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2013-06-20 第183回国会 衆議院 青少年問題に関する特別委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成二十五年六月二十日(木曜日)     午前九時開議  出席委員    委員長 松島みどり君    理事 北川 知克君 理事 鈴木 淳司君    理事 中根 一幸君 理事 永岡 桂子君    理事 山本ともひろ君 理事 菊田真紀子君    理事 坂本祐之輔君 理事 浮島 智子君       赤枝 恒雄君    秋元  司君       岩田 和親君    熊田 裕通君       小林 茂樹君    新開 裕司君       末吉 光徳君    田畑 裕明君       堀内 詔子君    宮川 典子君       武正 公一君    柚木 道義君       遠藤  敬君    西野 弘一君       輿水 恵一君    畠中 光成君       宮本 岳志君     …………………………………    参考人    (公益財団法人日本オリンピック委員会理事)    山口  香君    参考人    (宮川医療少年院児童精神科医)          宮口 幸治君    参考人    (静岡文化芸術大学文化政策学部准教授)      溝口 紀子君    参考人    (開善塾教育相談研究所相談部長)         藤崎 育子君    衆議院調査局第一特別調査室長           横尾 平次君     ————————————— 委員の異動 六月二十日  辞任         補欠選任   田畑 裕明君     末吉 光徳君 同日  辞任         補欠選任   末吉 光徳君     田畑 裕明君     ————————————— 本日の会議に付した案件  青少年問題に関する件(いじめ体罰問題)      ————◇—————
  2. 松島みどり

    松島委員長 これより会議を開きます。  青少年問題に関する件、特にいじめ体罰問題について調査を進めます。  本日は、参考人として、公益財団法人日本オリンピック委員会理事山口香さん、宮川医療少年院児童精神科医宮口幸治さん、静岡文化芸術大学文化政策学部准教授溝口紀子さん及び開善塾教育相談研究所相談部長藤崎育子さん、以上四名の方々に御出席をいただいております。  この際、参考人皆さんに一言御挨拶を申し上げます。  本日は、御多用のところ、御遠方の方もいらっしゃいますところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人皆さんにおかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。  次に、議事の順序について申し上げます。  まず、参考人皆さんからお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願い申し上げます。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、御了承ください。  それでは、まず山口参考人にお願いいたします。
  3. 山口香

    山口参考人 おはようございます。私は、公益財団法人日本オリンピック委員会理事を務めております山口香と申します。  このたびは、参考人ということでお呼びいただきまして、発言機会をいただきましたことに御礼を申し上げます。  私の方からは、現在、スポーツ界でさまざま問題になっております暴力、そして体罰といった問題の現状、そして裏側にあるものなどをスポーツ立場から少しお話を申し上げて、御理解をいただければというふうに思っております。  まず、日本スポーツですけれども、そもそも、スポーツといいながら、学校の中に体育スポーツが混在しているという現状があると思われます。ですから、そういった体育スポーツのすみ分けが余りなされていない中で、正直、さまざまな問題が生じているというふうにも考えられます。  まず、学校の中で体育というものが担ってきた教育的な価値というところにも関連があると思うんですけれども、社会的な秩序ですとかルールを守るといったようなところが、恐らく体育が担ってきた部分一つでもあるというふうに思っております。  そういった中で、朝礼のときに生徒を集めるとか、あるいは学校体育の中で、散らばっている体育館の子どもたちを集めるといったときには、どうしても体育先生というのは大きな声を発しなければいけない。それが少し進んで、どなる、そして、もっと言うことを聞かないと体罰ということに、比較的ハードルが低く、体育暴力とか体罰といったことに行きやすい現状がまず一つあるのではないかなというふうに思っております。  また、スポーツといいながらも、学校クラブ活動が非常に多くの、強化といったところも占めておりますので、そういった中で、学校先生生徒関係、そして指導者選手関係、これがなかなか境がつかない。指導者であり先生であるというようなところで、なかなか、コミュニケーションというよりも、上意下達といいますか、先生の言われたことには従わざるを得ないというような構造的な問題も潜んでいるのではないかなというふうに思っております。  また、学校体育ということでありますので、生徒の方が指導者を選ぶことができないという現状もございます。この先生とはなかなか合わない、あるいは指導方針についていけないというようなことがあっても、そのスポーツを続けたいときには、学校をやめるであるとかクラブをやめるということになって、外にスポーツクラブが存在すればいいですけれども、なかなか日本現状はそういったことになっていませんので、そのあたり一つ問題があるかなというふうに思っております。  また、人間にはやはり感情がありますので、私たちもそうですけれども、怒ることもありますし、そういった感情指導者であってもうまくコントロールするということが恐らく求められるんでしょう。  それは、人間が誰しも持っているところなんですね。ただ、実は、スポーツは、そういった感情、そして怒りといったものをコントロールするという意味も実際には含まれているんですね。そのあたりが実は指導者方々にはなかなか、強い認識を持たれていないというようなところもあるような気がします。  ゴルフを例にとりますと、先生方の中にもゴルフをされる方が多いと思いますけれども、ゴルフセルフジャッジでございます。審判が存在せず、自己申告ですね。ですから、そういったところからすると、自分が五打を三打と申告しても許されるスポーツでございます。素振りだと言い張ってもいいんですね。  ですけれども、そこで何を学ぶかというと、つまり、誰かから言われたからルールを守る、誰かに見られているからやってはいけないということではなくて、自分自分を律するということをスポーツを通して学ぶという意味一つスポーツにはございます。  また、ラグビーでいいますと、ボールは、ラグビールールでは前に投げてはいけないというのは御存じでしょうか。後ろにパスするんです。ですから、前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかよくわからないスポーツでございまして、前に行きたくてもなかなか行けない。  でも、これは、ある意味社会の縮図でございます。自分が突破したいと思っても、自分一人で行くと潰されることもある。だから、社会というコミュニティーの中で皆が連帯をしながら、パスをつなぎながら、少しずつ自分たち目標やゴールに向かって進んでいく。そういったようなことを、ラグビーという一つスポーツを通して、面倒くさいながらも、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンという言葉がありますけれども、少しずつ前に進んでいくということを学んでいくスポーツということが言えると思います。  また、ラグビーテニスを見ておわかりのとおり、あれらのスポーツフィールド内にコーチ、監督はいないんですね。ですから、フィールドに立った選手たち自分で考え、自分で判断し進んでいく、つまり自立です。  先ほどのセルフコントロールというのは自分を律する自律、そして、ラグビーテニス、あるいはほかのスポーツでもそうですけれども、自分で判断する、自分で立って進んでいくという自立、この両方がスポーツには求められているし、教育的な意味であり価値であるということが背景にあるわけです。  ですから、暴力がなぜ悪いのか、体罰がなぜ悪いのかというと、そういったルールに基づいて、面倒くさくても少しずつ前に進んでいくというその教育的な価値を、指導者がある意味無視をして、殴ったり蹴ったりすると選手がぴりっとするとか、あるいは、はっとして、カンフル剤のように非常に効果があらわれるということで、そのルールを無視してやるということは、そもそもスポーツ意味とか価値をみずからが否定するものであるというふうに私は考えております。  また、私は当該スポーツ柔道でございますけれども、柔道というのは、ある意味、道の文化です。日本には道の文化が幾つかございます。例えば、茶道であるとか華道であるとか道とつくもの、これを道の文化だと私は思っておりますが、この道の文化一つの特徴は型でございます。型にはめていく。  ただ、これが、ある意味、体に覚えさせる、まずは没個性なんですね、型というのは。自分がやりたいようにやるとか、自分が自由にといったことは認められずに、没個性ということで、師範あるいは流祖と言われるその流派をつくった人の型を学ぶことによって基礎基盤をつくっていくのが道の文化でございます。  ですから、そういった現状があるから、日本スポーツ体育には、その型を学ばせるといったところで、ある種、体に覚え込ませていく、体罰といった背景一つはあると思います。  ただし、その型という文化ですけれども、実は、茶道言葉で守破離という言葉がございます。守る、破る、離れる。最初のところは守るなんですね。つまり、型を学ぶということです。そこは没個性で、自由を許しません。でも、それが基礎となり基盤となり、その人の人間性をつくり上げていくという教育体系でございます。  つまり、何かを考えたり判断するには基準が必要です。物差しが必要なんです。それが型ということに集約されて、それを教えずに自由を与えるとどうなるかというと、人間というのは暴走してしまいます。  ですから、例えば家を建てるのであったら、下の基礎部分はしっかりつくらなければいけないんだという日本教育がございます。ただ、その後に、基盤ができたら、殻を破り、自分個性を重ねて、そしてさらに、離れるというのは、私は社会生活での応用だと思っております。一つの道で教えられたことが、その道でしか生かされないのではなく、その道から離れたときにでも社会生活で応用できる。  つまり、スポーツにおいても求められているのはこの守破離という考え方であり、スポーツで教えられたことが最終的には社会で生かされなければ、スポーツ意味価値はございません。  私たちオリンピック委員会では、金メダルをもちろん目指して選手たちを強化しております。ただ、選手たち最終目標金メダルにあらずです。社会に出たら金メダルはございません。お尻をたたいてくれるコーチもおりません。  ですから、スポーツで学んだことを社会で生かすためには、やらされてやっているではなく、社会に出たときには、自分目標を設定し、自分を律して、自分の足で立って歩いていかなければいけません。  そういった意味では、金メダルをとるということは手段として、そしてその裏に、私たち人間を育てていく、教育をしていく必要があるというふうに考えております。  私は柔道でございますので、ここ一連のスポーツにおける暴力体罰の問題といったことは、やはりナショナルチームの十五人の選手たちコーチを告発したというところから端を発していると思います。  彼女たちがなぜああいった行動に出たのかを鑑みますと、恐らく、暴力云々ということも背景にはありますが、それ以上に、やはり彼女たち自身の尊厳が傷つけられた。殴らなければやらない、言われなければやらないんだ、そのことが彼女たちを傷つけ、あの告発に至ったというふうに私は考えております。  そういった意味では、私たち、もちろん柔道嘉納治五郎が目指したものは、術という言葉を道にかえて、柔道ということにいたしました。それは、術が目的ではなく、術を手段として人間教育を行うということを強くおっしゃられました。  嘉納治五郎は、日本オリンピック委員会日本体育協会、この二つの前身となります大日本体育協会を創設し、そして初めてオリンピック日本代表を率いた団長でもございます。そういった意味から、オリンピック嘉納治五郎の目指す人間教育というのは、相重なる、相通ずるところがございます。  私たちスポーツ界は、学校体育現場、そしてスポーツ現場も含めて、やはり、勝つということが最終目標ではなく、スポーツの持つ意味価値を、指導者選手や親御さんに丁寧に、そして粘り強く語りかけながら伝えていくことが必要だなというふうに思っております。  御清聴ありがとうございました。(拍手)
  4. 松島みどり

    松島委員長 ありがとうございました。  次に、宮口参考人にお願いいたします。
  5. 宮口幸治

    宮口参考人 皆さん、おはようございます。宮川医療少年院児童精神科医宮口幸治と申します。  本日は、このような貴重な場にお招きいただき、まことに感謝申し上げます。  私は、今、三重県伊勢市にある宮川医療少年院医系技官として勤務しておりますが、本日は、一臨床家として少年非行についてお話しさせていただきたいと思います。  当院、この宮川医療少年院というところは、特に手がかかると言われている知的障害発達障害を持った非行少年を収容する施設です。全国に三カ所あります。いわば特別支援学校的な少年院といった位置づけになります。  彼らの非行は、窃盗、恐喝、暴行、傷害、それから強制わいせつ放火、殺人まで、全ての少年たちがおります。私は、そこで、彼らの診察をしたり、教育プログラムをつくってグループワークをやったり、あとはその効果検証なんかもやっております。  本日は三つお話しさせていただきたいと思うんですけれども、一つ目は、非行少年入り口の問題として、少年院に来る子は一体どういう子かということ、二つ目少年院教育について、三つ目出口の問題、つまり、少年院を出た後どうなっているのかというところをお話ししたいと思います。  まず、一つ目入り口の問題なんですが、私は、少年院に勤務する前は、大阪府立精神科病院で勤務しておりました。  どうしてそこをやめて今のところに来たかと申しますと、そこの病院では発達障害児とか被虐待児治療を行っていたんですが、病院というところは受け身なんですね。要は、大変な子どもたちを親が連れてこられたり、児童相談所などの支援者の方が連れてこられたりするんですけれども、そこで初めて治療というのが成り立ちます。ですので、こちらから困っている大変な子を探しに行くというわけにはいかないんですね。要は、病院に来れる子しか治療ができない。治療の多くは、将来非行化しないようにとか心の病気にならないようにとか、そういった予防治療というのが主でした。  では、みんなの支援から漏れて非行化してしまう子というのはどんな子なんだろう、それが病院にいては全くわからないんですね。本当に支援が必要な子は、実は病院に来れない。学校でも同じと思うんですけれども、学校に来ないほど支援が必要な子なんじゃないかなと思います。  今、地域学校に行って、学校先生方へのコンサルテーションというのも行っているんですが、そこで校長先生と帰りによくお話しするんですけれども、まず、地域にいた非行少年の話なんかになるんですね。先生、あの子も最後少年院に行ってしまったんですよ、それで終わっちゃうんですね。つまり、教育現場学校現場にとって話の終わりというのは少年院なんですね。少年院に入ったというのが終わりなんです。  病院での事例検討会というのもよくあったんですけれども、いろいろな関係者が手を尽くしていろいろ頑張ってくれたあげく、事例最後のくくりというのは、やはり、警察に逮捕された、少年院に入った、それで終わりなんですね。  では、実際に、本当に少年院に行ってしまった子はどうするんだ、少年院を出た後はどうなっているんだ、それについては、教育とか医療、福祉の関係者は誰も知らないんです。  私は、そこは絶対に知る必要があると思いまして、前の病院を思い切ってやめまして、今の少年院の方に来ました。  少年院に来てみて、とても驚きました。病院とは全く違うことが問題になっておりまして、問題の深刻さというのは私の予想をはるかに超えておりました。  正直、最初はとても怖かったです。彼らの調査書なんかを見ますと、これでもかこれでもかというほど非行を繰り返しているので、凶暴な連中ばかりがいるのかなと思って、いきなり殴られるんじゃないかと常に身構えていました。でも、実際は、とても人懐っこくて、どうしてこんな子がというような子ばかりでした。  一番ショックでしたのが、足し算とか引き算ができない、簡単な図形も写せない、短い文章すら復唱できない、そんな子が大勢いたんですね。見る力とか聞く力、見えないものを想像するといった想像力、そういう力がすごく弱くて、そのせいで、聞き間違えたり、対人関係で失敗したり、被害的になったりとか、そういうのが非行の原因になっているんだなということに気がつきました。  そのほかにも、高校生なのに九九を知らない、九九が言えないんですね。不器用で力かげんができない。日本地図を出して、自分の住んでいるところはどこと聞いても、指で指せないんですね。どこに住んでいるかわからない。  北海道は大体みんなわかるんですけれども、私が九州地方を指さして、ここはどこと聞いたら、まずわからないですね。ある子になりますと、あっ、わかりました、外国です、中国ですとかと言う子がいるんです。いつから中国の領土になったんだと思いますね。尖閣諸島どころじゃないなと思っちゃうほどです。  そんな彼らですから、今の総理大臣は誰と聞いても、安倍総理の名前が出てくる少年なんか、まずほとんどいないですね。それでも一生懸命考えるんですね。あっ、先生、わかりました、オバマですと言うんです。何となくわかる気もするんですけれども。  それから考えて、同年代の少年たちと比べて、やはりすごく生きにくさというのを持っているなとすごく感じました。  そんな彼らに苦手なことは何と聞くと、みんな口をそろえて、勉強、それから、人と話すことと答えます。  では、彼らは一体、学校でどんな教育を受けてきたんだと私は物すごく疑問に思いまして、生育歴なんかを見てみますと、大体、小学校二年生ぐらいから勉強についていけなくなって、友達からばかにされ、いじめに遭ったり、先生からは不真面目なやつだと思われて、さらに家庭内で虐待があったりするんですね。そうしたら、もうだんだん学校に行けなくなって、万引き、暴力など、さまざまな問題行動を引き起こしていきます。  中学生になると、もう手がつけられないですね。ついには、犯罪をして被害者をつくって、逮捕され、少年鑑別所に入って、そこで初めて、この子には障害があったんだということに気づかれるんですね。そういう現実があります。  学校家庭で長い間、障害があるということに気づかれずに、特別支援教育を受ける機会を失って、自信をなくして非行化しているという現実がありました。  非行は突然降ってきません。生まれてから現在まで、ずっとつながっています。そこで多くの支援者がさまざまな場面でかかわってくれています、親が、学校が、地域が。でも、その支援がうまくいかず、うまくいかずを繰り返して、もうどうにも手に負えなくなった子どもたち、そういう子どもたちが最終的に行き着くところが少年院だということに私は気がつきました。  二つ目少年院教育についてなんですけれども、世間では、少年院に行くような子というのは、もう手がつけられない、どうしようもない子だと思われているかもしれません。もうそんな彼らを変えることはできないのでしょうか、本当にやる気がないのでしょうかというところなんですね。  私は、決してそうは思わないんです。  今、彼らが最も苦手とする、見たり聞いたりするトレーニングというのをグループでやっているんですが、彼らは、二時間、飽きることなく、集中して取り組んでいます。私が彼らをリラックスさせようとちょっと雑談なんかをすると、先生、時間がなくなるから早くしてくださいと、逆に叱られたりするんですね。  先日も、見学に来られた鑑別所先生なんかも、逮捕直後の彼らと比べて、まさか、あんな彼らが二時間じっと座って集中できるなんて信じられないとおっしゃっていました。  確かに、少年院というのは強力な枠があるんですね。だから、学校では枠が緩くて難しいかもしれないんですけれども、要は、やり方次第で彼らは幾らでも変わるという可能性があるということを一つ示せたかと思っています。  彼らを変えるのに、やる気を出させるのに、そういう体罰とかが必要なんだろうかというところですね。  学校教育において、地域社会において、何が問題だったか、どうすれば非行を防げたか、そんな非行化した少年にどんな支援効果があるのか、そして、今同じようなリスクを持っている子どもたちにどんな支援ができるかというのを学校現場にフィードバックすることが、矯正の世界で働く我々の役割の一つだと思っております。我々の取り組みで得た経験が少しでも学校現場にお役に立てればと思います。  三つ目出口の問題なんですけれども、少年院に入るまでは、多くの関係機関の方がかかわってくれているんですね。しかし、少年院から出るときになったら、潮が引いたみたいに誰もいなくなってしまうんです。腫れ物にさわるように、多くの関係者が関与に消極的になります。  特に、家族身元引き受けを拒否したり、家族の監護が当てにならないときには、家に帰せません。通常一年という収容期間が過ぎても、帰るところがなくて、何年もいなきゃいけないケースが実際にあります。非行少年を積極的に迎え入れてくれる施設なんか、まれですね。  特に、強制わいせつ少年なんかは、施設で引き受けても、また施設の中でわいせつをするんじゃないかとか、外出して、近くに小学校があったら、その小学生を狙うんじゃないかと思われたり、あと放火少年、要は、施設に火をつけられたらかなわぬというので、そんなのはなかなか引き受けてもらえません。  うちの少年院は近畿、東海、北陸という広大な範囲から少年たちを受け入れているんですが、当院の職員だけで彼らの帰住先を確保したり就労先を探すのには限界があります。地域の積極的な支援体制がなければ、彼らの再非行への負のスパイラルというのは防げないですね。  少年院には、学校社会での支援ではもう手に負えなくなった少年たちが入ってきます。でも、たった一年で社会受け入れ体制が変わるわけもなく、幾ら少年院で力をつけさせたとしても、地域理解とサポートがなければ、また同じ失敗を繰り返して、必然的に再非行に至ってしまうという子は少なくありません。  最後なんですけれども、今、非行少年受刑者少年院や刑務所で面倒を見ますと、一人当たり相当経費がかかります。試算によると、年間数十万から数百万、いろいろな試算があるんですけれども、とにかく相当な経費がかかります。当然、入院中とか入所中は納税できませんよね。しかも、彼らは多くの被害者をつくっています。その中の、たとえ何人かの非行少年受刑者が納税する健全な社会人に変わったら、どうですか、その経済効果ははかり知れないと思います。  日本の将来を担うのは今の子どもたちなんです。三つの提言があるんですけれども、発達の視点を持った矯正教育の充実、二つ目が、出口を見越した連続性のある支援三つ目、特に大事に思っていますのが、学校現場における早期の予防的教育少年非行を減らすためにはこの三つが絶対必要だと私は思っております。  以上で終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)
  6. 松島みどり

