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石田昌宏君 自由民主党の
石田昌宏と申します。
この
委員会では初めて
質疑に立たせていただきますので、どうぞよろしくお願いします。
時間が短いので一方的に私がしゃべる時間が多いと
思いますけれども、
沖縄の特に
看護についての
思いを
お話しさせていただきたいと
思いますので、どうぞよろしくお願いします。
先日来、私、長いこと何度も、
復帰前に既に
仕事をしていた
看護の
先輩方から話を聞く
機会が多いんですけれども、その中で
日本の
医療の未来を考えるに当たって非常に
ヒントになることがたくさんありますので、それについて
お話しさせていただきたいと
思います。
日本に
復帰してから
看護が遅れたと感じた、これが
先輩の
言葉なんですね。遅れたって何かということなんですけれども、
沖縄は
戦地になって土地が荒廃して、そして祖国からも切り離されてゼロからのスタートになりました。そのときは、本当にけが人や
負傷者が非常に多くて、
伝染病も随分はやっていて、かといって
医療関係者は
戦地の最前線に立っていましたから、多くの方が亡くなってしまって、ある
意味、極度の
医療過疎の
状況で戦後がスタートしました。その中で、
看護師として苦労してきた
先輩たちから、
本土に戻ったときに遅れたという
言葉が出たわけです。
それは何かというと、彼女
たちが感じたのが、こんな
言葉があるんですけれども、
患者さんのことならば
医師でも誰に対してでも自由に
意見が言えた、
看護婦として言わなければならないことがたくさんあってそれを堂々と言った、ところが、
復帰後に
本土から
医師がやってきて自由に
発言する
看護婦たちのことを怒り始めた、あんたなんか
看護婦だろう、おまえは医者より偉いのかって。
こういった
言葉は実際に彼女
たちが聞いた
言葉であって、それによってつらい
思いをしたんだと
思います。信じられなかったというふうに彼女
たちは言いましたけれども、それが現実であって、その後、ひょっとしたらこの
言葉が
本土復帰後に
看護職の
自律性を失わせた瞬間だったのかもしれないと思っています。今でも、体制とか
制度とか、国会でもいろんな議論がありますけれども、特に
専門職にとって重要なのは、
仕事に懸ける
プライドというか
誇りというものであって、その喪失というのは
専門職そのものの質に
影響すると
思います。
では、なぜそういうふうに
先輩たちは思ったのかということなんですけれども、その
ヒントが
駐在保健婦という
仕組みにあるんじゃないかなというふうに思っています。
一九五一年なんですけれども、当時の
国民政府は、
一定の
研修を終えた
看護婦を
対象に
公衆衛生看護婦という資格を更に付与しました。よく公看さん、公看さんというふうに
地元では言うんですけれども、これは
離島とか
へき地の無医村を
中心に
公衆衛生看護婦を駐在させて、
感染症管理だとか
保健指導などを行って多くの成果を残しています。
復帰後しばらく、
沖縄の
人たちの
平均寿命って、
日本で、男性でも一番長かったんですね。ある
意味、こういった
影響もあったんじゃないかという説もあるぐらいです。それだけの効果を上げていたと思うんですけれども、実際、村に駐在していて
住民の自宅を訪問したりすると、
医療処置とかを求められるわけですね。ところが、
医師はいません。ただ、
看護師たちは
対応できる力を持っています。ただ、
医師がいないので、そこで
指示を受けることができないと実施できないわけです。
その
矛盾がありましたが、その
矛盾を解くために、一九七一年なんですけれども、
沖縄医師会と合意の上で
琉球政府が
公衆衛生看護婦のための
処置指針というのを出しています。今でいうと、多分こうなるんですが、
一定の訓練を受けた
看護師が、
過疎地において
一定の合意された
手順書を基にして、
指示がなくても
一定の
医療処置を行うというルールだと
思います。これが実はありました。それに基づいて実際、現に
処置が行われていたという事実があります。
ある
意味、これは、
医師から独立して
対象者に自律的にプライマリーケアを提供して、
指示がなくても自らの
判断で
医療処置を行うことができる
看護師、これは世界的には
ナースプラクティショナーといって既に
