの支持者の皆さんに心からお礼を申し上げます。
私の政治活動の出発点は、反戦平和の思いです。母校の立命館大学には、侵略戦争に学徒が動員された過ちを反省し、二度と若者が銃をとらないとの決意を表した、反戦平和の象徴・わだつみ像が建立されています。
私はこの決意を自らのものとして、戦前の暗黒時代に、侵略戦争に
反対し平和と民主主義の
実現を主張してきた
日本共産党に入党しました。
日本国憲法は、「
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないやうに決意し」、
国民主権、恒久平和、基本的人権の原則をうちたてました。
私は、この原則を政治に生かすべく、「わだつみの悲劇を繰り返すまい」「憲法を政治に生かそう」を政治信条として貫いてきました。
九五年、阪神淡路大震災が発生しました。発災直後から被災地を訪れ、被災者
支援と復興は「人間の復興」を理念とすべきこと、政治の要諦は「
国民の安全」と痛感しました。被災者の生活再建に対する公的
支援の
実現を求め続け、被災者・市民の皆さんと
共同を広げ「被災者生活再建
支援制度」の創設に努力してきました。
私は、二十一年間
日本共産党の
国会対策委員長を務めてきました。議会とは、議会制民主主義とは何でしょうか。
国会の最大の任務は、
政府の暴走をストップし、
行政府に対するチェック機能を果たすことです。その点では、憲法の平和主義を根本から破壊する安保法制、さらには、
公文書の改ざん・ねつ造・隠ぺいという、
国会を愚弄し議会制民主主義を根底から覆す事態に対して議会の存在が問われているといわねばなりません。
国政は
国民の厳粛な信託にもとづくものでありながら、
国民の声を無視する強権政治が横行しています。その背景には選挙制度があります。小選挙区制を廃止し、多様な民意を正確に反映する選挙制度への改革を訴えるものです。
いま「戦争する国づくり」が進められ、憲法九条を変えようとする
動きが強まっています。
国民は、この策動を断じて許さないでありましょう。暴走政治と対峙し、立憲主義回復・安保法制
反対の
国民的運動の中で培われた「野党は共闘」の声が、「市民と野党の共闘」として発展しつつあります。
私は、
国会議員としての今後の活動の中で、憲法を生かす新しい政治の流れを
実現するために全力を尽くす決意を改めて表明して謝辞といたします。
…………………………………
山本 公一君の挨拶
この度、院議をもって永年在職議員表彰の栄誉を賜りましたこと、誠に身に余る光栄で心より感謝申し上げます。
私を国政へと送り出し、その後も支え続けて頂いたふるさと
愛媛の皆様、厳しくも適切なご指導・ご助言いただきました先輩議員や同僚議員の皆様、故今井勇先生やその後援会の皆様、そして私の後援会・友人・事務所スタッフ、親族
関係者に厚く感謝申し上げます。
私の初出馬は
平成五年の第四十回総選挙でしたが、当初私は県議
会議員として候補者を選定する立場におりました。候補者が決まらない中、私に出馬の
要請があり、悩んだ末、父友一に
相談したところ、
国会議員・市長等の経験ある父は「悪いことは言わん、
国会議員だけはやめておけ」と。それは家族を犠牲に、あるいは路頭に迷わせるかもしれないそんな厳しい世界だという思いであったのだろうと思います。しかし最後には「お前でないとだめだと、皆がどうしてもと推挙してくれるなら議員冥利に尽きるではないか」と背中を押してくれ、地方と都会の格差を是正し地方の成長・発展のために微力ながらもふるさとに貢献をしたいと出馬を決断したのです。
選挙後、八党派による細川連立政権が樹立され、五五年体制が終焉、私の
国会議員活動は野党からのスタートとなりました。その後政治改革の
議論が再び起こり、翌
平成六年には政治改革四
法案が成立し、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へと選挙制度が変更となったのです。党内での選挙区
