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参考人(
中谷健太郎君)
中谷です。九州から参りました。
先ほど、時分どきだったんで国会の周辺へ行って飯を食ってきましたけれ
ども、相当に緊張しました。四十年ぐらい前は国会を外から取り巻いたりもしていたんだけれ
ども、あのころの方が怖くなくて、今の方が怖いような気がしました。それはともかく。
お話しすることは、改めてというのは何もないので、我が由布院村でしょうちゅうを抱えながら若い人たちとしゃべっていることを切り取って三十分だけ御披露ということでお許しください。
四十年近くも何だかんだ村のことをごちゃ混ぜになりながらやってきたのに、すかっと、こういうふうに村をやっていきたい、こういうふうにやろうよということが
一言でなかなか言えないんですね。
今、割にはっきりしている
言葉はこういうのです。村の命を
都市の
暮らしへ。これは辰巳芳子先生とかあるいは大森彌先生なんかと一緒にひねり出した
言葉で、平松知事がお元気だったころに一村一品運動の旗頭にしたんですね。ここまではいいんですね。村の命を
都市の
暮らしへ、そうだと。
ところが、じゃ、ひっくり返して、それじゃ
都市にみんな行っちゃうじゃないかと。
都市から村に何をくれるんだというときに、
都市の
暮らしを村の命へといっても違うんですよね。何がいいかを、できれば皆様、先生方にお教えいただきたいと思います。
都市の力を村の命へでもないし、
都市の
暮らしを村の
暮らしへでもないしなどなど、もたもたもたもたしたままに約二十五年が過ぎました。村の命を
都市の
暮らしへという
願いをどういうふうに言い換えれば
都市の恵みを村の人たちにもたらすことができるのか、結び付けられることができるのか、これからも村の中で酒を酌み交わしながら若い人たちと続く
議論です。
そんなことから出てきたのは、
集落崩壊ですね。これは
小田切先生もおっしゃっていましたが、本当に崩壊しました。私が帰ったころ、四十年くらい前も決して丈夫じゃなかったんですが、大変だ大変だ、もう農家は継がないぞという声は多かったんですけど、でも形はありましたね。形はというと、僕にとっては長老たちがしっかりしていたという
程度の話なんですが、何か
農村で頑張れば良くなる、あるいは頑張れば何かいい突破口が開けるというような確信がありました。だから、お米の実行組合とかあんなところへ出ても、消防の寄りに出ても、打ち上げだといったらうわっと元気が良くなっていたんですが、最近はちょっと違いますね。
それを突っ込んでいると話長くなりますからやめますが、例えば、私が七十三歳、それで小学校のころから有名な運動神経なしの少年として由布院小学校中で知られていたような人間が牧野組合副組合長とかそういったことを何回も何回もやらんならぬ。牧野組合の役員は何と私の
集落では今年は七人になってしまいました。役員じゃない、会員そのものが。七人しか会員がいないと、その上の
集落連合みたいなところでやる野焼き、もうすぐやるんですが、この野焼きはどうにもならない。そうかといって火を付けなければ、カヤがぼうぼう生えちゃってその下から若い草が芽を出さない、出さなければ牛を放牧してもえさがない。なければますます輸入に頼る、いやもうそんなことぐらいなら牛をやめよう、それで牛は減っていく。
そういう状況の中で牧野組合をなしにできぬなと言うと、私くらいに役立たぬ人間というのは部落中で本当おらぬと思うんですが、だれでもが認めています、それは。山に登ると途中ですぐ息を上げて座り込んでしまうし、火事だと行っちゃならぬところに私はうろうろ行くので消防も野焼きも非常に迷惑がられていますが、是非出てくれと言うんですね。
これには二つの
意味があります。
一つは、猫の手でも借りたいから出てくれというのがある。もう
一つは、年の順番だから出てくれ。つまり、
集落の中の価値観というのは役に立つから出てくれじゃないんですね。そこにおるから出てくれ。年のせいというのは老人がいいということじゃなくて、そこにおるから出てくれということなんですよね。そういう能力主義から存在主義とでも言うんですかね、そういうこと。
だから、今や家の中と村だけかな、
