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参考人(
朝田英洋君) 私は、十二日の朝五時過ぎに十キロ圏外に逃げろと役場職員の方に言われました。そこで、私は、津島の活性化センターに行ってくれと町職員に言われましたので、六時ごろから、浪江小学校に
避難をしていた
方々に伝えまして、六時ころから移動できるように
皆さんと協力して空いている車に
皆さんを乗り合わせて移動をさせていました。全て移動を終わったのは大体八時ごろだと思います。
そこで、私は最後に残りまして、浪江町内を一周回りまして、まだ
避難している方がいないかどうか、こちらを
確認しながらマイクで呼びかけをしまして、四人くらい乗せて津島の活性化センターの方に向かい、十一時ごろ到着をいたしました。その間すごい渋滞でしたが、渋滞が我慢できずに国道をUターンをし、原町、今の現在の南相馬市の方に逃げていった人もいらっしゃいました。津島に着きましたらかなりの人が集まっておりまして、食料も何も余りない
状態でいたと思われます。
そして、十二日の二時ごろ、津島から原発の方向を見てみますと、原発自体は山で見えませんが、そこから水蒸気が雲のように上がっているのが見られました。そして、浪江の方に雲が流れているように見えました。そして、浪江上空の方で消えていくのも
確認をいたしております。それが定期的に何回も水蒸気のようなものが上がり、私の知人が十キロ圏内の事務所にまだいらっしゃいましたので、まずいと思いまして、ソフトバンクがつながりましたので電話をした記憶がございます。そして、危険ですので移動するようにと伝えました。そして、夕方になりまして浪江高校の分校の方で消防の仲間と何げなくテレビを見ていましたら、ベントのことをやっていましたので、それがベントだと思いました。
そして、私は十二日から消防の方で、
避難をして具合が悪くなった
人たちを診療所の方に搬送する仕事の手伝いをしておりました。まさか原発が爆発するなどとは思っていませんでしたので、私も含め、あそこにいた
方々、誰も逃げようとは思わなかったと思います。そのときに
避難指示、
避難誘導があれば大変良かったのかなと今思っているところであります。
そして十三日になりますと、警察は
防護服、マスク、ゴーグル、そのように完全防備をした
状態で津島にいました。しかし、私
たちはそのようなマスク等の指示もありませんでしたので、津島は安全だと思い込んでおりました。そして夕方、私の母とやっと電話で連絡が付き、母は
避難している
場所が一番安全だから
皆さんと一緒にいるようにと言っておりました。私が思うに、安全ではないところに町は
避難をしないと、私は母がそう思っていたと思います。そして、夜になると、浪江の高校の先生だと思いますが、メルトダウンの話をしていました。私もメルトダウンという話、メルトダウンというのは余り聞いたときなかったのですが、そこで話をし、どういうものかを知りました。そして、先生はもう終わりだと言っていました。そして、夜になりますとかなり寒い、冷え込んできましたので、各
避難所にストーブが置いてありまして、灯油がなくなると思いましたので、灯油を入れに行きました。
皆さん疲れ切っていましたが、余り眠れないような感じでいらっしゃいました。
そして十四日になりまして、朝になりますと少しずつ
避難所を出ていく方が見られました。妻の友達も、当てはないがここにいたら危ないのではないかと言い、出ていきました。妻も、私
たちも出ていきたいと、そのときに私に言いました。しばらくすると、ラジオを聞いていましたら、爆発のニュースがラジオでありました。そこで、私、そして妻、子供も心配でしたので、ガソリンがなくなるところまで行くことにして、東京の方に走りました。そして矢吹町でガソリンがなくなりましたので、前日、千葉県の佐倉市に
避難していた私の父が矢吹町までガソリンを持ってきてくれました。そして、ガソリンが来る間に矢吹町の
避難所でスクリーニングをしてきてくれということで、白河までスクリーニング検査しに連れていってもらいました。検査したときに私は四千と言われ、取りあえず手を洗ってくれということで一度手を洗いましたら、その数字が、若干減ってはいますが、ちょっとまだ高いということで、あと二回ほど手を石けんで洗わされました。妻も娘も同様でありましたが、妻と娘は千八百と言われました。そのときに隣にいた、大熊から来た人がいたのですが、その方は八千と言われていました。娘は当時、小学校六年で十二歳です。私の子供は沃素剤をもらっておりません。そして、飲んでもいません。
夏休みが終わりまして、八月三十日になってようやく東海村でホールボディーカウンターで
内部被曝検査をしていただきました。結果は何も出ませんでした。五分の短い検査、そして遅過ぎる検査で、私は何も出ないともう始めから思っていましたが、そのような感じになりました。何で五分なのか私には理解はできませんでした。
先日、テレビでドイツのことをやっていましたが、三十分、四十分ぐらい掛けてホールボディーカウンターを、検査を受ける、そういったような感じのテレビだったので、何で日本は五分なのかな、本当にこの短い間で本当に正確に分かるのかなと私は思っております。
そして、まだ甲状腺の検査をしておりませんが、あさってに
福島の方で甲状腺検査をする予定です。そのときもやはり多分何もならないのではないかなと思いますが、十年後、二十年後というのがやはり私にとっては子供が心配で、そのことまでもう毎日のように心配、心配で、妻と一緒にそういうことを話しているところでございます。
以上です。