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参考人(
野中廣務君) 私が去年の六月に中国に超党派で訪中をいたしまして、先ほど申し上げましたように、ナンバーファイブの劉雲山常務
委員・書記・
政治局長にお会いをいたしました。そのときに話をしたことを中国の新聞が大きく取り上げましたので、帰ってまいりましたら、もう
日本のマスコミに囲まれて、いきなりその暴言を取り消すかというような質問をしてきた記者もおりました。けれ
ども、私は、自分がこの耳で聞いた田中角栄
先生の話をそのまま率直に申し上げただけであって、それ以上の事実を私は確証したわけでも何でもありません。
ただ、今日は持ってきていないんですが、私は、田中角栄
先生にお会いしたのは
昭和二十九年、まだ自分の町の町会
議員をしておるときでございました。そして、田中
先生の友人に紹介されて田中
先生にお会いをして、自来、三十二歳で郵政
大臣をおやりになりましたときにも自分の町の郵便局の建て替えを
お願いをしたり、そういう中から度々お宅を訪問する
機会を得て、結果的に、
京都で二議席の、前尾、谷垣両
先生がお亡くなりになりまして補欠選挙が行われたときに、くしくも谷垣
先生の御令息、今法務
大臣の谷垣禎一さんと私が、ちょうど
京都の副知事を一期で辞めさせていただいた直後でありましたので、亡き前尾
先生が後継者を定めずと決めておられた中で、前尾
先生の
関係者から、是非、前尾
先生が
京都の府政を転換してくれた
野中君に期待をするという話をしておられたからあなたが出ろという話になりまして、当時もう五十七歳でありまして、今更
国政に参画するような
立場でない私でありましたが、田中
先生、さらに、青年団のときから一緒に親しくしていただき、また家内が島根県でございますから、島根県で代用教員をしておられる竹下
先生に教わった間柄でもありましたので、そんな
関係で青年団のときから非常に、一緒に東上して、交流を深めて親しくお付き合いをいただいてまいりました。
そういう中で、ちょうどロッキード
事件の非常に激しい嵐が吹き荒れておる当時でありましたけれ
ども、私は田中派から立候補をすることにしたのであります。有権者の
皆さんからはなぜ田中派だと言われましたけれ
ども、
政治の社会に入ってお世話になったのは、田中
先生と竹下
先生のお二人に指導をいただいたということを私は申し上げて、そして
議会政治を続けてきたわけで、私のように学歴も何もない人間が、地方の
政治を三十三年間やってきたということのみが大きな知識になっておる、
経験になっておる人間が、僅か二十年という
国会議員の生活の中で、私には分に過ぎたポストをやらせていただくことができ、十二分の働きを自分もなし終えたと
考えて、小泉
内閣の第二次が始まったときに、私は、これ以上おっては、
日本の国の改革という波の中に大きな間違いを起こしてこの国の土俵が崩れていくと思って、自分が引退表明をして辞めた人間でございますから、何一つ
思い残すことはないわけでございますが、しかし、今の中国、韓国との問題は、
北朝鮮を含めて、私には、絶対に改善して、そして平和な友好な道を求めていただきたいというのがもう余命余りない私のひたむきな
お願いであります。
そういう
意味において、劉雲山常務
委員とお会いしたときに、田中
先生が国交正常化の後、お帰りになったときに、お宅へ伺ったときに、おい、大変な仕事をしてきたよ、あのときの北京の空は晴れておったし、俺は北京の空晴れて秋気深しという漢詩を詠んだけれ
ども、しかし本当に周恩来、毛沢東という人は立派な人だったと、そういう話をされまして、最初にあの大きな戦争だからどれだけの賠償を要求されるであろうかというのが
心配をしておったけれ
ども、毛沢東主席がいきなり、日清戦争のときには三億数千万という膨大な賠償金を取られたけれ
ども、今次のこの戦争において
我が国は賠償は要求をしないで放棄しますと、このことを最初に言われたときに、体が震えるほど私は感激をして感謝をした。やっと自分の重荷が下りたという
思いをして会談に臨んで、周恩来
首相と話をして、最初に
日本から共同声明の案を高島条約局長が出したときに、周恩来
首相が烈火のごとく怒って高島条約局長に食って掛かって、厳しくお叱りをいただいた。そのことは、その協定の中に親交の厚かった台湾のことが非常に穏やかに書いてあったので、周恩来
首相は、そのことを大変高島条約局長にお叱りになったと。けれ
ども、あれは俺と外相である大平君に厳しく言われたんだなといって一緒に行っておった二階堂官房長官と話をしておったんだと。
その後、会談が円滑に進んで周恩来
首相からこれで終わりですねと言われたときに、自分が、まだ一つあると、それは尖閣の問題で、俺のところにいろいろ言うてくるやつがおるんだということを言うたら、周恩来
