○馳
委員 速やかにということでありますし、きのう伺いましたら、相馬市の方は四月十八日から
学校を一応再開するということでありました。それまでには、めど、目安、そしてその
情報に接することのできる体制、このことをやはりお願いしたいと思います。
では、まず最初に訪問しました福島市南体育館で伺った声をお伝えしたいと思います。
中学生が三人おりまして、伺いまして、原町第一
中学校から
避難をしてきた。三月十一日以降は
学校に通っていない。先生方は勤務しておられるようだが、
生徒はもう
ばらばらになってしまっている。では、あなたはどうするのと伺いましたら、私はあしたから、つまりきょうからですね、松陵
中学校というところに行きます。どうしてと聞いたら、
教育委員会の指定で、小高区と浪江町の
生徒はそこに行くことになっているんですということでありましたから、なるほど、先生方も自分の担任の
生徒の実情を把握して、そして通うべき
学校の指定ということについて、
教育委員会が協力をしながらやっているんだなということがよくわかりました。
部活は何かやっているのと聞いたら、バドミントン部をやっていると。新しい
学校へ行ってもバドミントン部に入るのと聞いたら、三人いたうちの二人が実は松陵
中学校のバドミントン部の
生徒で、
一緒にやります、私たちで支えていきます、こういうことでありました。
そうしたら、その原町第一
中学校から
避難してきた女子
生徒は、一言私にこう言いました。私は福島南体育館に、それから松陵
中学校にいつまでいればいいんですかと私も問われまして、答えに困りました。恐らく、ほとんどの
避難をされている家族も
子供たちもそういう思いなのであろうかな。そのめどをつけてあげることが政治の役割なのかなと思いました。
同じくその
避難所で、ある御家族からこういう話を伺いました。浪江町から
避難をしてこられているそうで、一番困っていることはというのは、こういう答えでした。
情報不足です。どういうことですかと聞くと、いろいろ問い合わせたんだけれども、浪江町のホームページを見てくれと言われたと。私たちは着のみ着のまま出てきているのでパソコンなんか持っていない、
避難場所にも数台しかないと。
そこで、高齢者も多く、インターネットなんか使える高齢者もいないということで、切実な要望として、毎日、ある一定の時間でいいから、浪江町からホームページをファクスして、それを壁新聞でいいから張り出してほしい。そういう
情報に接するだけで安心をする。ここ南体育館に逃げてきた我々は、やはりまず一番欲しいのは
情報だ。ホームページとかそれは無理だということでのおっしゃり方でありました。一応このことはお伝えしておきたいと思います。
それから、細かい話ですが、何度も浪江町の役場に電話するんだけれども、電話窓口の
対応が若い職員ばかりで、あちらへこちらへと電話を回されて五分間もナシのつぶてで、わかりませんでしたということが繰り返されているんだそうです。そういうことにもぶち切れているというふうな
お話でありました。
やはり、電話窓口の
対応にしても、せめて朝ミーティングをして、こういうことはこういうこと、こういうことはこういうこと、だれにつなげばいいかということの把握をした上で、窓口
対応の若い人でもいいから、そういう線がつながるような方法で
情報を出してほしいし、とりわけ、私がお伺いしたのは若い二十代の兄弟とお母さんでしたが、この
小学校には高齢者も障害者もいるんですと、その
方々にわかりやすく伝えてあげなければいけないので、
情報の出し方を工夫してほしいということでありました。
二カ所目に参りましたのが相馬市の八幡
小学校であります。ここでお伺いしたら、相馬市は四月十八日から
学校を再開するということでありまして、区域外就学、つまり、住所を変えないで区域外に就学をするということで、ここは、南相馬市と相馬市で
教育委員会の方で話し合いをしているということでありましたが、校長先生と教頭先生から
お話を伺いました。
こちらでもやはり一言でした。今から申し上げることです。県教委は何をしてくれるんだ。県教委ですら判断できないことが日々起こっている。そこで、決定権を下せる人が現場にいないと始まらない。指揮官が現場に来ないと始まらない。何も決定できない。あれもこれもと、アイデアとかこうしてほしいという要望が来るんだけれども、決定を下せる人が現場に来ないと何も始まらないということでありました。
したがって、これは福島県教委の方に
文科省からも立場のある方が行っておられるとは思いますが、決断を下せる人を待っていると。自分の責任、能力では
対応できない、この一言は私も重く受けとめました。県教委の調整がうまく機能できるような体制を整えてやる必要があるなということであります。
こちらでも、相馬市の八幡
小学校でありますが、やはり続々と、当初二百八十名いた
避難民が今は七十名です、続々とやはり南相馬の方にお帰りのようでありました。そして
学校の方も、最初は体育館で炊き出しをしていたり家庭科の教室で自炊をしていたりというふうなことがありましたが、これをできるだけ分散をし、御家庭に帰る人はやはり帰り始めているということでありました。
