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参考人(
阿部秀保君)
皆さん、おはようございます。
宮城県
東松島市長の
阿部秀保と申します。
震災から間もなく四年と四か月ということで、ここまで歩んでこれたというのは、
先生方、
皆様の
おかげと、そして国内外からたくさんの御
支援をいただきました。そういった御
支援の
おかげでここまで
復旧復興を歩んでこれたということで、改めて感謝申し上げたいというふうに
思います。
また、今日は参議院の
環境委員会に
参考人ということで御案内いただきまして、
発言の機会をいただきました。本当に光栄に思っております。今回御案内いただいて、
東松島市の
取組を
是非全国に発信したいという
思いもございますし、そういった
思いで今日は
参考人として
意見を述べさせていただきますので、よろしくお願いしたいというふうに
思います。
それでは、この
パワーポイント、
カラー刷り資料でありますが、一ページ、表紙はこういった
取組で
処理したんだという
写真でございます。
それでは、二ページからお開きいただきたいと
思います。
東松島市は
仙台市から北東に約三十キロということで、
松島町、
日本三景松島と、それからお隣が
石巻市ということで、間に挟まれた約十掛ける十の百平方キロの市でございます。
平成の大
合併、
平成十七年の四月一日に
合併いたしました。旧矢本町、
人口が約三万一千
余り、それから旧鳴瀬町が
人口が一万二千
余りということで、
合併当初は四万三千をやや超える、そういった
規模の町でございます。
東松島市は
自衛隊松島基地がございます。それから、
奥松島という、
松島の北側になるんですけれ
ども、そちらの方を有していますので、そういった
意味で
東松島市ということで
今町づくりに取り組んでおります。
三ページ目を目を通していただきたいというふうに
思います。
津波でありますが、野蒜の一番高いところで十・三五メートル。ここは当初、国、県、我々の
防災、
津波マップでは〇・五メートルぐらいの、
宮城県
沖地震の場合なんですけれ
ども、今回十・三五メートル。そして、
石巻寄りになりますが
大曲浜、ここが五・七七メートルということで、浸水した面積が市域の三六%、そして
市街地の約六五%が浸水したということで、四ページをお開きいただきたいと
思います。
全国の
浸水区域の中では
市街地六五%というのは、ちょっと目立ってはいませんけれ
ども、最高の
浸水域だったということになります。残念ながら、お亡くなりになられた方が千百十人でございます。
行方不明者がいまだ二十四人ということで、千百三十四人の、
市民の約三%がお亡くなりになりました。一万五千
世帯のうち一万一千七十三
世帯が
被災したと、全壊、大
規模、半壊、一部損壊を入れるとほとんど
皆さん被災したということになります。避難された方が、当日、名簿では一万五千人以上、
避難所が百六か所ということで、農地の
被災はお示しのとおりでございます。
五ページあるいは六ページは、
岩手から
福島まで、
沿岸部はこういった
状況だったんだろうなというふうに思っていただきたいと
思います。
参考までに、この
瓦れきの下に御
遺体があるということでございます。ですから、丁寧に
瓦れきを除去しないと御
遺体も傷が付く、あるいは心情的にも配慮しなきゃいけない。ここは、
瓦れきと言いましたけれ
ども、元々は
市民の
財産だということが一番大切なところだというふうに
思います。
七ページをお開きいただきたいと
思います。七ページが
ポイントなんですけれ
ども、実は
合併前、
平成十五年に
北部連続地震、一日に三回の
地震がありました。一回は六強です、六強、それから六弱二回、一日三回で、これは直下型で、時間にすると十秒から十五秒なんですけれ
ども、このときの方が建物は非常に大きなダメージを受けました。昔の旧家と言われている
部分についてはほとんど倒壊あるいは非常に大変な
状況だということで、
写真の左の下等は、国道四十五号線沿いなんですけれ
ども、
瓦屋根がこういった
状況になりました。
ですので、今回の
東日本大震災の中で
激甚災害法あるいは
災害救助法、そして
生活再建支援法の経験を有した、あるいは不幸にして二回目だというのはこの
東松島市だけなんですね。そのときの
議会議長が私でした。ですから、二回目ということで、今回、
取組が他の
自治体とどうして違うんだということになれば、二回目だということで御理解いただきたいというふうに
思います。
