○
参考人(
本田由紀君)
本田と申します。よろしく
お願いします。
今日は、私の考えを
お話しする
機会を設けてくださいまして大変有り難いと思っております。
私も最初に簡単に
自己紹介をいたしますと、私は教育
社会学という学問を
専門にしております。これは教育という
社会現象に対して
社会学的にアプローチするという学問なのですけれども、私は、教育
社会学の幅広い研究対象の中でも、教育というシステムの出口としての若者の
仕事の
現実に関する
調査研究を長年行ってまいりました。また一方で、教育の入口としての
家族における教育に対する
意識や行動についてもやはり
調査研究を進めてまいりました。
今日は、戦後
日本社会のそもそもの成り立ちの特徴であるとか、その果てに今、
日本社会がどういう状況に立ち至っているか、その中で将来を確保していくためにはいかにそれを立て直していくことが必要であるかについて、かなり長期的で、かつマクロな私の見立てについて
お話をしてまいりたいと思います。お手元にパワーポイントをカラーで打ち出しました資料をお配りしてくださっているかと思いますので、そちらに依拠しながら
お話ししてまいります。
まず最初に、三枚の人口構成の、年齢別人口構成の図をお示ししてあります。これは右上、左下、右下というふうに順に、一九七〇年、二〇〇五年及び二〇四〇年の推計ということで、三十五年間の間を隔てつつ
日本社会の性別、年齢別の人口構成がどのように変化してきたか、していくかということをお示ししたものです。
こうして図にすると大変視覚的に分かりやすいと思うのですけれども、一九七〇年、高度
経済成長華やかなりしころの
日本社会というのは、二十代前半、団塊
世代を中心としてそこにピークがあり、大変若い人の多い、その意味で活力の大変ある
社会であったというふうに見ることができると思いますけれども、それが二〇〇五年になりますと、その団塊
世代はもう中高年に加齢し、団塊ジュニア
世代が既に三十代半ばに達しかけていまして、その二つの人口規模の大きい
世代に牽引される形でかなり壮年層で厚くなっております。しかし、この二〇〇五年の図を見ていただいてもお分かりのとおり、既にその若年人口の減少は明らかに生じており、少子高齢化がもう着実に進行しつつあることが分かります。
しかし、さらに二〇四〇年時点の推計を見ますと、もうこちらは七十歳に人口のピークが来て、その後ずっと若年人口が減っていくような、植木鉢型と書いてありますけれども、非常に若い年齢層が少なく、それで高齢者を支えなければならないという時期がもう早晩来るということはほぼ明らかであるというような状況にあります。
おめくりいただきまして、五枚目のパワーポイントのシートに入りますけれども、こちらの
調査会における
先ほど仮説一ということで、これから
人口減少社会において
幸福度はむしろ高まるのではないかという
仮説が提示されていらっしゃいましたけれども、私は、なかなかそれに対してそううまくはいかないというか、かなり悲観的な見方、むしろ幸福どころか、この
社会の継続
可能性、存続
可能性そのものが今危機にさらされているというようなかなり深刻な見方をしております。
パワーポイントにありますように、
先ほどの三枚の図にありましたように、人口が単に減少していくというだけではなくて、そこに至るまでに少子高齢化
社会、つまり少ない若年・壮年人口で高齢者を支えるという
社会を必ず経由をしなければならないわけです。そのときに、若年、壮年がそれを支え切れるだけの活力を持ち得るのかということ、そしてまた少子高齢化
社会を経由して
人口減少社会、全体としては人口が少ない
社会に入ったとしても、そういう少ない人口で
社会をもたせていくというか、回していくだけの活力というものが十分に引き出せるような
社会構造、
社会体制になっているかということから、今の
日本社会がそういう条件を備えているかというふうに振り返ってみますと、大変危ういと。
どうして危ういと考えるかということをこれから御説明するわけですけれども、それに関して、私は現代の
日本社会というものが、
先ほど見ましたように、ピラミッド型の非常に若年に広がるような三角形の人口構成期に成立した、私が戦後
日本型循環モデルと呼びますものが今破綻を迎えていると。そのモデルをかなり人為的につくり直さない限り上の
