○安藤
委員 ありがとうございます。そういうことだろうと
思います。
やはり、過去の判例というものは、さまざまな
事案について専門家の
皆様方が真摯に向き合った知恵の結晶であろうと
思いますし、それに対して、やはり恐れと敬意を持って接する必要があるんだろうと
思います。過去のさまざまな事例と真剣に対峙をしてきた先人の知恵の結晶と異なる
判断をするのであれば、その後のさまざまな批判に対しても、それに耐えて乗り越えていく、それだけの相応の覚悟が必要であると
思います。今、
裁判員裁判での
裁判員の
皆様方に、果たしてそういった覚悟が必要であるということが共有をされているんでしょうか。
きょうの
質疑の中でも、
裁判員裁判の方が
裁判官による
裁判よりも求刑より重い
判決が出る傾向があるのではないかというようなことを思わせるものもありましたし、また、新聞報道においても、控訴審において一審
判決が破棄をされると、
国民の目線で下した
裁判員裁判の
判決を重視すべきだとか、一審において
裁判官や
検察官がきちんと
裁判員に情報を伝えていればこんなことにならなかったというような、
裁判員は必ず正しくて、過失がなくて、何か
裁判官や
検察官に過失があるというような論調の記事が書かれるわけです。
しかし、やはり
裁判員だって間違えることがあるし、それを正すのが上級審の役割であると
思います。その
職務がこれからも間違いなく実行されるような
環境を整えるのが、我々立法府の、そして政治の役割だと私は
思います。
先ほどの
質疑の中で、控訴審における一審
判決を破棄する割合が、
裁判官による
裁判が行われていたころに比べると減っているように思われますし、
裁判所が
裁判員裁判の
判決を重視する方向で実務を
運用しているというような
答弁もありました。
しかし、先ほど紹介した社会心理学の
内容などについても、プロの
裁判官であれば、研修などを通じて、こういったことはあり得るんだ、こういったことがないようにしなきゃいけないという訓練を施すことも可能だと
思いますけれ
ども、
一般の
皆様方にそういった研修を施すことはできません。善良な
国民の
皆さんの集団討議の結果が全て正しいとは限らない、このことは、私は、常に念頭に置いて
裁判員裁判についての
議論はしていかなきゃいけないというふうに思っております。
そして、このことは、民主主義というものについての正しい
理解にもつながっていくんだろうと
思います。何でも
国民の
皆さんに聞けば正しい答えが返ってくるというものではありません。やはり、正しい情報や間違った情報が混在している現在においては、より本質を
理解した
議論の末に、あるべき社会の姿を見出していくのが民主主義の姿だと
思いますし、それには、それぞれの分野の専門家の相当程度の専門性が必要になってくると
思います。
裁判員に対して悲惨な
被害者の
写真を見せることを回避したり、またあるいは
負担軽減のためにいろいろなことがそぎ落とされるというようなことがあったときに、マスコミでおもしろおかしく、ワイドショーネタになっているような芸能人たちの結論が
裁判員たちの心証に大きく影響してしまうということも、これもやはり否定できないのではないかと
思います。ワイドショーネタが
国民感情であるということには断じて賛成できないということは、これは
皆さん方も共有できることだろうと
思います。
そして、
裁判官は専門家ですし、専門家にふさわしい知識を積み上げて、修練を積んで、さらには
国民の
皆さん方から司法に対する信頼を確保していく責任があります。その専門家の
意見よりも
一般の
国民の
意見の方が必ず正しいとは限らないわけですね。
私は、今回の
質疑の中でも一番重視をしなきゃいけないのは、
裁判員の辞退率の高さ、そして、できればやりたくないと感じる人の比率の高さだと
思います。私は、これこそが
国民の
皆さんの良識ではないかと
思いますし、
参考人の
意見の中には、やりたい、やりたいという人に任せるのはちょっとどんなものなのかといったような
意見もあったわけです。
私は、
国民の良識は果たしてどこにあるのかということをもっと
裁判員裁判においては真摯に
議論をして、そしてあるべき
裁判の姿というものを模索していくべきだということを
意見として申し上げさせていただきまして、私の
質疑を終わりたいと
思います。
どうもありがとうございました。