調整が困難を極める中、同じ選挙区地盤を抱える西田司先生から、「私が比例にまわるから、若い山本君、君が小選挙区で出てくれ、若い者がやらんといけん」と有難い言葉を頂いたのです。その後小選挙区で八回の
国民の審判を受けますが、「ふるさとが私の原点」という気持ちを忘れることなく今日まで有権者の声に耳を傾け、国政へ反映すべく取り組んでまいりました。
平成九年の第二次橋本改造
内閣で環境政務次官として初の
内閣の一員となった際には、我が政治の師であった加藤紘一先生から「環境は票にはならん。だけんど環境は田舎者(大企業のない地方出身)の君にしか大事を成すことはできんのだ、しっかりやれ」と激励を受けます。そして同年の気候変動枠組条約第三回締約
国会議(COP3)に出席し、先進国の温室効果ガス排出削減の数値目標を規定する「京都議定書採択」に携わることになりますが、今思えばここが環境をライフワークとする大きな分岐点であったのだろうと思います。
その後、
内閣委員長、総務副
大臣、沖縄北方特別委員長、国家基本政策委員長、倫理・選挙特別委員長などを務めさせて頂き、
平成二十八年八月第三次安倍第二次改造
内閣において環境
大臣兼
内閣府特命
担当大臣(原子力防災)を拝命致しました。気候変動
対策と経済成長の両立やパリ
協定の着実な実施、東
日本大震災からの復興・創生、国立公園満喫プロジェクト、資源やごみ問題、環境
教育、大気環境、原子力防災
対策など対立も辞さず信念をもって臨んできたつもりです。
現在、
日本は最大の社会的課題で懸念される人口減少社会を迎えるとともに社会保障や資源・エネルギー問題、多発化する自然災害、憲法改正・安全保障などをはじめ様々な課題を抱えております。
国民の代表として議席を与えてくださった皆様の思いに応えるためにも、真摯にそして力の限り国内外の諸課題に取り組むとともに、引き続き
日本に活力と潤いを与える政治を心がけていく所存です。
終わりに、政治家の妻として五人の子供の母として陰に陽に私を支えてくれた妻照子と家族に心からの感謝の念を表し、御礼のご挨拶とさせていただきます。
…………………………………
鴨下 一郎君の挨拶
本日、茲に院議をもちまして永年在職議員の表彰の栄誉を賜り、感無量であり身に余る光栄であります。
平成五年七月の総選挙にて初当選以来、連続九期当選を果たし、在職二十五年を迎えることとなりました。
四半世紀に渡り国政の舞台に立つことが出来ましたのは、私をお育て支えていただいた
地元足立区の皆様方、ご
支援ご
協力を賜りました友人各位のおかげと心より厚く御礼申し上げます。
初当選以来、ご指導いただきました多くの諸先輩、同僚議員には感謝の念に堪えません。
加えまして、私を温かく見守る母、妻、並びに家族にも感謝の思いを伝えたいと思います。
私は、東京都足立区で父多吉・母光江の長男として生を受けました。幼少時から、父の結核と闘病する姿を見て来て、医師になる決断をしました。その後、心療内科を専門とし治療にあたる中で、現代の心の病を治すには、まず社会病理を直す
必要性があると
考え、政治を志しました。
政治家として厚生労働副
大臣を経て安倍改造
内閣で環境
大臣を拝命、続く福田
内閣では、G8北海道洞爺湖サミットのメインテーマであった地球温暖化
対策の国際
交渉を環境
大臣として務めました。
自由民主党が下野した三年三カ月間に於いては、東
日本大震災での自然の驚異に、国家として政治の役割の重責さを実感いたしました。復興に際しては自民党「福島再興に関する委員長」として
政府に対し、一刻も早く除染を進めるようその
法案作成に寄与いたしました。
また、「社会保障と税の一体改革」では野党側の実務者として民主、自民、公明の三党合意をまとめることが出来たのは、社会保障は与野党の争点にしてはいけないと万感の思いの下であり、急激な少子高齢化社会に