課題、つまり少子高齢化
社会あるいは
人口減少社会における
人々の活力を引き出すということは困難であると。更に言えば、
先ほどもちょっと申しましたけれども、幸福以前にこの
社会の存続そのものが今大変危機的な状況にあるというふうに私は考えております。
その
理由というか、その見方をこれから御説明したいと思いますけれども、パワーポイントのシートの六枚目、七枚目、八枚目に掲載してあります図は、今日の
参考人関連資料というところで皆様にお配りしていただいている、私の「毀れた循環」という最近書きました論文に使いました図です。この三枚ともそうです。ですので、今日大変時間も限られておりまして口頭による説明も不十分なものになるかと思いますが、もし詳しく私のお考えに関心を持っていただけました場合にはそちらの短い論考にお目通しいただければ幸いです。
順にこの図について簡単に御説明していきたいと思いますけれども、六枚目のシートに示してあります「戦後
日本社会の変化と二つの
世代」と書きました図は、幾つかの
社会指標を取り上げて、一九六五年、高度
経済成長期から現在に至るまでその推移を示したものです。ここでは、戦後
日本社会をオイルショックを迎える以前の
理想の時代、
理想が追求されていた時代と、そのオイルショックからバブルが崩壊するまでの非常に消費
社会化が進み、あるいは情報
社会化が進んできた、ある
社会学者はそれを虚構の時代というふうに呼んでいるんですけれども、それを私も採用させていただいて、そういう虚構の時代と、もう
一つ、バブル
経済の崩壊後現在に至る不
可能性の時代というふうな三つの時期区分に分けて、三つの時期に分けて示してあります。
様々な
社会指標の推移を示しますと、確かにオイルショックの前後、つまり
理想の時代と虚構の時代の間にも幾つかの指標に屈折が見られます。しかし、虚構の時代と不
可能性の時代、つまりオイルショックの前と後で
日本社会には幾つかの点で大変ドラスティックな変化が起きているということがこの簡単なグラフからも視覚的に読み取っていただけると思います。例えば、
生活保護世帯数であるとか、完全失業者数であるとか、あるいは貯蓄非保有世帯であるとか、そういうもう
生活基盤そのものが九〇年代以降に至って成り立ちにくくなっているということがこのグラフからもお分かりいただけると思います。
このグラフに、
日本社会において大変人口規模の大きい二つの
世代、つまり団塊
世代と団塊ジュニア
世代の
ライフコースを書き込んだものがその下に伸びている二つの青い矢印です。団塊
世代は、第二次世界大戦が終わりまして五〇年ぐらいまでに生まれた
方々ですけれども、仮に四七年生まれというふうに想定しますと、団塊
世代は高度
経済成長がまだ華やかなりし
理想の時代に高校や大学などを卒業して労働市場に出られていると。オイルショックを迎えましたけれども、
日本社会がジャパン・アズ・ナンバーワンと言われて、安定成長、低成長下でも
日本独特の企業経営によりかなり無理を抱えながらオイルショック後の状況を乗り切った時期に、彼らがちょうどそれを担うような三十代、四十代という壮年期にあったということが分かります。
その団塊
世代は、
日本社会の様々な難しさが、困難があらわになってきた不
可能性の時代に入りかけてきたころにはもう五十代、六十代を迎えていて、今はもう労働市場から去っていこうとされている、そういう
ライフコースを生きた方であると、
日本社会の盛衰の真っただ中を生きた方であるというふうに言えると思います。
それに対して団塊ジュニア
世代というのは、七〇年代前半に生まれた
方々ですけれども、彼らはちょうどバブル
経済崩壊の前後に学校を出まして、長期不況下、ロストジェネレーションと呼ばれる時期にちょうど労働市場における人生を歩み始めている。つまり、彼らが今目の当たりにしている世の中というのは、ほぼ
社会人となってからはずっと不
可能性の時代の中で彼らは生きているわけです。当然言うまでもなく、この団塊ジュニアよりも後の若い
世代というのは、もう既に
社会が
理想の時代であったころ、虚構の時代であったころのことを知らない、もう
生活基盤が崩れ始めている不
可能性の時代の中をずっと生きている