    松島委員長 ありがとうございました。  次に、溝口参考人にお願いいたします。
  7. 溝口紀子

    溝口参考人 おはようございます。静岡文化芸術大学の溝口でございます。  本日は、貴重な発言機会を賜り、心からお礼申し上げます。また、このたびの全日本柔道連盟の不祥事に当たっては、当委員会を初め、内閣府、文部科学省からの適切な御指導を賜り、柔道人を代表してお礼を申し上げます。  山口さんのお話にありましたように、女性柔道選手十五人による告発は、下村文部科学大臣が日本スポーツ史上最大の危機として暴力の根絶を呼びかけたように、社会に大きな波紋を投じました。  事件は、一組織の内部抗争ではなく、人間の尊厳、人権の尊重、非暴力という、日本スポーツ界における思想の大転換と軌を一にするものであると考えます。  平成二十三年にスポーツ基本法が制定され、スポーツ権が初めて明記されました。さらに、東京オリンピック招致運動中に起きたこの事件は、一過性ではない、真のスポーツの民主主義という胎動のあらわれではないでしょうか。  これまで日本では、部活動やスポーツ活動の中で体罰が容認されてきました。  一方、私がナショナルチームコーチとしてフランスで指導していた際には、選手コーチによる双方向で対等な人間関係が確立されていました。人権意識を欠いた暴力指導者は非難されることが常識でもありました。指導者選手暴力を振るえば刑事事件になり、指導者資格を剥脱される処分が下されることもあります。  このように、今日私たちが直面している日本スポーツ史上危機的な状況は、これまで勝利至上主義で進められてきたスポーツ施策について、暴力から非暴力体罰から脱体罰といった、日本人の思想をも見直すきっかけをもたらしつつあると言えるのではないでしょうか。  言いかえれば、これまで柔道界で蔑視されていた女性が権力や暴力に対しノーと声を上げたこと、それは、人権意識やスポーツ社会価値日本社会において深く根づき、浸透したことの反映にほかならないと言えるでしょう。  また、女性柔道選手暴力事件を発端に、公金不正、理事わいせつ事件と、全日本柔道連盟、以下全柔連と略させていただきますけれども、たび重なる不祥事が明らかになりました。会長を初めとする執行部の方々辞任せず責任を回避しようとしているのであれば、柔道人の末席を汚している一人として、これらを見逃すわけにはいきません。身内を厳しく指摘することは痛恨のきわみではございますが、柔道を、そしてスポーツ界をよりよくしたいと思い、本日は発言させていただきます。  それでは、本日は資料を御用意させていただきましたが、皆様のお手持ちにあるかと存じます、これに沿ってお話ししていきたいと思います。また、スポーツ社会学者、教育者、柔道家の視点で、三つの論点で述べさせていただきます。  一つは、柔道指導における暴力と親和性、二つ目に、スポーツハラスメントの構造と課題、三つ目に、全柔連の課題と改革の方向性についてです。  まず一つ目に、スポーツ指導における暴力と親和性について述べさせていただきます。  私が柔道界における体罰について警鐘を鳴らしたのは、二年前になります。フランスのレキップマガジンという雑誌に論文を投稿したことが始まりになります。  五ページの資料一をごらんください。  当時、名古屋大学の内田准教授によって、一九八三年から二〇一一年の二十九年間で百十八名の中高生が学校柔道で死亡しているという報告がされました。また、柔道被害者の会が設立され、柔道の部活動中における死亡事故が、ほかのスポーツと比較すると顕著に多いことが指摘された時期でした。  フランスでは子どもたちの事故は全く起きていないのにもかかわらず、なぜ日本だけ柔道事故が多いのか。私は、柔道は危険であるというステレオタイプの報道に疑問を持ちました。  当時の日本柔道界では体罰は容認されている状況であったので、公言は時期尚早と考え、日本ではなく柔道大国のフランスから発信することで、少しずつ国外から警鐘を鳴らしたいと考えました。  論文では、柔道事故の原因を三つ指摘しました。一つは、加速損傷によるもの、二つ目に、全国に統一された指導指針の不在、三つ目に、体罰による行き過ぎた指導によるものです。  特に、強豪校ほど、体罰やしごきといった強化方針のもとに暴力文化が許容されている現状を報告しました。  その後、二〇一二年ロンドン・オリンピックでの日本柔道の惨敗、そしてナショナルチームでの暴行、パワハラという柔道の不祥事が続き、これらは個人的な問題ではなく、組織の体制に深く根差す危機的な問題であることを確信いたしました。  柔道暴力の親和性については、柔道は、投げる、絞める、押さえる、関節を決めるといった非日常的な行為、運動行為であります。ルールから逸脱した場合は暴力となります。例えば、投げるときに引き手を放したり、頭から投げつけたりすれば、相手はけがをします。もちろん、そうならないように、ほとんどの指導者たちは日々安全に配慮しながら指導しております。ただ、指導が熱心になり過ぎると、しごきという名のもとで激しい稽古になり、暴力になりやすいとも言えます。暴力と運動の線引きが難しいことも事実です。  さらにまた、指導者が安全配慮義務を怠った場合、柔道は、コンタクトスポーツで激しい運動でもあるからこそ、ほかのスポーツと比較すると重篤な事故を引き起こしやすいとも言えます。すなわち、指導者の危険予知能力や安全配慮といったリスクマネジメント能力が特に必要とされているスポーツと言えます。  また、これらの問題は、二〇一一年四月に静岡県教育委員会委員の拝命を受け、教育現場の指揮監督をするようになってから、柔道だけではなく、スポーツ教育現場全体の問題として取り組まなければ体罰はなくならないとも確信いたしました。  体罰を起こした教員を懲戒処分するだけでは、体罰はなくなりません。どうして教育現場スポーツ指導の場で体罰が必要とされる場面があるのか、暴力を振るう指導者は、自分の弱さ、能力のなさ、規律のなさを示しているようなものなのに、どうして子どもたちや保護者たちが教員や指導者体罰を受け入れてしまうのか、しごきという名の暴力を愛のむちとして受け入れる背景を検証しなければ、暴力の連鎖は断ち切ることができないと考えます。  愛のむちではない叱咤激励の仕方、規範意識を身につけるしつけの仕方、スポーツ科学の知識を用いた効果的なトレーニング方法、教師と生徒指導者選手の対話のあり方を見直さなければなりません。また、教員人事の長期化、固定化を解消するなど、教育委員会の全面的協力がなければ体罰からの脱却はできないと考えます。  次に、二つ目の論点、スポーツハラスメントの構造と課題について述べさせていただきます。  もし、十五人の女性選手の告発ではなく、男性十五人の告発であったらどうだったでしょう。こんなに社会が注目したでありましょうか。恐らく、根性がないといって取り扱ってもらえなかったのではないでしょうか。  ハラスメントは、女性だけではなく、男性にも日常的に起きているはずです。スポーツにおける体罰やセクハラなどのハラスメント問題は、女性選手の場合は顕在化されやすい一方で、男性選手の場合は、柔道事故の被害者のほとんどが男子生徒であるように、重大な事件になるまで問題が顕在化しにくいと言えるのではないでしょうか。  JOCは、競技活動の場におけるパワハラ、セクハラ等に関する調査のアンケートを行っております。その結果、三千二百五十五件の回答のうち、選手の一一・五%に当たる二百六名が、暴力行為を含めたパワハラやセクハラを受けたことがあると回答しました。また、指導者の二九・一%に当たる四百二十四名、選手の二五・五%に当たる四百五十九名が、暴力の存在などを認識していたと回答しています。  また、指導者や組織の管理職は、選手を大会に選考したり、進学の推薦者となったりするため、圧倒的な力関係が成立します。その上、先輩や後輩、学閥などの徒弟組織として構成されているため、上に物申すことができず、不祥事などの問題が起きた場合に隠蔽や泣き寝入りをする場面も多いかと思います。  トラブルが重大化する前に問題を顕在化させる意識を持つことが大前提ですが、実際は、大会に派遣されない、推薦されないなど、さまざまな報復が予想され、告発することは容易ではありません。  個人や組織だけでは問題解決ができないケースがあり、第三者機関として、個人のプライバシーが保障され、調停できる機関が必要です。特に、今回の全柔連のわいせつ事件のように、管理職の不祥事は、組織内ではなかなか解決ができません。第三者機関が存在していたら、もっと早い時期に問題が解決されていたに違いありません。早急にスポーツ団体の第三者機関の設置をお願いしたいと存じます。  最後に、全柔連の課題と改革の方向性について述べさせていただきます。  現在の全柔連は、公益法人であるにもかかわらず自浄能力がなく、組織としてのマネジメントは稚拙であり、ドラスチックな改革をするには外部の力をかりざるを得ない状況にあります。  私が考える組織改革の上で最も重要な点は、家元組織の講道館と全柔連の会長が兼務している状況に抜本的なメスを入れることです。既に、第三者委員会や内閣府、文部科学省による適切な提言を受け、改革プロジェクトが進められていますが、それにもかかわらず、たび重なる不祥事で自浄能力が発揮できない理由は、公益法人である講道館と全柔連の両組織の会長が同一人物であることで一人に権力が集中し、理事会や評議会が形骸化していることです。このことによって公益法人としての組織のあり方にゆがみを生じていることは、自明であると言えます。  その象徴的な出来事は、三月十八日の理事会でした。上村会長の解任動議が検討される予定でありましたが、会議の冒頭、講道館柔道名誉館長、前講道館館長の嘉納行光氏が、一枚岩でやっていきましょうと呼びかけて、解任動議は見送りとなりました。  このように、理事会の決議権を持たない家元の意見が鶴の一声で決定してしまうようでは、コンプライアンスを遵守した組織運営は図れないと考えます。  講道館と全柔連の会長を兼任せずに、講道館と全柔連それぞれの社会的役割、責任を明確にすることが大事だと考えます。  また、隠蔽体質から脱却するために、いち早く、理事は複数の女性理事や法曹界など、外部の有識者から構成されるべきだと思います。  全柔連の方針として、これまで、多額な補助金や放映権の収入を得ることで強化事業を組み、連盟運営が進められてきました。  資料二をごらんください。六ページになります。  その一方で、このように、柔道登録者の顕著な減少、柔道事故の死亡件数の多さなどからも言えるように、柔道の普及や安全という視点はないがしろにされてきたと言えます。  もちろん、金メダルの栄光、チャンピオンの存在は連盟にとって大切なことですが、柔道の本当のすばらしさは、先ほど山口さんもスポーツ価値柔道価値をおっしゃっていましたが、負けて挫折を経験してから、そこからどう立ち上がるのかという人格陶冶にあり、安全や普及に重きを置かなければ、金メダルを量産しても意味のないものになってしまいます。  今回の不祥事によって、全柔連は、伝統の名のもとに、家元を中心とした封建的組織の上にあぐらをかき、暴力文化を容認し、遵法精神が欠如している体制が明らかになりました。それは、青春をささげた選手柔道ファンをないがしろにしたと言えます。伝統ある日本柔道に対する責任を、執行部は潔くとっていただきたいと存じます。そこから真の改革は始まるのではないでしょうか。  全柔連の刷新が日本スポーツの民主化の証左になること、その延長線上に東京オリンピック招致の成功があることを確信しております。  御清聴ありがとうございました。(拍手)
  8. 松島みどり