対応し、持続可能な制度とするため一体改革を合意をし、政治の大切さ・力強さを感じた一時でありました。
与党復帰後、
国会対策委員長・消費者問題に関する特別委員長などを歴任し、微力を尽くしております。
政治に、心療内科の専門性を活かし、働き方や一人一人のいきがいという観点から、年金・医療などの社会保障
関係、都市の住環境や水・大気、生物多様性などの環境分野についても、院内外等含め
意見を述べる機会をいただいております。しかしライフワークとしては、いまだ道半ばでございます。
結びに、本日の永年表彰の
意味を改めて道標とし、初心を忘れず政治舞台で努力し、次世代の
国民に
日本に生れ育つことを誇れるよう、職責を果たして参ることをお誓いいたし、更なる諸先輩、同僚各位のご教導をお願い申し上げ、御礼のご挨拶といたします。
…………………………………
塩崎 恭久君の挨拶
本日、院議を持って永年在職表彰の栄に浴しますことは光栄至極であり、
地元愛媛、松山の皆様、多くの先輩、同僚、友人、後輩など、ここまで私をお育て頂いた全ての皆様に感謝申し上げます。また、大学
教育の
責任を負いながら、今日まで私の最大の支えになって来てくれた妻千枝子をはじめとした家族、親族、事務所スタッフにも感謝の意を表したいと思います。
初当選の翌年、小選挙区制度が導入され、四小選挙区に対し現職が七人だった
愛媛県では、公認を巡り
議論が難航、結果、私が
平成七年に
参議院に転出致しました。
平成十二年、再び
衆議院に復帰、今日を迎えました。
衆議院、
参議院、そして再び
衆議院と、途切れることなく院を移動したのは、憲政史上私が唯一の例と聞いています。
この間大蔵政務次官、
衆議院法務委員長、外務副
大臣、
内閣官房長官、自民党政調会長代理、厚生労働
大臣などの職を経ながら全力投球して参りました。
折しもバブル崩壊後の「失われた十年」は二十年以上に及び、「閉塞感」はアベノミクスの奏功まで蔓延し続けました。私たち立法府に属する者に課せられた使命の本質は、グローバル時代の
日本にとって最早旧来型の
行政主導の国家
運営では、発想の転換を伴う問題の根本解決は難しく、政治主導の国家
運営を如何に
実現するかでした。私にとってこの二十五年間は、いわば新しい時代に相応しい三権分立の再構築への海図なき航海であったと思います。
新しい時代に相応しい
行政を目指した橋本行革において、たじろぐ当局を説得して金融ビッグバンを決断。また不良債権問題による金融危機時には、与野党を超えた政治主導により危機管理法制を議員立法で導入、政策新人類との呼称も頂きました。またバブルの
責任論から始まった大蔵省改革の際には、日銀法改正、金融監督機能の分離独立という歴史に残る大きな改革に寄与しました。
増えゆく児童虐待に対しては、厚労
大臣任期中、事務方の消極
姿勢を排しながら児童福祉法を約七十年ぶりに二年連続、全会一致にて抜本改正し、児童の権利、家庭養育優先原則などを明定しました。
東
日本大震災後には、野党でありながら、わが国で初めて立法府に独立した
国会事故調査
委員会を
設置し、原発事故の原因究明を行う議員立法や、独立し、専門性も高い原子力規制
委員会を創設する議員立法を成立させたことも新しい立法府の役割を示すこととなりました。
世界は、
日本が如何にして超高齢化など深刻な人口問題を克服し、一人ひとりが納得する人生を歩めるようにするかに注目しています。経済や暮らしが発展する中、健康寿命を延伸し、かつ
国民負担も納得いく範囲に止める、という命題に答えを出すには、ITやAIなど科学技術の粋をフル活用するとともに、社会システム全体も改革する、という大きな課題に取り組まねばなりません。
引き続き多くの皆様のご指導を頂き、
国民の幸せ
実現に向け、全力で精進をして参る事をお誓い申し上げ、感謝の言葉と致します。
…………………………………
志位 和夫君の挨拶
このたび、永年在職の表彰を受けたことに対して、心からの謝意を表します。私を、四半世紀にわたって