ここで南相馬から小学生、中学生合わせて六百名、小学生が四百名、中学生が二百名、これを
受け入れることになっているそうではありますが、それはきのう時点で把握している数字であって、そのほかからも続々と南相馬に帰っている人もいるし、あきらめて、
子供だけでも相馬の方に置いておくという人もいるそうです。
したがって、いつまでこういう生活をしなければいけないのかという不安、そのことを考えると、やはり最初の
質問に戻りますけれども、放射線の
被害、基準、三十キロから二十キロ、こういったところに対する最後は責任を持った判断をして指示をしていただきたいと校長や教頭がおっしゃっておられました。
ちなみに、ここの八幡
小学校の校長先生は、自宅が流されて、親と娘さんが遺体で見つかったと。洗濯機の中に泥水と木と人間を入れてかき回したような遺体の損傷の度合いで、これ以上私も申し上げることができないような悲惨な
状況でありますが、ただ、校長も、
避難場所である八幡
小学校の運営、市の
教育委員会との連絡、それから南相馬市の方との連絡、
保護者との連絡に追われて、ほとんど家には帰ることができない
状況でありまして、正直、私はこの校長先生が参ってしまうんじゃないかなというふうに、はっきり言って思いました。
人事はどうなんですかとお伺いしたら、四月一日の人事は八月一日に延期をされたということでありましたから、一応、
被災した
状況の
学校体制というものは、担任も含めて人事の方は八月一日まで維持されているということで、当面の人間関係については大丈夫なんだろうとは思いますが、これはやはり、先生方に対するメンタル
ケアも必要だというふうに思われました。
次に、相馬市役所に参りまして市長からヒアリングをいたしまして、
教育に関してはこの一点であります。
磯部地区の
学校には行きたいんだけれども、そこで生活はしたくないという
子供たちがほとんどだ。したがって、
避難所からスクールバスで通って
学校で勉強したい。
学校は磯部地区の
学校に行きたい、しかし、そこでもう住みたくない。それは、津波の悲惨な光景が
子供たちに刷り込まれていて、いわゆるPTSD、夜中にも非常に眠れない、あるいは震えが来てという典型的なPTSDの
状況であります。したがって、スクールバスの活用とか、あと給食の手当て、このことがまず必要なのではないかなと。
これ、できる限り現場で一生懸命やりますけれども、まず、
子供たちが
学校を再開したときの県や国の
支援をお願いしたいということでありました。
ちなみに、この相馬市の市長さんは、籠城作戦ということを既に表明しておられますね。いわゆる国の命令がない限り、自主
避難というだけでは絶対に相馬市を出ない。やはり市長としての判断だと思います。つまり、自主
避難というだけでは、屋内退避という勧告だけでは絶対に相馬市は出ない、この中にとどまって籠城してでも頑張るんだ、こういうふうなおっしゃり方をしておられました。
その後、四カ所目が新地町役場に行ってまいりました。ここには、岡山の方から、日本原駐屯地から自衛隊の皆さんが来て役場の四階で作業をしておられて、激励をしてまいりました。
ピロティーがあって、その四階から海の方を見渡すことができまして、一面瓦れきでありまして、町長さんと、あと議会の皆さん方とも
お話をしたんですが、まずはこの瓦れきをどこに置くのかと。今は一時管理ということで置いてあるんだけれども、今後これを分別をして処理をしなきゃいけない。そのための重機、作業、専門的な人材、そしてそれを手当てする
予算、こういったものについては、すぐにやはり指示を出してほしいという町長さんの声であったということをお伝えしておきます。
その後、役場の近くにあります新地
小学校に参りまして、私の車に積んであった
支援物資を置いてまいりました。
その後、一路南下して南相馬市の鹿島区、これは合併したんでしょうね、鹿島区の役場に参りまして、消防団の皆さん方がここを拠点に遺体の捜索活動をしておられて、ほとんど三週間自宅に帰っていない、また家も流されているという
方々がほとんどでしたので、野菜など救援物資をおろしてまいりました。野菜を見て、ダイヤモンドよりもありがたいという言葉をいただき、本当にすさまじい
状況であるなということを改めて私も実感をいたしました。
そして、最後に南相馬の市役所に参りまして、市長さんと
お話をさせていただきました。
何度でもこれは申し上げますけれども、二十キロから三十キロの屋内退避
地域の国の判断をとにかく求めている。今現在は、一たん
避難した市民が本当に南相馬市に戻ってきている
状況である。どう市政を運営していくかということを考えると、やはり国の方向づけを早く出してほしいということでありました。同時に、やはり原発
政策に対して今後の国の方針を出してほしいと強くこれは申しておられました。
以上、七カ所で訪問をして
お話を伺ってきたことをちょっと一方的ではありますが申し上げましたが、
大臣ないしは関係の当局でもし答えていただける部分がありましたら、ちょっとお答えをいただきたいなと思いますので、よろしくお願いいたします。