    松島委員長 ありがとうございました。  次に、藤崎参考人にお願いいたします。
  9. 藤崎育子

    藤崎参考人 開善塾教育相談研究所の藤崎育子と申します。  本日は、どうぞよろしくお願いいたします。  民間で、学校を一年も二年も休んでいる子どもの家庭訪問をしまして学校復帰、あるいは、二十代で引きこもった青少年社会復帰、就労支援を、訪問相談を中心にして二十年ほどかかわってまいりました。そのため、きょうは、いじめについて、特にいじめから不登校になった子どもたちの問題等についてぜひ話をさせていただきたいと思い、やってまいりました。  まず、今、日本いじめ問題、大津事件をきっかけに、先生方教育委員会が必死になって取り組むようになったこと、また、社会的にも、また国会の場でも積極的に取り上げられること、これは私自身は非常にすばらしいことだと思っています。  ただ、その反面、実は現場で危惧されることは、一相談員として感じることは、形だけの指導にどんどんなっていっているのではないかということです。  例えば、子どもの言葉を、そんなことを言っちゃだめでしょうとか、ちょっとじゃれていたら、それがまたいけないことだということで、先生方の方がかなり神経質になっていて、いじめ問題が起きたときに、本質的な、なぜその子はいじめるのか、あるいは、なぜその子はいつもいじめている側のチームの中に入ってしまって集団行動しているのか、また、いじめられている子も、なぜいじめられているのか、先生方が一人一人の子どもを深く理解しないで、形だけ、とにかく目に見えるところで注意をして、なくそうというふうに、特に、解決能力の低い学校というのはそういう傾向があるのではないかと思います。  また、私自身がこの二十年間強く感じていることは、例えば、一年、二年休んだ子どもが、きっかけは、クラスの中で、ある女の子でしたら、一部の女子グループからいじめられる、例えば、朝行ったときに、何でこいついるのとか、デブとか、臭いとか、そんなことをぼそっとつぶやかれるだけで、もうその子にとっては学校が安全な場所とはならなくなってしまって、そして自然に学校を休むようになる。  ところが、そういった現場を担任が押さえていないために、不登校になった、あるいは、特に、正直言いまして熱心でない担任の先生の場合は、この子の家庭はこんなような問題があるから学校に来られないんじゃないかというふうに家庭の問題とすりかえていく、そういった現象がよく見られます。  結果的に何が起こるかといいますと、いじめられた、あるいはクラスの中で村八分にされているということを子どもはよく見ています。そういった子どもが学校に来られなくなっても、それが自然なことであって、実際にいじめを受けた子どもが不登校になっても、それは普通なんだと、見ている子どもたちがそれを自然に受け入れるようになっていくことではないかと思うんですね。  それで、私自身が今強く感じていることは、とにかく日本学校の中のいじめといった問題を、子ども、先生、そしてそのいじめ問題を契機に子どもを育てていく教育を実現するためには、教員の資質向上、これが一番の問題ではないかと思っています。  例えば、私が、一年ぶりに学校に、そういったいじめをきっかけに不登校になった子どもを連れていったときに、たまたまはだしで行ったら、一年ぶりに来た子どもに対して、えっ、何で靴下はいて来ないのと先生が言ったり、先生の中では、その子がどんなつらい思いをして学校に行けなくなったかということが、もう一年も二年もたっていれば抜け落ちてしまっている。  今、教育の中で不登校という言葉が使われていますが、この不登校という言葉にも問題があるのではないかと思っています。非行から学校に行かなくなった子どもも、病気の子どもも、いじめから学校に行けなかった子どもも全て不登校と一くくりにされてしまうと、やはり、教員の中では問題意識としてだんだんそれが消えていく、時間がたてば、毎日学校に来る子どもたちが中心になっていきますので、どうしても、目に見える子どもとの毎日が続いていくと思います。  いじめ問題に特化することで、一つやはり考えていかなければいけないことは、例えば、ある学校で三十六人不登校の生徒がいたんですが、この学校は、対教師暴力、校内暴力も非常に盛んでした。そしてまた、先生方は、特に喫煙問題で右往左往という状態で、三十六人休んでいる子どもに対しての注意というのは、もう出てこないので、例えば喫煙だ、万引きだ、そういった対応に時間が割かれてしまうということで、手を打たなくなっていくんですね。実際そういった人数が教育委員会にちゃんと報告されているかというと、十二人、三分の一ぐらいになっていたりして、やはり統計というものを簡単に信用してはいけないなということも感じたんです。  そういったところで、私自身がその学校に、相談室登校に子どもと一緒に登校したりするんですが、例えば、廊下を歩くだけで、その子に対して目で威嚇してくる女子生徒がいたり、男子生徒がぼそっとブスと言ったりとか、ところが、先生方はそこのそばを通っても余り感じない。  また、体育の時間で、その子だけにパスが集中したり、あるいはパスが全く行かなかったり、そういうような、教室、授業の中でさまざまな現象が起きているのに、やはり、きちんと指導する先生はそれを見ていて、どこでこの子をどういうふうに指導していくかというのを考えるんですが、見守りましょうということで、これぐらいは子どもの成長に欠かせないようなかかわりなんだというふうに、どんどん見過ごしていく先生というふうに変わっていくわけですね。  ですから、不登校に関して言えば、いじめられて不登校になることを、熱心で生徒指導にも真剣に立ち向かう先生は、あり得ないと言います。ところが、いじめというものはあって当たり前だ、その子が学校に戻れないのもやはり仕方がないんじゃないかという先生方は、適応指導教室あるいはうちのようなところで面倒を見てもらえてよかったですで終わってしまうわけです。  こうなったときに、いじめられて苦しい思いをした子どもが学校に戻れなくても、引っ張ってくれる先生がいないわけですから、当然、そういった不登校という数が減らないというような現状があるのではないかと思います。  いじめ問題に特化されますが、実際には、学校現場で、校内暴力非行もまた薬物問題も、とにかくいろいろな問題が起きています。そしてまた、その校内暴力の中でストレスを感じた生徒たちが、次に自分より弱い子どもをいじめていくというように、いじめのターゲットというのもどんどん変わっていきます。  ですから、そういった中で、私自身は、複合的にこのいじめ問題に取り組んでいく国の政策というのを実は心から望むわけです。  というのは、大津の問題、第三者委員会ができまして、報告書を見せていただきましたが、実は三月まで神奈川県藤沢市の教育委員をやっていましたが、これは本当に人ごとではないというふうに思いました。  例えば、学校を信頼していたら、学校に余り立ち入らないようにしよう、学校に任せようという、信頼するということはとてもいい言葉なんですが、やはり無責任体質を生む。また、教育委員も厳しく事務局に対して言っていくと、事務局を信頼していないというような、そういった構造がどんどん重なっていきまして、結局は、今、一番解決能力が下がってしまっている、先生生徒の間での信頼関係が完全に崩壊している学校に関しても、外部から助けもない、あるいは調査もない、そういった現状があるわけです。  実際これができるのかわかりませんが、私自身としては、国が即応集団というものを、生徒指導チームですね、そういったものを組織して、その学校現場に派遣する、そんな対策があればいいのではと思います。  例えば、これが法令で可能かどうかわかりませんが、市町村教委は、県教委に相談しても、その間、時間がどんどんたっていきます。また、保護者の立場からすると、市町村教委、都道府県教委というのは同じような立場に見えてしまうわけですね。でも、例えば、都道府県から推薦のあった人物で国がチームをつくって、そしてそこの現場に、解決というよりは、そういった先生たちを指導する、あるいは支援する、相談に乗る、とにかく先生方の精神衛生を図っていって、子どもたちに対応する勇気と元気を回復させる、そういったものに対して国が取り組んでいただけたら、孤立感を感じてしまう、また、裁判を起こさなければ、あるいはマスコミに頼らなければ真実が明らかにできないと悩む保護者の強い味方にもなるのではないかと思うわけです。  それで、この第三者機関、調査だけでなく、支援、指導、相談ができるような即応集団ということをぜひ提案させていただきたいのと、きょうはいじめ問題ですので詳しくはお話しできませんが、やはり、この日本の国の未来をしょって立つ子どもを育てるための教員の養成、採用、研修、この三本立てを国としてもう一度見直しを新たにしていただきたい。  免許状更新講習に関してはいろいろ批判もありますが、実際には、先生方が今新しい知見を、特に教育関係の情報を仕入れていかなければ、例えば発達障害の子どもに関しては、変わっている子ということで済ませてしまって、暴力問題とかいじめ問題、不登校が起きても、そこで先生方が知らなかったばかりに対応できずに子どもが学校に行けなくなってしまうというような状況が生まれてきます。  ですから、免許状更新講習というものが、いかに先生が新しい情報を持って生徒の前に立てるかという、非常に大事なものではないかと思うわけです。  先ほど少年院の話もありましたが、先日も、ある少年院を視察したところ、その院長先生が、担任の先生が面会に来て、ジュースを一本買ってその子に渡して、短い面会時間だけれども、それだけでその子どもが情緒的に落ちついて、いい顔になりました、そういったことがあるんですよというお話をされていました。  これは、全ての子どもにとって、教員の資質向上と言いましたが、担任の先生がどのような存在であるかによって、その後の成長、あるいは大人を信用できること、そういった面全てにおいて変わっていける、また、それが教育ではないかと思います。  ですから、私自身、厳しいことを言わせていただきますと、そういった子どもと一緒にいることがつらい、学級経営がもうしんどいという方は、やはり教員という仕事には向いていないというふうに、どこかの時点で仕事を変えていかなければいけないのではないか。  ただ、二十年やっていましても、初めて家庭訪問をするときは私自身すごく緊張します。また、ぶり返した子どものところに行って口をきいてもらえないときは、非常に落ち込みまして、二十年の経験が一瞬にして飛んでしまいます。そのときに何をするかというと、やはり、本を読んだり、あるいは自分の上司にスーパーバイズを受けたり、いろいろな人たち意見、アドバイスを聞き、また、発達障害の専門家に、この子はこんなことなんだけれどもどういった治療があるんだろうかということを常に相談し、また勉強するということ、その繰り返しなんですね。  ですから、だめな先生が、ではずっとだめかというと、やはり子どもと向き合いながら成長していってくれることが大事ではないかというふうに思います。  最後に、例えば、先生方の中で、たくさんいるんですが、私の尊敬する一人の先生が、中学校長を退職して、今地方で柔道塾をやられているんですが、その方が、体が大きくて強い子には自分の力の強さの怖さを学ばせたい、それから、小さい子には、わざがあれば決して負けない、力を使うことではないけれども、そういった、体で教えていきたいということをおっしゃっていました。これは、柔道でも何でもいいと思います、教員が子ども一人一人に何を伝えていくかということではないかと思います。  最後に、体罰についてですが、体罰を見ている子どもも傷ついているということが挙げられます。  部活動で体罰を見て萎縮して、また、荒れている先輩たちからちょっとパシリのようなことを言われまして不登校になった子がいましたが、その子が親に相談したところ、その体罰問題が明らかになったわけですね。ところが、結果的にその子が責められました。その子が言わなければ顧問が責任をとらされることなく、県大会、今強い強豪チームになったのに、その先生を追いやることになってしまったと。  これはやはり全く違った問題だと思います。正しいことを言って、もしその子どもがスポイルされるようなことであれば、もうこれは完全に教育の場ではないと思います。  ですから、またぜひ国の中でそういった問題に取り組んでいただけたらというふうに思います。  ありがとうございました。(拍手)
  10. 松島みどり

    松島委員長 ありがとうございました。  以上で参考人方々からの意見の開陳は終わりました。     —————————————
  11. 松島みどり

    松島委員長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。中根一幸さん。
  12. 中根一幸

    ○中根(一)委員 おはようございます。自民党の中根一幸です。  参考人の皆様方には、大変お忙しい中お越しいただきまして、また、先ほど来貴重な御意見をいただきまして、本当にありがとうございます。  私からは、まず初めに、山口先生に対し、スポーツ指導と青少年の健全育成という観点から御質問をさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。  私は、青少年の育成には、スポーツが果たす役割は非常に大きいと感じております。  スポーツは、国民に夢や感動を与えますし、アスリートたちが夢を追いかける姿勢やおのれを厳しく律する態度、子どもたちに夢を持つことの大切さや何事にも全力で取り組む姿勢、いろいろな面で教えてくれると思っています。  また、少年期にスポーツ活動を通じて子どもたちは、連帯感や一体感、そして助け合う心、フェアプレー、リスペクトの精神といいますか、このような精神を育みます。先ほど山口先生が言ったように、まさに嘉納治五郎先生が説かれた自他共栄の精神を育んでおります。  さらに、スポーツは、その活動を通じ、かけがえのない一生涯の仲間を与えてくれております。  このように、青少年期におけるスポーツは、子どもたちを大きく成長させるとともに、その人格形成に大きな影響を与えます。  私自身は、小中高と野球をやっておりました。これを通じて多くの財産を得ることができたと思っております。恐らく、ここにおられる先生方も、何らかのスポーツをやり、貴重な経験、そして財産を得ることができたと思っております。  しかし、残念ながら、最近、スポーツ界では、先ほどお話がありました、指導中の暴力事件や補助金の不正受給、セクハラなど、不祥事が生じております。青少年への影響は非常に大きいと私は思っておりまして、正直言って、スポーツ界、しっかりしろと思っております。  そこで、まず、山口先生にお伺いしたいのです。  山口先生は、小さいころからスポーツをされておりました。青少年期におけるスポーツが果たす役割とは何でしょうか。そしてもう一つ、この今のスポーツ界のさまざまな不祥事、これが青少年に与える影響というのをどうお考えでしょうか。
  13. 山口香

    山口参考人 まず、青少年におけるスポーツが果たす役割、もう先生が先にお答えを述べられたというふうに思っておりますけれども、例えば、人との連帯であるとか、あるいは一つ目標に向かって突き進んでいく力、そしてスポーツというのは、競技スポーツであってもそうでなくても、私は一番価値があると思っているのは、できなかったことができるようになるという成功体験だというふうに考えております。  私はよく例に出すんですけれども、自転車に初めて乗れるようになったとき、あるいは逆上がりができるようになったとき、その前と後で何が本当に違うのかということを理解できませんけれども、ただ、やはり、できた自分、努力した自分を評価できるわけですね。恐らくそれが、金メダルをとった体操の内村さんでも同じである。そういう成功体験を繰り返すことによって頑張ることの大切さを学んでいく、挑戦することの大切さを学んでいくと思います。  もう一つは、今の不祥事といいますか、スポーツ界におけることがどういうふうに影響を及ぼすかということですね。  これについては、子どもたちがやっているスポーツと組織の問題というのはやはり分けて考えなければいけないというふうに考えております。  ただ、子どもたちが今やっている、特に柔道などでいうと、柔道が悪いかのように扱われる、そしてそういった印象を受けるというのは、非常にかわいそうなことですし、申しわけない。それはやはり私たち大人が早く手当てをして、健全な方向に進めていく。恐らく、子どもというよりは親御さんに及ぼす影響が非常に大きいと思います、スポーツをやらせていいんだろうかと。  やはりそのあたりは、本当に、スポーツ組織、団体が真摯に受けとめて、一日も早い改善を進めていきたいと思っております。
  14. 中根一幸

    ○中根(一)委員 ありがとうございます。  ことしに入り、全日本柔道女子日本代表チームにおける指導中の暴力行為が、先ほどお話がありました、発覚しましたね。また、学校でも、部活動で指導と称する体罰問題が発生しております。スポーツ界には、いわゆる社会一般的な感覚では到底理解しがたい古い体質が依然として残っている証左ではないでしょうか。  先ほど、青少年の人格形成に大きな影響を与えると私も言いましたが、スポーツにおいてこのような事態が発生していることは、青少年の健全育成にとって非常に大きな問題だと私も思っているんです。  山口先生が別のところで御指摘をいただいておりました、スポ根ドラマに影響を受け、根性や我慢が美徳化されていた時代、少し前までは、本当にそのような時代だったと私も思います。暴力体罰が、いわば、ある意味容認されていたんだと思います。そして、子どものときに暴力になれてしまったせいで、それが当たり前になって、自分指導者になったときに因習として残ってしまっている、それが今の現状だと思います。  だから、私は、次の世代の子どもたちには暴力によらない指導を行うことが大切だと思います。これこそが教育の力だと思いますし、教育指導にかかわる者の厳しい自制と覚悟が必要だと思っております。  ことし二月に、下村文科大臣が、スポーツ指導における暴力根絶へ向けてというメッセージを出されました。  私は、スポーツ界から暴力を根絶するためには、まず、各競技の団体のトップが、暴力行為は絶対にしないということを宣言して、その姿勢を明確にすることが重要であると考えております。そして、その姿勢をとって、指導者みずからが日々指導方法などを研究して、生徒選手への伝え方を学ぶこと、そしてコミュニケーションを図り、考えを共有することが必要だと考えております。  この点については、山口先生は、暴力によらない指導方法として、嘉納先生柔道の修行の一つとして唱えた問答の必要性を指摘されておりますが、私はそのとおりだと思っております。  このような対話、コミュニケーションによる指導方法が現在スポーツ指導に求められていると思いますが、このようなスキルを身につけるためには、では、具体的にどうすればいいんでしょうか。また、このほか、指導者選手に指導するに当たり気をつけるべき点、必要となる資質、能力について御見解をいただければと思います。
  15. 山口香

    山口参考人 日本の長い歴史の中で、日本文化、美徳として私が感じておりますのは、余り物を申さないということが、長い伝統の中で、あると思います。言わなくてもわかる、そして、発言する、物を申すことが決して美徳とはされていなかった時代が長くあったと思います。  そして、目上の先生を敬う、これは非常に大事なことです。ただ、そういった長い歴史と伝統文化の中でそれが特に色濃くスポーツ界に残ってきたために、先生に言われたことは黒いものでも白いというふうに教え込まれていたというか、それがいいことだというのが長い時代続いてきたんだなというふうに考えております。  そういった意味では、スポーツ界にあることは一般社会にもございます。国際連盟などで、ルールが変わるというところでなかなか日本が優位なところを示せないということがよく話題になります。  ですから、ふだんから発言を許されない世界にいながら、国際社会に出ていって物が言えないというのは至極当然のことで、指導者というくくりは、選手を教えるだけが指導者ではございません、スポーツ界のリーダーというのも大きな役割を果たします。  そういった意味では、教育界、子どもを育てていく、これからの次世代、グローバルな社会で生きていくというところを観点に、もちろんスポーツもそうですけれども、スポーツだけではない、日本教育システム、そしてあり方というのを全体的に見直していくことが、よい選手をつくり、そしてよい指導者をつくり、よいリーダーをつくるということにつながっていくと思います。これはスポーツだけのカリキュラムでなされるものではないと私は思っております。  ですから、指導者の資質というところにもかかわってきますけれども、つまり、指導者がつくられるのは、その前に教えられた記憶であったり経験値がかなり優位なことになっていくわけですね。どうやって教えられたかということがすごく重要です。  そういった意味では、私は、日本社会全体が、議論すること、ディスカッションするということをもう少し活発に教育現場から進めていくということが必要なのかなと思っております。
  16. 中根一幸