余り能力を問われないのは。いや、家の中でもこのごろちょっと私なんぞは能力を問われているんですけれ
ども。そのことが会社とか
地域、いろんなところで、勤め先とかいうところでどんどん能力主義が力を蔓延させてきて、そこにあんたがおるからいいやないかと、あんたがおることであんたなりの色を出していけばいいんだという物の考え方がどんどん減っていきましたので、村の中でもなかなか生きにくくなりつつあります。しかし、最後のよりどころじゃないかと思います。仕事場で能力を言うなというのは無理だと思うんですが、
集落の中だと能力を言わずにそこにいてくれるということだけで何とか
コミュニティーをつくれるような気がしています。
ここの話のときに僕は青年たちと一緒にしゃべるんですけれ
ども、人生の、人生のというか、
暮らしの周りに五つの事がある。
一つは、一人ですること、一人事。それから二つは、家でする家事ですね、家事。
三つ目が仕事ですね、それによって
生活費を得る仕事。
四つ目が出事。五つ目が大事と呼んでおるんですが。
一人事は、個人の御趣味で、家庭の中にあっても、家庭の中で浮き上がりながらでもおれはこれが好きという、そういったような一人事。これがどこまで自由にできるかというのがあります。
それから家事というのは、やっぱり自分の家庭の仕事ですから、これは仕事があっても帰ってきてPTAに出たり、親戚縁者の付き合いがあったりで、家事があります。
次に仕事というのは、私
どものところでいうと
役場に勤めたり、私
どものような旅館に勤めたりしますが、そういった勤めて働いてお金を得るという仕事があります。
その後にある出事というのがだんだん話が通じなくなって、出事というのは何かいと聞かれるんですが、出事というのはそこの
生活圏、そこの領域、そこの
集落を保つための出事なんですよね、出事としか言いようがない。
僕らの村では、出事よりも仕事を優先するというのはやっぱりちょっとさげすまれますね。あいつは出事よりも自分の仕事を優先するかと。今日は仕事が忙しいから出事には出らぬでという、これはもうなしですね。それはちょうど家事、家の都合が、子供が、PTAが、運動会があるからというのでそれで仕事には出ないというのと同じように、何かちょっと違っていくんですね。
ところが、ここで出事がぱたっと力を失ってきて、何とその一番最後にある大事、大事というのは自分たちで決められないことです。あるいは自分たちで対応できないことです。台風が来たとか、戦争でテポドンを落とされたとか、そういうことは出事では対処できないんで、村の者が全部集まっても対応できないという大事がある。
これが町村
合併でどんどんどんどん膨らんできて、今までは顔見知りが出て前の川を何とかせせっていたのが、今度新しく市になった、市の建設課がしてくれるんじゃという話にどんどん今膨らんでいっていますから、出事は、
地方にある仕事、つまり
企業ですね、
企業も忙しくて出事どころじゃないというふうになってくるし、今度は大事の方に仕事をどんどんどんどん渡してきますから、
地域を自分たちの手で何とかするという出事も今すごい勢いで消えつつあります。消えつつあるものの最後のあがきが僕が消防になったり牧野に出たりすることなんで、これは子供たちにもよく見せておいて、どれだけ役立たずの人間が最後の
集落仕事に参画していったかというのを覚えていてもらおうと思っています。
二番目、これは村の風景をつくるという、僕冊子持ってくればよかったんですけど、ことをやっています。
これは、
御存じのように、行政できっちりとはなかなか決めにくいことのようですね。景観法なんかも通していただいたんで随分前よりもいい方向へ行っているんですが、実際には法令、条例で決めたからこのように風景をしなさいということはなかなか難しいようなので、私たちは、村の風景をつくるというのを自主的な申合せ運動としてやっています。
基本的には、
産業の見える風景と風景の見える
産業と、この二本立てでやっていますが、この風景論をいろいろやっていますと三十分たっちゃうんでやめますけれ
ども、これがまた由布院の場合は、由布院盆地という、私は名刺にも全部勝手に九州・由布院盆地と名のって大分県由布市とか書いていないんですけれ
