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山内徳信君 歴史的な、何といいますか、侵略について否定したことはないということは、言葉を逆に言えば、過去のアジア太平洋戦争の中では侵略行為もあったと、こういうふうに認めたということになるわけでございます。
それでは次、二番目に進めていきます。これは主として
防衛大臣にお
伺いしたいと思います。
実は、読谷村内にトリイ・ステーションという在沖米軍、在沖陸軍の通信施設がございます。その通信施設に今回の再編統合計画で嘉手納以南の基地にある大型倉庫群だとか普天間の通信施設の司令部機能等々を移していくという話でございますが、それは経過を今日は少し申し上げて御
理解をいただきたいと思っておるんです。
現在のトリイ・ステーションの面積は百九十四ヘクタールです、現在のものは。ところが、戦後接収されたトリイ・ステーションは三百二十八ヘクタールです。そのことについて少し申し上げますが、この接収が始まりましたとき、私は読谷高校の一年生です。二年生のときには例の四・二八の対日講和条約が結ばれたわけですね。どういう
状況かというと、五〇年代の初頭は朝鮮戦争が始まったわけですね。日本は独立をした、そのことによって、本土にいっぱいおりました米軍、在日米軍、とりわけ海兵隊とかいろんな
部隊が沖縄に移っていく。日本は独立しますから、基地の自由使用のできる沖縄をアメリカ軍は確保しておきたかったわけです。そういうふうにしてどんどんどんどん沖縄に本土から米軍が移ってくる。読谷村や、今の宜野湾市、那覇市、あるいは久志、今の名護市、あるいは伊江島、これを総称して申し上げますと、銃剣とブルドーザーで米軍は県民の意思を全く無視して接収をしていったということでございます。
そこで、この占領軍は強権的に、読谷村の字楚辺、字渡具知、字古堅、字大木というこの四つの、この大木は一部でございます、ここに強制立ち退きの命令が出てきたわけですね。その場所から即刻立ち退けと。
これは戦後、戦争終わって五年ぐらいしかたっていませんから、やっと沖縄の人々、読谷の人々は復興再建に立ち上がろうとしたやさきなんですね。まだ収容所から完全に移ってこれない人々もいたわけですが、戦争が終わって再び
自分のふるさと、生まれ故郷の集落再建に立ち上がろうというそのときでした。それは、一九五〇年、五一、五二年というように続いていくわけですが、戦争によって追われた人々が再び
自分のふるさとに戻ってきて再建しようとしたそのやさきに、再び生まれ故郷を追われていくわけです。
そして、そこにできたのがトリイ・ステーションという米軍の基地でございます。どういうふうにして、米軍の基地であるのに何々ベースと言わぬで、なぜトリイなのかと。私は何度もトリイ・ステーションの隊長
たちと話合いもしてきましたが、なぜなんだと。鳥居には、やはり、少なくともこういう激しい沖縄戦のあったところに基地を造っていくから、少し日本への親近感を表す必要があるんだろうと彼らは思ったわけですね。ですから、鳥居というのは日本にあるわけです。そういうふうな思いを込めて造ったんだろうというふうに、一九七〇年から八〇年代のそこの司令官
たちは、彼らもよく知らないが、そんなものだったんだろうと、こういうふうな言い方をしていたわけですね。
ところが、そういう強制命令があっても、生きていくための家屋敷も、あるいは生産をしていく食料生産の土地も全部アメリカ軍が接収をしていくわけです。私
たち高校生まで動員が掛かりました。その楚辺、古堅、渡具知から強制的に排除されていくわけですね。すると、移転先を最初に決めぬといかぬのです。ところが、そこは家屋敷の準備がされているところでございませんから、荒地でございますから、そういうところを高校生
たちはつるはしやショベルを担いで学校に行って、学校に集まって整地作業に動員を掛けられていったわけです。そういうふうな
状況でございました。
したがいまして、これから一体どうすれば生きていけるんだろう、そういう生きる手段としての土地は接収されていく、家屋敷は全部潰されていく、そういう農民
たちの不安と動揺は、それは深刻でございました。そして、農民
たちを
中心に、多くの関係者が必死に占領軍と交渉をしました。彼らと交渉する以外ないわけです。日本政府が沖縄にあるわけじゃないんですね。
そして、私は何度か字楚辺を訪ねまして、当時の陳情書なのか要請書なのか、それを見ておきたいと思って、読谷村長のときに、行きましたら、そういう普通の表題じゃないんです、嘆願書なんですね。嘆願書がございました。それはもう深刻な訴えでございましたね。
そして、農民
たちを
中心とした関係者の必死の訴えと交渉、あるいは、その嘆願書は米軍の当時の最高司令官のところまでも行ったんだろうと思います。その結果、兵舎とその他必要な建物が建つわけです。施設が建つわけですね。当時の通信所でございますから、三名でしか抱きかかえることのできないほどの大きな電信柱があっちこっちに立つんです。それが通信トリイでした。
そして、交渉の結果、必死の訴えの結果は、分かったということになるわけです。要するに、黙認耕作を認めようと。そうしなければ、敗戦後のああいう読谷で、聞いておいてくださいよ、対日講和条約が結ばれたときの読谷の総面積の八五%は米軍基地でした。米軍基地ですよ。そういう
状況の中でこういうふうな接収が続いていくわけですね。そして、そういう黙認耕作を認めてくれ、あるいは認めようと、そういう条件を踏まえて私
たちはかの地に移っていきましょうということになって、今のトリイ・ステーションはでき上がったということであります。
