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参考人(
山崎陽子君)
山崎陽子でございます。
最初に申し上げておきますが、私はロジカルに物を組み立てるとか、それから統計を取るとか分析をするとかということが非常に不得手でございまして、
息子たちからは、ロジカルではなくてドジカルと言われている者でございますので、今度のことも、
お話いただいたときに、こういうものはお断りしなければとまず
思いましたが、ここにある幸福という二文字に私は敏感に反応してしまいました。
なぜかと申しますと、これはひそかにでございますけれども、私は幸せにかけてはオーソリティーだと思っております。達人だと自負しております。それで、それだったら少しは
お話ができるのではないかと、非常に自己流で無手勝流でございますけれども、お耳を傾けていただければ幸せです。
幸福なんというものは実体のないものですから、夢と同じように。重さもなければ形もなく、とらえようのないものですけれども、これはあくまでも感じる心であって、人に幸せを世話してあげようとか幸せを分かれとかということはできないものでございます。あくまでも感じる心、幸せであることを感じる心が幸せなのであって、非常に月並みですけれども、
メーテルリンクの「青い鳥」のように、幸せを探し回って結局は
自分の
手元にあったというような、幸せというものは本当に漠たるものでございますけれども、今の若い
人たちは幸せというものを感じる心、それから、せめて
メーテルリンクのように探しに行くその
思いさえないというような
方たちが多いのではないかと
思います。
それで、私について申しますと、私は、どうしていつもそんなに幸せそうにしていられるのかと申します。私も人並み以上の
不幸せを味わっておりますけれども、私は、まず朝窓を開けると非常に幸せだと思うんです。雨が降っていればみずみずしい、曇っていればちょっと幻想的だとか、それからお日様が照っていれば文句なく輝かしい朝で幸せ。
でも、これは
一つ視点を変えたら全部
不幸せになることなんですね。例えば、雨が降っていたら何か
びしゃびしゃしていて気持ち悪い、曇っていればうっとうしい、日が照っているとまた染みが増えるんじゃないかしらというふうに考えたら瞬く間に
不幸せになってしまうことです。幸せというのはもう
不幸せと表裏一体で、どんなに
不幸せなトランプでも裏を返せば幸せ、手品のように幸せということにもなるし、それから、ちょっと
視点を変えてみるとどんな
不幸せも幸せに変わる、転化されるということです。
私自身のことで申し上げると、私は友達がみんな非常に楽しく
新婚時代を謳歌しているころに大
家族の嫁になりました。そして、最後のころは十数年、夫の両親の
看病に明け暮れ、そしてその後、
長男が外国に留学中に不慮の災難に遭って
半身不随になりました。十八歳のときです。そして、主人も十年前にちょっと
脊髄梗塞を起こして動けなくなるというようなのが続きまして、
はた目から見るととても
不幸せな人という、あんなに幸せそうにしているけど実は
不幸せなところもおありなのよというふうに言っている方もあったようですが、私は一度も、格好を付けるのではなくて、
不幸せと感じたことがありませんでした。
なぜかというと、
半身不随になった
息子でさえ
不幸せということを口にしたことがありませんでした。また、何か非常に珍しい状況になったことをむしろ楽しんでいるようなところがあって、そういう
息子でしたので私も一切それを悲しむこともなく、必ず
不幸せの後ろには幸せの足音が聞こえるよというのが
息子の言葉でしたけれども、
息子は
アメリカで事故をしたために、そのときにす
ぐにそばにいらした神父様が、失った幸せを数えちゃいけない、残された幸せを考えなさいということをおっしゃったんですね。もう過去のものを一々くよくよしない、目の前に来た幸せを数えなさいということ。それから、お医者様も
看護婦さんも、あなたは何
一つ変わらない、目の悪い人が眼鏡を掛けるようにちょっと器具を使わなければならないかもしれないけれども、あなたの目標は空ですよと、何にも変えることはない。ですから、