ども、韓国や中国へ行くと九州・由布院盆地と言った方がよく話が通じます。村の風景も由布院盆地ということと切って切れないことです。だから、今後もまだまだ
合併が続いていくのかもしれませんけれ
ども、
合併が続いて大きくなればなるほど行政というのは風景論を語れなくなるんじゃないかと。行政が風景論を語れなくなれば、法令も条例も風景を語るのに非常に力を失っていくんじゃないかというふうに案じております。
それから、由布院盆地というと、もう奈良時代から続いた地形ですから、僕ら子供のころからずっと盆地の中で育っていますから、盆地と言っただけで、ああ、ああいうところだと、わっとわくんですね。それによって何が具体的に起こるかというと、食べ物がはっきり分かってきます。おまえのところ何がうまいんだと言われたときに、由布市ですと言うと、由布市の食い物何だというと、もう平地もあれば渓谷もあれば高原もあれば、何がうまいか分からないんですけれ
ども、由布院盆地と言ったら、ああ、スッポン、ドジョウ、カモ、何だかんだ言い出すと切りがありませんからやめますが、そういうふうに非常に
生活の糧が具体的になってくる。文化の根っこみたいなのが非常にはっきりしてきます。
そのためにも、村の風景というのは、ちょっと僕らがこれから先も自前でお金を出しながらみんなで申し合わせながらつくっていくテーマで、詳しくはまたいつかの機会に私
どもが作りましたパンフを持ってきますけれ
ども、年に一回、秋の天気のいいときにみんなでカメラ持って由布院中を歩くんです。すばらしいと思った風景をどんどんどんどん写真に撮って公民館の壁にぶら下げて、そして建築家や
都市計画の人やアーティストを呼んで、どれがいいだろうといって一等賞を出す。おのずから多くの人がこの風景がいいんだなと思っているところに票が集まるという仕掛けです。
三番目、これもちょっと厄介なキャッチコピーなんですが、
仲間からみんなへというんですね。
行政を含むいろんな
組織の
活動が、やっぱり
仲間づくりというのは非常によく言われているんですが、
仲間だけが集まってそれで完成するかというと、なかなかそうでないことが非常にありますですね。ある種の宗教の団体とか、いつぞやは相撲のお部屋もありましたが、
仲間の中だけで完全に完結していくとはとても思えない。
生活的にも物が足りなくて、例えば由布院盆地は奈良時代からあったといいましても、塩が取れた歴史は一度もありません。塩なしに村が成り立ったはずはないので、ずっと昔からどんな盆地も外からの交易によって成り立ってきたに違いない。そこで、
仲間からみんなへというのは、
仲間対敵でない論理をつくりたいんですね。
仲間でなきゃ敵かという、それを、いや敵じゃないんだ、みんなだというところに持っていくためにいろいろもたもたやっています。
それは、言わば出会いの場をつくるというようなことであるし、かつて行政が手を付けかけたあの交流
人口などという、交流
人口の多いものも定住
人口に並べて何かの工夫で支えようじゃないかという
言葉が一時ありましたが、そんなこともなくなってきております。
仲間が
仲間で固まってどう外に対決していくか。例えば貿易でいうと、国際競争というような
言葉がどんどん押し込んできて、競争は大きく言われるんですけれ
ども協調というのが言われないように、
仲間からみんなへという、そのみんなという感覚を育てるために私たちがやっていたのが牛一頭牧場。もう古い話になりましたが、
都市の方々に牛を一頭ずつ持っていただいて、それを私たちがお預かりすると。私たちの牧野は
都市の人の牛が来て、別荘気分でそこで育つんですね、二年なり三年。
そういったことをやったり、それから
映画祭や音楽祭は三十年以上やっていまして、ほとんどそういったのは実行
委員も含めて
都市の人がやってくれた。これって割に大事で、ゲストが来てくれるというのは当然としても、実行
委員あるいは企画する人そのものが
都市から来るというのを何かちょっと
地方の人は嫌がるところがある。だけれ
ども、そうじゃなくて、本当に、おい、手を貸せという
動きをやりたいと。