そのとき、同じように
瓦れきが出まして、そのときは丁寧な
分別ができなかったということで、当初の予定よりも一・五倍の
費用が掛かった。それも、掛かったオーバーについては
一般財源ということになります。そうすれば、当然、
宮城県
沖地震が来るという当時の、
平成十五年から十七年の間の政府の
地震調査委員会の
公表では、当時ですけれ
ども、
宮城県沖の
地震の
確率は十年以内に五〇%、二十年以内に九〇%、三十年以内には九九%来ますよという
公表でした。ですから、私が
平成十七年から
市長を拝命しましたので、私の公約は安全、安心の
町づくり、
防災、
減災です。ですので、力入れてきたんですけれ
ども、
津波の
部分については、残念ながら、〇・五メートルの
津波が十・三五ですから、こういった
状況の大きな
被害が出たということでございます。そういったことで、
官民連携して一体となって
瓦れきに
対応しなきゃいけないというのがこの七ページの
教訓でございます。
そして、八ページを御覧いただきたいと
思います。八ページは、
瓦れきの
可燃物、
不燃物ということで、量でありますが、大体年一万トンでありますので、こういった
瓦れきが、
皆さんの
財産が百万トン以上も出ましたので、百年分以上ということになります、仮
置場が必要だったということ。それから、黒い
津波でしたので
ヘドロだったんですね。当時は大変なことになったと、
ヘドロの中には
重金属あるいは塩分ということで。しかし、
産学官民ということで、東北大学と地元の専修大学の
先生方に分析していただきまして、幸い
重金属はないということが分かりましたので、
あと塩を抜けばミネラル豊富な土だということで、極力近いところで
処理しようということで、
費用が掛からないということですね。
そういったことで、当初は
瓦れきよりもむしろこの黒い
津波の
再生土の方が、
ヘドロの方が大変だということが、うまく
利用すれば
費用も圧縮できるし、それから
利用もできるということで、そこはすごくうまく
官民連携で
対応できたかなと。それが、
比重に直しますと一・四六の
比重ですので、トンに直しますと二百十六万トンになります。百四十八万立米ということで、そういった数字でございます。
九ページはその
処理状況でございます。焼却しなくちゃいけないものは
廃プラ、
漁網。それから、それ以外のものでは、塗料とか
アスベスト関係は
宮城県さんにお願いしました。
廃プラ、
漁網は
石巻広域圏の中で
処理したと、二万二千三百十四トンですけれ
ども。それ以外の分については九七%以上
リサイクルしたということでございます。九ページの下段については先ほどの
津波堆積物のことでございます。
それから、十ページをお開きいただきます。ここは、
宮城県の新聞なんですけれ
ども、分かりやすいということでこのように
利用させていただきましたけれ
ども、ここの
ポイントは、今もお話ししてきたんですけれ
ども、私
たち二回目でしたので、私は、
平成十五年の
教訓として、
最初から
宮城県沖に高い
確率で来ると言われていますので、仮
置場は準備しておきました、二か所。一か所は、
緊急車両等々が通行するために、道路を
啓開というか、そういった公共的な分の
対応の
瓦れき置場、ここは二ヘクタールなんですけれ
ども、ここを準備しておきました。それから、八ヘクタール以上なんですけれ
ども、そこは
市民の
皆さんの
瓦れき置場ということで、多分、
平成十五年があったから、
宮城県
沖地震も含めての
備えをしたというのは多分うちだけだと思うんですけれ
ども、そういったことで、結果的には、
皆さんの今回の
法改正前から
東松島市では
平成十五年を
教訓に仮
置場を準備したということでございます。
それがないとなかなか仕事ができないということで、ここで
リサイクル、あるいは
市民の
皆さんがしていただいたと。当初は十四に
分別していました。私は
本部長でいましたので、多分、
市民の
皆さんからはクレーム来るだろうと、
市長、この非常時のときに
分別かと。多分、そういう立場になればそういった声もあるだろうと。しかし、
平成十五年のときを
思い出して、みんなと。
一般財源で
自分たちでオーバーしてもやったと。今回は国も分からない、とにかく
分別だということで、
業界の
皆さんも、
分別ですよねということで、そして仮
置場については
回廊型で
皆さんが分かりやすいように、
最初に
ごみを置くわけですよね、
業界の方で決めて。そして
回廊型で、車は駅と同じように周回していただいて、そしてスムーズにすると。そして、例えば月曜日は