息子は今
自分が不可能だというのは絶壁を登るということぐらいだと申しまして、
福祉機器の事業を起こしましていろいろやっております。
私は、大
家族の
長男の嫁にならなかったらば、大
家族というのはみんながいい人で、私は
大勢の男の子の前に現れた初めての娘だったので非常にかわいがってもらいましたけれども、かわいがられるということは
自分の時間が全くないということで、結婚する日の朝、父が、今まで、二十四のときに結婚いたしまして、二十四年間たくさんの愛に包まれて生きてきた、愛をたくさんもらって生きてきたんだから、結婚したらその愛を
周りにお返しするんだよと、そうすると、またいつかそれが恵みの雨のように地面にしみ込んで必ず
自分の花を咲かせる日が来ると、そう申しました。私は尽くすことは全く嫌ではなかったので一生懸命
周りに尽くしましたが、花が咲く日が来ようなんということを考えられぬほどの忙しさでした。
それで、そのときに考えました。
大勢の人が
一緒にいるということは、やっぱりどこかにあつれきがあったりするわけですけれども、その
人たちみんなに優しくするためには
自分が
思い切りわがままに振る舞える時間がなければいけない。それで、私は、真夜中かみんなのまだ起きない明け方を
自分の時間にしました。フィリパ・ピアスというイギリスの
作家の
作品に「トムは真夜中の庭で」という
童話がございます。それは、十三時、十三時を打ったときということはあり得ないわけですね。柱時計はまた一時に戻るわけで、一個に戻るわけですけれども、十三時を打つ時間があって、窓を開けると全く違う
世界が広がっているという
お話です。
お話に全く関係ないんですが、私は
自分の時間を十三時の時間と名付けました。
書いていて結婚したわけではないんですから、みんなの前で
原稿用紙をひけらかしては絶対いけないと、それはエチケットだと
思いましたので、だれも知らない間に
童話を一生懸命書きました。
童話をなぜ選んだかといいますと、
自分の
思いを小説に託すと、例えば嫁が「
華岡青洲の妻」なんか書いたらばいろいろ物議を醸しますが、キツネやタヌキが言っている分にはどうってことないわけです。だから、とっても
自分が、失敗ばかりしてしまったらばどじな
天使の話を書き、嫌な人だなと思ったらばその人のことをオオカミにして
思い切りやっつけてしまうと。それは何も実害がないものですから、一生懸命書いておりまして、それがやがては、ちょうど結婚十年のときに、
自分のために、
自分と
子供たちのために
子供を
主人公にした
お話を本にしたことが始まりで、私は
童話や
ミュージカルを書くようになりました。
ですから、私が、みんなが
不幸せねと言われるその
環境にいなかったらばこの今の
仕事はできなかったわけで、もしかしたらば、そのこと、出会ったことがすばらしいことだったと
思います。
それから、長いこと
看護をしているということは、病人の寝た十分、十五分というのはすごい貴重で何物にも代え難いような時間があり、そして結果的に書いたものが
舞台になったりしたときに、しゅうとは、こんなことができるんだったら結婚させてはまずかったんじゃないかと言いつつ、
足長おじさんのように
自分の名前を隠して、
自分の還暦のお祝いをする費用で施設の
子供たちを
舞台を見せるために客席に呼んだりして、
足長おじさんというふうに言われて大変喜んでおりました。
ですから、私は、
はた目から見て、あの人は庄屋の嫁とか言われたこともありますし、
無形文化財とか言われたこともあるんですけど、今どきこんな嫁は珍しいとか、でも、それは私にとって代え難い幸せを与えてくれたわけです。
息子も十八歳のときから足の自由を奪われてしまいましたけれども、そのために、本人は全然
好奇心の強い人ですから、足の動かない人生というのも結構面白いと。余り何でも器用にやる人だったものですから、できないことをそぎ落としていったら
自分の進む道が
一つ見えてきて、これも楽しいということで、ちょうどそのころ、麻薬に狂った
息子を愛するがゆえに射殺してしまったお父さんの実話がありまして、それを向こうの
学校では必ず読ませる。