    ○中根(一)委員 ありがとうございます。  嘉納先生のコミュニケーション、問答というのは、まさにそうだと思います。体でわかればいいんじゃなくて、いかに理解し合って、お互いを信頼し合えるか、そういった中で、今先生がおっしゃったような形を行っていくこと、改善、改革というんでしょうか、行っていくことが大事だなというふうに改めて感じた次第でございます。  そこで、いわゆる指導者皆さん方、二つあると思います。今の指導者の方と、そしてこれから指導者になろうとするいわゆる指導者の卵の皆さん方に、今言ったような新しい指導法というのをしっかりと理解していただかなければいけないと思います。  二つのアプローチがそのためには求められると考えます。一つは、先ほど言った活躍されている指導者方々が、いかにそういう新しい指導スキルを、古い指導スキルではなくて新しい指導スキルを身につけていただくかということ。そのためには、やはり研修というのが当然必要になってくるでしょう。そしてもう一つ、これから指導者になろうとする皆さん方への教育や、また働きかけということが大事になってくると思います。  山口先生は、お伺いしたところによると、今後こうした指導者の養成研修として具体的にいろいろな方法を持っておられる、例えばイギリスに留学もされていたと伺っております。見習うべき海外の事例なども教えていただきながら、先生的にどのような具体的なアプローチをしていくかについてお伺いできればと思います。
  17. 山口香

    山口参考人 海外の場合には、先ほど申し上げましたように、スポーツ現場というのが非常に、多種多様に開かれております。学校現場だけではなくて、スポーツクラブであるとかですね。そういった意味で、やはり指導者は選ばれる。指導者たちが新しいものを身につけて、そしてそれを選手たちに与えていくということが求められていくわけですね。  そしてまた、インストラクター、つまり、技術をどう教えるかというのと、日本指導者、あるいは師と言われていた、その感覚のあたりも随分違いがあるなというふうに私は思っております。  日本のシステム、これまでの伝統が悪いわけではないと思います。それは、技術だけを教えるのではなくて人間教育もしていく、その視野に立って教えてきたことは決して悪くない。ただし、そこに立ち過ぎると、上意下達で文句を言うなという、問答がなくなってしまいますので、そのあたり日本風にうまくアレンジして指導者の育成を目指していくやり方がいいと私は思います。  それからもう一つは、今の選手たちを見ますと、やはり競技が非常に高度化しておりますので、非常に若いころから競技に専念し、長いこと金メダルを目指してスポーツの世界で生きていくということが、ある種必然として求められていくわけですね。そういった中で、スポーツしか知らない人間指導者になったときの危険性ですね。  これは私は教育界も同じだと思うんですが、問題があるとするならば、非常に閉鎖的な社会で、外と隔絶されている。ですから、指導者であっても、学校先生、教師であってもそうですけれども、なるべく外の世界と接点を持つ、それはスポーツも同じだと思います。  そして、スポーツというのが、やはり金メダルということで、スポーツで結果を出すと人格的にも何か認められてしまうような危うさがございます。ただ、スポーツで得た結果と人格とはまた違います。そこは別建てで、人間を育てるという観点から、技術を教えるのとは別に育てていかなければいけない。  ですから、結果がよければ人間としてもすばらしいという見方は、ある種間違っている。それを、メダリストも含めてスポーツ界全体が理解するということが必要かなと思っております。
  18. 中根一幸

    ○中根(一)委員 ありがとうございます。  それでは、もう一つ、少し角度を変えて、女性指導者という視点からお伺いしたいと思います。  最近は、日本社会全体を見てもそうなんですけれども、スポーツ界でも女性の活躍が目立つようになりました。昨年のロンドン・オリンピックでの日本代表選手のうち、約五三%が女性選手だと伺っております。そして、さらに、メダルを手にしたアスリートを調べたんですけれども、メダルをとったアスリートは、六五%が女性なんですよ。最近のこの女性選手の伸びには目をみはるものがございます。  山口先生は、まだ女子選手の活躍が多くないときに、草創期というんでしょうか、この日本を支えられたお一人でございます。日本女子柔道界でいわゆる先駆者として大活躍されて、一九八四年の世界選手権では日本女子柔道初の金メダルを獲得されたと伺っております。  そこで、山口先生の御経験に基づいてお話をお伺いしたいと思います。  女子選手には女子選手特有の悩みや問題が存在すると聞いております。山口先生は、スポーツ界における女性指導者の必要性についてどうお考えでいるんでしょうか。また、女性指導者を確保することが非常に難しいという声も聞こえてきますが、これについてはどのように対応すればよいんでしょうか。
  19. 山口香

    山口参考人 女子選手が抱える特有の問題というのはやはりございます。それは、生理的に男性と女性は違いますので。  ただ、そういった面に関しては、なでしこジャパンの活躍もありまして、女性のスポーツが大きな注目を浴びていること、そして、現実として選手たちが成果を上げているということから、いろいろな意味で医科学的にもアプローチが進んできているのが実際のところです。  ただ、女子のスポーツ一つ難しいところは、本来、強化というのは、その重要性が認められ、強化費がついて、そして、その強化費にのっとって、きちんとしたシステムにのっとった強化が行われた結果、成果が上がるんですが、女性スポーツの場合には、余りシステムが整っていないにもかかわらず成果が上がってしまっていますので、このあたりが、ではいいじゃないか、もう結果が出ているんだからいいじゃないかという議論になってしまうのが、少し怖いところですね。  ただ、今、世界の女性のスポーツを見たときに、やはり国として、日本も女性が自由にスポーツを謳歌できるようになったのはまだ数十年のところです。そういった意味では、まだまだ世界では女性が自由にスポーツができない国もたくさんございます。  そういった意味でいうと、今そういったところに手当てをしていなければ、このメダル率であるとかということも必ず落ちてきます。だから、そういったところに注目していくということは重要な視点です。  それから、指導者に関して言えば、これは日本社会が抱えている問題と大きな差異がございません。やはり待機児童の問題、つまり、女性は出産そして育児というところで男性以上に背負わなければいけないものが大きいです。  そして、社会と違うところは、柔道も含めて、スポーツの場合は遠征があるんですね。遠征に行く、何日間か子どもを預けるところが必要。そういったところは、スポーツも一般の社会も似ているところがあると私は思います。ですから、そういったところに、スポーツの問題だけではなく、着目していただきたいなと思っております。  また、スポーツ界で発信できること、たくさんございます。例えば、出産、育児というところでも、アスリートがこのように出産を経験し、社会に復帰し、そしてアスリートとして成果を上げたということは、一般の女性たちにも必ず参考になるはずです。  また、スポーツ界で、女性ということで言うとあれなんですけれども、例えば、男性の指導者でも、土曜日、日曜日は全くいない、自分の子どもの運動会には行ったこともないという指導者はたくさんございます。それは決してスポーツとして豊かだとは言えないと私は思いますね。ですから、女性の指導者に託児所が必要なように、男性にとっても託児所があっていいと私は思っております。  ですから、女性が発信するけれども、それは女性のためだけではなくて、男性、女性どちらにも恩恵があるんだということをぜひ御理解いただいて、女性の指導者、そしてロールモデルをつくることですね。今の選手たちが、活躍している監督やコーチを見て、ああなりたいと感じるわけです。今はその部分も欠如していると思いますので、早い時期にそういったことが手当てをされ、進んでいくことを願っております。
  20. 中根一幸

    ○中根(一)委員 時間が来ましたので終わらせていただきますが、私は、スポーツであれ学校教育であれ、青少年の育成また教育の場面において、教師また指導者の何げない一言であっても、その一挙手一投足が子どもたちに時に大きな影響を与えるものだと考えております。  柔道というのは武道競技で、体と体がぶつかり合う競技です。しかし、だからといって、暴力行為が許されるわけではございません。スポーツでぶつからせるべきは、体と体ではなくて、やはり心と心であります。心のぶつかり合いこそが、人格を磨くために必要ですね。  指導者に必要なのは、選手生徒の人格へのリスペクトを持ちつつ、その人格の陶冶、育成に必要な気づきを彼らにさせるよう、適時適切な言葉を、愛情を込めて、彼らの心を動かしていくことだと思います。  最後に、スポーツ指導に暴力は要らないということを強調させていただきまして、私の質問を終わりにいたします。  ありがとうございました。
  21. 松島みどり

    松島委員長 次に、菊田真紀子さん。
  22. 菊田真紀子

    ○菊田委員 おはようございます。民主党の菊田真紀子でございます。  きょうは、四人の参考人方々から、それぞれの立場そしてまた御経験を踏まえて、大変貴重な御意見を伺うことができました。心より感謝を申し上げます。  まず、女性の柔道選手十五人による暴力告発というのは、本当に多くの日本の国民に不信感、そしてまた残念な思いを与えたわけでありますし、今柔道を一生懸命頑張っている子どもたちのためにも、これは早く浄化をしていかなければならない、問題を解決していかなければならないというふうに思っております。  それと、先日、女子選手へのセクハラが明らかになりまして、福田二朗さん、七十六歳という御年齢の方でありますけれども、全柔連の理事が女子選手にセクハラをしたということで、テレビで私も記者会見の様子を見ましたけれども、あの記者会見を見て、女性軽視というか女性蔑視、本当に、普通の常識が欠けているのではないかということで大変驚きました。  柔道界ではやはり女性蔑視、女性軽視というのが根本に蔓延しているのではないかというふうに感じたんですけれども、その点について、山口参考人溝口参考人にお聞きしたいと思います。     〔委員長退席、北川委員長代理着席〕
  23. 山口香

    山口参考人 柔道において、嘉納治五郎先生が明治十五年に講道館柔道を創始して、非常に早い段階で女性に柔道は行わせております。ただし、競技になって女性が入ってきたのは一九七八年ということで、柔道界の中では、女性が入ってきたのはまだまだ新しいわけですね。  そういったところからすると、蔑視という言葉が適切であるとは私は考えておりません、女性に対してのリスペクトも恐らくあると思います。ただし、そういった経験値のなさといいますか、鈍感さといいますか、そういったことが非常にあるのではないかというふうに思っております。  ですから、こういう言い方がいいかどうかわかりませんが、正直、悪気がなくてやっていることが非常に多い、でも、だからこそ問題の根は深い。悪いと思ってやっている確信犯であれば、割と対処はしやすいんですね。  ただ、悪いというのは観念的なものですので、そういったところで、女性の扱いであるとか、女性に対してどうしたらいいのかというところが、恐らく、長い柔道界の歴史の中で培われてこなかったというのが非常に残念です。  だから、そういった意味では、今はそういう時代ではないと幾ら言ってもなかなかこれは難しいので、やはりある種、新しい指導者たちには教育としてそういったあり方をきちんと指導していくということが必要なのかなというふうに思っております。
  24. 溝口紀子

    溝口参考人 溝口でございます。  女性蔑視が柔道界にあるかというところについては、男性がほとんどであって女性がマイノリティーであるということで、こういった不祥事が起きてきているのではないかなと思います。  今山口さんがおっしゃったように、そもそも一九七八年に全日本大会が開かれて、山口さんも出場されて、本当に全く競技化がないところから柔道が始まって、オリンピック種目は、一九八八年のソウル・オリンピックから公開競技となって、九二年のバルセロナ・オリンピックで公式となった。  意外と、伝統のスポーツといえども、女子に関しては、ここ二十年ぐらいの、顕著に、急進的に競技化が成った中で女性が強くなってきたとも言えます。それに人口や柔道のジェンダーバランスというのはまだ追いついていない中で、マイノリティーであるからこそこういった、先ほどいじめの中で、弱い者から弱い者へどんどんいじめるという構造があったように、やはりそういったハラスメント関係というのが、素地というのはあるかもしれません。  ただ、あとは、ジェネレーションギャップというのも否めないかなと。福田さんの記者会見を私も見ましたけれども、なぜ、ああいう謝罪の仕方があるのだろうかと。やはり本当に女性の被害者のことを考えれば、組織の保身、自分の保身とかよりも被害者を考えるべきで、そういった女性に対する考え方というのも、柔道家というよりも、社会全体の一つ考え方として、それが柔道界で縮小した形でこの事件は起きているのではないかなと思います。  また、文化的なものでいうと、確かに、例えば講道館の帯、段なんですけれども、私は女子柔道五段で、男子に相当すると七段。男子は講道館男子柔道何段とかは言わないんですよね。帯には白線が引かれます。国際大会になると白線をつけた帯は使ってはいけないという二重規範というかダブルスタンダードになっておりまして、そういった伝統文化と国際化、今のグローバル化とはやはりねじれが生じている。その中で、そういった意識というのも、上層部、年上の高段者の方と我々の世代では全く異なるのではないかなと。  そういった中で、山口さんからさっき、差別しているつもりではないんだけれども鈍感であるというか、意識が余りないというところでやはり変えていかないと、こういったものはなくならないと思います。
  25. 菊田真紀子

    ○菊田委員 溝口参考人はもう随分前から日本柔道界の問題点を発信されておられるわけでありますし、また、マスコミなどでも大変、きょうも非常に具体的な改革、こうあるべきだということをお示しいただいておりまして、発信をされておられますけれども、そういう溝口さんの提言、そして前面に立っていろいろなことを、事実をお伝えされていることに対して、全柔連はどういう対応、どういう態度なんでしょうか。  もうおまえ、外に出て余計なことを言うな、きょうだって、ちょっと言い過ぎでどうだこうだとかと後から何か言ってくるとか、そういうことというのはないんですか。本当に、具体的な提言に対して、それを自分たちは受け入れて改革していくんだという態度なんでしょうか。     〔北川委員長代理退席、委員長着席〕
  26. 溝口紀子

    溝口参考人 済みません、きょうも言い過ぎたかもしれませんけれども。  具体的に全柔連から、そうだねとか、受け入れましたとか、そういうものは別になくて、逆に、石を投げても返ってこないというか、そういうところもございますけれども、やはり同じ柔道家、仲間、身内ですので、本当に、先ほども言いましたように、身内の恥をさらけ出すようなことは自分としても痛恨のきわみでございます。  けれども、それを内部から声を出さなければ、外部から言われるよりは、私はいいと思います。内部から言うからこそ、やはりみんなが内部で変えていかなきゃいけないという気づきが生まれます。  例えば、柔道事故のときもそうでした。こういった柔道事故というのは、山口さんも先ほどおっしゃったように、不祥事とかネガティブキャンペーンとしてとらえられて、私たちとか被害者たちが、柔道事故をなくしたい、もっと安全でいい柔道にしたいというように声をかけたつもりでも、内部ではそれが、それは柔道の負のイメージを与える、逆にそう思われたり、それで社会にも与えるインパクトは大きいんですけれども、でも、そういった不祥事を明らかにし、認識していくことが解決の第一歩だと思います。  だから、もうこれでうみを出し切って、よりよい柔道スポーツ界になることが、内部からの声が一番大きいと思いますので、そういう心づもりで私は発言しております。  では、それに対して報復はあるのかというところなんですけれども、御心配いただきありがとうございます。柔道ファミリーは、そういった意味では、ないですね。  心配の声はよくいただきます。溝口、言い過ぎじゃないかという声は頂戴します、助言もいただきます。だけれども、自分の意思というか、こういった提言もあるんじゃないか、それに対して、私も、間違いがあれば傾聴しますし、受け入れます。それでもってまた自由闊達な意見の交換をしたいと実は私は思うんですね。  山口さんがさっき、上意下達、上に申し上げることが、我々柔道家は、特に伝統文化の中ではなかなかできない土壌がございます。フランスでコーチをしていたときはそれが全く違って、選手に、紀子、間違っているぞと言われちゃうんですね、コーチングでちょっとでも結果が出なかったりすると。日本では、それはあり得ないです。  逆に、いい面でも悪い面でも遠慮なく言ってもらう、それが、決して先生を尊敬していないという意味ではなくて、よりよい状況に持っていこうという意味での意見交換というのは非常に大事であって、そういったことで、私がある意味目立ってしまうというのも封建的組織の一つの象徴かもしれませんし、溝口があそこまで言えるんだったら、俺たちも、私たちも言えるんじゃないか、そういうきっかけになればいいなと思いまして、私は発言をしています。
  27. 菊田真紀子

    ○菊田委員 本当に、根深いうみを出す、そして不祥事を隠さないで内部から声を出していくというのはとても御苦労があると思いますけれども、きょうも、多くの国会議員を初め国民の皆さんも関心を持ったと思います。本当にありがとうございました。これからも頑張っていただきたいと思います。  それから、きょう出していただいた資料の中に、中学校と高校における部活動の死亡率というのがありまして、御指摘のとおり、柔道が非常に死亡率が高いわけでありますけれども、これは人の命にかかわる、子どもたちの命にかかわることですから、早急に対策が必要だというふうに考えます。  特に、中学校では、これは柔道だけじゃなくて剣道もそうですけれども、これから必修化ということで取り組みも始まっておりますので、その対策についてはどのようにお考えであるか、山口参考人溝口参考人にお聞きします。
  28. 山口香

    山口参考人 御存じのとおり、柔道は、身体接触を伴います格闘技ということでありますので、危険がないとは、私は申し上げることができません。ただ、必修化の問題もそうですけれども、やはり危険から遠ざけることが子どもたちの安全を守ることではないと。ですから、危険な行為も伴う柔道だからこそ安全を学べるというふうに私は考えております。  ただし、そこには、明確な指導論、そして安全に対する配慮というのが欠かせないものになってきます。  そういった意味で、やはり経験値だけで指導する、あるいは勝利至上主義だけで結果を追い求めていくということではなくて、きちんとした、安全講習会であったり、知識そして理論を持った指導者たちを養成していくということが重要になってくるなと私は思います。  それから、指導者だけの問題ではなく、実際に取り組んでいる子どもたちにもそういった意識を持たせたいと私は思っております。自分で安全を確保する、自分で安全に対する意識を高めていく、それが、仲間となってお互いやはり組み合うわけですから、そういったことも、指導者だけではなく教育していくということをやっていこうと思っております。  もちろん、全日本柔道連盟も取り組んでおります。
  29. 溝口紀子