首相が手で制して、その問題はアメリカもフィリピンもみんな目を光らせておりますから、このことをここで話したらもうこの条約はできかねますから、これは先にしましょう、このように言われて、そのとき俺は何か答えようと思ったら、大平というやつはああいうふうにアーウー、アーウー言うているけれ
ども、あれは頭のいいやつだ、やっぱり大学を出たやつは違うなと。瞬発に、いや、それは田中さんが提案したわけではありません、帰ったときに、
日本の右翼の人から尖閣をどうしたと言われたときに何も言っていないということを言われては困るから言うただけで、これは先送りをしましょうと、このように提案して、そして双方先送りを決めた。俺も、それで、そのとおりだといって一緒に同意したんだという話をされまして、非常に私は感銘を受けたわけでございますが、そのことを私はかいつまんで申し上げました。
けれ
ども、外務省は
日本固有の領土であるということを正確には譲ろうとしません。ただ、そういう記録は外交記録の中にないんでありまして、これで終わりだなと言うたときに、田中
先生が、いや、ところが尖閣の問題がという、そこで交渉の全ては削る、もうなくなったんです。当時一緒に行っておった橋本中国課長あるいは条約課長が全て手記で明らかにしておられますけれ
ども、あとはもう両方が棚上げしようということでその問題を先送りしたと。
あと、福田
内閣のときにトウ小平副
首相が来て、国交正常化の後の友好条約の締結の際にやはり同じことが問題になって、これは先の賢い
人たちに任せましょう、これは今やってはできないことですから、先の若い人が知恵を出してくれるでしょうと、このように言われて、当時の園田外務
大臣も、このようなことが言われたということを
国会の議事録で残っておるというのを聞きましたが。
そういう経過を私は知っておるために申し上げたのでありますが、それが産経新聞では、もうとにかく怪しき生き証人という見出しを付けて、一
京都の府会
議員の
野中廣務に一国の
総理田中角栄がなぜそんなことを言うんだという大変厳しい攻撃を受けました。けれ
ども、私は、写真もありますので、いかに長く田中角栄
先生の家に行っておったか、あのお嬢さんの眞紀子さんが五歳のときから私は田中邸に出入りしておった人間ですから、そのことを写真で示して、そして産経に抗議を申し入れました。申し入れましたが、産経は頭から謝るんじゃなしに、我々の取材にもっと正確を期すようにという御示唆をいただいて誠にありがとうございましたという、そういう手紙が常務から来たわけでございまして、それを転載した週刊文春は、事実を確認しないでこれを掲載して誠に申し訳ありません、謹んでおわびを申し上げますと私に答えてまいりました。
我々は、自分の間違ったことを報道されたときには毅然として闘い、かつそれを訂正するために訴訟も必ずやるという、そういうことを私の場合は繰り返し、また新聞社とも私は裁判をやって勝ったこともありますし、
メディアの公正を期すために提訴したこともありますし、全て自分が正しいと思うことについて、マスコミが横暴にこれをやったり、あるいは面白おかしくその
人たちが取材をしてそして勝手に書いたものについては、私は徹底してやってまいりました。
一人の
政治家として私は、自分が引退する前に
幹事長でありましたので、
昭和四十四年以来、当時の高木大阪国税局長、後の大蔵
事務次官、そして国鉄総裁、この人が当時の大阪の解放同盟の上田卓三君と交わした協定によって、解放同盟が申請した税金は全てこれをその申請どおり受け入れるという、また監査に入るときは同道をするという申合せについて、私は、
野党の
予算委員会の細川
内閣のときに厳しく訴えたし、あらゆるところでこういうことがえせ同和問題にまで発展して、そして差別が新しい差別を呼び、税が公平な課税がされないようになっておるというのを徹底してやってまいりました。
非常に厳しいまた攻撃も受けましたけれ
ども、私は
政治家の
信念としてやってまいりましたので、自分が
幹事長のときに、
自民党、
公明党等の
皆さんと話合いをして、幹部の
皆さんに御理解をいただいて、そしてあの大蔵の協定書はなかったということを国税庁長官から取ることができ、そして解放同盟も、また上杉
委員長が私
どもがこの問題についてはこういう確認事項はなかったということを了解をしていただき、さらに、特別措置法をこれ以上続けても改善の道がないと
考えて、大きく残っておる地域は別として、この特措法は、もう地域改善の
法律は今回の法をもって終了するということで私は
法律をやめさすことにして、そういう一人の人間の
信念を貫いて、そして引退をさせていただいた次第でありますので、是非
政治家の
皆さんはやはり自分
たちが責任を持って処理することの尊さということを感じていただきたいし、私はそのことが間違っていなかったと今も自分で思って、自分が、もう余命少ないけれ
ども、そのことについてなし得たことを誇りに思っておる次第であります。
お答えになったかどうか分かりませんが、私の心情を申し上げて、御理解をいただきたいと存じます。