国会に送り出していただいた、旧千葉一区、比例代表南関東ブロックの有権者・支持者のみなさんに、あつくお礼を申し上げます。
私の初当選は、一九九三年七月の総選挙でした。この選挙では、「自民か、非自民か」にもっぱら焦点があてられ、「共産党は選択肢の外」とされて、たいへんに苦しいたたかいを強いられました。国際的には、旧ソ連・東欧の崩壊という事態を受け、「共産党は時代遅れ」といった
議論が広くとなえられ、わが党にとって逆風となりました。初挑戦で、私は、二重の逆風に遭遇しましたが、
地元・千葉県のみなさんの懸命のご
支援により初議席を得ることができたことは大きな喜びであり、この勝利があったからこそその後の
国会活動が可能になったと、深い感謝の気持ちをもって当時を思い起こしています。
それから四半世紀をへた今日、私たちをとりまく情勢には、大きな前向きの変動がおこっていることを実感しています。
国際的には、昨年七月七日、国連で、人類史で初めての核兵器禁止条約が採択されたことが象徴するように、一握りの大国中心の世界秩序は過去のものとなり、逆行や複雑さをはらみながらも、すべての国ぐにが対等・平等の権利をもって国際政治の主人公となる新しい世界が姿をあらわしつつあります。私自身、国連
会議に参加し、核兵器禁止条約採択にむけた活動を行いましたが、広島・長崎の被爆者を先頭とする世界の反核平和の運動、それと連帯した
日本共産党の立場が、二十一世紀の世界の本流となっていることに、大きな確信と希望をみいだすことができました。
国内の情勢では、とくに、二〇一四年から一五年の安保法制・戦争法
反対の論戦と運動のなかで、市民と野党の共闘によって
日本の政治を変えるという、新しい画期的な流れがつくられています。共闘の発展とともに、長い間、
日本の政界を覆ってきた「共産党をのぞく」という壁がとりのぞかれ、
日本共産党も参加しての共闘が、さまざまな形で当たり前のようにとりくまれてきています。
市民と野党の共闘にこそ、未来がある。これが私たちの確信です。いったん踏み出した「共闘によって政治を変える」という道を、多くの方々と手を携えて、とことん追求していく決意を申し述べて、永年在職の表彰をうけての謝辞といたします。
…………………………………
安倍 晋三君の挨拶
この度、院議をもって在職二十五周年の表彰を賜りましたこと、心より厚く御礼申し上げます。
幼い頃から政治は私の身近なところにありました。自分には政治家としての能力があるのか。疑問を持ちながらも、政治への思いを募らせる中、「今度はお前が頑張れ。何とかなるはずだよ」。病床にあった父のこの言葉を聞いたとき、私の志が固まった瞬間でありました。
国政に初めて出馬した日、傘もささず、全身ずぶ濡れの私に、
地元の皆様から温かい言葉をかけていただいたことを思い出します。あの恵みの雨から、私は国政に送り出されました。
その選挙では、政治改革の
方向性を巡る混乱から、三十八年間、政権を担ってきた自民党が初めて下野しました。政権復帰までの一年間を通じ、政権の地位にあること自体を目的としてはならない。確たる信念に裏打ちされた政策を実行する決意を新たにいたしました。
次の時代を担う子どもたちが、「この国に生まれて良かった」と思えるような国を作ることが、私たち、政治家としての責務です。誰もが夢に向かって頑張ることができる、何度でもチャンスにあふれる社会。
そして額に汗して頑張った人が報われる、まっとうな社会、今日よりも明日はきっと良くなると信じることができる社会をつくる。その上で、世界に開かれ、世界の真ん中で輝く国をつくる。この二十五年間、粉骨砕身、取り組んでまいりました。
私が二度目の
内閣総理大臣を拝命した時、
日本経済はデフレ不況に沈んでいました。「人口が減少していくからもう成長なんてできない」こうした諦めが蔓延していました。最大の問題は、この諦めでした。しかし、今や、力強い経済成長が
実現し、