日本で「坊ちゃん」を読ませるように、それを必ず読ませる。これは今にきっと十年ぐらいたったら
日本もこうなるんじゃないかといって、
息子は
翻訳をしました。それは
日本で分厚い本になって出たんですが、余りの分厚さで、学者は褒めてくださったけれども、
子供たちが読まないという本になってしまったんですね。
そうしましたら、集英社というところの
編集長さんが来て、
会話が非常に自然に書かれていると。独特の
翻訳会話というのがあるんだけれども、そうではなくて余りに自然だから、ちょっと会ってみたいといって会ったら
車いすの
少年だったのでびっくりしてしまって、じゃ、君のことを書いたらいい、そして
自分が
けがをしてから大学を卒業するまでのことを書いて、
ボストンに入学していましたので、「愛と
友情の
ボストン」という文庫本が出たんですね。それは
若者の間で
一気読みの本と言われて、一晩で読んでしまえるという、
若者らしい書き方ですから、
一気読みの本ということで、何の宣伝もしないで売れたんですけれども、途中で
編集長さんが替わったときにそれをもう
破棄処分にしてしまって。そうしましたら、
秋山ちえ子先生が非常に残念がって、ほかの
出版社でその後の十年を加えて出しなさいと。「愛と
友情の
ボストン」は
学校を出るまでの十年、それから
仕事をした十年というのを書きました。
それは、
息子が
自分が
車いすであることで非常にいろんな体験をしたわけで、
自分の乗っている
車いすがとても良くできていて、軽くて
日本の
車いすとはちょっと違うというような
車いすだったので、それどこの
車いすですかといって、
自分が頼まれて並行輸入みたいにしているうちに今
日本でただ
一つの
代理店になったんですが。
最初は、
病院と業者の癒着で、足を
けがした人、足の動かない人が
自分で選べることができない、何もチョイスできないというような状態だったのに、
病院の中をびゅんびゅん
自分の
車いすで走ってみて、あれが欲しいといって付いてくる
方たちがだんだん増えて
一つの
仕事になりました。
そして、ただ、一生懸命
仕事をすれば必ず弊害があって、
車いすの人は
床擦れというのを起こします。
褥瘡というので七回手術をいたしましたけれども、結局
アメリカに行って治して帰ってきて、
床擦れになるのはなぜかということを
自分のために勉強して、カナダに行って勉強しましたら、シーティングといって、シートをちょっと変えて工夫すると、例えば
小児麻痺でこんなになってしまった
子供、それからあおむけになったまま、スパッズというんですが、足がびょんと動いてしまう
子供、そういう
子供たちを真っすぐにすることができるというのを何度も研究に参りまして、近々、「運命じゃない」という本を出すことになっていますが、それは、
お母さんたちが余りに大変な
子供たちを抱えて苦労していらっしゃる
お母様のために
自分はどうしてもそれを知らせたいといって書いたんですが、この間も
技能五輪というのに
審査員で出ておりましたけれども、そのときに二人の
お子さんを連れていって、その
お子さんたちははたから見たら本当に何もできない
方たちです。手も動かないし、よだれが出ていたり、体が、それが目にも止まらぬ早業でそこのパネルで
会話をすることができるんですね、
パソコンで。その
パソコンを打つために体が真っすぐにならなければいけなかったわけで、そして、
自分はそのことに対して非常に誇らしい
思いで、次々に何もできなかった
子供たちが起き上がって真っすぐな姿勢になって幸せをつかんでいく。
彼が言うのには、もしかしたら
自分が
けがをしたのはこのことのためだったかもしれないと最近言っております。彼は、もし
けがをしなかったらばきっと、何でも結構器用にこなす子でしたから、ちょっと遊び人か何かになっていたかもしれないんですけれども、今お
年寄りの方を、
車いすを
足代わりに使っていただいて、もう一度お
年寄りの方、寝たきりの
方たちが起きて、これは
介護保険のことなどもあってちょっと微妙なこともあるんですけれども、とにかく起きて
自分の足でもう一度いろんなことができるようになってほしいと、そのことに今力を尽くしていますが、とてもそれは