A地区、火曜日は
B地区、水曜日は
C地区というふうに曜日で決めて、土曜、日曜だけフリーにすると。なぜかというと、
平成十五年のとき
一般家庭が二時間も三時間もパニックになったんですね、
ごみを
処理するために。ですので、そういったことも防ごうということでやっていましたので、そういった
意味では、いいことではないんですけれ
ども、経験ということになろうかというふうに思っています。最終的には、
再生土も含めて、この十ページの下段、赤で書いていますけれ
ども、九九・二二%の
リサイクルということになります。
それから、十一ページは、このように
分別したということになります。
それから、十二ページをお開きいただきたいと
思います。私の
部分については、今回、約千五百人の
皆さんで手作業による
分別をさせていただきました。
被災者の方が、この中で
最初の三百人が建設
業界の関係者、それから罹災証明書、家族を失ったとか家をなくした方が九百人、それから市内で仕事を失った方が三百人ということで、合わせて約千五百人の方が働いていただきました、緊急雇用ということで。こういった十九品目に手選別で分けたという、十二ページの左下にありますが、混合
ごみ、手選別による
分別十九品目ということで、こういったふうに分けたということでございます。
十三ページは、こういった有価物も含めて分けましたよということで、十四ページをお開きください。こういうふうに、
再生土の中にはこういった
瓦れきももちろん入っていますので、土砂等々いろいろ
分別して資源として使えるようにしたと。
十五ページは、この
再生土もセメント一・八%を混合することによって非常に盛土とかに使えるということで、これも大学の先生からの御指導もいただいて、こういった
取組をしたということでございます。
それから、十六ページ、先ほど触れましたけれ
ども、こういった大
規模施設を造らないで当初からこういったヤードを準備するということで、先ほど、緊急用のヤードを二ヘクタール、それから第一ヤードとして八・五ヘクタール、第二ヤードとして六・八ヘクタール、合わせて十五・三ヘクタールのヤードを準備していたと。そのほかに市の野球場とかありましたので、そちらの方で
再生土の
処理をしたというのが十六ページです。効率的な
事業推進して、
経費削減に向けたと。
私は、ここで一言、ちょっと関係ないかもしれません、申し上げますが、
被災地はコストの意識を持ってやっているということです。それは、この千五百人の緊急雇用も税金ですから。
皆さんは、
瓦れきは
自分たちの
財産だと、それから働いていただくお金は国民の税金だというこの二点を、取り組む前の
皆さん、しっかりと受け止めていただきましたので、今新聞等々で、
被災地が今の
状況でいいのかというふうな報道も一部新聞を見るときありますが、私が知っている限りでは、
被災地は税金というものを意識しながら取り組んでいるということをここで付け加えさせていただきたいというふうに
思います。
それから、十七ページ、ここ問題なんですけれ
ども、要するに、この働いていた方
たちが、
瓦れき、終わるわけですよね。その際に、その後の仕事なんですけれ
ども、どうしますかということで、その後、建設
業界とかにそのまま就職した方を除くと、ハローワークに行った方が最終的には三百四十九人いらっしゃいました。そのうち百五十三人が就職、ハローワークで決まりまして四三・八%。残りの方は、自分で見付けたり、あと失業保険をいただいて、その後、高齢だということで農業の方に戻ったりとかということありますが、いずれにいたしましても、雇用にも貢献しましたし、そういった
意味では、これが全てだとは申しませんけれ
ども、是非、
東松島市の
取組を検証していただいて、そして改善して、今後の
防災、
減災に努めていただきたいというふうに
思います。
今回の
法改正で、事前に国が自ら
処理するための制度改正とか、それから仮設
処理施設の簡略化とか、非常に我々、実は震災後、
環境省大臣官房
廃棄物・
リサイクル対策部の
廃棄物対策課布施克哉課長補佐が若い職員を連れて視察研修ということで私の方に直接見えました。そういったことで、今全て述べたことが、今回幾らか、私が述べたこと、
東松島市のことが今回の法制化、ほとんど入っていますので、
参考にはしていただいたのかなというふうには思ったところでございます。
本当に、これまで
皆さんに御
支援いただいたことに改めて感謝を申し上げまして、私の
意見を述べさせていただきました。本当にありがとうございます。