    溝口参考人 私も山口さんと同じ意見なんですけれども、私は、柔道は危険ではないと思います。なぜならば、フランスでは、子どもたち柔道事故はゼロです、ありません。  つまり、なぜ日本では、特に学校における部活動の死亡事故が多いのかというところは、今山口さんがおっしゃったように、やはり指導者の質だと思うんですね。安全配慮がちゃんとできていれば、柔道は、これほどすばらしい教材はないと思います。だからこそ、武道必修化の中に、柔道、剣道、相撲も含めて取り組まれていると思います。  その指導者の質を上げるにはどうしたらいいか。この内田先生のデータが出てから、既に、全日本柔道連盟、文科省、そして各都道府県の教育委員会では安全指導指針というのをつくって、この一年間、武道必修化に取り組んでまいりました。柔道に関しては、一年間、柔道事故はないと思います。  つまり、このデータ、非常にセンセーショナルなんですけれども、この結果が出たからこそ、みんなが意識して安全配慮に気をつけているからこそ、今、柔道事故、死亡事故ゼロに持っていっていると思います。  私は、まず最初に、データをちゃんと挙げられるようにする、事故が起きたときに、どうしてこういう事故が起きたのかという検証をして、二次的な事故につながらないようにすることが大事だと思います。  それとともに、引き続き、指導者の勝利至上主義ではなくて、勝利、勝つというのはもう一握りの人間で、柔道の楽しさを味わう人たちがほとんどだと思います。学校柔道もそうだと思います。安全に楽しくできる柔道指導方針、指導指針をさらに深めていけば、限りなくゼロに近づくことはできると確信しております。
  30. 菊田真紀子

    ○菊田委員 ありがとうございました。  これは四人全ての参考人の方にお聞きしたいんですけれども、いじめ問題を議論していく中で、これまでの道徳教育が不十分だからこういういじめの問題が出てきているんだということがたびたび言われるわけでありまして、今、安倍首相肝いりの教育再生実行会議ですとか、それから文科省の中でもそういうことが論じられているわけであります。有識者会議でもそういったことが論じられておりまして、今は正式な教科ではありませんが、道徳を正式な教科としていこうということが議論されております。  今、道徳は、小中学校では年三十五時間、担任が教えることになっておりまして、正式な教科ではありません。正式な教科になると、専門の教員免許が必要でありますし、当然、検定教科書が必要になります。それから、成績を数値で評価すること、点数をつけることになるわけであります。  そもそも、道徳を指導する教員の道徳はどうなんだ、それから、心の内面を本当に数値化できるのかというようなことで、いろいろ疑問を持つわけでありますけれども、これまでの日本の道徳教育のあり方について皆さんがどうお考えで、その上で、今政府の中で検討されている今後道徳を教科にしていくことについて、御意見を伺いたいと思います。
  31. 松島みどり

    松島委員長 それぞれ短くよろしくお願いします。
  32. 山口香

    山口参考人 道徳教育というのは、私は必要だと思います。特に、近年、やはり若者の規範意識といったものも落ちてきているというようなことも言われております。  ただ、教科としてどのように指導していくのかというのは、おっしゃられたとおり、難しい側面があると思います。ですから、誰がどのように教えて、そして道徳というのは、やはり学校現場だけではなくて、家庭であったり地域であったり、そういったところの連携というのが非常に重要になってきますので、もちろん、スポーツでも教えられる部分がございます。そういった連携を強めていくことが私は重要だと考えます。
  33. 宮口幸治

    宮口参考人 先ほどおっしゃられたように、確かに、学校先生方にとって、生徒の心を育てるということは余り評価されないんですね。点数化されなくて、目に見えにくい部分があります。それが特に大きな問題かと思います。  だから、どうしても、すぐに成果が出る、例えばクラブ、部活で優勝したとか賞をとった、そういうところばかりに目が向いてしまって、そういう意味で、道徳教育を考える上で、これだけ子どもの心をよくしたという何か点数化のようなものがあればもっとよく進むかとは思うんですけれども、その辺はかなり難しいかなと思います。  ただ、道徳というよりも、もう少し、対人スキルとか、簡単なことなんですよ、挨拶の仕方とか、あと、かっとなるのを抑えたりとか、そういう練習の方が効果があるかなと私としては思っております。
  34. 溝口紀子

    溝口参考人 道徳というところなんですけれども、たしか、ハーバート・スペンサーが知育、体育、徳育の三育をなして、嘉納治五郎も、非常にこのスペンサーの三育を受けて、柔術から柔道へと形成していったんですけれども、その中のやはり徳育だけでもだめで、体育、知育、その連帯があって道徳というのは生まれてくるかと思います。まさに生きる知恵だと思います。  その中に、人権教育というのを具体的に道徳教育の中に入れて、そういう人権教育をどうやって人と人の中につなげていくか、そういった具体的なロールプレー、実践教育をぜひしていただきたいと思います。
  35. 藤崎育子

    藤崎参考人 私も、道徳教育は非常に大切だと思っているんですが、やはり道徳を誰がどう教えるかというところで、子どもたちがこんな大人になりたいと思う先生の授業なら、教科でもいろいろなことが伝わるかもしれませんが、なかなかそれだけでは難しいかと。  その場合、やはり体験学習、例えばお年寄りを大切にするとか、お米を大切にするには田植えを経験させるとか、とにかくそういった体験をも生かしていきながら道徳という教科を考えていかなければ、せっかくいいものを目指しても本末転倒になってしまうのかなというふうに思います。  以上です。
  36. 菊田真紀子

    ○菊田委員 時間が参りましたので、質問を終わります。  皆さん、どうもありがとうございました。
  37. 松島みどり

    松島委員長 次に、西野弘一さん。
  38. 西野弘一

    ○西野委員 日本維新の会の西野弘一でございます。  きょうは、四人の参考人先生方、貴重なお時間を頂戴しまして、ありがとうございます。  まず、山口先生溝口先生に伺いたいんですが、オリンピックに出られた経験のある、また、すごい成績を残された先生方の前で恥ずかしいんですが、私もスポーツをやっておりまして、次元もレベルも、全く違う次元でありますけれども。  そういう中で、僕はスキーをやっていたんですが、例えば、試合のスタートの前にコーチから背中をばんばんたたかれまして、気合いを入れてもらったりとかいう経験もありますし、それは、本当にそのことでテンションを高めて試合に臨めたりという経験もありました。  また、中学校のときには剣道を、僕の学校は全校生徒がやっていたんですね。有無を言わさず朝稽古をさせられて、はだしで、冬、雪が積もっているようなところでも練習というか稽古をさせられましたけれども、決してそれが悪い経験にはなっていないんですね。  今、体罰の問題であるとか、そういう厳し過ぎる練習とか稽古ということが問題視されがちですけれども、その線引きというのはすごく難しいんじゃないかなと思っておりまして、二人の先生方に伺いたいんですが、もし何か、その線引きをするに当たっての基準というか、そういうものがあれば教えていただきたいんです。
  39. 山口香

    山口参考人 今おっしゃられたように、私も、自身が試合に出ていくときに、背中をぽんぽんとたたかれて、気合いを入れて試合に臨んだ記憶がございます。それを暴力かと言われると、やはりそれは違うというふうに私も申し上げます。  ただ、体罰という言葉が物語っていると私は思うんですけれども、つまり、罰であると。スポーツに罰は必要がないと私は考えております。負けたからといって、できないからといって罰を与えられるというものではもともとないんですね。ですから、そこのところが、指導者一つ線引きをするものであるというふうに私は思います。  大体、指導者に、どういうときに体罰をしましたか、暴力を振るいましたかと聞くと、言ったとおりにできなかったからとか、うまく動かなかった、だらだらやっていた。つまり、それはやはり罰なんですね。  ですから、そういったところでいいますと、今先生がおっしゃられたように、選手が信頼関係の中でこういうふうにやってもらって元気が出たということであれば、それは試合の場面場面において、あるいは練習場面で厳しい指導は必要だと思いますけれども、そのあたりが線引きになるというふうに思います。  これは、これがいい悪いという議論をするべきではなく、セクシュアルハラスメントもそうですけれども、最初の時点では非常に細かいところに気を使いましたが、今は大体皆さんが共有して、こういったところでというものができていると思います。  ですから、体罰あるいは暴力といった問題も、少し時間はかかるかもしれないけれども、これが悪いではなく、指導者の人、そして選手がそういった思いを共有できるような形がいいと思います。
  40. 溝口紀子

    溝口参考人 私も、自分選手のときはコーチから背中をたたかれましたし、気合いが入りましたし、自分コーチのときも、フランスの選手の背中をたたいていました。それは、たたいてくださいと言って、本当に大きな力になりました。山口さんの議論にもあったように、それとペナルティー、罰は全く別で、私は、ペナルティーは、懲戒という面は必要だと思います。それは、しつけだからです。  例えば、練習時間に来なかった。そうすると、やはり皆の練習に、チームメートに迷惑をかけます。そこでやはり何らかのペナルティーを与える、これはしつけで重要だと思います。  それが、暴力で殴ったりというところで今まで日本では行われてきたと思いますけれども、実は、殴るのはすごく簡単で、それで終わってしまいますけれども、規範意識を植えつけるという意味では、やはりペナルティーを与える、ルール化するということが大事だと思います。  例えば、練習におくれたら、よくあることはグラウンド十周、それはどうかと。フランスでも、練習時間におくれて来た場合は、三十分は練習に参加できない、さらに、帰ってもらうとか、そういったいろいろなペナルティーの与え方がありました。でも、それを事前にちゃんと伝える、ルール化するというのが、体罰にかわる一つの方法ではないかなと思います。  そこにはやはり、指導者といえども同権、選手指導者が同権であるという意識が必要かと思います。  よく、愛のむちの議論になったときに、選手が殴ってくださいと言って、殴りますけれども、選手先生が殴ってくれと言って、殴らないですよね。同権ではないわけですよね。そういう中で暴力があるということを、やはり指導者たちは気がつかなければいけない。  もう一つ根深いのは、体罰で育ってきた選手指導者というのは、ずっと体罰を受けているわけですよね。そこの連鎖を断ち切るには、自分体罰のおかげで強くなったと思っていれば、やはりそれを容認してしまうし、また、やってしまう、そこに気づかせるというのが大事かなと思います。  以上です。
  41. 西野弘一

    ○西野委員 ありがとうございます。  山口先生溝口先生は本当に明確に、僕もぼやっとした感覚はあったんですけれども、すごくそこは線引きがしっかりできたのではないかなと思っております。  また、そういう意味では、罰としての暴力がいけない、ペナルティーを与えるには、罰も必要だけれども、そこはしっかりと皆が共有できるようなルール化が必要だということでありますけれども、そういうことも、我々もしっかりと、皆さんにもその線引きというものもお示ししていかなければいけないのではないかなと改めて思いました。  先ほどの質疑の中で、柔道の指導書みたいなものがないというようなお話だったんですけれども、共通の、例えば全柔連で統一の規格というか、統一された指導書というのはないんですか。
  42. 山口香

    山口参考人 今年度から、全日本柔道連盟は、柔道におけるさまざまな重篤な事故といったこともございまして、指導者養成システムというものをスタートさせました。その中で、指導者を養成していくカリキュラムというものをつくっておりまして、そこには指導書のようなものを少しずつ今つくっている最中でございます。  その取り組みの中で、今がベストだというふうには言えませんので、そこにさまざまな観点から改良を加えつつ、いい指導書がつくられていくということになればいいかなと思っております。
  43. 西野弘一

    ○西野委員 いや、正直、柔道界はちょっとおくれているなと思いました。  私、スキーですけれども、坂本委員は全日本のスキー連盟の副会長で、私も県連の副会長をしておりますが、スキーは指導者の養成のカリキュラムというのがすごくありまして、資格のレベルに応じて、講習会とかも大変厳しくて、更新もかなり厳しくやっていますので、そういう中で安全への配慮というものを徹底してまずは教えられたりもしましたので、その辺、ぜひ、これは柔道に限らず全部のスポーツ団体が、そういった指導者へのカリキュラムというのをきちんとつくるべきだというふうにも思っております。  溝口先生に伺いたいんですが、フランスの柔道はあるんですか、そういった統一されたものは。
  44. 溝口紀子

    溝口参考人 フランスでは、ブルベデタといって、職業資格として一、二、三段階で既に行われていて、資格取得に関しては、研修等、試験も非常にハードルが高くて、日本とは全く違います。  だけれども、山口さんがおっしゃったように、今年度から指導者制度が始まりました。手引も、指導者手引がようやくできたんですけれども、では、それが統一してまとめられているかというと、例えば、大外刈りは事故が一番多いわざですけれども、ある指導者では大外刈りをやったりとか、意外と指導者の裁量で決められています。まだ徹底しているというところには至っていないのが現状でございます。  また、少年柔道においては、級というのがあるんですけれども、講道館ではあるんですけれども、それが全国の都道府県で統一されているわけでもなくて、道場でそれぞれ決められていて、例えば、黄色帯だなと思ったら、普通は黄色帯は小学校二年生ぐらいなのが、実はある道場では五年生がつけていたり、紫帯を、六年生かと思ったら四年生がつけていたりとか、基準がないです。少年柔道に関しては、そういった基準がないです。  フランスは、何歳、三歳からだと白帯で、四歳は黄色、白とか、それが決められているんですね。  今後は、そういった展開も、少年柔道の全国的統一というところもぜひすべきではないかと思っております。
  45. 西野弘一

    ○西野委員 何か柔道の話ばかりで申しわけないんですが、先ほど、柔道の組織的な部分で問題があるというお話の中で、例えば、進学に当たって、その推薦をするのが監督であったりコーチであったりとか、大会の派遣メンバーを選ぶのも監督であったりとか、そういうことで、どうしても、何かあったときに物を申しにくいんじゃないかというようなお話がありましたけれども、それの最たるものが、例えば柔道は、オリンピックに出場する選手を決めるのに、たしか、この大会で優勝したらその選手がなるという仕組みではないですよね。その辺が、やはりそういうところの流れの中で、本当に何か主観的なところで選ばれているんじゃないかなということがじわっと伝わって、全体にそういうふうな空気を生んでいるんじゃないかなと思いますので、まず、そのあたりから変えていくべきじゃないかなということを僕は思っております。  もし何か感想があれば。
  46. 山口香

    山口参考人 これは柔道に限らず、オリンピックというのは、四年に一度ということで、本当に、一生に一度あるかないかのチャンスだと思います。そういったところでの選手選考というのは、競技団体がきちんと透明性を持って選手を選ぶということが求められているのは間違いございません。  ただ、柔道の場合、今おっしゃられたことは間違いないんですが、非常に難しいのは、記録競技ではございません、そして対人競技であるということで、対人というのは必ず相性があります。ですから、どの試合で勝ったからといっても、誰とやったのか、どの時点でやったのかということが非常に大きく作用する競技なんですね。ですから、そういったところで、どうしても選考に頼らざるを得ないという現実もございます。  ただ、そこのところを、やはり、選手たちに説明責任を持って、きちんと選手たちが納得できる事前の説明、そして事後の説明、決定の際の説明というところに、もしかしたら説明責任を今まで果たしていなかった部分があったやにも思われますので、そういったところへの配慮を今後は進めていく必要があると思います。
  47. 西野弘一

    ○西野委員 そうですかね。僕は全然次元の違うところでしたけれども、例えば、僕なんか県予選を通るかどうかのレベルでしたけれども、三位以内は全国に行けるというときに、その試合で体調が悪かろうが、その試合に出ていたメンバーがどうであろうが、やはりそこは三位以内というふうに明確にされた。僕は納得がいきました、落ちたときも。  だから、そういうところが、柔道に限らず、ほかのスポーツでもいろいろあると思うんですけれども、その辺をきちんとやらないと、何か主観的な要因がどんどん入ってくるように見られて、ほかの全体のところにも影響してくるんじゃないかなというふうに思っております。  今回、いろいろなことがあって、柔道の何か悪い部分ばかり出ているように思いますけれども、私も地元のいろいろな柔道の大会とかにお邪魔させていただいていますし、学校でも柔道を習っていましたけれども、本当にすごいですよ、子どもらの礼儀の正しさとか。今、僕が行っている少年柔道の大会なんかは、毎年どんどんふえていっています。  すごくすばらしいスポーツですので、これだけいろいろなものが出てきましたけれども、これは柔道界だけじゃなくてスポーツ界全体の問題だというふうに思いますので、ここで柔道界の皆さんが一生懸命頑張っていただくことで日本スポーツが変わってくるのではないかと思っておりますので、ぜひよろしくお願いしたいなというふうに思っております。  もう少し時間がありますので、最後宮口参考人に伺いたいんです。  少年院に入ったということは、いろいろな犯罪を犯したわけでありますけれども、その方々の特徴の中で、本当に、基本的な学力も身につけることができなかったということがありました。  地域によっては、今、つまずき調査といいまして、例えば、小学校一年生から六年生ぐらいまでの問題をまとめて出して、どこでこの子はつまずいたのか、どこでわからなくなったのかということをやったりしているんです。そういうことを、実は私も大阪の府会議員をしていまして、そのときに府議会でもそういう議論をしますと、一部の教員の集団が、やるなというふうに言うんですよ。  そのことについて、もし御感想があればお聞かせいただけますか。
  48. 宮口幸治

