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参考人(
宮口とし
廸君) 早稲田大学の
宮口と申します。
専門は、地理学、特に
社会地理学と称しておりますけれども、地理学というのは余り日本でははやらないんですが、世の中がいろいろ違っていると、何で違っているのかと。要するに、
多様性から出発する、そういう学問であると。私は主として都市とは対極にある価値を持つ田舎といいますか、農山村といいますか、そういう
地域について広い諸外国とも比べながら研究をしてきた人間であります。過疎
地域ということにつきましても、単に困っている
地域ではないのだ、そこには都市にはない価値があるのだというスタンスで議論をしてきた人間でございます。
今日は写真をお見せしながらお話をさせていただきたいと
思います。(
資料映写)
レジュメ、今日お配りしていただきましたけれども、そこには、日本の農村風景の基本、ふるさとのたたずまいということで、後ろに樹木に覆われた山がある、山の下に家並みがある、今映っている写真がそうでありますけれども。それから、本日は写真を一応プリントしてもお配りいただいているようで、どちらかを御覧ください。
家の前に田んぼが広がっていると。田んぼには水が必要ですけれども、近くの小川から古い時代には水を引いて田んぼをつくったと、これが非常に安定した
生活の場であったわけですね。連綿と現在にまでこういう風景が維持されている。裏山はこんな低い山なのに木に覆われているということに注目してください。要するに、前の田んぼで一生懸命働きさえすれば裏山で食べ物を作らなくてもよかった、これが日本のすばらしい風土であります。要するに、暑い時期に水があるということがいかにすごいことかということであります。
今、
最初の写真は大分県安心院町という、今は合併しましたけれども、九州の写真です。これは東北の遠野市、遠野盆地の写真です。九州の方は、照葉樹といいまして、冬になっても葉っぱが落ちない木が結構あります。東北は紅葉して葉っぱが落ちる。そういう自然の枠組みははっきり違うんですけれども、山の下に家があり、家の前に田んぼをつくって頑張ってきたと。山は山のまま保たれてきた。かつては多くは共有林であった、みんなの山だったわけであります、山を分割所有しないで。今の法律ではそれは無理なんですが。
というわけで、九州と東北がいかによく似ているかということをここで確認をいただきたいと
思います。
自然の枠組みは大きく違っていた。山に生えている木は違う、あるいは冬になると北陸から東北では雪がたくさん降ります。この狭い日本列島で、雪国とそうではない
地域の違いというのは極めて大きいんですけれども、それは冬の話である。夏は
一緒になる。ということで、同じことを実はやってきたんだということですね。夏は熱帯の空気がやってくるわけです。暑い時期に水があるということがいかに農業にとってすばらしいことかということを基本的に押さえていただきたい。
樹木に覆われた山ばっかりです、日本は。したがって、谷川が無数にあります。頑張ればどこへでも水を引いていくことができたんですね。というわけで、驚くべき水田の土地生産性。山に木が生えていますから、川の水にも少し栄養があります。というわけで、世界に例のない水田の生産力をもちろん人間の努力によって
実現をしてきた。これを単純化すれば、小さい田んぼだけで食えちゃったということで、日本に小規模な農家が多いんだということを理解していただきたいと
思います。そして、山は山としてそのまま保たれてきた。
というわけで、世界をいろいろ歩きますと、我が国の農地ほど価値のある農地はない、世界の宝である。すばらしい自然の風土というものに人の営為、営みが持続的に積み重ねられてきたんだということですね。
東南アジア、これは本来は豊かな風土ですけれども、山は伐採され、川の水は干上がりなんというところが随分今たくさん出てきております。それに対して、日本の農村がこのように落ち着いた風景を保ってきた。これは、都市の方へどんどん人が行き、都市が栄えた裏で
人口減少、高齢化ということが進んだわけでありますけれども、しかし、今何とかこういう風景を維持してきたんだということを大きくまず理解をしておいていただきたいということですね。