それで、今人材交換などというものをずっと何十年もやっていますが、今現在の観光協会の事務局長は東京都庁でやっていた男です。もう由布院に来て、この人は東京都庁を辞めちゃったんで論外ですが、八年目かな。その前は静岡県庁とか、その前は加賀の市役所とかいろんなところから由布院は人材をお呼びする。その代わり交換で、こちらの人もあんたのところで預かってくれというようなことをやる。そういった人たちが
一つの人材の核になって、その人たちを
中心にしながらいろんな文化的な催事やデザインも含めての
地域の独自の能力が出てくる。
そういったことでやっているんですけれ
ども、どこかにくっついちゃうとその人はその中に巻き込まれてしまうんですね。例えば農協の指導員にどこからか入ったとか、商工会の指導員に東京からだれかが入った、引き抜いてきたとかいうと、その中にやっぱり埋没してしまう。その中から埋没しながらも自力ではい上がって、あっちにもこっちにも八面六臂の腕を伸ばしていくというのは大変なことなので、そこでいつも失敗するんですね。
僕らが今やりかけているのは、船外機エンジン集団と仮に名を付けているんですが、あれ正式には名前があるんでしょう、ボートの外にエンジンをくっつけますね、ぽいっと外してその船にくっつけるとそっちの船が走るし、あっちの船にくっつけるとあっちの船が走る。船外機集団そのものはどの船にも固定されてないんだけれ
ども、由布院にあることによって、観光協会にくっついたり農協にくっついたり、あるいはアートストックという僕らの運動がありますが、そういったのにくっついたり、その辺に外からのいろんな知恵に入ってきてもらっている。
映画祭のファンがいつの間にかカメラを回すようになって、カメラを回す人が由布院に在住のアーティストを撮るようになって、それを応援する人たちが集まってというふうに、自由自在にどこへでもくっついていけるような船外機集団を今つくっています。
それから、そういったものを自由自在にいいじゃないかというふうに認めていく団体も、実は
余りトップがかちっとして固定してしまわない方がいい。固定してしまいますと、そこにまた、おまえはおれたちの
仲間か、それとも敵かみたいな変な力のばらばら現象が起こるので、何とか力を自由自在な、自由の利くものにできないかといって、今僕らのやっている観光協会というのは由布院では最も大きな民間団体なんですが、それの
会長と常務理事というんでしょうかね、それを固めてがっとやっている人たちはみんな四十代前半で、一挙にそうなりまして、その集団のリーダー集団の名前が白雪姫とホビットたちと言うんです。
白雪姫というのは
御存じの方もあるかもしれませんが、桑野和泉というのがいろいろ中央まで来てお世話になっていますが、白雪姫をトップに持ってきて、それに頑固な一生懸命付いていく元気のいい
若者たちをホビットたち、つまり固有名詞を消すんですね、まず固有名詞を消すと。それに、船外機エンジン集団など付いて、自由自在にあちらにくっつきこちらにくっつきしていっていくと。だから、くっついていった先では桑野和泉も単なるお茶くみだったりするわけですが、そういうふうなことを今努めてやっております。それが
小田切先生のおっしゃった新しい
集落、
コミュニティー形成の
一つの手探りですね。そういった手探りが今行われていると。
それから、風の食卓という、これも今大きな運動としてトップが、リーダーがどこにおるか分からぬような形でやっておりますが、風の食卓というのは、
御存じの、思い出される方もありましょうか、NHKの朝のドラマで「風のハルカ」、あれ半年間やっていただいて、あの間に、多分これ終わったらもう由布院はがたが来るぞ、つまりああいうものというのはどんなにすばらしいかというのを全力を挙げてやってくださるわけですから、当然現実の方が放送より悪いんです、どこでも。だから、放送が盛り上がれば盛り上がるほど行ってみようかというので、わっといらした方が何だというんで、テレビほ
どもねえやというんでがっかりしてお帰りになるというのが大体のパターン。だから、NHKの全国放送とか話題になったものの後を訪ねると大概のところが落ちています。