日本経済は、デフレ脱却への道筋を確実に進んでいます。
日本は、やればできる。
吉田松陰先生が好み、祖父の座右の銘であった「自ら反みて縮んば、千万人といえども吾ゆかん」。まさに、批判を伴う政策も、確たる信念を持ち、たじろがず、進めてまいりました。平和安全法制がなければ、現下の緊迫する北朝鮮情勢にしっかりと
対応することはできなかったと思います。
今、改めて振り返ってみると、これまで、多くの方々に支えられてきました。困難な時でも、傍にあってくれた郷里の皆様、後援会の皆様、先輩・同僚、友人、そして、妻、母、家族がいました。本当に、ありがとうございます。深く、感謝を申し上げます。
「初心忘るべからず」。私の好きな言葉です。全ては国家・
国民のため。政治家を志した時の初心を忘れることなく、年齢を重ねて、その時の自分が進歩しているのかということを常に省みながら、全身全霊、今後とも一層、力を尽くしてまいります。
…………………………………
浜田 靖一君の挨拶
本日、
衆議院本
会議において在職二十五周年の表彰を賜りましたことは、身に余る光栄であります。これも
平成五年の初当選以来、変わらぬご
支援を私に対してお与えくださった
地元の皆様のおかげであります。その友情と愛情に対して、あらためて心底から感謝申し上げます。
私は「政界の暴れん坊」と世間で評された故浜田幸一の長男として生まれ育つ中で、自然に政治に対して興味を持ち、政治に志を抱きました。政治家になる前も政治家になった後も数えきれないほど多くの先輩、同僚、友人からご教導いただいたわけですが、その中でも大学卒業後、秘書として仕えさせていただいた故渡辺美智雄先生の教えほど大きなものはありませんでした。先生の座右の銘であった「同心成就」という言葉は、立場や利害が違っていても、事に当たり、同じ志の人間が集えば、必ず事を成就できるという教えであり、この言葉こそ、私が政治活動を続ける中で、指針となった教えでした。そのような教えのもと、私の目指したのは「一隅を照らす」ことのできる政治家であり、それゆえに私の取り組んだのは、例えば私が当選した当時は未だ建設的な
議論が難しかった安全保障の分野であり、また取り組む議員がほとんどいなかった捕鯨問題でした。後者は我が国と他国の利害、主張が鋭く対立する問題であり、国際
会議に何度も出席する中で国際政治の実際を学ぶことができました。
安全保障分野においては、
平成二十年、麻生
内閣において防衛
大臣を拝命致しました。二十一年には北朝鮮が人工衛星実験と称するミサイル実験を行ったことに対して初の破壊措置命令を防衛
大臣として発する事態となりましたように、私の議員生活はほとんど冷戦終結後の東アジアにおける軍事バランスの急変及び国際情勢の構造変化の時代と重なっております。今後も我が国を取り巻く環境の変化の中で、国家と
国民を防衛できる安全保障政策の構築を、
国民の理解を得ながら推進していく一翼を担えるよう精励していく覚悟です。
思えば、自民党が野党時代の
国会対策委員長、平和安全法制で大荒れになった安全保障
委員会委員長、予算委員長等、人一倍汗をかく仕事に起用いただいたことは政治家としてまことに欣快とするところです。
最後に、国家の繁栄と
国民の幸福を追求するために一人の議会人としてたゆまぬ努力を続けていくことをお誓いして、謝辞と致します。
…………………………………
岸田 文雄君の挨拶
本日は、院議をもって、永年在職表彰の栄誉を賜りました事に対し、厚く御礼申し上げます。既にお亡くなりになられた先輩方も含め、今日までご
支援をいただきました全ての皆様に心から感謝申し上げます。併せて、今日があるのは、事務所スタッフ、家族など身近で私を支えてくれた人々の存在のおかげでもあることを忘れてはなりません。ありがとうございました。
私が初当選したのは、政界において、政治改革、新党ブームの嵐が吹き荒れた
平成五年の第四十回
