○山内
徳信君 私は、各
委員の皆さん方の質問を聞いていて、それに対する答弁はむなしく思いました。
そして、最近どうも
外務大臣の表情は変わってきておると、明るくなっておるんです。一体何だろうと私
考えたんです。そうしましたら、やっと
沖縄の方に押し付けることができる道筋を示すことができたと、そういう心理状態にいらっしゃるから笑顔が表れておるんだろうと、こう思っております。
一方、
沖縄担当の前原
大臣は、最近は深刻な表情をしていらっしゃるんです。それは一体何だろうと
考えましたら、閣僚で話合いがあっても、回り回って
沖縄に向かうときは、担当
大臣として割って中に入って、これは道が違うじゃないかとおっしゃってくださいよと、こういうふうに申し上げておいたんです。ところが、五名そろって十日午前十一時から
沖縄への方向付けをしていらっしゃるわけです。それに対して各
委員からは厳しい指摘がありました。
そういうふうな
大臣の気持ちを私は読み取っておるんですが、私はここで、通告にもしてございませんが、
沖縄に
総理大臣がやってくるときは必ず災いが起こるんです。いや、立派なお仕事をされた、やはり銅像の建つ
大臣もいらっしゃるんです。
私の記憶によると、昭和十八年ごろ、太平洋戦争始まった後ですね、東条英機がやってまいりまして、あの当時、そして師範の先輩
たち、当時の中学校生、あるいは那覇、首里の市民も動員を掛けて歓迎体制を組まされたわけです。そこに東条英機は、この太平洋戦争を勝ち抜くために、戦意高揚の
立場から大演説をされておるんです。
私は、そういうことを知っておる世代の一人として、この間、私が尊敬してまいりました
鳩山総理が
沖縄に来られて、
県知事、
県議会議長、そして伊波市長、稲嶺名護市長等々と話合いをして、それは窓越しに怒号が飛び交っておるんです。私は、そういうところにやはり
総理を追い込んだのは、
総理自ら先頭に立たなければいかぬという思いにやはりさせたのは、周囲の支えが、周囲の思いが足らなかったと思っていますよ。
その責任は、ここにいらっしゃるお二人にもあります。残りのお二人にもありますが、やはり
総理がおっしゃっていたのは、やはり
国外、最低でも
県外ということを昨年の七月の十九日におっしゃっておるわけですよ。それを、それは公約ではないという言葉をまた使って、そして五月四日、各場所に行かれて、
総理が、
沖縄にもまた
負担をお願いしなければいかないような
状況にもうなりますと、こういうふうに言わせたのは
外務大臣ですよ。あなたが以前から、私の
考えには外に出す、そういう気持ちはないと記者会見でおっしゃっていたんです。そういう反省をしてもらわぬといかぬのです。
それで、私は、明日もありますから、引き続き明日は
外務、防衛
大臣に質問いたしますが、今日は少し、ここら辺を知っていらっしゃらないから、今の若い
大臣たちはやはり何でも
沖縄に押し付ければ通ると思っておるからああいうことをやるんです。
そこで質問に入ります。
一九四一年、太平洋戦争が始まりましたが、
日本軍は戦争を勝ち抜くために、多くの戦争のための飛行場、
基地を
沖縄本島、伊江島、宮古、八重山等々にいっぱい造りました。そして、そういう旧軍が造った飛行場の処理がほとんどいいかげんであります。旧地主は泣いておりますよ。
そこで質問。
沖縄県内に旧
日本軍が造った飛行場の件数とその名称をおっしゃってください。解説は要りませんから、件数と名称だけ。