これは、宮城県の栗原という東北大震災の数年前に大きな地震に見舞われた内陸の農村でありますけれども、この田んぼに突っ立っておりますのは、稲を収穫した後に、くい掛けといいまして、
地元ではほんにょと言うんですが、わざわざ棒を立てて稲を掛ける、もちろん横に棒を渡して稲を干すところもありますけれども、これこそ私は日本の農村の美しさの粋ではないかと。少し拡大しますと、こういうことなんです。
こういうものは、やっぱり高度成長以降、農業の機械化の中でだんだん人間が手間を掛けないようになって相当減ってきていたんですね。しかし、私なんかが、都市に対して農村に一体どんな価値があるかということをよく考えてみましょう、
皆さんがこういうことに手間を掛けてきたことが農村の価値ではないのですかということを田舎でよく言います。要するに、農村では都市で育てることのできないものに価値があるはずなんですね。都市の人は
お金を掛けてジムに行って汗を流したりしている、
皆さんは
自分の土地で
自分のやりたいことで汗を流してここに美しいものをつくってきたのではないかということで、結構また復活をしてきております。
そういうふうに、都市と対比しながら、一方は
人口減少、高齢化がこれは全国的に進んでいますけれども、その中にやっぱり
自分たちが価値を見出して、誇りを持って生きていこうではありませんかということをずっと言いながら田舎と付き合ってきているわけであります。
これは、能登の千枚田と言われてきた今は輪島市の一角にあります棚田、ここには稲が五株しか植えられない、このぐらいの田んぼがあります。世界一小さい田んぼだと威張っていいよといって、私は
地元の人に言うわけですけれども。要するに、田んぼをつくって同じになることがみんなの願いであったわけですね。そして、こういう厳しい条件のところでも田んぼをつくった。今はもちろんこれを維持するのは大変なので、棚田の応援団的な人が都市にもおりまして、田植や稲刈りには
一緒になって
ボランティアで働いて、夜は公民館でビールを飲んでというような関係が生まれてきております。
ですから、こういうものの価値というものは、他人によって指摘されて、そして
自分たちが、なるほど、
自分たちは宝を持っているんだ、もうちょっと頑張ろうというふうに今世の中が少し動いていると。
これは山口県の徳山市の山の中にあるすり鉢棚田と言われる、ここも一部荒れていたんですけれども、Uターンした人がもうちょっと頑張ってやろうよということで、今はきれいにまたつくられていると。
それから、これは伊豆半島の山の中の、海辺の集落の背後の山の棚田が荒れ果てていた状態、これ全部荒れていたんですけれども、
地元の
人たちが、このおじいさん
たちが、おい、このままじゃ俺
たち天国へ行けないんじゃないか、極楽へ行けないんじゃないか、先祖の田んぼを荒らしちまったぜと。昭和四十年代から五十年代、伊豆の漁村の民宿というのはそれなりににぎわって
お金が入ってきた、こういうところをやらなくなった。こういうふうに荒れていたのを、せめて下半分だけ頑張ろうぜといって、これは静岡市の市民の力、大学の学生の力も借りながら、七、八年掛けて何とかこの棚田を元に戻したということで、ちょっと個人の顔はぼかしてありますけれども、非常にうれしそうな顔をしておられます。そういうのもありますよということですね。
ただし、日本の一部にはどうやって頑張っても田んぼができなかったようなところもあります。
これは徳島県の旧祖谷と呼ばれてきた山村ですけれども、山の斜面そのものに畑をつくって何とか
生活をしてきた。もちろん、いいところはだんだん埋まっていくわけですから、そこから枝分かれしてだんだん厳しいところへも入っていくわけです。厳しいところへ入って、あるところから頑張って棚田をつくる。しかし、それでもできないところもあったという。
これ全部斜面の畑で
生活をしてきた家でありまして、これが過疎対策等で集落道路が今は付けられ、自動車が上まで上がるようになっていますけれども、おばあちゃんが一人、あるいは
高齢者が二人というような
生活があり、なかなか厳しいところであると。これ、ここにも集落があるんですね。
四国の太平洋側に向いた山村というのは、日本で最も厳しいところにも集落があります。これは、雪が降らなくて日当たりがいいものですから、一年中畑が何とかつくれたんですね。ですから、昔住み着いちゃった。しかし、今ここに住んでいる人を都市の病院までどうやって連れていくかというのがこういう町や村の非常に大きな