人たちであるということがこの二つの矢印からも分かっていただけると思います。
つまり、今、
日本社会の中には、
世代によって見ている
社会、生きてきた
社会において大きな
ギャップがある、その意味で
世代間の相互理解も成り立ちにくくなっているということがここから推測していただけると思います。
次に、七枚目、八枚目に示してありますシートが、私が戦後
日本型循環モデルと呼ぶところのもの及びそれが崩壊してきている状況について模式的に示したものです。
七枚目のシートが戦後
日本型循環モデルです。私は、この戦後
日本型循環モデルが
理想の時代において成立し、虚構の時代において既に内部から様々な問題があらわになっており、不
可能性の時代に立ち至ってもはや循環そのものが成り立たなくなっているというふうな図式で
日本社会、戦後
日本社会をとらえております。
この戦後
日本型循環モデルの特徴は、この図に表しておりますとおり、教育と
仕事と
家族という三つの
社会領域から次の
社会領域に向けて、アウトプットをどんどんと注ぎ込む大変太くかつ内部的に均質な矢印というものが突き出していたということ、この矢印によって教育、
仕事、
家族という三つの
社会領域が緊密に結び合わされていたということ、この間に循環というものが回っていたということが戦後
日本型モデルの大きな特徴です。ちなみに、今
お話ししていることは九枚目のシートに言葉でまとめてありますので、そちらと照らし合わせながら御覧いただければ幸いです。
具体的にこの矢印の中身は何かといいますと、
日本社会においては新規学卒一括採用という、ほかの国に、他の先進諸国に類を見ないような慣行が存在したことにより、学校を終えれば、つまり教育システムを終了すれば、次に
仕事の世界に大変順調にスムーズに入っていけるという前提が幅広く成り立っていました。三月に卒業式に出て、四月の一日に入社式に出て、もうぱっと学生、生徒であった時期からほとんどは正社員になっていけるというような前提というものがあったわけです。
一方で、
仕事の世界から
家族に流れ込むこの太く均質な矢印というのは、具体的には長期安定雇用と年功賃金です。正社員という働き方が提供する長期安定雇用と年功賃金に支えられて
日本の
人々というものは
家族をつくり、ちょうどその
子供にお金が掛かるような時期に最も年功賃金が高くなるような、そういう賃金カーブの中で働き、その賃金を
家族に持ち帰ることができていました。一方、
家族は、その父、主に父が持ち帰ってくるような賃金を母が、まあ教育ママと時には呼ばれながらも、その賃金と意欲を、大変強い
母親としての教育意欲を次
世代である
子供の教育にどんどんと注ぎ込むことによってその教育を成り立たせるというような、後ろから支えるような役割を担ってきたわけです。
この循環は大変一見効率的に見えるわけです。かつ、このような大変太く均質的な矢印が
日本社会のメンバー、
日本国民を広く覆うような形で成り立っていたがゆえに、この循環の中で
日本国民は、だれもがそれなりに良くなっていけるあしたというものがあるだろうというふうなイメージをずっと抱くことができていました。また、標準的な
ライフコース、標準的な人生、何とか学校を終えれば正社員になって、
家族をつくって、
子供をちゃんと育ててというような、そういう共有されたイメージというものを持つことができていたわけです。それがバブルの崩壊する以前の話なのですけれども。
よく総中流
社会ということが一時期はやり言葉になったりもしましたけれども、その総中流
社会という言葉で形容されるような
日本というのは、だれもが良くなっていく、標準的な人生というものがみんなの間に共有されているような、そういうある種幻想と言ってよかったかもしれませんけれども、そういうものの中で
人々が生きていることができた時代であったというふうに見ることができると思います。
しかし、このように、教育と
仕事と
家族という三つの
社会領域から、次へ、次へ、次へというふうに矢印が突き出しているようなそういう循環構造は、成立した直後の七〇年代後半から八〇年代にかけて既にその問題状況が様々な面で明らかになっていました。といいますのも、この矢印が矢印の付け根にある
社会領域を支配するような、それによってその領域が空洞化するような事態が起きていたというふうに私は見ています。