衆議院選挙でありました。選挙の結果、宮沢政権が退陣し、細川政権がスタートすることにより、政治は単独政権時代から連立政権時代へと移り変わりました。その後も私は一貫して自由民主党の議員として活動してきましたが、その間、二度の野党を経験し、また、いわゆる「加藤の乱」といった大きな政局もいくつか経験しました。それによって、政権交代の
意味、野党の役割といったものを学ばせて頂きました。
また、
与党時代には、
内閣府特命
担当大臣、外務
大臣、防衛
大臣等を経験しました。こうした経験によって、政治の安定が、外交や経済の安定にいかに重要であるか等を学ばせて頂きました。
この二十五年間、微力ではありますが、私を
国会に送っていただいた方々の負託に応えるべく、全力で取り組んで参りましたが、併せて、激動の生きた政治を経験し、多くのものを学ばせて頂きました。その貴重な経験は、人間として、政治家として成長する上で、一つとして無駄なものはなかったと振り返っています。この貴重な成長の機会を与えていただいた事に対しても多くの方々に御礼を申し上げる次第です。
そして、多くの方々に感謝を申し上げれば申し上げる程、自分は多くの方々の期待に応えるべく十分努力し尽くしたのだろうかという自問自答に行き当たります。
二十五年表彰という栄誉を頂くに当たり、心からの感謝の気持ちと共に、今一度、多くの方々のおかげで成長させて頂いた成果をしっかりと発揮し、一層、国政のために、粉骨砕身、努力を重ねなければ、という強い思いを感じる次第です。少子高齢化、人口減少、不透明な国際情勢等、多くの課題を抱える我が国の社会を、誇り高く、豊かに、持続可能な形で次世代に引き継ぐため、引き続き努力して参ります。ありがとうございました。
…………………………………
野田 聖子君の挨拶
本日、院議をもって永年在職議員表彰の栄誉を賜り、万感胸に迫る想いです。これも、日頃より惜しみないご
支援をもって国政へ送り続けてくれた
地元岐阜の皆さま。折に触れて応援して下さった
全国各地の皆さま。私の政治活動を支えてくれた事務所スタッフ。そして、政治家として活動することを心配しながらも、常に隣で叱咤激励し、何事も私以上に喜び悲しんでくれる母の弘子や家族のおかげです。心より感謝申し上げます。
思い返せば、
国会議員であった祖父野田卯一の
支援者とのご縁から始まった政治家としての道のりは、波乱万丈でした。昭和六十二年、岐阜県議
会議員選挙に二十六歳で初当選。その後、
平成二年の
衆議院議員総選挙での落選を経て、
平成五年の総選挙で初当選を果たしました。以来九期連続で当選させていただき、その間、郵政
大臣、消費者
行政推進
担当大臣、自由民主党総務会長、総務
大臣など、数多くの役職を拝命させていただきました。また、
衆議院議員としては「発達障害者
支援法」を始め、複数の議員立法も手掛けてまいりました。その中でも二〇一八年に成立した「政治分野における男女
共同参画推進法」には特別な想いがあります。一九四六年、
日本に初めて女性
国会議員が誕生して以降、国政における女性議員の割合は全く増えませんでした。そのような
状況にあって、候補者の男女均等を目指すこの
法律は、
日本の政治を大きく変えるきっかけになると信じています。そして、起案から携わり
提出した本
法案を、所管
大臣として受け止めることができた瞬間は、とても感慨深いものがありました。
その一方、初めての国政選挙での落選や、自民党から離党勧告を受け、無所属での選挙戦となった郵政選挙。自民党が下野した政権交代選挙での比例復活当選など、様々な困難もございました。しかし、そういった時期があったからこそ、本当に大切な人たちの繋がりができ、そこで培った経験が私を大きく成長させてくれたのだと思います。
私は自分の信念を曲げることができず、人から見れば不器用な生き方しかできません。そのため、