自分にとって幸せなこと、笑顔の
お母様たち、
子供さん
たちを見るときに本当に幸せだと思うよ、だから僕はこの日が来るために
けがをしたのかもしれないと言っております。ですから、何であれ、
不幸せに見えても幸せに転化できる日は必ず来るということを私は身をもって体験しています。
つい先日、岡山に参りましたら、そのときに
食事で隣になった方が、本当に
自分の夫がいかにひどい人だかということをずっと
食事の間中話していらして、女は考えるな、
意見も言うな、
食事を作って夫に尽くせばいいというような夫と結婚してしまったと。私はとてもつらい日々を送ってきたんですけれども、でもやっと
自分の生きる道を見付けましたといって見事な絵を見せてくださったんです。それは全く絵筆を使わない、色を使わない。それは全く天然のお花だとか木だとかを、それを細かくしてピンセットで張り付けていくという、それはそれは根気の要る、すばらしい絵でした。
その方はもう不幸の権化のような顔をなさって、私はこんなつらい
思いをしたと、夫のために
子供たちもみんなつらかったとおっしゃったんですが、もしそういうつらい
環境にいらっしゃらなかったら、そのすばらしい絵は生まれなかったでしょうと申し上げたら、ぱっと顔が輝いて、そう、物は考えようですねとおっしゃったんですが、考えようというよりも、どんな
不幸せもちょっとだけ、ほんのちょっとだけ
視点をそらせばいいんだと思うんです。
私は
母親としては、さっきも申し上げましたように、非常に学問的な
思考とか、特に科学的な
思考というのが欠落した
人間なものですから、
子供が小さいときに
幼稚園までの道を歩いていたら、どうして急にイチョウが黄色くなったのと言われまして、賢い
母親ならすぐに黄色になぜなったかと紅葉について説明するんでしょうが、私はそういうことが説明できないので、夜の間に星の
天使が来て塗ったと。星の
天使の中には、星の子は、
ペンキ塗りの
天使というのがいるんだとか出任せを言いましたらば、そばにいた
子供たちがその
お話に僕も出して、私も出してということで、
大勢子供たちの出る、そして
主人公はもちろん
息子たち二人という本ができ上がりました。そして、後にそれは
ミュージカルになって受賞した
作品にもなりましたけれども、
母親は非常に得したわけです。
息子たちはそのときしみじみ思ったそうです、正しいことは
学校で習おうと、
母親を当てにしてはいけない。
私は
子供を信じ続けました、何を言われても、うそをついていようが、だまされてずっと。ころっとだまされる
母親としては
子供たちの信頼を勝ち取りまして、今
息子は、どこかで講演をするときには必ず、
子供を信じましょうと、無条件に信じましょう、私の
母親は本当にどこか抜けていて、
子供を、どんなことをしてもその言い訳にすらりと乗って信じてくれたと。でも、やがて、弟とともにこんな純情な人をだまし続けていいのかということにある日気が付いて、それから僕は真っ当な
人間になりましたというのが非常に受けているそうなんですけれども。
私は、何でも信じることが大切、そして
子供に説明できないということも
一つの
教育ではないかと言ったら、
三浦朱門先生がとても、何か口ごもりながら、知っていて知らないふりをするのは
教育です、でも、本当に知らないというのはただの愚かな
母親じゃないでしょうかとおっしゃって、私もしみじみそうだと
思いましたけれども。でも、
子供というのはそういうもので、小さいときからの
母親の接し方というのがとても大きく物を言うと思うんです。
私が
童話の、
ミュージカル、カセットに吹き込む
童話をお頼まれして書いたときに、
大変子供たちが喜んでくださったということで、ところが驚いたんで、その本は、
お話と
お話の間に
チャラーンといったら
ページをめくりましょうと書いてあると。それは、
子供が一人で
テープレコーダーの前でその本を置いて
チャラーンといったらめくるという、私はそれは非常に寂しいと言ったんです。
だから、
お忙しいお母様や何かのところにいらっしゃるんだから、それも、
子供が一人で