    宮口参考人 やるなというのは、私、ちょっと理解できないんですけれども。  要は、先ほどのつまずき調査というのにもちょっと、やり方にすごく問題があるかなと思うんですね。多分、計算問題とか漢字がどうだとか、学習指導要領に基づいたような内容でやっておられるなら、恐らくスクリーニングはできないと思いますね。彼らはもっと手前のところでつまずいています。本当に、簡単な図形、これを写してみてと言っても、そのとおりに見えない子がいっぱいいるんですね。  私、よくやるのは、立体図の模写というのを描かせるんですけれども、これが描けない子がいっぱいいるんですよ。これを見て何に見えると言ったら、箱に見える、見えないんですね、四角が集まっているようにしか見えない。そんな子らに立体図なんか写せないです。そこまで見る力が弱い子に漢字を覚えろと言っても無理なんですよね。  そういうところのスクリーニングの検査というのが、実際、学校現場で行われているとはとても思えないですし、いろいろなところの学校でお話しさせていただいて、いろいろな先生からお話を聞いていますけれども、そういう視点を持っておられないというところがある。  見る力もそうですし、聞く方の力もそうですけれども、簡単な三語文ぐらいですね、私がよく使うのは。例えば、青は黄色を緑にしたとか、簡単な文、これは復唱なら簡単にできると思うんですけれども、こんな短い文章ができなかったりするんですね。これだったらほとんど授業なんか聞き取れないだろうな、そういうレベル。  そういうところのスクリーニングはぜひしていただきたいと思います。
  49. 西野弘一

    ○西野委員 ありがとうございます。  まだ時間がありますので、もう一問だけ。  藤崎先生に伺いますけれども、先ほど、学校でいろいろな問題が起きたときに、相談とか支援をする、即応していく集団が必要だということだったんですけれども、まさにそれこそが、私、市町村教育委員会の本来やるべき仕事ではないかなと思っているんです。  でも、その仕事ができないのであれば、こんな教育委員会制度なんかやめてしまって、しっかりと、教育に対して責任を誰がとっていくのかということをもっと明確化するべきだと思うんですが、その点についてはいかがですか。
  50. 藤崎育子

    藤崎参考人 この問題に関しては、難しいのが、うまくいっている市町村に関しては、例えば、指導主事は本当にきちんと指導しているというふうに感じられることです。例えば秋田などに行きますと、教科指導に関しても、ちゃんと指導主事が現場先生方にいろいろなものを提供していまして、すばらしい授業展開をしたりしているんですね。  ところが、では、実際に、生徒指導の達人と言われている先生が、果たしてそういった教育委員会、行政組織の方に異動になるかというと、必ずしもそうではないケースも多いですし、また、先生方も、現場が好きでそういった方向に行くことを望まない先生もいたりして、教員、教育委員会の世界というのはやはり特別かなというふうに思います。  ですから、それをどう変えていけばいいかというのは、私自身も、四年間教育委員をやっても、正直、試行錯誤のところもありまして、でも、やはり生徒指導はすごく大事なので、教員養成の段階から、いかにちゃんと大学の課程で勉強をし、実際に現場でそうやって活躍した先生方が指導的な立場に行けるような、そういった人事の流れというのを考えていかなければならないのではないかなというふうに思っています。  済みません、先ほどの御質問の中で、学力調査、つまずき調査をおっしゃっていましたが、私自身も言われたことは、学力は点数ではかるものではないということを一部の先生方に言われましたが、私自身は、やはり、点数とかそういったものを見て、その子が何がわからないのか、それでこそ指導ができるのではないかなというふうに思っておりました。  以上です。
  51. 西野弘一

    ○西野委員 時間ですので、これで終わります。  ありがとうございます。
  52. 松島みどり

    松島委員長 次に、輿水恵一さん。
  53. 輿水恵一

    ○輿水委員 公明党の輿水恵一でございます。  本日は、それぞれの皆様から現場からの貴重な御意見をいただきまして、心より感謝を申し上げます。  もう誰もが共通の認識かと思いますけれども、青少年の健全な育成というのは、やはり日本の繁栄と発展の基盤になってくる。そんな中で、その青少年スポーツ現場あるいは学校教育現場で育成していく指導者のあり方、また、指導者へどういった教育というか、その質を高めていくのかということも非常に大事ではないかな、このように考えております。  そして、本日は、体罰等を切り口に、生徒指導等で日々悪戦苦闘している教員の皆様を初め、青少年を育成する立場で働く皆様が、その現場で、より適切に、そして的確な指導がどのようにしたら進められるのかな、そういった観点から何点か質問をさせていただきたいと思います。  私、先ほど宮口先生のお話を聞いて本当にショックを受けたのは、少年院に行かれたお子様というか青少年が、もともと、相手へのいろいろな想像力がなかった、欠けていたというか、ちょっと足りなかった、あるいは、聞き間違いとか不器用だった、そういったところを誤解されて、あいつは不真面目なやつなんだ、だめなやつなんだというレッテルを張られてしまって、その中で非行に走ってしまって、鑑別所に入って初めて、ああ、この子は障害があったんだと。そこで気がつかれても、本当に残念だなと非常に感じました。  発達障害のある子どもたち、今、その対策、また支援が大変注目されておりますが、エジソンだとかアインシュタインだとかゴッホも、偉人と呼ばれる方も発達障害。そういった方が大きな偉人として成長できるのか、こうやってその芽を摘まれてしまうのか、その教育現場のあり方というのは非常に重要なんだと思います。  まず、宮口先生に、先ほど現場における予防的教育とかいう言葉も出ましたけれども、発達障害、そういった皆さんをいかに現場でキャッチして、その皆様に適切な、またきちっとした対応ができる教育現場をつくるにはどのようにしたらいいのかというような、ちょっと難しい問題かもしれませんが、見解をお聞かせ願えればと思います。よろしくお願いいたします。
  54. 宮口幸治

    宮口参考人 どうもありがとうございます。  非行というのはいろいろな要因から起きます。やはり彼らに共通していますのは、対人関係が下手、それから問題解決能力がすごく乏しい、あと、特に感情コントロールができないですね。あと、思考の柔軟さがない、要は融通がきかないんですね。これらが物すごく共通しています。特に、非行化しないまでも、いろいろ、例えば、いじめの加害、被害に遭ったりとか、ひきこもりの原因になったりとか、そういうことになる可能性がすごくあると思います。  これらは、問題が生じてから対処しても、身につけてもらうことはなかなか難しいですね。それはむしろ、本当に、小学校の早期から身につけて、トレーニングしていただくべきかなと思います。  ですので、具体的には、週一こまで結構ですので、ホームルーム、道徳の時間でも利用していただいて、先ほど申し上げた、対人スキルのトレーニングとか、問題解決のトレーニングとか、あと感情のトレーニング、どうしたらキレないか、キレそうになったらどうするかとか、例えば、嫌なことをどうやって断るかとか、いじめに遭ったときにどうやって助けを求めるかとか、そういうトレーニングを、ロールプレーを何回も何回も繰り返してやらないと身につかないんですね。  我々でも、どうですかね、子どもにキレるなと言っても、我々もすぐキレちゃうんですよね。それを、我々もできないことを、子どもにああせいこうせいと言ってもだめなんですよ。何度も練習して身につけさせないと、やはり難しいと思います。大人でも、難しいことはできない、すぐできないのに、子どもならなおさらできません。  ですので、本当に、早期からトレーニングというのを、週一回で結構ですから、そういう機会を設けていただければ随分と変わると思います。どうぞよろしくお願いいたします。
  55. 輿水恵一

    ○輿水委員 ありがとうございます。  そういったスキルを訓練の中で身につけながら、少しでも現状とか現実に対応できるような、そういった教育の必要性というものが私もよくわかりました。ありがとうございます。  そんな中で、先ほど藤崎先生がちょっと気になることを、学校先生方も、形だけの指導になっているんじゃないか、その本質が見えていないという形では、やはりちょっと違うんじゃないかな、先生の資質という言葉を使われましたけれども、そういったお話がありました。  確かに、表面的な行動にとらわれてしまって、その人が持っている特性というか、そういったところを、もっと資質、違う形でアプローチが必要なのに、ただ言葉だけだとか、指導的なことをやってしまっている、そういった現状があるのかもしれないと思います。  そういった中で、どちらかというと、先生の見方からすると、上から目線というよりも、横、寄り添うような形になりながらそこで一緒に問題を解決していく、そういうことが必要なのかなとは感じるんですけれども、先生の経験から、今度、教員、教師の立場になった場合に、一長一短で、そういった感性とかいったものが、目線が身につくというのも難しいと思うんですけれども、やはり一人一人の先生が少しでもそういった目線で、またそういった方向になるためには、どんなことを教育現場で確認し合ったり、心がけていけばいいのか、その点についてお聞かせ願えますでしょうか。
  56. 藤崎育子

    藤崎参考人 先ほどから私の話はちょっと上から目線だった点も大分感じておりまして、確かに、多数の先生、すばらしい先生にたくさん会ってきておりますので、きょうは特に問題のある先生について言わせていただいたんですが。  一つは、やはり教員の世界は非常に閉鎖性が強く、新聞を読まない、余りニュースを見ないとか、とにかく情報が入っていかない。先ほど山口さんのお話にもあったんですが、閉鎖的な職場の教員はやはり外を見る必要があるのではないかということ、私も、正直、それは強く感じています。  では、実際にどういったところで先生たちに子どもとかかわってほしいかといいますと、例えば学校の中の掃除でも、子どもにやらせるだけの先生と、一緒にトイレをきれいにしよう、掃除をしようとか、あるいは、学校が荒れてきたときに、それを一緒に直して、町の人たちからもきれいな学校だねと言われるように花壇に花を植えたり、先生がともにその子と一緒に汗を流して考えながら、何をどうやって教えて、伝えたらいいのだろうかと真剣に考えていける先生であれば、やはり子どももそれをちゃんと、時間はかかりますけれども、受け取っていけるのだと思うんですね。  ですから、ともに汗を流して、また、その子の、どんな寂しさ、つらさ、生育環境の不幸がどこにあるかということを深く見ながら、あるいは話を聞きながら、また、言葉にできない子どもとは、周りの保護者や地域の人たちとその子の情報を共有し合って、その子をどうやってみんなで育てていけばいいか、そのつながりがつくれる先生ではないかというふうに思います。  でも、大多数の先生、すばらしい先生もいらっしゃることも、ここでもちろん忘れてはならないというふうに思っております。
  57. 輿水恵一

    ○輿水委員 ありがとうございます。  本当に、学校現場でいろいろ悩みながらも、その一人の子どものために寄り添っていただいている先生、また、そういった中でもなかなかうまくいかないというケース、これはやはり、先ほど宮口先生言われたように、根本的な障害という部分にもしっかりと目を向けて、そして訓練を、言葉とか単純なことではなくて、訓練をしながらしっかりと培っていかなければいけない、そういったこともあるということもやはり理解することが必要なのかなというふうに私もきょう感じたんです。  そういった中で、学校はめちゃくちゃ今忙しくて、掃除をする時間があったら何か点数の丸つけをしなきゃいけないとか、あれもこれもという状況の中から考えると、まさに宮口先生がおっしゃられた、授業のカリキュラムの中で対人関係とかあるいはコミュニケーション能力等を高めるようなものをしっかり持って、そこに先生も一緒に参加することによって、お互いにそのスキルを高めながら、また、お互いの特性を認識し合いながら、学校の新しい道筋というか、教育のあり方が見えてくるような気がするんです。  そこで、今度は、子どもに外圧的にというか、先ほどの体罰とかではないですけれども、無理やり言葉で指導をしてもなかなか伝わらない、これは先生も一緒なのかもしれないと思いました。  藤崎先生が、不登校でやっと来た生徒を連れていったら、はだしだった、やっと連れてきたんだから、よく来たねと言ってくれればいいのに、何ではだしなのと言う先生もいらっしゃったと。でも、その先生も、もしかしたら、そういった想像力という部分で不足していた先生、悪気があったわけではないと思うんです。  そういった中で、先生に対しても、そういった感性とかスキルを身につけていただくような取り組みも必要と思うんですけれども、その辺について、精神科医の立場でどういった取り組みが考えられるのか、教えていただけますでしょうか。
  58. 宮口幸治

    宮口参考人 まず、最も大前提になりますのは、学校先生のメンタルヘルスをケアしないといけないと思います。  今の学校先生は疲れ果てていますね。いろいろなお話を聞いているんですけれども、例えば、今、子どもが学校で何か問題があったとか言ったら、すぐに親が、何事だということで学校先生のところにクレームをつけに行かれますよね。親は、子どもからそういう話を聞いたら、自分も、親自身も、自分をばかにしやがってという感じになっちゃうんですね。親も子育てに自信がない、自分も認められたい、子どものために何かしてあげたいと思って、やはりちょっと熱くなって、学校にクレームをつけに行きます。  そうしたら、すごいけんまくで言われたら、学校先生も、悪くないと思っていても、子どもの前で謝ったりするんですね。それを見ていて、子どもがそんな先生の言うことを聞きますか。ああ、何だ、先生というのはこんなものかとか、信用しないですよね。そういうのがどんどんあったら、学校先生はどんどん追い詰められていきます。それで心を病んでいくのは当たり前だと思いますね。  我々精神科医でも、最も大切なのは自分の心のケアなんですね。自分の心に余裕がないと、余裕を持って患者さんを診られないんです。それは、学校先生も全く同じかなと思います。  ですので、いじめとか体罰の問題、いろいろあるんですけれども、まず学校先生の心のケアを何とかしてあげるということ、これは並行して進めていただければと思います。
  59. 輿水恵一

    ○輿水委員 ありがとうございます。  まさにそうですよね。受けとめられるだけの余裕というか平常心というものがないと、ついかっとしてしまったり、また、どうしたらいいかわからずにどなってしまう、そういった現象も起こってしまって、それはやはり教育現場では本当はあってはいけない、そういったもののように私も思います。  そういった中で、最近ちょっと読んだ本で、怒りのメカニズムについての本を読ませていただいたんですけれども、なかなか自分に投げかけられた問いに対して理解ができない、あるいは解決の糸口が見えないような場合に、つい怒りとしてあらわれてしまう、あるいは、指導をしなければいけないときに、どう適切にやったらいいかわからないときに、とりあえずどなってしまうとか、そういった、先が見えないときに自己防衛の一つの表現として怒りといったことも発生している、そういった先生の見解でございました。  指導の現場で、怒りということと、逆に、激励というか、叱咤激励という部分ではまた違うのかなと思うんですけれども、体罰は、私は、まさに山口先生がおっしゃられたように、絶対体罰をしたら負けだ、それは違う、しかし、指導の現場の中に、叱咤激励というか、怒りではないんだけれども、ある意味現場で必要なこともあるのかもしれないなというふうにも考えるんです。  体罰とは別の、叱咤激励の教育現場での必要性とかあり方について、四人の先生方にそれぞれ見解をお聞かせ願えればと思うんですけれども、よろしくお願いいたします。
  60. 山口香

    山口参考人 教育現場でも、あるいはスポーツの指導現場でも、今言われた叱咤激励、言い方をかえれば、私は情熱だというふうに思っております。指導の現場において、情熱というのは一つの大きな要素であるというふうに思っております。  ただ一方で、そのあり余る情熱をいかにコントロールするかというのも、これは指導者の資質に求められるところです。感情を爆発させてしまうと、やはり受けとめられない子どもたちあるいは選手たちというのも当然出てくるわけですね。  ですから、先ほど宮口先生がロールプレーというふうにおっしゃられましたけれども、これは指導者も同じですね。教育現場でも同じで、先生たちも、やはり怒りをどうコントロールするか、マインドリセットするか。  例えば、試合で負けて帰ってきた、そこで怒りを爆発させるのではなくて、いっとき置けば怒りは静まるんですね。それはテクニックなんです。ですから、そのテクニックを学んでいくということが、教育現場においてもスポーツの指導現場においても必要だと私は考えております。
  61. 宮口幸治

    宮口参考人 私は、いろいろな体罰の問題の根底にありますのは、指導者の固定観念、ゆがんだ固定観念にあると思っています。  それは、偉くなればなるほど、自分の言うことは聞くものだとか、これだけやってやっているんだから言うことを聞けというすごい固定観念があるんですね。これだけやっているんだから、自分の期待に応えろ、そういう固定観念があるということが一番の原因かなと思っております。  子どもがそのとおりに沿うわけないですよね。子どもは大人の言うことを聞くわけありません。そうしたら、やはり、ばかにしているのかという怒りが出てくるんですね。まさに、先生がおっしゃったように、怒り、これは根底にあると思います。  特に、発達上の問題があるような子なんかは、先生がわあっと言っても、何を言っているかもよくわからないんですね。そうしたら、ふざけやがってという感じで、ますます怒りをたきつけて、それがいろいろな体罰いじめ、特に体罰ですね、そういう感じになっていると思います。  ですので、一番大切なのは、柔道の世界に限らず、指導者が、自分がどんなことで怒りのスイッチが入ってしまうかということを、自分自身のことをもっと知ってほしいなと思います。  以上です。
  62. 溝口紀子