課題としてのしかかってきている。じゃ、いっそのこと平野部に集落をつくって移ってもらえばいいじゃないかなんていう乱暴な議論がないわけではないんですけれども、しかし、やっぱりここで一生を終わりたいという方がほとんどなのだということですね。そういう集落には、こういう
感じで家がある。周りの畑で何とか食べ物を作ってきたということですね。
ですから、こういうところに、人間の努力という、信じられないような労力が注ぎ込まれてきたんだと。そういう意味では、これ自体が立派な遺産として我々は評価すべきであるというふうに考えております。
これは、瀬戸内海のミカンの島です。斜面、山の上まで全部石垣を積んでミカン畑をかつてつくった。大変なことです。米が取れないところの人ほどとんでもない頑張りをしたという、そういう箇所が日本各地に点在をしていると。
何で家がこんなにあるかといいますと、ミカンでやっていけるというのが分かったときに、おやじさんが頑張って、次男の分、三男の分も遠くの島にミカン畑をつくったんですね。普通、日本の水田農村は長子相続で、次男、三男は出ていったから、家が増えていないんです。ところが、ここの
人たちは喜んじゃって頑張っちゃった。そういう日本的伝統がないこれは集落で、今は道が狭くて困っているという。
これは、遠くの島へミカンを作りに行く船であります。今の集落だけで二百以上の船がかつてはあったと。
それから、四国の宇和島市の南にある、
地元では段畑、段々畑、ジャガイモ畑です。こんなものをよくつくったものですよね。この石垣の高さが畑の幅よりも高いというのを見ておいてください。
それに対して、日本でそれだけ頑張ってきたというわけで、日本の普通の農地というのはすばらしい価値ある農地なんです。米の生産力、単位面積当たりは本当にすごいんです。というわけで、今、世界で食料があり余っている時代ではないときに、日本の農地を減らすと代わりはないんだということなんですね。やむなく減る
部分はあります。だけど、政策として減らすのはいかがなものかというのが私の
意見です。
それから、暑さと水が同居しない世界というのが世界に多いわけです。
これは、ヨーロッパのスペインでございます。夏の写真です。山は茶色です。草は枯れています。下は小麦畑です。しかも、山には木がない。春にはこういうふうに緑になりますが、これスペインの山です。一本も木がありません。下は小麦畑です。春にこういう緑になって、夏にまた枯れてしまいます。夏は雨が降らないというのは、そういうことでございます。
何でこういう山になったかというと、小麦畑だけでは食い物が足りないというわけで、羊や豚や牛をどんどん増やして食べる。食べるための家畜を増やすために山を牧草地にしたという、そういう理屈でございます。
それから、イタリア、スペインへ行きますと、これはオリーブの果樹園ですけれども、山を目いっぱい食べ物のために使ってきた。これはオリーブの果樹園で、なおかつ羊を飼っている。こうやって初めて今のヨーロッパの
人口になれたんです。要するに、家畜の方が増やせた。地面から取れるものには限りがある。日本は、地面から頑張りさえすれば取れたので、家畜を食べずに済んだ国だということなんですね。
これ、スイスです。山ばっかりで、斜面はほとんど牧草地。牛を飼ってきました。谷底は氷河が削って、畑にもなりません。そういうところでひたすら牛を飼ってきたスイスが、自給率六割近いという日本よりはるかに高い数字を、これは国家の方針として
国民的合意の下に
実現をしています。
フランスのチーズの村ですけれども、こういうふうにブランド品のチーズを直接村で作りますので、牛の数をそんな増やさなくても専業農家が成り立つと。日本は、牛乳を出すだけなので、北海道の専業農家は百二十頭ぐらいいるんですね。
それから、これ、フランスの麦畑です。
一つだけ、御承知と
思いますけれども、ヨーロッパのEU諸国、EECの時代から、ここにCAP、共通農業政策、CAPとレジュメに書いてありますが、これを堅持してきました。初期には、域内で取れた農産物は全部価格を保証するということに
お金を使って、ヨーロッパでは農業が意欲を持つ農家によって今もきちっと続けられています。というわけで、農村風景は荒れていないのがEU諸国。今、拡大して少し問題ありますけれども、美しい農村があるということですね。
