○松田
委員 恐らくまだ
日本は、
テロリストとか
マネーロンダリングとか、そういう実態がそれほどない、ないと言ったらあれかもしれませんが、ほかの国に比べるといわゆる切迫感が余りないという現状はあるんでしょうけれども、国際標準をやるというのは必要なことなので、これは大いに賛同するわけです。
ここで、ちょっと
国家としての
リスク管理の問題について
大臣の所見を伺いたいんです。
日本もそうですが、いわゆるレッセフェールといいますか、自由放任という経済システム、社会システム、自由主義経済ということでやってきたんですが、どうも二十一世紀を迎えるころから状況は変わってきたんじゃないかなというふうに
認識しております。
リスクに対する
認識を非常に高めなければいけない。そういった意味で、私は、
国家の役割が非常に高まってきているんじゃないかという気がしているんですが、ただ、なかなかこの発想の転換が
日本はできないできたんじゃないかなという気がします。その結果、平時の発想でいて有事の
対応が非常におろそかになってきたということを繰り返してきたというふうに思います。
それを私が最初に
認識したのが、かつての不良債権問題。住専に対して六千八百五十億円の公的
資金の投入というのは御記憶かもしれませんが、あれも住専を救済するのかといって当時大騒ぎになりました。ただ、あれはあくまで、農協等から住専に相当
資金が出ていた、農協に対する預金者を保護する、預金者保護というのが本当に必要なものなのですが、なかなか国民に理解されなかったんです。その後、大手銀行の破綻で、その直後に長銀の破綻等々を経て、六千八百五十億円の百倍の七十兆円ぐらいの公的
資金枠が用意される。ばたばたっと
日本も、いわゆる
金融のシステミック
リスクに対する世論の理解も進んできて、そういうものが後追い的に
整備されてきたというふうなことをずっと私も観察してきたわけです。
やはり、
国家全体のシステムの問題ということを
考えると、有事というとすぐ
戦争のことを皆さんは想像するんですが、いろいろな意味の有事というのがあって、有事に対する備えというのはまさに
国家そのものの役割だろうと私は思っております。
二十一世紀を迎えた最初の年、二〇〇一年に同時多発
テロが起きまして、私、当時、関税局で課長をやっていたんですが、首相官邸に
テロリストの
情報が入るたびに
関係省庁の課長が集まっていろいろな
情報交換、分析をしたりということがしょっちゅうありまして、まさに、もう
日本は有事に入ったんだなというような
認識もしていたんです。
当時、税関に顔
認識システムというのを導入したんですが、私は、大阪の方の朝日新聞の一面の記事に、松田学、とんでもないやつだ、顔
認識システムという個人
情報を侵害するとんでもないやつだとさんざん書き立てられたことがありました。今はもう、顔
認識システムは税関では当たり前だろうと思いますが、やはり
リスクに対する国民意識というのもなかなかついてこなかったんじゃないかなという感じがします。
それが一挙に出てきたのが、やはり二〇一一年の東
日本大震災。これはよく言われるように、テール
リスクという概念が出てきたわけですね。なかなか確率は低いけれども、一旦起こったら取り返しのつかないことが起こる
リスクというか、それに対する備えということが非常に
認識されてきているんじゃないかと思います。
ある意味で、太平洋プレートが変化して首都直下型地震とか東南海大地震が起こりやすくなっているとか、あるいは一方で、地球温暖化があるのかゲリラ豪雨とか、いろいろな意味での災害も非常に、先般は火山の噴火まであったということで、何が起こるか、起こったら大変だ。
ある意味では、私も、財政もテール
リスクということを
考えなきゃいけないかなと。別に消費税を来年に先延ばししてもマーケットで国債を売られる
リスクはそんなにないよと言っても、もしかしたらその
リスクがあるかもしれない。やはりそれに備えるのも広い意味で有事
対応の一環ではないかというふうに私は思っております。もちろん安全保障や治安も全くそうでございますが。
これについて、やはり、
国家としての
リスク管理を強化していくと、自由な市場に対して
政府の介入というのはどうしてもふえていかざるを得ないわけであります。これは、本来、民間の自由に委ねるべき市場原理に基本的に反する面があるので、市場か
国家かという対立軸。あるいは、近年でいえば、中国との関係でいうと、尖閣か経済か、尖閣を守るということと経済を大事にする、そのあたりがいろいろな対立軸になって、これはいろいろ悩ましい問題もあると思うんですけれども、
大臣は、こういった対立軸に関して、両者を調和させるどういうふうな論理を組み立てているか、ちょっと基本的な点をお聞きしたいと思います。