例えば、教育の世界では、いい成績を取っていい大学に入りいい会社に入るために勉強するのであって、学ぶことそのものの意味であるとかいうことはもう置き去りにされたまま、それでも教育システムが何とか作動するような、そういう事態があったと。
また、
仕事の世界では、
家族に賃金を持ち帰るためにはもう会社に言われたことはすべて受け入れて働くと。どこに転勤を命じられてもすべて受け入れるというような、会社人間と言われるような、そういう労働者像というものが幅広く成り立ってきたと。
家族は、
子供に余りにも教育熱心であるがゆえに、むしろその
子供の感情や
希望を踏みにじるようなことも幅広い
家族で起きてきましたし、父は
仕事に専念している、
子供は教育に専念している中で、父、母、子の間にプライベートな親密性というものが成り立ちにくいような、そういう空洞化した状況の中で
日本の
家族というものはこれまで来た面があるというふうに私は思っております。
また、もう
一つの問題は、このように教育と
仕事と
家族に互いに次へ、次へ、次へとアウトプットを注ぎ込む
関係を駆動していたエンジンというのが、すべて
自分と
自分の
家族さえ良ければというようなエゴイズムがエンジンであったということにおいても大変問題が大きかったというふうに思っております。一戸建てが欲しいとか、うちの自動車をワンランク上げたいとか、うちの子にはパパよりもちょっとでも偉くなってもらいたいというように、
自分と
自分の
家族、
自分の
子供だけが一歩でも今よりも良くなっていけばいいというような、そういうエゴイズムがこの循環を駆動していたことによって、
社会には様々な荒廃も既に起きていたというふうに見ております。
しかし、このような荒廃が、九〇年代に入るや、そのように非常に内部において問題を抱えていたような循環そのものがもう九〇年代において成立しなくなった。そういう状況を八枚目のシートに書き表してあります。
その一番大きな発端というのは
仕事の世界の変化です。この図にも表してありますように、九〇年代において
日本社会に生じた最大の変化は、
仕事の世界、雇用の世界の変化です。それまでにはかなり働く人の
大半を覆っていた、少なくとも学生ではないような
男性の
大半を覆っていた正社員という働き方は、九〇年代に入ってぐっと細りました。特に、正社員の中にも、従来どおりの言わば中核的正社員と呼んでいいような長期安定雇用や年功賃金を手にできているような層は正社員の中でも更にぐっと細まり、言わば名ばかり正社員と呼んでいいような、
サービス残業をさせるためだけに雇っているような、そういう周辺的正社員の比重がもはや正社員の中でも半数に及びつつあるというような
調査結果があります。
正社員の中にもこのような層別の多様性が現れてきているわけですけれども、その周囲に更に幅広く非正社員という存在が現れてきています。
日本社会にも従来から非正社員が存在しなかったわけではありませんけれども、その主な担い手は学生アルバイトと
主婦パートでした。つまり、家計の担い手というのはちゃんと別に存在していながら家計補助的に働く
人々がその非正社員に流れ込んでいたわけですけれども、今はそうではなくて、自ら生計を立てていかなければならないような
人たちまでもが非正社員という立場に甘んじざるを得なくなっているというような状況が生じています。
このように
仕事の世界が変貌を遂げたとすれば、その
仕事の世界に流れ込んでいく矢印、あるいは流れ出していく矢印が影響を受けないわけはありません。
つまり、具体的に言いますと、学校教育を終えたからといっても安定した
仕事に就けないような
人々というものが今非常に大きく幅広く存在するようになっております。あるいは、
仕事に就けたとしても
家族に十分な賃金を持ち帰れないような、そういう
人々が非常に増えてきております。あるいはもう
家族をつくることすらできないような、そういう若年層というものも大変増えてきております。
晩婚化であるとか非婚化の進行というのは大変著しいものがありますけれども、その背景には、例えば賃金が少な過ぎたりあるいは雇用が不安定過ぎたりするがために
家族がつくれないようなケースもありますし、あるいは、たまさか正社員になってみれば、もう驚くほどの過重労働、長時間労働のゆえにまた別の意味で