支援者の方々には多大なご負担を掛けることもあったと思います。しかし、そんな私を見捨てることなく、精一杯支えてくださった皆さんには本当に感謝してもしきれません。今日という日を一つの区切りとし、座右の銘である「義を見てせざるは勇無きなり」を胸に、今後も自らが信じる道を邁進していく所存です。皆さまには今後もご指導ご鞭撻賜りますようお願い申し上げ、謝辞とさせていただきます。
…………………………………
前原 誠司君の挨拶
本日、院議をもって永年在職議員表彰の栄誉を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。
平成五年七月の初当選以来、連続九期、二十五年間、
衆議院議員を務めることができたのは、旧京都一区、現京都二区の有権者の方々はもとより、多大なご
支援、ご
協力をいただいた全ての方々のご芳情の賜物と存じます。特にご生前、我が事のように懸命に私の活動をお支えくださった方々、同様に現在、お世話になっております方々、同僚議員・同志、事務所スタッフ、母、妻には感謝の言葉も見つかりません。いかなる時も私を信じ、献身的に、無償の愛情で支えていただきました。「
日本一の後援会」を作り上げてくださった全ての皆様に、改めて心から感謝と御礼を申し上げます。誠にありがとうございました。
一貫して政権交代可能な二大政党制を目標に掲げ、「政権交代を
実現するためには、野党も外交・安全保障政策で現実的な
対応をしなければならない」との強い思いから、民主党の
責任者として有事法制・
国民保護法制の修正合意・成立に尽力しました。
政権交代後は、国土交通
大臣、外務
大臣、
与党政調会長、国家
戦略担当大臣を拝命し、羽田空港の国際化、
日本航空の再生、インバウンドを増やすためのビザの緩和やオープンスカイ
協定締結そして日の丸LCC(格安航空会社)設立(ピーチアヴィエーション)などを実行。さらに関西空港と伊丹空港の公設民営一体運用化(コンセッション)の
実現、港湾の集中と選択そして拠点港指定、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)制度の確立、防衛装備の
共同開発・
共同生産を行うために武器輸出三原則の見直し、復興予算や「社会保障と税の一体改革」の三党合意取りまとめ、
政府と
日本銀行の
共同文書策定など、様々な仕事をさせていただきました。
ただ、政権交代可能な二大政党制はいまだ視界不良であり、また「経済成長を
前提とし、小さな
政府で自己
責任に軸足を置いた社会モデル」は限界に達しているにもかかわらず、新たな選択肢を明確に示し切れていない
現状は、大いに反省しなければなりません。
「All for All」社会を
実現する。すなわち、みんなの税でみんなの不安、悩みを解決し、すべての
国民が将来に対して希望と生きがいを持てる「中福祉中負担」の社会を
実現する。その目標達成に向け、今後も「全ては国家
国民のために」使命感を持って政に取り組むことをお誓い申し上げ、御礼と決意の表明とさせていただきます。
…………………………………
玄葉光一郎君の挨拶
本日院議により永年在職表彰を賜りました。
二十五年間
国会議員を務めることができたのは、ひとえに
地元福島県の皆様、後援会の皆様のご
支援のおかげであり、深く感謝を申し上げます。
また妻をはじめ家族、親戚、事務所スタッフには何かと心労をかけてまいりました。この機会に感謝の意を表します。
初当選は
平成五年(一九九三年)七月で、最後の中選挙区制度下でありました。選挙制度を含む政治改革が争点でした。
当時は自民党の県議
会議員でしたが、無所属での出馬を選択しました。半年後には小選挙区比例代表並立制度が導入されることとなりました。
以来、制度の狙いでもあった政権交代のある政治の
実現は、福島県の発展、地方分権改革、
日本の外交力強化と並んで私の
国会活動のテーマになりました。
平成二十一年(二〇〇九年)、本格的政権交代が
実現しました。この民主党政権時において、私は二年半にわたり閣僚を務めさせて頂きました。