アメリカ始め
幾つかの国で導入された
制度なんですけれども、この原型が既に
復帰前の
沖縄にあったということだと
思います。
翻って、今、
少子高齢時代になりました。
医師が少ない
地域まだまだたくさんありますし、また
施設で見ても、
福祉施設だとか、本当に
医師いません。そういった場所でむしろ自律的に
看護を行う
制度というのは
推進すべきじゃないかというふうに思っています。
また、もう一点、
沖縄はすごいなと思うことがありますが、当時の
看護婦たちは島の隅々まで広がって
住民の命を守ってきたわけですけれども、その
プライドがありました。この
プライドは、実はまだ
沖縄の
看護の
リーダーたちの中に脈々と続いているなという感じするんですね。
沖縄の
県立の
看護大学という
大学がありますが、そこは、
大学院の
授業なんですけれども、もちろん
学生が来てもらって
大学院の
授業をやるんですが、それとは別に
社会人向けの
授業として、八重山、それから宮古、久米の
県立病院の中に分室をつくって、
ネット回線を通じた
教育をやっています。言ってみたら、
教育できますので、
大学院生でありながら、
沖縄本島に飛行機とか船で移動を、月に一回もないというふうに言っていました、ほとんどしなくても、住んでいる島で、
衛星放送で
授業を受けることによって
大学院を卒業できるという
仕組みなんです。
これは非常にいいことだと思うんですけれども、これは突き詰めて考えたらこういうことかなと思うんですけれども、島は
看護師始め人が足りません。そのときに、島をわざわざ出て
教育を受けたいと思っても、なかなか受けられないか、若しくは受けてしまったら島を出るしかないんですけれども、こういった
仕組みがあれば、島の
人材の
育成と、それから島の
人材の
確保をセットで行う
仕組みだと思うわけです。
教育を受けることができれば島に残りたいという人もいるでしょうし、逆に、ひょっとしたら、島で働いて同時に
教育も受けたいというふうに島に来る人もできるかもしれなくて、ある
意味、
地方創生という観点から見ても恐らくこれは全国に広がっていいような
仕組みだと
思いますが、なぜこれを
沖縄県立看護大学がわざわざやっているかということなんです。
これは本当に大変でありまして、実際は、
先生たちは昼間
学生を見ます。と同時に、
社会人コースですから夜になったら
学生がそれぞれ集まってくるんですけれども、昼間見た後に、更に夜にも改めて
授業をやっているんですね。完全に
先生のボランタリーな気持ちでやっているわけです。もう志一本というふうに言っていました。
なぜこれができるかというと、実はその学校の
方針があったんですけれども、それは、私
たちの
沖縄の
先輩たちが今まで
沖縄の島のプライマリーヘルスケアを支えてきた、だから私
たちも全ての島でちゃんとしたケアが受けることができるように
先輩の努力を引き継いでいかなければならないんだという、こういった
思い一本なんです。この
思いの下に今そういった
教育をやっていて、実際、その島の
看護が支えられているんだと
思います。
こういった
姿勢を見るときに、やはり
沖縄の考え方というのは非常に重要で、ここをどう広げていくかとか
発展させていくかということがとても大事だというふうに私は思っています。
そこで、
幾つかちょっと
質問したいんですけれども、
一つは、まずこの
沖縄の
思いを
日本中に広げるためには、先ほどの
公衆衛生看護婦の話じゃないんですけれども、いわゆる
ナースプラクティショナー、高度な
実践家であって、ある程度自律的な
判断ができる
看護師の
仕組みをこれから考えていかなきゃならないと
思いますが、実際、今
厚生省の方ではどういうふうに考えているかをお伺いしたいと
思います。
もう
一つ、
教育の
仕組みですね。さっきは
大学院の
教育の話をしましたけれども、これひょっとしたら、いわゆる
看護の一般の
養成課程でもできるわけで、例えば本当に
過疎地の方で
看護師になりたいと思っても都会まで出なきゃならない、それを
地元で受けることができるかもしれないし、
地元で受けることができれば
地元に就職する人も増えるかもしれません。そういった
意味合いでとても重要だと思うんですけれども、その
教育についてどう考えているか。
以上二点をまず
厚生省にお伺いしたいと
思います。よろしくお願いします。