その陰には必死に動いてくださった人々がおるんです。当時、読谷村出身で沖縄一の英語マンと言われた比嘉秀平という、戦前、早稲田大学を出て、ハワイ大学へ行って勉強されてきた人ですね。アメリカは、沖縄にどういう人々がおるかを沖縄戦に入る前ちゃんと調べ上げておるんですね。そういう比嘉秀平先生が初の任命主席です。選挙なんてあるんじゃないんです。この比嘉秀平主席や、当時、読谷の村長は伊波俊昭さんでございました。私も今もよく覚えております。そして、当時の議員さんは今のような議員の
体制じゃないんです。学校の校長先生とか教頭先生とか、そういう役付きの方々を十五、六名ぐらいに暫定的な議員として発足をしておるわけですね。そして、最初の村長もアメリカ軍が任命したわけです。読谷をまとめろと、嘉手納町をまとめろとか、こんなふうなんですね。そして、各字には区長さんというのがいらっしゃいますから、そういう区長など責任ある人々が血のにじむような問題解決の
努力があったということです。それがトリイ・ステーションの現在の黙認耕作地だということです。
防衛大臣、しっかり頭の中に入れておいてくださいよ。
そして、私は高校生でしたから、そういう立ち退き命令を受けた人々と一緒に高校生
たちは、次、移転先の整地作業に動員が掛けられていくと。まさにこの姿は、戦前の、戦争直前の中学生以外、師範の学生と同じように戦争に駆り立てられていったのと同じような感じをいたしました。
そして、占領軍と敗戦国の読谷村民との間にできた、ここが大事なんです、
人間的な
理解が、戦勝国民、敗戦国民であっても必死に訴えていったことによって
人間的な
理解と、そして和解の成果、和解の成果というのが、あの黙認耕作は認めていくぞと、認めましょうという和解の条件なんです。これも
是非記憶に残しておいていただきたいと思います。
こういうふうにして一九五〇年代の初めから黙認耕作は、基地ができても黙認耕作はアメリカ軍が認めてきたわけです。あれから六十二年ぐらいたっていますよ。六十二年たった今日、日米が沖縄の嘉手納以南の基地の返還、負担軽減の名の下にやることによって、嘉手納以北の基地、トリイ・ステーションとかキャンプ・キンザーとかキャンプ・シュワブとか、そういう嘉手納基地以北にある基地が今申し上げましたように新たな問題になっておるということであります。
トリイ・ステーションという米軍基地の中に黙認耕作地という土地空間があるからと、今の日本政府も在沖米軍も考えておるんだと思いますよ。トリイ・ステーションには土地空間があるから、そして、そこをグリーンベレーの拠点にするとか、話、情報は入っていますか、グリーンベレーの拠点。そしてさらに、普天間
地域にある通信施設の司令部機能をトリイ・ステーションに移そうと。キャンプ・キンザーを返還するから、そこにある倉庫群、これをトリイ・ステーションに移そうと。
大臣、キャンプ・キンザーという基地は、御承知のとおり、五十八号線から西の方にあるところですね。朝鮮戦争、ベトナム戦争のときにどういう基地だったかは少しだけ申し上げますと、そこはベトナムで犠牲になった兵士
たちをそのまま運んできて、キャンプ・キンザーで、汚れた、血に染まったその体を立派に洗う。そして、ジュラルミンに入れてアメリカに送る。トラックや戦車、傷ついた戦車、泥にまみれたトラック、そういうのを全部洗浄していったところがこのキャンプ・キンザーです。ベトナム戦争の後方支援最大の兵たん基地として使われたのがキャンプ・キンザーですよ。そこの倉庫群は、五十八号線と同じように大きな倉庫がありますね。五十八号線からよく見えますよ。それが読谷のトリイ・ステーションに移るということになったらどうなるかというと、読谷はパニックに陥りますよ。
これから
状況をもう少し
説明してまいりますが、そういうふうに土地空間があるから大型の倉庫群も移そうとか、そのために黙認耕作をしておる人々に黙認耕作地の明渡しをやるということはどういうことなんですか、これは。敗戦後、トリイ・ステーションができたときでさえ、多くの関係者が必死に話合いをした結果、黙認耕作という条件が付いてきたわけです。それを六十二年後の今日のアメリカ兵も
防衛省の
皆さん方も一緒になって、向こうは土地が空いているから向こうに造ろうなんというのは、それは経過を全く知らない人の判断なんです。
したがいまして、こういう計画を、黙認耕作者を追い出していくような計画は、これは読谷村としてもそして
地域としても認めるわけにはいかないということで、既に村長や議会の
皆さん方、
地域の関係者は沖縄
防衛局その他に要請は終わっております。そのことは報告として上がっておるのかもしれませんが、私は、第一の今日の質問の結論は、黙認耕作地を明け渡すことはできませんと、こういうことをお伝えをしておかなければいかぬのです。
そして、占領軍との間に必死に交わしたこの和解の成果たるものを今の人々がずたずたに切り裂いてはいかぬのです。黙認耕作地というのは、
皆さんは軍用地料を払っているじゃないかとおっしゃるのかもしれません。農民はこの土地が生産の基盤であるし、生きていくすべなんです。そういうことをしっかりと頭の中に置いていただきたいと思います。
したがいまして、新しい犠牲者を出すようなそういう移転、統合計画は、これは認められない計画でございますから、そして同時に、農民の立場から見ると、黙認耕作者の生存権も人権も何も認めていない、そういう生存権さえ奪うのが黙認耕作地の明渡しということになるわけでございます。このことは
外務大臣もしっかり頭の中に入れておいて、日米合同
委員会のときにはきちっと物を言っていただかなければいかぬと思います。
そこで、在沖米軍を始め在日米軍と
防衛大臣は即刻交渉に入ってほしい。黙認耕作に新たな施設を移していくと新たな問題が起こる、こういうことで、これは中止をしよう、変更しようと、こういう対米交渉に入っていただきたいと思います。いかがですか。