二十五年間で最も衝撃的な出来事は、
平成二十三年(二〇一一年)三月十一日におきた東
日本大震災です。福島県の被災は地震・津波に原発事故が重なり、未曾有かつ壮絶でありました。私は
地元選出の唯一の閣僚として、最後の砦たらんと決死の覚悟で、この不条理ともいうべき事態と向き合いました。
七年を経た現在、根強い風評被害や医師不足などを抱えながらも、福島県の大半の地域には震災前の日常がほぼ戻ってきました。しかし、双葉地方や飯舘村、南相馬市小高地区など福島第一原発周辺の復興は緒についたばかりです。事故原発の廃炉も順調とはいえません。
日本全体に目を転じると、人口減少問題や地方の衰退などに非常に強い危機感を感じます。
これからの
日本は量より質の時代です。ひとりあたりの稼ぎ(GDP)はもちろん、心や制度も含めたクオリティー、生活の質や豊かさの総合力で世界をリードし、法の支配・民主主義・人間の尊厳・平和の
実現などで国際社会の大枝となっていくべきです。
二十五年はひとつの区切りではありますが、通過点でもあります。この難局に当たり、今後さらなる勇気を振り絞り、福島県の復興・発展そして次世代へ質の高い豊かさを引き継げるよう全力を尽くしてまいります。
…………………………………
茂木 敏充君の挨拶
本日、院議を持って永年在職表彰の栄誉を賜りましたことに対し、厚く御礼申し上げます。
これまでご指導頂きました諸先輩方、そして今日までお支え頂いた
地元栃木の皆様、
全国の
支援者、家族や事務所スタッフをはじめとする全ての皆様に心より感謝申し上げます。
平成五年七月に初当選以来、地域の発展、
日本の将来を真剣に
考え全力で走り続けて参りました。そして
地元の皆様のお支えで九期連続当選をさせて頂き、この在職二十五周年を迎えることとなりました。
初めて
政府の役職に就任した通産政務次官では「二〇〇〇年問題」に直面。二〇〇三年、外務副
大臣時代にはイラク戦争直前、
総理特使として現地に赴き、また、イラク戦争後も政情不安が続くバクダットを世界の要人として
最初に訪問しました。
これまで、四度の入閣(沖縄・北方、科学技術、IT
担当、金融・
行政改革、経済
産業大臣、経済再生・人づくり革命)を経験させて頂きました。四十七歳で初入閣した、沖縄・北方、科学技術、IT
担当大臣。まさに「IT革命」が始まった時でもありました。リーマンショックに直面した金融
大臣。自民党が政権復帰直後に就任し、
日本経済の再生やエネルギー問題等に関わった経済
産業大臣。それぞれ全力で取り組み、深く記憶に刻まれています。良い仲間、スタッフにも恵まれました。
自民党では広報本部長、幹事長代理、政務調査会長、選挙
対策委員長など、党務全般に携わって参りました。
野党時代と
与党復帰後に二度務めた政務調査会長では、党の政策
責任者として大胆かつ実行可能な政策を立案してきました。選挙
対策委員長としては、衆院選・参院選・統一地方選の三大選の陣頭指揮にあたり、多くの仲間の当選に奔走しました。選挙を通じて四十七都道府県の同志と絆を深めた時でもありました。
また、年金問題のさなか務めた
衆議院厚生労働委員長。現在も務める自民党栃木県連の会長。全て私の政治人生においてかけがえのないものとなっています。
私は現在、経済再生、人づくり革命
担当大臣として、日々職務にあたっております。
最優先課題である「
日本経済の再生」をより確かなものとする。また、
日本が直面する少子高齢化という大きな壁を克服し、誰もが活躍出来る「人生百年時代」を築いていく。
本日頂いた栄誉を胸に、これからさらに国家
国民の為、使命感を持ち、邁進することをお誓いさせていただきます。
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日程第一
文化財保護法及び
地方教育行政の
組織及び
運営に関する
法律の一部を改正する
法律案(
内閣提出)