    溝口参考人 私の考える叱咤激励とは、子どもたちに、選手に、やる気スイッチを入れさせることだと思うんですね。やる気スイッチを先生指導者が入れるのでは意味がないと思います。選手生徒が、子どもたち自分やる気スイッチを入れなければ、本当のスイッチが入ったことにならないと思うんですね。  そのための、どこにスイッチがあるのか、完全に教えるのではなくて、導くことが指導者先生の役割だと思います。  それの手段が、背中をたたいてあげたり、そういったことであって、それを体罰、先ほど宮口先生が固定観念と、自分が入れさせてやったとか、そういうようなことになってしまうと、やはり本末転倒じゃないかなと思います。  自立心、山口さんが最初の方でお話しした、そういう自立心を促すような叱咤激励が理想であると思います。
  63. 藤崎育子

    藤崎参考人 叱咤激励に関しては、やはり子どもが好きなことに打ち込むときこそ功を奏するものではないかと思います。部活などでも、その子が選んで、好きなスポーツ、あるいは芸術でも、そのときには叱咤激励というのは非常にいいものではないかと思っています。  怒りに関してですが、私自身も、例えば自分の担当している子どもに怒りを感じるときは、振り返ってみますと、結局、自分の指導は、すごくまずい指導をしていたということでしかなかったんですね。  学校のカウンセラーとして入ることもありますが、先生方は困った子どもを私に預けてくださるんですが、むしろ先生たちが、私と、あるいはカウンセラーと話をして、自分の指導の仕方を振り返って、困った子どもというよりは、実はそれに対応できていない自分自身に向き合うこと、ですから、教師の精神衛生をよくすることこそが大事なのではないかなというふうに思います。  以上です。
  64. 輿水恵一

    ○輿水委員 どうもありがとうございました。  本当に、まさに指導者が心をどうコントロールしていくか、またリセットしていくか、そして丁寧に対応していくかということの大切さと、あとは、上からの押しつけではなくて、気づきというか、お互いの現場の中で自発、能動的にどう物事に取り組ませていくか、そういったところの大切さというのがよくわかりました。  また、私たち、これから日本を担う青年たちが本当に可能性を大きく開ける、そういった教育現場先生方とともに開いていけるように頑張ってまいりたいと思います。  本日は、まことにありがとうございました。
  65. 松島みどり

    松島委員長 次に、畠中光成さん。
  66. 畠中光成

    ○畠中委員 みんなの党の畠中光成でございます。  本日は、四人の参考人先生方、お忙しいところ、本当にありがとうございます。大変勉強になりました。  きょうは、私から何点か質問、教えていただきたいことがございます。  まず、私自身のことをお話しさせていただきますと、学生時代、私は関西学院というところでアメリカンフットボールをやっておりまして、振り返れば、本当にたくさんのことを学ばせていただいたなというふうに思っております。  きょうお越しいただいた山口先生溝口先生は、柔道界で一流の選手指導者をしていらっしゃるということでありますが、個人競技であれ集団競技であれ、指導者選手、あるいは先輩と後輩、あるいはチームや組織、一人でスポーツは行えるものではありませんから、結局のところ、コーチングのあり方であったり、組織のマネジメントのあり方であったり、集団も個人も共通点というのがあるのではないかなというふうに思っております。  一番大切なのは、やはりその組織やチームに流れている理念とか哲学であるとか、こういったところは本当に大切かなというふうに思っております。  手前みそですが、私がおりました関西学院のアメリカンフットボール部の現在監督をしております鳥内監督が、体罰について、先日新聞記事に書かれておりまして、戦前からあるチームなんですけれども、そして、日本一を常に目指すことができるチームでありながらも、一切体罰は行ってこなかった、言葉で伝えてわからない人間が殴ってわかるはずがないと。つまり、そもそも流れている考え方として、勝てばそれは選手のおかげであって、負ければそれは指導者の責任だという考え方があったり、あるいは、チームが勝利をしていくのは、決して伝統やOBのために勝つのではない、あくまで選手自身の人間成長のためにそのチームがあるんだ、そういう理念があるということが書いてありました。  そこで、柔道の第一人者でいらっしゃいます山口参考人、それから溝口参考人にお伺いしたいんですが、柔道に限らず、スポーツ全体で結構なんですが、スポーツとは一体誰のためにあるのか。つまり、柔道の話でも結構なんですが、柔道という競技は一体誰のためにあるのかということを、これまでスポーツ柔道にかかわった御経験からお考えをお聞かせいただけますでしょうか。
  67. 山口香

    山口参考人 非常に大きな御質問で、どういうふうにお答えするかというのは非常に難しいところがございますが、スポーツというのは、まず、やはり自発的な行為であるということが前提にあるというふうに思っております。それは誰のためにということでいえば、スポーツをする本人が目指すものであったり、求める、あるいは、求めるものがなくても、スポーツをやりたいというその意思だけでスポーツは行われるべきだと思います。  ただ、それが第一義的であったとしても、第二義的に、例えば、スポーツにおけるコミュニティーの形成であったり、あるいは教育的な価値であったりというようなさまざまな、スポーツを取り巻く環境の中でメリットは多数あるというふうに思っております。  ただ、まず、そういったスポーツ意味とか意義とかというところをしっかり私たちは認識をして、冒頭でも申し上げましたけれども、やはり体育スポーツというのが日本はなかなかすみ分けができておりませんので、そういったようなところも今後、スポーツ基本法も背景にありますけれども、もう少し議論を深めて、そして、その議論を現場に浸透させていくということがすごく重要なことかなと私は思っております。
  68. 溝口紀子

    溝口参考人 スポーツとは誰のためにあるのかという論点ですけれども、私は、スポーツ権に尽きるのではないかなと思います。スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことが、まさにスポーツをやる権利でもあります。これは、自分のためでも、みんなのためでもある。  特に、個に関しては、私も、柔道を通して、自分の至らなさとか、試合を通して勝負の厳しさとか、強靱な、強靱過ぎるかもしれないんですけれども、体もつくることができました。それだけではなくて、やはり組織、小さなコミュニティーの中に入っていくことで、先ほど言った、ルールを守る、社会規範につながると思います。  そういった青少年期においては、社会に入る前に、ロールプレーですね、ある意味ルールを守らないと、先ほど言ったようなペナルティーがあるとか、ルールを守らないとみんなに迷惑をかける、ひいてはチーム力の低下にもなるということを、スポーツを通して学ぶことができました。それはまさに、みんなが共有することがスポーツであると思っております。
  69. 畠中光成

    ○畠中委員 ありがとうございます。  今、山口参考人からは、冒頭に、自発的にかかわるということをおっしゃっていただきましたし、溝口参考人からも、自分のため、みんなのためという言葉もおっしゃっていただきました。  もちろん、スポーツは、優勝を義務づけられたチームから親睦的に行われるスポーツまで、本当に定義はさまざまかと思うんですが、とはいえ、全て共通点で含まれているのは、まさに、選手自身のため、選手自身の人間形成とか、こういった観点で極めて重要かなと思うんです。もしそれがなければ、さまざまな問題を起こしてしまう要因となってしまうのではないかなというふうに思いますので、私は今後も日本スポーツの発展や強化を願う一人ではありますが、同時に、スポーツを通じた人間形成という観点を強めていかなくちゃいけないのかなというふうに思います。  それでは、一点、柔道のお二人、一流のお二人が来られていますので、手短に教えていただきたい。  これは、柔術ではなくて柔道となっています。つまり、先ほどはスポーツの質問をさせていただきましたが、各競技ごとに特徴があって、その特徴から学ぶことというのはあると思うんです。柔道だからこそ得られるものというのは、まさに柔道の道の部分にあるのかなというふうに思いますが、その点に関して、山口参考人溝口参考人からお聞かせいただけますでしょうか。
  70. 山口香

    山口参考人 これは手短に話すのは非常に難しいことなんですけれども、まず、嘉納治五郎先生が術を道にかえたというのは、つまり、柔術と言われていた時代は術が目的であった、相手を倒す技術、術であった、そしてそれが、平和な世の中になって、人間教育ということで、術を手段として目的は人間教育に置いたというのが、柔道というふうに名づけられた根底にあるものでございます。  また、先ほど申し上げたように、道の文化というものがありまして、型ということですね。型を学ぶことによって、その型をつくられた師が思う、つまり、次の世代につないでいきたい、日本人としての美徳であったり、その人の生き方であったり考え方というものが型に込められているんだというものがございます。  稽古という言葉がございますが、稽古は、古いものを考えるという意味がございます。つまり、型を何度も何度も繰り返しやることによって、なぜこの型ができ上がったのか、ここから何を師は教えたかったのか。  日本文化は、教えない文化です。ですから、型を学ぶことによって、自分でつかみ取れ、自分で考えなさいと。  そういった意味では、柔道を学ぶということは、日本人の美徳であったり、日本の古きよき伝統を型から学んでいくという意味があると思いますし、そして、嘉納治五郎が言われた精力善用、自他共栄、それを社会に生かしなさいということに尽きるのではないかと私は思っております。
  71. 溝口紀子

    溝口参考人 山口さんが十分説明されたので、重複しないところでお話ししたいと思います。  私は社会学者なので、もちろん、嘉納治五郎柔道を形成していった、それは、日本の本当にすばらしいスポーツ化の一つの始まりだったと思います。柔術から柔道、剣術から剣道といったように、つまり、武術だったものが道にかわる、それは、スポーツ化、非暴力化、ルール化ということで道という文化が生まれたと私は解釈しております。  ちなみに、フランスでは今も、フランス柔道連盟ではなくて、フランス柔術・柔道連盟と言っています。いろいろな柔術、柔道の解釈は、日本だけではなく、海外では違うというような研究も、自分個人ではやっております。  そういった中で、私が柔道を通して学んだものは、精力善用、自他共栄という、自分柔道で養った知識や体力を社会に貢献する、もちろんでありますけれども、それはどうやったらできるのか、どうやったら効率よくできるのかというのは、一つ、柔よく剛を制すです、小よく大を制すともいいましょうか。  例えば、この女子の告発もそうですけれども、柔道界では非常にマイノリティーで弱い存在であるけれども、今回、社会を動かす大きな原動力にもなりました。  柔道というのは、まさに、小さい者でも体が大きくて強い人を投げられる、それが柔の理。それは、技術的なものではなくて、精神的なものでも同じように言えるのではないかと思います。小さな者、弱い者でも、大きな者に立ち向かう勇気と知恵があれば、それは乗り越えることができる、それを私は柔道からたくさん学ぶことができました。  また、それを我々柔道家が、日本、世界に向けて、よりよい形で今後も説明、発信できるようにしていきたいと思います。
  72. 畠中光成

    ○畠中委員 どうもありがとうございます。  それでは、次に宮口参考人藤崎参考人にお伺いしたいんですが、まず、発達障害に係ることについてなんです。  平成十六年に発達障害支援法が成立いたしまして、新たな障害として発達障害が定義されました。平成二十二年に、障害自立支援法や児童福祉法の改正に伴いまして、発達障害が精神障害の一部というふうになりましたが、私が感じるに、まだまだその理解というのが十分でないというふうに思います。  きょうのお話の中で、藤崎参考人も、例えば、学校の中でいうと担任の先生が極めて重要で、その担任の先生の資質向上、この部分を強調されていらっしゃったというふうに思うんですけれども、宮口参考人藤崎参考人御両名から、発達障害に関する教員の理解あるいは周囲の理解は今どの程度であって、どのような問題意識をお持ちかということをお答えいただけますでしょうか。
  73. 宮口幸治

    宮口参考人 少し前に、アスペルガーの長男がお姉さんを殺害したという事件で、求刑よりも重い判決が出たというのは、まさに社会がまだまだそういう障害に対して理解がなされていないなとは思うんです。  ただ、実は私、病院にいて、前、発達障害をずっと診ていて、自分発達障害のそこそこ専門家と自負しておりましたが、少年院に来てみて、実は、発達障害というのは、それほど、世間が大変な問題と思われている以上ではないなと、本当のところ、ちょっと思っているんです。  学校現場で、私も学校の方でコンサルテーションをしております関係上、一番困っているのは、実は知的障害の子なんですね。知的障害というのは二%います。あと知的障害までいかず、グレーゾーンの子、IQが七〇から八五の子、この子らは、学習障害とかいった、そういうところに分類づけられたりするんですけれども、その子らが物すごくやはり大変なんですね。  その子らは一五%ぐらいおられますけれども、その子たちが、要は、学校先生がいろいろ伝えても伝わらなかったり、周囲の状況を読めなかったりで、やはり対人関係でトラブルを起こしたり、想像力の乏しさからいろいろな感情面でのトラブルがあったりとか、まさにその辺なんですね。  発達障害でも、ある程度知的にいい子は、少年院でも教育がすんなり、すっといくんです。大変な子だなと思っていても、ある程度、あるときスイッチが入ったら、百八十度くるっと回って、ああ、そうか、わかりましたという感じで、いい感じでいってくれるんですけれども、矯正の方でも教育が浸透しないのは、やはり知的なハンディを持っている子なんですね。ここが学校現場で一番見落とされているところかなと思います。  確かに、発達障害は大変な問題ですけれども、さらに大きな問題となっている境界域の子たち、境界知能の子たち、これが見落とされているというのが一番大きな問題かなと私は感じております。
  74. 藤崎育子

    藤崎参考人 発達障害についての教員の理解ですが、とにかく、よく知っている先生は、自分でお金を払い、さまざまな研修や講演を聞きに行き、勉強しています。  ただ、そういった研修会に出ることももちろん大事なんですが、保護者とよく話す先生、例えばその子どもが、家庭でこんなことが、パニックを起こしたときはどう親が対応しているかとか、親との協力関係、それから、お互いに意思疎通、こういったときはこう対応しようと、保護者と教員の信頼関係がきちんとできている場合は、非常にその子どもが学級で落ちついていけるというような環境がありまして、それこそ教師と親が一緒に子どもを育てているというタッグが必要だなというふうに感じます。  もう一点。学校としては、自閉症スペクトラム関係子どもたちに、小さなときから体育スポーツ、体を動かすことの楽しさを熱心に行っている学校などがありまして、授業で毎日体育があるんですね。水泳などもしているんですが、そうすると、その後、その子たちの全ての能力が上がっていく。  ですから、いかに人間というのが、体を動かす、あるいはスポーツといったものも、知能の発達あるいは社会的な発達にもかかわっていくかということを熱心に実践されている学校もあるということを付言させていただきたいと思います。  以上です。
  75. 畠中光成

    ○畠中委員 ありがとうございます。  最後の質問になりますが、これも宮口参考人藤崎参考人にお伺いしたいんですが、発達障害を管轄しているのは、厚生労働省とか自治体の福祉部局になります。教育委員会学校との連携というのが一つ問題にもなっております。少年院の場合はこれまた法務省の矯正局ということで、こういうさまざまな部局が重なり合う問題かと思いますが、現場で、そういったところの連携に対して不十分なことがもしあれば改善が必要かなというふうに思うんですが、その連携がうまくいっているかどうか、お聞かせいただけますでしょうか。
  76. 宮口幸治

    宮口参考人 現場で、正直申し上げますと、押しつけ合いというのが一番、私も心が痛くなりますけれども、本当にそう思います。なぜうまいこといかないかといいますと、やはり機関同士で対応しちゃうところに一つ問題があるかなと思うんですね。  要は、連携というのは、実は、何だかんだいっても個人と個人とのつながりかなと思うんですね。  私が尊敬している少年院の教官がいるんですけれども、少年たちが将来お世話になるかもしれない施設なんかの行事、お餅をついたり、バーベキューの手伝いをしたり、そんなところに積極的に参加しているんですね。それで、何かあったときに、ああ、あれだけお世話になっているあの人の頼みなら断れないな、こんな大変な子だけれども引き受けようかとか、そういうところが一つ大事なのと、あと自分のそれぞれの職業に関係のない、通常関連しないような人たちの連携というのを通常からつくっておくネットワークというのがすごく有効かと思うんです。  私が今勤務している三重県でもありますが、三重子どものこころネットワーク、通称MCMNというのがあるんですけれども、それは、教育や福祉、行政とか司法、警察、NPO、さまざまな人たちが、通常顔を合わさないんですね、そういう人たちが集まって勉強会を年に二回ぐらいやっているんですけれども、過去に起きた事例でうまいこといかなかった事例について、どうしたらよかったかな、そういうことを話し合っていっております。  ポイントとしては、お互いそうやって責めるのじゃなくて、それぞれの機関の苦労話、ふだんわからないような苦労話を知ったりとか、あと、相手の顔を覚えるとか、そういう親交、交流を深めるというところも目的としております。何かの御参考になればと思います。
  77. 藤崎育子

    藤崎参考人 先ほど宮口先生の、診断の難しさの中に、家庭を知らないと診断が難しい、これは私自身も非常に感じていまして、例えば、発達障害と思われた子が、実は虐待の後遺症で似たような状況に陥っているというケースもあるわけです。  ですから、押しつけ合いというのも非常に同感するところでありまして、医療、福祉、それから教育、司法、また警察の現場の連携というのは非常に大事でして、お互いの情報交換も大事だと思いますし、今、どちらかというと、精神科医、二カ月診断待ちとか、いろいろなことが言われていますが、その間、先生は、診断が出るまで指導をやめますとか、学校に来ても難しいですねとか、そういった問題ではないと思いますので、本当にここは大人側がお互いに話し合いをして、その子にその日一日何ができるかというところから始まるのではないかなというふうに考えています。  以上です。
  78. 畠中光成