テープレコーダーを前に本を読むということ、本を読まないよりはずっといいけれども、せめて
最初にその本を開いたときだけは
親子一緒に、
ページをめくった次の
世界が来るたびに
一緒にため息をつき、
一緒に感嘆してほしいと申しました。
小さいときに絵本に心を奪われなかった子というのは、やはり大きくなっても何かに感じることというのがとても難しくなっていると
思います。目に見えないものの
すばらしさ、そして何かから感じ取る
すばらしさというのを
是非お母様たちが覚えさせてほしいと私は
思います。今の若い
方たちは、物がなければ幸せだと思えない人が増えているようですけれども、そうではなくて、見えないもの、そして感じる心に感動できる
自分というものを知ってほしいと
思います。
私は、
子供たちに何
一つ知的なものは受け渡せなかったと
思いますが、どんなところにも幸せを探せてしまう幸せ探しの技術だけは、DNAというのでしょうか、
子供たちが二人とも、どんなときにも、どんなところにも幸せを探せるということだけは遺伝したような気がします。
ただ、私が幸せをどこにも探すというのは非常に利己的なもので、
自分が幸せなんです。どんな人に出会ってもその人の嫌なところはぱたぱたと欠け落ちてしまって、いいところだ
けがぱっと見えるというような考え方はちょっと偽善的でもあるかなと言う人もいるんですけれども、実は
自分が一番楽なんですね。憎むこと、怒ること、ねたむことというのはとてもつらくて、いい人だと相手を気に入れるということは
自分が楽だから、私はあくまで
自分が楽なために、周囲を本当に幸せだと思っているわけです。
そして、私がどうしてそんなに幸せを見付けられるか、例えば大変な
看病をしている最中も決してつらくはなかったと言えるのはなぜかと申しますと、私は、これは兄からもらったものですけれども、
三つ違いの兄がおりまして、非常にわんぱく坊主でしたけれども、彼の方が私は
童話作家になるべきではないかと思うほどの発想の豊かな
少年でした。
そして、小
学校に入ったときに、昔はこういう、今はどうなんでしょうか、
金帽、金の記章を付けていてとても利口そうに見えたんですが、その兄が
学校から帰ってきて、知ってるかと、
人間は飛べるんだぞと言ったんです。私は
幼稚園でしたけれども、ああ、飛べる、その気になりゃ飛べるんだということを兄が力説いたしまして、まず
うちわを持って飛べと言ったんですね。そして、別にやれと言ったわけではないんですが、私は兄が
学校へ行っている間に、一階ですけれども、出窓から
うちわを持って飛びました。ところが、出た途端に下までたたきつけられてしまったんですね。
そうしたら、兄が、
右足を出して、その
右足が着かないうちに
左足を出す、
左足が着かないうちに右っていったら空中を歩けるはずだなんて言うわけですね。ところが、何だか、小学生になって、大人になったような兄がそう言うものですからまたやってみましたが、もちろんできっこありません。本当にどこか抜けた子で固く信じたんです、本当に飛べるんじゃないかと。
そうしたら、兄が、そうかと。
自分がやってみればいいのに、そうか、それは傘の方がよかったかもしれない、傘だったら竹とんぼの原理で上に飛ぶかもしれない。また次の日やりまして、骨は折れませんでしたが、傘の骨はばらばらになりましたけれども。
そうしたら、兄が、そうか、そうだ、小
学校の学習雑誌の付録に忍者七つの心得というのがあって、その七つ道具の付録の中に粉が入っていて、それを手にまぶして、そして飛べばいいらしい。もう一回やってみました。そうしたら、今度は打ちどころが悪くて気絶いたしまして、
母親がびっくりして、どうも何か窓から毎日飛び降りているようだったけれどもというので、私
たちは二時間ほど引き据えられて、
人間は飛べないのだということを
母親から懇々と言われて、私は十回ぐらい
人間は飛べませんというのを繰り返した覚えがあります。
そうしましたら、兄は、何かもう泥と涙でしましまになったような顔で、もう二度と妹を飛ばせませんということを言っていましたが、そのとき私の耳元で、鳥のつもりにならなかっただろうと、こう言ったんです。確かに鳥のつもりにはなっていませんでした。だからだと言って悔しそうに、だからだよ、鳥のつもりにならなかったからだと。
