○小林正夫君 本院
議員中村博彦先生は、去る七月三十一日、多臓器不全のため
逝去されました。享年七十一歳でありました。
中村先生は、療養のため一時休養を取られておりましたが、さきの常会で復帰されたときには、片手を上げながら以前と変わらぬ元気なお声を掛けていただき、安心しておりました。しかし、その後、夏の盛りに届いた訃報は余りにも突然で悲しいものでありました。この議場の中に色鮮やかな赤いネクタイの先生のお姿を見ることができず、誠に痛惜の念に堪えません。
私は、ここに、同僚
議員各位のお許しを得て、議員一同を代表し、故中村博彦先生の御霊に対し、謹んで
哀悼の
言葉をささげます。
中村先生は、昭和十八年一月、徳島県麻植郡川島町、現在の吉野川市にお生まれになりました。生家には雄々しきムクの大木がそびえ立っていたといいます。その木は、幼き日の中村少年の誇りでありましたが、御実家の家業が時代の流れをとらえられなくなり、ある日、無残にも切り倒されてしまいました。先生はそのとき、寂しさや悔しさを胸に、何物にも負けない自分をつくろうと子供心に誓ったと御著書「
日本再生への道」の中で語っておられます。
先生からいただいた御著書を改めて拝読し、先生の福祉事業や
政治活動の原点がかつて仰ぎ見たムクの大木にあることに思いをはせた次第であります。
こうして、小学生のころから
政治家を志していた先生は、中学生となって汽車通学を始めてからは、毎朝、通勤する大
人たちの会話に加わり、世の中を知ろうと努力されました。
その後、徳島大学に進学された先生は、大きな転機を迎えられます。それは、大学四年生のときの
障害者支援
施設草の実学園への訪問がきっかけでありました。障害を持ちながらも優しく輝く子供
たちのまなざしに心を打たれ、その後の福祉への道、
政治への道に導かれていったのであります。
大学卒業後は、徳島県立城北高等学校において教鞭を執られた後、持ち前の
行動力を発揮され、昭和五十四年、三十六歳のときに徳島県に
社会福祉法人健祥会を設立されました。
時を経て、
平成十一年には
全国老人福祉
施設協議会の会長に就任されました。折しも老人福祉の措置
制度から
介護保険制度への大転換が進む中、現場の代表として
政府の審議会や関係部会の
委員を務められ、現場の風が
制度を変えるとの信念の下、福祉と介護の
環境整備に手腕を振るわれました。
こうして福祉と介護
分野のリーダーとして存在感を発揮されていた先生に再び大きな転機が訪れます。
平成十六年、第二十回参議院議員通常
選挙に比例代表から立候補し、当選されました。小学生のころに抱いた志を果たされたのであります。
国会議員となられた先生は、本院においては厚生労働
委員会や決算
委員会の理事を務められ、
政府においては総務大臣政務官に就任されました。政務官在任中には、地上波デジタルテレビ放送の
日本方式を
世界に普及させるべく奔走されました。
そして、
平成二十二年には、第二十二回参議院議員通常
選挙において再び当選されました。福祉を御専門とする先生ではありますが、二期目には、
政府開発援助等に関する
特別委員長として国際
協力の
分野においても力強いリーダーシップを発揮されました。
平成二十三年には、
政府のODA予算の
削減方針に異を唱え、与野党の議員に呼びかけて
政府に
削減の再考を促されたほか、参議院
自由民主党政策審議会に設けられたODA基本法検討プロジェクトチームの座長として、ODA基本法の制定を目指した議論を主導されました。
また、
我が国とアジア諸国との関係強化にも尽力され、タイ、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーなど、各国の首脳を始めとする
政府要人と会談を重ねられるとともに、国連
関係者とも活発に協議を進められるなど、議員
外交を積極的に推し進められました。
さらに、
自由民主党副幹事長、介護福祉議員連盟事務局長、外国人材交流推進議員連盟事務局長として党務にも力を尽くされたと伺っております。
もちろん、この間、ホームグラウンドと言える福祉や介護の
分野においても常に第一線で活躍してこられました。
社会保障と税の一体
改革に関する
特別委員会の野党次席理事として、また、厚生労働
委員会の野党筆頭理事、政権交代後は与党筆頭理事として、与野党間に緊張が続く中、重責を担われました。
私は、同じ土俵の上で共に仕事をした
国会議員の一人として、立場は違えども、共通した問題意識を感じたことが多くありました。
これまでの先生の活動を顧みると、草の根闘魂を掲げながら、絶えず闘い続けてこられたことに思い至ります。与党の一員であっても、信念に反することがあれば、
政府の方針にもちゅうちょなく
異議を表明されました。中村先生の信念を貫こうとする気迫に圧倒されたものです。
その一方で、ユーモアを欠かさず、温かみのある語り口は、会派を超えて我々の耳を引き付けました。与野党が鋭く対立する法案の審議においても、質疑に立たれた先生が
委員会室の空気を一変させたことは一度や二度ではありません。私が新米の厚生労働
委員長であったときは、野党筆頭理事のお立場であったにもかかわらず、広い度量で、どんどん進めていこうと支えていただきました。
委員派遣の際にも、先生の働きかけで
委員のほとんどが参加され、細やかなお心遣いで良い雰囲気をつくっていただきました。当時の
委員長として、改めて深い
感謝を申し上げたいと存じます。
昨年の一月、この演壇に羽織はかま姿の中村先生が総理の施政方針
演説に対する代表質問に立たれたことを御記憶の同僚議員も多いことと思います。先生は、
我が国が直面する難しい転換期を生き抜くには大変革が必要であると説かれた上で、「汗する友、涙する友、貧しき友、
日本の友、アジアの友、
世界の友、これらの友に光の当たる
政治を、」と呼びかけられました。その代表質問は、この本
会議場に深い感銘をもたらしました。生涯一貫して現場で汗する人の立場に立ち、全身全霊で
政治に取り組んでこられた中村先生の、まさに面目躍如たるものがありました。
三年に一度の参議院議員通常
選挙を終え、その直後に開かれる夏の臨時会は、本院にとって特別な機会であります。新たに当選された議員はもちろんのこと、再選された議員、そして非改選の議員におかれても、国政に臨む
責任の重大さをかみしめられたことと存じます。全ての参議院議員が一堂に会すはずの八月の臨時会、その召集の僅か二日前、先生は三年間の任期を残して旅立たれました。
我が国は、これから諸外国が経験したことのない高齢
社会、人口減少
社会に突入してまいります。先生は、そうした事態を早くから見据え、現場本位の精力的な活動を続けてこられました。その先生が、これまでの御経験と知見を携え、これから再び大きな仕事に取り組んでいこうとされていた、そのことは想像に難くありません。道半ばの御無念はいかばかりかと存じます。我々にとりましても、この国の
未来を切り開く有為な
政治家を失ったことは、痛恨の極みでございます。
残された我々は、先生の御遺志を胸に刻み、
全力を尽くして
社会保障を始めとする国政の諸
課題に取り組み、
国民生活の向上を目指していく決意であります。
ここに、在りし日の中村博彦先生のお人柄と御功績をしのび、謹んで御冥福をお祈り申し上げ、参議院を代表して
哀悼の
言葉といたします。