家族がつくれないような、そういう
人々も非常に増えてきているわけです。
それによって、たまさか
家族がつくれたとしても持ち帰れる賃金に大きな差がありますから、当然ながら、次
世代である
子供の教育に注ぎ込める
家族の資源というものも、
家族の間に大変大きな差が付いてきています。
それだけではなくて、このような教育や
仕事や
家族という
社会領域に包摂されることがもはやできなくなって、もう個人としてさまよい始めているような、そういう層も大変広範に現れています。この年末年始の派遣村、年越し派遣村の存在は大変
社会に強いインパクトを与えましたけれども、あそこに寄り集ってきた
人たちのように、もうどこにも頼るものがなくなって、あ
あいう派遣村しか頼るところがなく集まってきたような人もいるわけです。
この八枚目のシートでは黒い点々で表してきていますけれども、このような循環からこぼれ落ち始めてきている
人たちというのが広く現れてきている。この循環構造そのものが破綻しているだけでなく、この三つの
社会領域及び矢印の外側は今真空のような状態にあります。
確かに、幾分かの
社会保障、
社会福祉政策がないとは言いませんけれども、これはやはり他の先進諸国に比べて大変手薄いものです。そこに
政府という丸が左上の方にありまして、その役割を書いてありますけれども、
日本の
政府というものは、この循環構造が回っているころには主に産業政策によって
仕事の世界の成立を支えていれば後は循環が勝手に回っていてくれるような、そういう状況というものがありました。
ところが、今循環が破綻しつつある中で、小さな
政府が叫ばれ、
政府はもっと財政の支出を細らせようと、少なくとも一時期はしていたころがありました。昨秋以来の
経済危機の中で、やはり財政出動が必要だというようなそういうベクトルの変化もありますけれども、これまでは少なくとも、民間活力をむしろ生かすべきであって
政府の支出は抑えるべきであるというような、そういう議論の方がまかり通ってきた時期というものがあったというふうに思います。
今九枚目のシートにまとめてあるようなことをずっと
お話ししてきたわけですけれども、今の循環構造とその崩壊が主に若年層にもたらしている二つの不幸というもの、幸福どころか二つの大きな不幸について、十枚目のシートにはまとめてあります。
この二つの不幸といいますのは、
一つは物質面での不幸です。つまり、もう
生活が成り立たないという面での不幸であると。もう
一つは精神的な面での不幸であると。この二つの面で、若年層に限定されないという見方もできますけれども、特に若年層においてこの二つの不幸が甚だしい形で現れていると。
物質面での不幸といいますのは、
先ほども申しましたように、
仕事で得られる賃金の少なさであるとか雇用の不安定性、あるいは極めて過酷な長時間の過重労働により、既に
生活であるとかあるいは心身の健康の維持すら成り立たないような層が大変幅広く現れていると。正社員であれ非正社員であれ、こうした働き方というのは、個々人が持てる活力を伸ばすというよりも、もうむしろすり減らしていくような、どんどん吸い取って彼らを使い捨てて掃き出していくような、そういう働き方というものが今広範に広がってきているわけです。
社会の中で格差が広がり、様々に分断された層というものができ上がる中で、なかなか増えにくくなっている豊かさ、富、地位というものに対する奪い合いも今始まろうとしています。それに対して、公的なセーフティーネットはこれまでのところ極めて手薄なままで来ていると。
また、こういう中で精神的な不幸というのも大変募ってきています。既にこの循環構造が崩壊する前から、教育、
仕事、
家族という三つの
社会領域の中での意味の空洞化、なぜこういう
社会領域があるのか、その中で
自分は何をしているのかということに関する意味の実感というものは空洞化していたわけですけれども、今その上に更にかぶさるように、物質面での不幸が精神面での不幸を追加しつつあると。
具体的に言いますと、かつてはある
程度リアリティーがあった、みんなが良くなっていけるあしたと標準的な人生という共有された
