○竹田
委員 おはようございます。
最初に、
質問の機会をいただきまして、本当に御礼申し上げます。
厚生労働委員会で初めての
質問をさせていただきます。(発言する者あり)ありがとうございます。
冒頭、
被災された
方々に心からお見舞い申し上げます。
私の信条は、命に格差なし。命には格差があってはいけない、このことを信条にしております。私のポスターにも名刺にも、赤く大きな字で書いております。
どうしてかと申し上げますと、私の次女が約二十年前に、九百グラムの超未熟児で生まれました。立川の病院で生まれて、その病院では処置ができない。小児病院の先生に来ていただこうと、ドクターカーで来ていただいて、夜中の二時ごろに、九百グラムですから、一キロのお塩より小さい、本当に小さい
子供を見て、その専門の先生と救急車に乗って病院を移るときに、お世話になった立川の病院の先生と看護婦さんが真っ暗な中来てくれて、赤ちゃん、生きて帰ってこいよと、名前がないので、赤ちゃん、生きろよと、こう叫んでいただいて、その中で泣きながら救急車に乗って小児病院に移っていった。そのことが今でも思い出されます。
八王子の小児病院に行きまして、六カ月間入院いたしました。その間、NICUに入っていましたが、どんどん隣の
子供たちが死んでいく、きのういた子がいなくなる、そういう
状況を毎日見ておりました。
六カ月が
たち、病院の方から、お父さん、大変だから、一生この子を療養病院で預かってもらったらいかがですかという言われ方をしました。でも、どうしてもうちに連れて帰りたくて、何とかうちに連れて帰りたい、そのことを申し上げてうちに連れて帰っ
たんですが、やはり、三日いれば一週間入院するとか、入退院を繰り返してしまいます。
そのとき病院の先生に、これはどうしたらいいんでしょうかと改めて御
相談したら、目と肺に障害があるから、酸素をコントロールして
医師がずっと診ていれば、この子は生きる可能性があるかもしれないと言われたので、では、ぜひ入院させていただいて、この子の健康管理をしてほしい、そう申し上げましたら、予防のための入院はだめなんだ、この子の生命力があれば生きるかもしれないけれ
ども、現状はだめですと言われました。
本当に絶望的になっ
たんですが、そのときに思ったのは、では、自分のうちに病室をつくればいいんじゃないかと
考えまして、酸素の設備をつくって、NICUと小児科の看護婦さんを探してきていただいて、自分のうちを病室にしました。僕、まだ三十代で、非常にお金のないときだっ
たんですが、今月生き延びた、今月も生き延びたと、本当にお金に苦労しながら三年間やってまいりましたら、何とか普通の子みたいな
生活ができるようになり、普通の一般の幼稚園に入園することができました。
入園したときに本当にうれしくて涙が出
たんですが、そのとき思ったのが、一緒に病室にいた
子供たち、どんどん亡くなっていった
子供たち、また、三年間毎週のように病院へ行きますと、最初はお父さん、お母さんで来られたのが、途中からお父さんが逃げてしまってお母さんだけで来られたとか、家庭崩壊をしていく、そんな実情を見ていて、そういうお父さん、お母さんの顔を思い出すと、うれしい反面、複雑な思いがいたしました。
そのことから
医療に関心を持つようになり、十五年前から地元の
医療法人の、二百六十五床の総合病院と百十五床の老健を経営する法人の役員を務め、
医療にかかわってまいりました。
医療の方にお世話になったから恩返しをしたいという思いで経営にかかわっていますので、十五年間、一円たりともいただかず、無報酬で働かせていただいております。
その役員会で感じるのが、何でお年寄りをいじめるんだろうと。十五年間感じたのが、この国はお年寄りに冷たいんじゃないか、高齢者は功労者なのに、どうしてこんなに冷たいんだろうと思って、もっと
子供にもお年寄りにも優しい政治にしてほしい、そういう思いから政治を目指すきっかけになりました。
長くなりましたが、それでは、
介護サービスの
基盤強化のための保険法を改正する
法律案についてお聞きさせていただきます。
まず実感いたしますのは、たび重なる
制度の変更です。
介護保険
制度は
平成十二年四月にスタートしましたが、この十一年間、二百二十七回、課長通達以上の
制度変更が行われています。たび重なる
制度変更は、意味があってなされていると思いますが、
現場にとりますと大きな
負担にもなっております。やはり、
現場の方も働きやすい、また
介護を受ける老人にもわかりやすい、そういう
制度が必要だと思いますが、二百二十七回も
制度が変わっている、そのことについてどう思われるか、お聞かせいただきたいと思います。