ということで、都市に対して、レジュメの三番ですけれども、農村、特に過疎
地域はどんな価値を持つか。過疎
地域は、高度成長期に多くの人を送り出し、成長を支えた
地域。当時、四十代の人が村で頑張っていましたけれども、初期は、二十代は出ていきました。そういう人が今七十代、八十代になって、何とか土地を使っている。そこには自然を扱う技の蓄積があるということであります。都市には都市の技があります。そこには芸術、スポーツ、シェフ、職人の技と書いておきましたけれども、農山村には土地を扱う技というものがございます。それは人間が育ててきた貴重な価値であります。そういうものを忘れてはいけないと。
そういう中にまた新しい農村の姿、これは北海道の富良野、美瑛の辺りのラベンダー畑ですけれども、農家がこういうふうに花を工夫して、真ん中の白いのはジャガイモですけれども、畑そのものを見に来る人が今は増えています。こういうふうに、夏になるとたくさんのアルバイトを雇っていますけれども、こういう新しい農村の価値づくりというのも一方で生まれていると。
これは美瑛という、毎年違う作物を植えれば毎年風景が違います。
そして、農家民宿なんかは非常にゆとりと温かさで都市の人をほっとさせるというような新しい動きもたくさん育っています。経済的には、高知県でユズの加工品を三十数億売っている馬路村、これもお年寄りのユズ栽培に支えられています。そういうふうに、人間が土地を扱う技、ここに私は農山村の人間論的価値というのを見出したいわけであります。
そして、農村の多くは集落によって支えられています。先ほどの段々畑ができたのも、集落のみんなで
一緒に作業をしたからできたわけであります。今、高齢化が物すごく進んでおります。先ほど
立川市でお年寄りをいかに見守るか、これ、都市で今新しい取組が進んでいることにはもちろん敬意を表します。しかし、農村には支える力というのは元々ありました。お年寄りだけになった集落で、みんなで集まって御飯を食べようぜというような動きが始まっている例もあります。
それから、長野県の栄村では、げたばきヘルパーといって、六十過ぎたらみんなヘルパーの資格を取って、先ほど
両隣を見守るという話がありましたが、げたを突っかけて見守りに行けるような関係をつくろうというようなことも、これは農山村本来の姿であります。
農山村には、何よりも土地と家と食べ物、そして近所付き合いがある。その長い年月に支えられたゆとりというのは、実は
都会の
子供を何日か預かると
都会の
子供が非常に変わるという、これははっきりした研究結果も出ております。物に動じない、ちょっとしたことでおばあちゃん驚いたりしない、怒ったりしない。実は、子ども農山漁村交流プロジェクトというのを何年か前に総務省、文科省、農水省の共同プロジェクトで始めたんですけれども、これはちょっと国がそこまでやるのはというような何か流れで少し縮小して、今細々と続いておりますけれども、これを是非またお考えいただきたいと
思います。本当に私は、突っ張りの中学生がうるるんで帰る場面を何度も農山村で見ております。
そういうことで、都市で満たされない若者というのは今かなり増えてきている。そして、緑のふるさと協力隊、あるいは最近できたものでは
地域おこし協力隊、こういうものに都市の若者がかなり応募するようになってきております。そういう
人たちが田舎を訪れて、こういうものっていいですねって。土地の人はこんなもの昔からあって当たり前と思っていたけど、ああ、それは都市の人にとっては驚くことなのかということで、そういう他人の目を身に付けることによって改めて農山村の人は
自分たちが大切にすべきもの、宝というものに気付いて、そういうことで
次世代につなげるような力が湧いてくる可能性があるというようなことを考えております。
最後に、例えば阿蘇山の周りにはこんな牧草地があって、ここでもユニークな
生活がありましたよと。ただ、日本は草が育ち過ぎるので三月に野焼きというのをやらなければいけません。これは日本の風土が、自然が豊か過ぎるせいだと。ヨーロッパではこんなことは要らないんですね。ということを最後に申し上げて、終わりにさせていただきたいと
思います。
ちょっと時間が超過しましたことはお許しをいただきたいと
思います。