社会のイメージというものは、今やもう不可能になりつつあります。循環構造の崩壊後に個々人が直面している、それぞれに厳しさの中身は違っていても全員が全員厳しいというような状況の中に、一体なぜこのような状況に
社会が立ち至ったのかということに対する解釈図式が今不在なような現状にあると。
その中で、個々人がつらさというものを、時には自己責任として全部引き受けてしまったり、あるいは
あいつらのせいだというように何らかの他者にその責任を帰して攻撃に出たり、あるいはバッシングに出たり、あるいは大変悲惨な
事件という形で噴出したりもするわけです。自己責任化の方はなかなか目立ちませんけれども、今多くの若い
人たちが、
自分が大変なのは
自分のせいだというふうに、正社員から非正社員というふうに後退し、非正社員から今度は働かない状況へと後退し、もうこの世からも後退していくというような形で自ら生を奪うというような、自殺してしまうというような例というものは後を絶っていません。
このように、
社会の中で寸断された各層が現れている中で、
世代であるとかあるいはその層の間であるとかあるいは個人の間に互いに対する憎悪や軽蔑やあるいは無視のようなものが大変広くはびこっています。
私の
データ分析によりますと、この
社会の中で大変恵まれた立場にある人が、
社会の中のそういう苦しみであるとか格差というものの存在を否定し、むしろもっと過酷になっていっても構わないというような
意識を持ちがちであるということも
データ分析から出てきています。
つまり、恵まれた層というのは、例えば学歴であるとかあるいは収入であるとか、恵まれた層というのはもう恵まれた層の中でずっとこれまで生きてきており、今もそういう層しか目に入っていない、つらい
人々の存在というものの
現実が目に入っていないわけですね。そういう中で、いや、格差なんてないのである、
自分の周りにはつらそうな人など存在しない、もっと厳しい競争型の世の中にしていくべきだというような、そういう
意識を持ちがちであるということがはっきりと出てきています。このような
社会でいいのだろうかというふうに大変疑問に思っております。
では、今いかなる対処が必要なのかということを考えてみますと、要するに、戦後
日本型循環モデルというものは元々問題がありましたし、それが今崩壊を迎えている、だとすれば新しい形で循環を立て直していくしかないというふうに私は考えております。それに関する幾つかの提案を書いたのが十一枚目のシートです。
まずは、
仕事、
家族、教育というそれぞれの領域の中身そのものを立て直した上で、互いの
関係性というものも新しくつくり直していく必要がある。また新たに、これまでは手薄であった循環のその周りを埋める存在としてのセーフティーネットというものを手厚くしていく必要があるということを十一枚目のシートには書いてあります。
具体的に言いますと、
仕事の世界におきましては、ある
程度の安定性、ある
程度の収入、ある
程度の向上
機会、ある
程度の
生活との両立
可能性というものを兼ね備えた適正な働き方、ILOなどはディーセント
ワークという言葉を使いますけれども、そういう働き方を今広く回復していく必要がある。今現状として起こっているのは、安定性が欲しいのであれば何か重要なほかのものを手放す、
生活との両立が欲しいのであればもう収入であるとか向上
機会も手放すというように、このうちのいずれか
一つしか手に入らない、その代わりにほかのものは大きく手放さなくてはならないというような、そういう事態が発生していまして、どの層も大変いびつな働き方になっているということがこのパワーポイントの後半に、いろいろくっつけて今日まいりました
参考資料の中にはいろんな
データをお示ししてあります。そういう働き方になっているものを、もう一度新しい意味での標準的な働き方、適正さというものを回復させていく必要があると思います。また同時に、
自分が担っている
仕事領域、
専門的な
仕事分野そのものに対する誇りであるとか知識やスキルというものも回復していく必要があるというふうに私は考えております。
家族については、これまで
家族というのは父親が持ち帰ってくる賃金を次
世代に流し込む媒介としての位置付けを非常に色濃く与えられてきました。それによって親密性というものは成り立ちにくいような状況があったわけですけれども、私は、今だからこそ初めて