私は、もう二度と飛びませんでしたけれども、そのときに深くインプットされたのは、つもりになるという言葉です。そうだ、つもりになれば何でも、その気になればいいんだと。ですから、それがずっと大人になるまで続いているんですね。
兄の言葉というのは幸せには関係ありませんが、実に発想が豊かで、指揮者というのはどうして一人であんなに百五十人もの人の指揮ができるか分かるかと。指揮者というのは、一生懸命練習するとここからちっちゃい手が生えてくるんだと。名指揮者に限って、だからこういうフロックコートとか燕尾服を着ているんだと。ここから小さな手が出てきて、真ん中の手でジャジャジャジャーンとやったら、こっちからちっちゃい手が出てティラララ、ティラララとこっちをやる、だからあれだけの指揮ができるんだと。
兄がまことしやかに言うものですから、私は随分いい年になるまで指揮者の横を見る癖が抜けないくらい私は兄の言うことを信じていましたが、ほかは本当にでたらめで、兄は今謹厳な、娘二人の、どこにあんなでたらめなことを言った面影があるかというほど謹厳な紳士になっておりますが、私はそのつもりという言葉をもらったことを感謝しています。
どんなときに、ところにいようと
人間はつもりになれるんです。私は、一番
看病の大変だったときに、私は名
看護婦だという、
看護婦のつもりになりました。名婦長。そして、だからできないことはないと。どんなときでもやっぱり笑顔でいられるつもり。
自分はつらいときにはシンデレラになったつもりとか、何でもこれはなれるんですね。
そして、私があんまり
看病しているときににこにこしていて、主人が危篤状態になって何度もよみがえりましたので、よみがえったときに笑顔でいたいと思うもので、いつも笑顔で、私は太陽とか、何でもつもりには勝手なわけですから、なっていましたらば、あれは本妻ではないといううわさが大分立ったようなんで、それにはちょっと心外でしたけれども。でも、本当につもりになれる術というのはすばらしいもので、私はつもり名人と言っております。どんなつらい人でも、そしてどんなにつらいときでも、つもりになれば大抵のことは通り過ぎていくものだと
思います。
私は、女子大で十年ほど教室を持っていたことがあります。児童文学の教室でしたが、児童文学そのものは、私は途中から、これは
自分で辞書で調べれば分かると
思いました。皆さん分かるんじゃないかと。私は、これを長い時間、九十分の授業をしゃべっているよりは私の経験を話そうと思って、もちろん児童文学をやっているわけですが、その間、間に、ちょっと今の
子供は大体十五分ごとにコマーシャルが入らないと落ち着かないというのを聞いたものですから、十五分ぐらいごとに
自分の体験を話しました。そうしましたら、手紙が来るようになって、あの授業のときに泣いていた私を御覧になりましたかとか、涙こぼしたと。何に感動したか分からないんです。それぞれの
人たちは全く違うことに感動しているわけですから分からないんですけれども。
今の
若者も、
最初はびっくりしました、すごいなと
思いましたけれども、今の
若者も本当に捨てたものではないと。心の琴線に何が触れるかがちょっと分からないところが大変ですけれども、心の琴線に触れるやはり温かい
思いや感情を持っている、こういう
人たちに、まず、つもり。
それから十年たっているんですが、この間赤ちゃんを抱いたお母さんに会いました。そうしたら、駆けてきて、先生ですねと言って、私は何とかという、ほら、あの
童話を書いた子ですとかと言って、もうこのごろちょっとぼ
けが入っているものですからすぐには
思い出せませんでしたけれども、名前を聞いているうちに、ああ、あのお嬢さんだと思ったんですね。そうしたら、今一生懸命生きています、そして
子供を抱えて大変だけれども、つもりになればと言ってくれたんです。私はそれを聞いて涙が出そうになりましたけれども、みんながあの日私が口にした幸せ探し、そしてつもりの
世界ということを考えていてくれたらうれしいなと思っています。
本当にありがとうございました。