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参考人(
土井真一君) 本日は、
意見を述べる機会を賜り、大変光栄に存じます。
私の方からは、
高橋参考人と重複するところも多くあろうかとは思いますが、新しい
人権に関する
議論の前提として、
個人の
尊重と
基本的
人権保障に関する
基本的な
考え方、そして包括的
人権保障について私なりの
意見を述べさせていただきたいと思います。
高橋参考人もおっしゃられましたように、
日本国憲法は第十三条において「すべて
国民は、
個人として
尊重される。」と
規定しております。この
個人の
尊重あるいは
個人の
尊厳が
憲法の中核的
原理であることは
憲法学において広く認められているところでございます。
では、この
個人の
尊重原理が一体何を
意味するのかということが問題になります。何よりもまず重要な点は、一人一人の
人間が
価値の源泉であるということでございます。言い換えれば、
個人の
尊重とは、一人一人の
人間に存在する固有の意義があり生きる
目的があるということを私たちが相互に承認をするのだということを
意味しております。これに対して、物ですとか道具といったものは固有の存在意義を持ちません。道具はそれを用いる者の役に立つことに
意味があるのであって、役に立たなくなったり気に入られなくなったりすれば捨て去られるという運命にあります。
しかし、
人間はそうではありません。私たちは誰かのための単なる道具でも、ただ全体をうまく回すための歯車でもありません。私たちが互いを独自の存在の意義と生きる
目的を持つ者として認め合うこと、これを私は人格の
尊厳を承認するというふうに申しております。そして、このような人格である私たち一人一人は、同時に多様な存在でもあります。
価値観、能力、
性格、外観、皆異なっているわけです。この個性が一人一人の
人間を形作っています。
したがって、一人一人に人格の
尊厳を認めることは各人の個性を
尊重することを
意味します。この人格の
尊厳と個性の
尊重の両者を併せて
日本国憲法は
個人の
尊重を定めたのだと私は
解釈しております。
そして、
憲法がこのような
個人の
尊重を中核
原理として定めた意義は、
人間の共同
関係、とりわけ
国家をこのような
個人の
尊重原理に
基礎付ける点にございます。
議論の出発点は私たち一人一人であるということを
意味しております。私は、かけがえのない
生命を与えられ、その個性を大切にしながら、幸福な人生を生きようと懸命に努力しているわけです。
幸福と申し上げますと、快楽や利己的な欲望を思い描く方もおられるかもしれませんが、
人間の幸福はそれほど単純ではございません。自分の身近な人や大切な人の幸せもまた自分の幸せであるというふうに
人間は感じるようになっているのだと思います。
しかし、一人の力に限りがある以上は、自ら幸福な人生を生きようとすれば、互いに協力して共に生きていかなければなりません。そのために、人々の
意見や利害の対立を
調整し、秩序を守り、共同の
利益を確保する働きが必要になります。それが政治であり、そのような政治的共同体が
国家であると考えるわけでございます。つまり、人々が
国家をつくり、その支配に服するのは、互いに協力することによって共同の
利益を生み出し、各自がより幸せになるためだと思います。そう信ずるからこそ、私たちは互いに譲り合い、我慢もするわけです。
したがって、
国家はこのような
目的を実現するように設計されなければならないのであって、このような
目的に反する
国家に対して人々は
異議を唱えることができなければなりません。この点が
個人の
尊重を
基礎とする
国家論の真髄であると私は理解しております。
このような
考え方を
基礎とするならば、人々は共同し
国家をつくるために公正な条件をあらかじめ定めなければなりません。この条件が破られれば、それはもはや対等な人格の協力
関係ではなく、あからさまな力による支配に陥ってしまう。そのような共同のための公正な条件を定める法が
憲法なのであり、その中核となる
規定が
基本的
人権条項だと考えております。
それゆえにこそ、
憲法は
国家の根本法であり、かつ最高法規であって、その改正には厳格な手続が定められることになるわけです。これが立憲主義であり、
憲法を定め、それに基づく政治を実現することで、
個人が
尊重される共同
関係、みんなとともに自分らしく生きることができる協力
関係を築こうとする思想であると私は考えております。
したがって、
国民主権
国家におきましては、立憲主義の思想は、単に統治機構のみならず、主権者としての
国民もまた共有しなければならない思想なのだというふうに考えております。
二に、
日本国憲法が
保障する
基本的
人権でございますが、次に、このような共同の公正な条件として
憲法はどのような
権利、自由を
基本的
人権として
保障しているかを見たいと思います。
先ほど、私たちはかけがえのない
生命を与えられ、その個性を大切にしながら幸福な人生を生きようと努力していると申し上げました。そのような
人間の
在り方に共感し、それを
尊重するために、
憲法十三条は
個人の
尊重条項の直後に、