家族というものが、固有の原理、例えば情愛であるとか親しさであるとか充実した余暇であるとか、そういうものを取り戻す必要があるというふうに考えています。
また、教育も、いい成績を取っていればいい会社に入ってハッピーになれるというような、そういうストーリーが今リアリティーを失いつつある今であるからこそ、学ぶことそのもの、学習内容そのものの
意義の回復ということが必要ですし、また、教育システムの中での教育達成の格差の最小化というものが必要になってきているというふうに思います。
教育と
仕事との
関係という点では、
日本社会に長らく根付いてきた新規学卒一括採用慣行というのは、実は
日本の
方々が気が付いていらっしゃる以上に大きな弊害を含んでいるというふうに私は考えております。私は、それを克服し、学校を出た時点で正社員にならない限りその後再チャレンジのチャンスがほぼ閉ざされているような、そういう硬直的な若年労働市場ではなく、もっと適正な
仕事を模索する期間の猶予というものを若者に与えるような労働市場の形にしていくべきだというふうに考えております。また、
日本においてはこれまでなくても済んできた教育の職業的
意義というものを今考え直す時期に来ていると思います。
仕事と
家族の
関係性という点では、やはりこれからは
男性が稼ぎ手として十分な賃金を得られるかというと、それは大変危うくなっている。となると、もうこれからはリスク分散としての共働きが不可欠になると思います。それは性別役割分業の克服という意味でもあります。
仕事と
家族の間の
ワーク・
ライフ・
バランスというものを成り立たせて、父も母も
仕事に就くけれども、夕方以降は帰ってきて、
家族の中で人間らしさを取り戻すことができるというような、そういう意味での
バランスが取れた生き方というものが必要だと思います。
また、
家族と教育との
関係という点では、これまで
日本の教育は費用や意欲の点で大変
家族に依存してきましたので、そこを切り離し、
家族の持つ資源の格差が次
世代に直接影響されてしまうような
関係性を切り離す、つまり、
家族の中にいかに格差があっても、教育システムの中でその格差を最小化していくというような、そういう教育システムの責任というか自律性というものを立て直す必要があると。そのためには、やはりこれまでよりも一層手厚い公的な資源というものを教育システムに注いでいく必要があると思います。
セーフティーネットに関しては、そこに書いてあるとおりです。
次の十二枚目のシートは、ちょっと時間がなくなりつつありますので飛ばします。もう見ていただければ結構なのですけれども。
最後に、十三枚目のシートに
基本原則というようなものを書いてありますけれども、
社会が真っ当かどうか、
人々が幸福かどうかということは、次の三つの条件が備わっているかどうかに左右されると思います。
一つは、ある時点で不利な状態に陥った人がいつまでも、その後一生を通じて不利で居続ける必要がなく、また、そもそも
人々ができるだけ極めて不利にならないような、そういう準備や
支援というものが
社会的に幅広く提供されていて、かつ、
人々が
自分の尊厳と他者への敬意を持って生きていくことができるような、こういう条件を備えた
社会というのが
幸福度が高い
社会というふうに思いますけれども、現状の
日本を見る限り、この三つの条件のいずれも正反対のような状況にあると。
ある時点で不利な状態になってしまえば、もうどこまで落ちていくか分からないような、しかも一生を通じて回復が見込めないような、今そういう状況にありますし、そもそも簡単に不利になってしまう。例えば、たまたま家計にゆとりがないような
家庭に生まれてしまえば高等教育に進学することは大変難しいような、そういう
社会です。準備や
支援というものが幅広くあるわけでは全くないと。そういう中で、
人々は
自分の尊厳や他者への敬意というものを見失って、そのつらさを
自分で抱え込んだり、あるいは他者に憎悪を向けたりしながら何とかかんとか生きていっているというような、そういう現状にあると思います。
これをかなりドラスティックに変えていかない限り、そもそもこの
社会が今後も成り立っていくかどうかが危ういというふうに私自身は考えております。
済みません、二、三分オーバーしてしまいました。
以上です。