    ○畠中委員 以上で終わります。  ありがとうございました。
  79. 松島みどり

    松島委員長 次に、宮本岳志さん。
  80. 宮本岳志

    ○宮本委員 日本共産党の宮本岳志です。  きょうは、四人の参考人先生方、まことに示唆に富んだ深いお話をありがとうございました。  私は、国会のラグビー議員連盟というのをやっておりまして、また、国会の中にあるスポーツ議員連盟の一員でもあります。スポーツ基本法というものをつくる中にも加わりました、法案提案者の一人でもあります。  この基本法は、私は非常に歴史的なものだと思っておりまして、冒頭に、「スポーツは、世界共通の人類の文化である」ということを高らかに宣言しておりますし、「基本理念」の冒頭には、「スポーツは、これを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利である」、スポーツは権利であるということを宣言したという点でも、歴史的、画期的なものだったと思うんですね。  こういう精神に立って、JOCを初めスポーツ五団体が、先日、スポーツ界における暴力行為根絶宣言というものを、非常にすばらしい中身を持ったものを発表され、その発表の場のシンポジウムにも私は参加をさせていただきました。  スポーツ基本法やこの宣言で触れられている、まさに、スポーツ文化であって、スポーツは人権なんだという立場に立てば、そういう世界に暴力とか体罰というものが横行する余地はないはずであります。  その点で、まず、スポーツの存在に照らしてこの問題をどう捉えるかというあたりのことを、山口参考人、そして溝口参考人、簡単にお聞かせいただきたいと思います。
  81. 山口香

    山口参考人 その点については、先ほどからも随分お話を、先ほどもちらっと申し上げましたけれども、権利というところでいえば、日本スポーツ文化として法律にそうやって掲げている割には、権利として本当に認められているんだろうかというふうに私は考えております。  先ほども申し上げましたけれども、子どもたち生徒、学生がスポーツをやりたいと思ったときに、自由に、そして自分が求めるものを、スポーツ環境ですね、求められる環境が必ずしも整備されているとは言えないというふうに私は思います。  例えば、学校で、この指導者には合わない、この指導法には合わない、私とは目指すものが違うんだと思ったときに、その子がクラブをやめるということは、そのスポーツから離れることを意味します。もしかしたら、ヨーロッパのようにスポーツクラブが非常に根づいていれば、私はこの先生で楽しいスポーツをやりたい、この人について厳しいスポーツをやりたい、勝利を目指したいと。  やはり、そういった選択肢が今の日本ではまだまだ確立されていないということがあるというふうに私は考えておりますので、そのあたりを、国も、JOC、そして体協、さまざまなスポーツ団体が連携をしながら整えていく必要があると感じております。
  82. 溝口紀子

    溝口参考人 スポーツはそもそも非暴力であるはずなのに、そういった数々の不祥事があって、我々が思う理想と現実は違っているということも、宮本さんの御指摘どおりでございます。まさに今、スポーツの民主化の移行期ではないかなと思います。それに対して、胎動のあらわれと私は言いましたけれども。  だからこそ、今まではむしろそういった問題すら上がってこなかったのではないか、顕在化できたことが第一歩で、それをやはり認識して、解決、分析していく過程ではないか。それには痛みも伴うかもしれませんけれども、それが、平成二十三年のスポーツ基本法の効果がまずあって、そしてオリンピック招致という一つの潮流になっていると私は思います。  そういった意味では、決して後退しているわけではなくて、前進をしているものだと思っております。
  83. 宮本岳志

    ○宮本委員 そういう点では、十五人の勇気ある行動を励まされた山口参考人や、まさに十六人目の勇気ある告発にかかわられた溝口参考人の果たされた役割に、本当に敬意を表したいというふうに思っております。  本来喜びであるはずのスポーツの中で、そういうことが起こってしまった。そういう中で、勝利至上主義に一つの原因があるんじゃないかという議論があるんですけれども、ただ、このスポーツ界の宣言を見ますと、「指導者は、暴力行為による強制と服従では、優れた競技者や強いチームの育成が図れないことを認識し、暴力行為が指導における必要悪という誤った考えを捨て去る」と。つまり、体罰暴力では、勝利至上主義にもならない、強い選手やチームもつくれないというのが、今日のスポーツ界の到達点だと思うんですね。  その点で、改めて、日本スポーツ界におけるスポーツ指導のあり方、スポーツ指導者のあり方、こういうものについてさらにもう一歩高い段階を目指す必要があると思っているんですけれども、この点についても、山口参考人、そして溝口参考人のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  84. 山口香

    山口参考人 現在、スポーツ界においては、一貫指導ということで、スポーツを、一貫して、理念を共有しながら、指導者がいい選手たちを育てていって、最後オリンピックレベルあるいはワールドカップレベルという非常に高いところでパフォーマンスを発揮できるようにというような取り組みをしております。  先ほど勝利至上主義ということを言われましたけれども、つまり、その現場指導者がどこを目指す勝利至上主義かというのが非常に問題になります。  日本は、学校制に準じておりますので、例えば中学校三年間、高校三年間、大学四年間、その都度結果を出すことが勝利なんですね。  でも、スポーツ界全体で見ると、最終的に結果を出すのはもっと高いところなんだ、だから、ここで何を教えるのか、ここでどういう指導をさせるのか、そして最終的に、トップスポーツで、トップ、トップで成果を上げるためには、何度も申し上げますが、やはり、自発的な行為、そして、自分からも火の中に飛び込むような、ある種そういったものが必要になってくるわけです。  ただ、今の状況ですと、中学校先生は中学校で成績を出さないと評価されないシステムになっているわけですね。  ですから、例えば、オリンピックでメダルをとった選手が、小学校のときはどなたに教わったのか、中学校はどなたで、高校はどなたで、その都度そこで楽しいスポーツを教えてもらったから今があるんだと、やはり、そういう評価システムといったものも、今少しずつそういう方に動いているんですけれども、さらに進めていくことも必要だと思います。
  85. 溝口紀子

    溝口参考人 日本スポーツ界の勝利至上主義についてなんですけれども、ただ単に勝つこと、オリンピックを頂点としたスポーツが形成されているというのも現実ですけれども、それプラス商業主義、やはり、今回レスリングが一時的に落選しましたけれども、視聴率がとれるか、人気があるかとかそういう論点で。  そもそも、視聴率のために我々はスポーツをやっているわけではなくて、本当に楽しみながら、遊びという、ホモルーデンスとか、ロジェ・カイヨワとかホイジンガが言う遊び、我々は、本当は遊ぶ人たち、本能でスポーツをやっているはずなのに、そこにマーケットが入ってきて、視聴率だ、スポンサーがついたりと。  今、古典的なスポーツと現在のスポーツというのはあり方が変わっていて、それを全面的に否定するわけではなくて、やはりオリンピックの祭典はすばらしいですし、超人的なわざを見る、それにはスポーツ科学の知識が必要で、サポートも必要で、商業主義というのがあるからこそスポーツ科学も発展すると思います。ただし、そればかりになってしまっていることが、我々、暴力とか行き過ぎた指導に、部活動でもそうだと思いますけれども、なると思います。  やはり、スポーツ権の本来の部分で、遊び、スポーツをなぜやるのかというところを一人一人が子どものうちからちゃんと共有できているか、そういった教育を我々はしていかなければいけないのかなと考えております。  以上です。
  86. 宮本岳志

    ○宮本委員 本当に、おっしゃるとおりで、スポーツの本来のあり方ということに立てば、強い選手を育てるということは、自律や自立自分で律する、自分で立つということを山口参考人はおっしゃいましたけれども、自分の頭で考えて、そして責任を持って行動できる、そういう選手を育てるということだと思うんですよね。  その点で、この前のシンポジウムでも言われていましたけれども、医療の分野におけるインフォームド・コンセントのような観点がスポーツ指導者に求められると。つまり、ただ単に指導者が、これをやれ、わからなくてもやれと言うんじゃなくて、今、あなたの技術の弱い面がここにある、それを強めるにはこういうトレーニングが有効なんだ、だからやってみますかと説明をし、本人も納得してやるということが必要であって、四の五の言わずにわかろうがわかるまいがやれと言うのはそもそもスポーツ指導じゃないんだという議論も聞きました。なるほどと納得をいたしました。  私は、スポーツの問題でこの体罰の問題をずっと議論し、勉強してきて、一部には、スポーツの、運動部の指導で体罰は許されないけれども、生活指導上については何か余地があるんだみたいな議論があるんですけれども、スポーツのこの体罰問題を学べば学ぶほど、実は全ての問題で、一つのことを子どもたち選手たちに伝えていくという作業は、暴力が入り込む余地はなく、やはり納得して相手に本当につかんでもらうということが大事なんじゃないかと。これは、実は全てに通じて、教育現場から、またスポーツ現場からそもそも体罰暴力というのは一掃されるべきであって、余地などないのではないか、だから、そういう意味では線引き論というものはおかしいのではないか、そういう思いを今しております。  最後に、ちょっとこの点、簡単にで結構ですけれども、山口参考人溝口参考人にお答えいただきたいと思います。
  87. 山口香

    山口参考人 人を教えるときに、難しいのは、やはり、しつけというのも私は当然あってしかるべきだというふうに思っております。ですから、罰しなくても話してわかる、体で罰しなくても、体罰を行わなくても話せばわかるという年齢と、小さな子どもの場合、危険から遠ざけるために、そして危険を察知させるために、やはり体に覚え込ませるということも、当然、これはある種必要な部分ではあると思います。  ただ、それが、幾つになっても、わかるようになっても続いていくようでは、それこそ、教えられる側に、聞く力であったり理解する力というのも養われていかないとというところがあると思うんですね。  そして、その一方で、教える側や指導する側の説明する力、そして理解させる力、そういったようなことが相まってこういった体罰といったことが恐らく根絶されていきますので、悪いというふうに言ってしまうことはある種簡単であり、もうやめろと言うことも簡単なんですが、やはり、隠れてやるようになるともっと根が深くなりますので、体罰はいけないんだと言葉で説明できる年齢に至ったら、それはないということをまず共通認識として持って、そしてあとは、それをどういうふうに実現していくかという方法論をこれからはやはりきちんと話をして、悪いと言うだけではなくならないということを私たちは認識して、粘り強く取り組んでいきたいと思っております。
  88. 溝口紀子

    溝口参考人 私も、暴力手段としてはないものだ、懲戒権は教員には、体罰を加えるということは暴行になりますので、ないという前提で考えております。  だけれども、現実は、体罰をする教員もいるし、体罰を受け入れる生徒選手も、そして保護者もいます。それを変えていくのには、いきなり脱体罰はできなくて、卒体罰という過程が必要じゃないかなと思います。その過程で、体罰にかわる、先ほどから言っていますけれども、ペナルティーの与え方というのをちゃんと学習しなければいけない。しつけになると思います。  例えば、交通ルールを違反した場合、我々は警察に殴られないですよね。今スピード違反だと、殴られて終わりではないですよね。減点されて、罰金を払う、そういう規則なわけですよね、我々法治国家の中では。それが社会なんですよね。それを学校とかスポーツを通じて学ぶ場面であって、それが暴力であってはいけないわけですよね。それでは社会では通用しない。  そういう観点から、やはり意識を変えていくということが地道に必要かなと考えます。
  89. 宮本岳志

    ○宮本委員 次は、あと二人の参考人にお聞きします。  実は、昨日、衆議院文部科学委員会が開かれまして、いじめ防止対策推進法案というものが、私は反対をさせていただいたんですが、これが文部科学委員会で可決いたしました。きょう、本会議が開かれて、この後、本会議でこれが採決されるという予定になっております。  私は、この法案の中で非常に気になる条文がありまして、このいじめ防止対策推進法案の第四条には、こうあるんです。「児童等は、いじめを行ってはならない」と法文に、条文に書いてあるわけです。  この「児童等」は、子どもですね、子どもにいじめを行ってはならないぞと法律で定めて、そしてやめさせる、こういうことが、本当に、現場でやっておられる方々にとって有効なのか。もちろん、この法律は、その後にいろいろ書いていますから、それだけじゃないですけれども、しかし、まず、そんなことを法律で定めるということ自身がおかしいのではないかということを申し上げたんです。  子どもたち現実の姿でいえば、どの子も、いじめる、いじめっ子になる可能性も、いじめられる可能性もある。そして、いじめっ子といじめられっ子が入れかわるということも間々あることであって、子どもにとっては、いじめというのは一つの過ちなんですね。それを早い段階でとめて、継続させず、命や心身を守りながら、乗り越えて学ばせることが大事であって、頭から禁止するということに教育的な効果はないというふうに私は申し上げたんです。  その点で、僕は、いじめをなくすためには、いじめる子がいじめなくなることがまず何より大事でありますから、いじめを行った子どもにどういう対応をするかというのは非常に大事なポイントだと思うんです。  現場先生方に聞くと、いじめをするなと叱りつけるなどというのはほとんど効果がない、何か嫌なことがあったのと、こう耳を傾けるというのが一番大事で、その声を子どもは待っているんだ、こういうふうに言うわけですね。  その点では、私たち、しっかり法律をつくり、運用する上でも、こういう角度が非常に大事だと思うんですけれども、もう時間がありません、全部まとめて、宮口参考人藤崎参考人からお話しいただいて、私の質問の時間を終わりたいと思います。
  90. 宮口幸治

    宮口参考人 先ほどおっしゃっていただきましたように、私もあれを読ませていただきましたけれども、本当に現場の声というのがすごく欠けているなと思うところは、いじめを受けている、実際にそういう中学生から聞いた話なんですけれども、そんなの、とてもじゃないけれども言えない。言えませんよね。学校先生に言ったところで、何とかしてくれるなんか思っていません、子どもは。逆に、事が大きくなると、もう学校にその子自体がいられなくなりますよね。  それで、スクールカウンセラーに言ったらどうかと。そんなの、スクールカウンセラーに言ったら、もうそれだけですごくみんなの注目を浴びて、絶対に言えないと思いますね。  我々だってそうですよね。例えばパワハラとかを受けていて、言えますか。半ば、いろいろ考えた上で、悩んで悩んでやっと言えるかどうかというところでしょう。子どもなんかもっと弱い存在ですから、言えるはずはありません。  ですので、ではどうするかというところ、いじめの早期発見というところなんですけれども、一番いじめの情報を握っているのは子ども同士のネットワークなんですね。それはもう間違いないです。  それで、次にネットワークがあるのは、お母さんのネットワークなんですね。特に母親というのは、自分の子どもを守るために、自分の子どもはどんな子と仲がいいかとか、友達関係、物すごく詳しく知っています。  自分の子どもが言うんですね。あの子、いつも誰々ちゃんからお金を取られているよとか、それから、あの子のお母さん、いつも夜帰ってこないんだってとか、そういうことをぽろっと言うんですよ。そのとき、母親が、ふうんという感じで聞き逃しちゃうんじゃなくて、これって恐喝されているんじゃないかとか、ネグレクトに遭っているんじゃないかとか、素早くキャッチして、判断して、大変な問題だというのを、これで支援者に相談できるような、母親の教育というかトレーニングみたいな、そういうところがすごく必要かなと。  現場で一番力を持っている、ネットワーク力を持っている母親、子ども、母親のネットワーク力、それを重視していただければと思います。
  91. 藤崎育子

    藤崎参考人 宮本先生のとてもお優しいお気持ちというのが伝わってきまして、現場での指導では先生のお考えが非常に大事だと思います。  ただ、あえて私は、この法案に賛成いたします。  というのは、いじめを行っている子どもが、それをいじめだと意識していない、あるいは、始めたときにやめられない、その子を殺す、自殺に追い込むまでやめられないという現状、それからまた、親も自分の子どもを信じたいので、うちの子はいじめていないとなった場合に、子どもの中で反省した気持ちが生まれても、親にそう言われたときに、ああ、あれはいじめではなかったと、全ての子どもに対する教育機会が失われることになります。  いじめは大人の模倣だと私は思っています。学校の中で先生同士のいじめもありますし、それを見て子どもがまねしていく。やはり、そこに、校長先生が、柔軟でありながらも、決して許さないぞというような強い意思と覚悟を子どもたちに見せていく、また、このいじめという言葉を、どのようなものであるかということを子どもたちに教えていく、この解釈、それこそ今後の教育現場での課題だと思います。  ですから、この法案に賛成させていただきたいと思います。  以上です。
  92. 宮本岳志

    ○宮本委員 時間がオーバーしました。心から感謝いたします。  終わります。
  93. 松島みどり

    松島委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、参考人の皆様に申し上げます。  きょうは、本当に、それぞれ貴重な経験を積んだ皆様方からすばらしい御意見を伺うことができまして、ありがとうございました。委員会を代表して厚く御礼を申し上げます。  私も含め、委員一同、きょうお伺いしたことをこれからの政治活動にしっかりと生かしてまいりたいと思います。  ありがとうございました。  次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後零時二分散会