生命、自由及び
幸福追求に対する
国民の
権利を定めております。
私が私として自分らしく生きていけるためには何が幸福か、何がよき人生かを自分なりに考え、選ぶことができなければなりません。私たちは他の人々と協力する必要がありますが、それによって私であることをやめるように強いられることがあってはなりません。そのことを
保障するのが自由権的
権利であり、
基本的
人権保障の中心的位置を占めています。
次に、
国家は私たちが形作る共同体なのですから、その共同の
在り方を決める過程に私たち一人一人が参画できなければなりません。この
民主主義の原則を
権利として
保障したのが
憲法十五条を中心とする参政権的
基本権になります。
さらに、みんなで協力をして生み出した共同の
利益なのですから、各人がこのような共同の
利益に対して正当な持分を持たなければなりません。それを定めたのが
憲法二十五条などの
社会権的
基本権となります。
そして、
憲法十四条は、私たちはこのような
人権を認められた対等な存在として配慮を受けることを定め、これらの
権利が侵害された際に救済を受けるために裁判を受ける
権利など、法的
保護を求める
権利が
保障されています。
日本国憲法の
規定は比較的簡潔であると言われるのですが、
基本的
人権保障に関する限り、
個人の
尊重を
基礎に体系的な
構造を有する相当程度行き届いた
規定であると私は思っております。ただ、
人間のやることは完全ではありませんので、
憲法が個別に
規定していない新しい
人権の問題が生じるということになろうかと思います。
第三に、包括的
人権保障と新しい
人権の問題でございますが、信教の自由や表現の自由などを定める
憲法の個別
規定が
憲法の
保障する
基本的
人権を限定するものであるか否かについては、
日本国憲法草案を審議した帝国議会において既に
議論がなされておりました。
憲法十一条は、「
国民は、すべての
基本的
人権の享有を妨げられない。」と定めております。ここに言う「すべての
基本的
人権」が、
憲法が個別に
規定する
基本的
人権をまとめた総称なのか、それを超えて文字どおり考えられる
基本的
人権を全て
保障するものかが問題となりました。その結論は、
憲法は、十一条において、およそ
基本的
人権と考えられる全てを
保障することを明らかにした上で、そのうち重要なものを拾って具体的に定めたのであって、個別
規定は
基本的
人権を例示するものだというものでございました。
このような
基本的な
考え方を受けて、
憲法による包括的
人権保障の
基礎となったのが
憲法十三条の
幸福追求権条項です。しかし、その文言は抽象的ですから、具体的にどのような
権利が
保障されるかが問題となります。
これについては、学説上、一般的自由説と人格的
利益説の対立がございます。例えば、賭博の自由ですとか自殺の自由といったものをめぐりまして、およそ全ての
行為自由あるいは
国家によって不合理な
制約を受けない自由一般が
保障されるのか、それとも、
基本的
人権と言う以上、人格的な存在として認められるために必要な
権利が想定されるかという
議論でございます。これは
基本的
人権とは何かという問題にかかわる重要な
議論でございますが、本日は時間の
関係もございますので、詳しくは触れさせていただけません。
最後に申し上げておきたいのは、新しい
人権保障の担い手の問題でございます。
憲法それ自体は
言葉ですから、自らが活動するわけではありません。したがって、誰かが
憲法十三条を
解釈して新しい
人権を具体的に
保障していく必要がございます。
この点、
憲法は八十一条で違憲審査権を認めておりますので、新しい
人権保障の担い手として裁判所が重要な役割を果たすことが期待されております。実際、
プライバシー権などは最高裁判所の判例によってこれまで承認されてきているところでございます。しかし、裁判所は、個別の訴訟事件を通じて
権利を
保障することがその任務ですので、思い切った形で新しい
人権の
保障を図ることには必ずしも適した機関ではございません。
そこで、
国民代表機関である国会の役割が重要であるということになるわけです。もちろん、広範な合意が得られれば
憲法を改正して新しい
人権条項を加えることも重要な手法だと思います。しかし、国会自身が
権利保障の
必要性を十分に
認識しておられるのであれば、
法律によってこれを実現していくという手法もございます。実際、知る
権利は
情報公開法によって、
プライバシー権は一連の
個人情報保護法によって具体化をされてきています。新しい
人権を
保障する必要があるから直ちに
憲法改正だというわけでは必ずしもありませんで、問題の
状況や
権利の
性質などを考慮して、最も効果的で適切な方法を選択されるということが必要であろうと考えます。
また、新しい
人権の
保障のために
憲法を改正するといたしましても、これまで申し上げましたように、
個人の
尊重を
基礎とする
基本的
人権保障の
原理原則あるいは体系を前提として、その延長線上に
人権の
保障をより充実させる方向で検討をされるのが適切ではないかと
個人的には思っております。
以上で私の
意見陳述を終わらせていただきます。
どうもありがとうございました。