○藤田幸久君 民進党、そして参議院では民主党・新緑風会の藤田幸久でございます。
今日は、四月に広島で
外務大臣サミットがございますが、その前の
質問時間、今日いただきましたので、広島の原爆記念碑碑文に関連して
質問並びに提案を申し上げたいと思います。
去る土曜日、三月二十六日のTBSの「報道特集」という番組で「「道徳再武装」の
世界一周」という番組が放映されました。これは、一九五〇年にスイスのMRAという、道徳再武装というNGOの
世界大会やアメリカ議会などへ歴訪して参加をした
日本の政財界の指導者七十二名の訪問団の記録映画をベースにした番組であります。
日本がGHQの占領下にあり、マッカーサー司令官の許可を得て、戦後初めて出国を許された
日本の大型訪問団、その中には、最年少の国
会議員として、後の中曽根康弘元総理も参加しておられました。
中曽根弘文先生の御配慮で、九十八歳の中曽根総理もこの番組の中で当時を振り返っておられました。この一行の中に、広島から浜井信三広島市長、楠瀬常猪広島県知事、
山田節男参議院議員が参加をしておられました。
そこで、資料の一枚目を御覧いただきたいと思います。
そのスイスのMRAの
会議場で浜井信三市長がおっしゃった言葉、これは自伝からの引用でございます。「原爆市長」という浜井市長の自伝からの引用です。この場所は、戦後、ドイツ、フランスの和解の橋渡しとなった場所で、四千人のドイツ人と二千人のフランス人、その中には、ドイツのアデナウアー首相、フランスのシューマン外相等も
出席をされた、その和解の場所での話であります。読み上げます。どんな過ちがあっても他人を責めない。ここには、ごめんなさい、私が悪かったとありがとうという言葉しかなかった。心を変えれば世の中は平和になるという理念をそのままこのマウンテン・ハウスでは実行していた。
その後、この一行はワシントンに行くわけですが、そのことが次の小堺吉光さんという方の「原爆慰霊碑・碑文の陰に」という本に出ております。浜井市長が原爆慰霊碑に碑文を刻むことを思い付いたのは、かつて
米国はワシントン市のアーリントン公園にある無名戦士の墓に詣でたとき、その墓碑銘から受けた深い感動があったからである。
そこで、再び浜井市長の自伝からの引用になります。私は、この碑にはこの前に立つ全ての者に共通の祈りと誓いを刻みたいと思ったのである。エメリー・リーブスがいみじくも言ったように、その人々の殉難は、生き残る我々が将来の戦争の悲劇をいかにして防止するかを学び得たときに
意味を持つことができるのであって、この碑が現実に平和への努力につながらなければ、それはただ追想の石でしかなく、単に犠牲者を悲しむ一編の墓碑銘でしかなくなる。この碑の前にぬかずく全ての人々が、その人類の一員として、過失の
責任の一端を担い、犠牲者にわびることの中に、私は、反省と謙虚と寛容と固い決意を見出すのであった。その考え方こそが
世界平和の確立のために
是非必要だと考えた。この碑の前に立つ人は
日本人だけではない。それがどの国の人であろうと同じ考えでなくてはならないと思ったのであると。
それから、次のページでございますが、これは、浜井信三追想録の中で高田正巳さんという方とのやり取りです。その高田正巳さんという方が、開戦当時の緊迫した情勢下では、軍隊に対して加えた真珠湾の一撃と、この世で初めての原爆を無警告で広島に投下した、済みません、字が間違っていますが、投下したことを比べれば、人類に対する罪としては
米国の方がずっと重いと考える。あなたはどう思いますか。に対して浜井市長の答えは、君は原爆投下当時広島にいなかった。私は
現場にいて自分も被爆し、かつあの惨状を目の当たりに見たのだ。そこに大きな違いがある。この世の終わりかと思われるあの
状況を身をもって体験した私の頭にまず浮かんできたのは、誰のせいでこうなったかの詮索ではなくて、こんなひどいことは人間の
世界に再びあってはならぬという、これも間違っていますが、痛切な思いだけだったとあります。
こういうやり取りについて、まず広島出身の
岸田大臣から今までお読みになったことについてコメントをいただきたい、感想をいただきたいと思います。