ということなので、これは大変だといって、NHKの連ドラを協力をオーケーすると同時に私たちが起こした運動が風の食卓。つまり、「風のハルカ」というところで、由布院というのはすばらしい、食べ物のおいしい、風さわやかで畑にも山にもいろんな健康なものがたくさんある、それを家族単位で持ってきておいしいものにして皆さんに提供するというのがテーマ。それが田舎と、あの場合は大阪でしたけれ
ども、結んで家族がどういうふうに展開していくかということであったので、もうポイントは食べ物だと。だから、食べ物をおいしくしようということにかかったわけですね。
これは、長々やっていた運動、私たち
映画祭や音楽祭や牛喰いやいろんなことをやっていましたが、三十年やって全国に放映されて有名になっても農業には結び付きませんでした。牛喰い絶叫のような、あるいは牛一頭牧場のような、もうこれぞ農業ということであっても、観光と手をつないで全国へ羽ばたいたマーケットを農業畑に活用しようというような話にならないので、それは農業畑が引っ張るのか、観光畑が引っ張るのか、えっ、どこが引っ張るのというようなことで何かもたもたしてできなかった。
今度初めて
可能性が出てきたのがこの風の食卓運動です。風の食卓というのは、もう時間が迫ってきたから簡単に言いますが、風の中から食材を持ってくる、冷蔵庫から持ってこないということです。だから、中国は駄目とかニューギニアオーケーとかそういう話じゃなくて、とにかく風の中から持ってくる。それから、食卓は風の中の食卓、これは冷暖房完備のこういうすばらしいところで食べる、あるいは京都のお茶屋さんで食べるのではない。畑の中、風の吹く中に食卓を持ち出したら食べ物というのはどういうふうになるか。最近有名なミシュランなどは回しげり食らわせろという勢いが今ごろは出ているのは、風の食卓運動。
それから、最後が風の料理人というのがありまして、これが実は一番エネルギーのもとになっています。風の料理人というのは風来坊料理人ですね。今までは地元で取れた地元の料理やから、例えば大分の場合、だんご汁やったらどこどこのばあちゃんが一番うまいとか、そんなことを言っていたんですが、そうじゃなくて、だんご汁を見たら、それじゃイタリアのパスタ作りはどういうことを考えるか、じゃフランスのクレープ作りはどういうふうなことを考えるかということも含めて、わくわくする料理技術、料理技術こそが文化だと思うんですが、文化は必ず外から入ってきて、それを変転を繰り返しながら土地の中に居着いていますから、必ず恐れずに料理の文化というものは外から入るということに踏み切った。
これで三年、四年たつうちに、非常に最初に言いました
若者たちが元気付いてきまして、今までどうも農業出身の人は外の人に出会うのは何かちょっと嫌だったみたいですね。それから、三十年もやってきた
映画祭や音楽祭や、六十回もやってきた落語なんというものも、何か出ていって、やあやあというほどわしは詳しくねえと。だから、詳しい人が行ってお迎えしようみたいになっていた。食べ物だけです、みんなが堂々と出てきて、うまいのまずいの言い始めたのは。これはきっとうまくいきます。
だから、これから三十年計画で、この風の食卓というのは、初めて
農村の人たちと
都市の料理人の腕っこきとを結び付けて、そして
地域づくり一緒になってやれる、観光も商業も一緒になってやれる唯一の
試みであろうというふうに思います。
あと、こういう運動が起こってきたもとは実は由布院の歴史にありまして、由布院は隠れキリシタンの村でしたから、江戸期は何の、何なんだろう、今風に言うと行政的サポート、そういうのが得られなかったんですね。あんなところ一生懸命やると、どんなまたとんでもない、キリシタンが芽を吹くかしれないというんでおっぽり出されて、それが大正のころになって一気に吹いてきたときに、江戸期を立ち遅れてしまった山の中の由布院がどうおまんま食べていくかというときに方向を示されたのが本多静六という、
日本の最初の林学博士かな、明治神宮のお庭を造られたりしましたね、あの方です。国立公園も
日本で最初に造られた。どういうわけかその人を呼んできて、由布院どうしたらいいかというのを決めて、そのときできた方針が滞在型の保養温泉地づくり。ドイツを見ろと、ドイツに見習え。ちょうど八十数年前、まだ由布院に列車も通ってなかったころです。
その話をずっと私たちは担いできて、まだ熱海や北陸がバスで乗り込んでどんちゃん騒ぎで一晩騒いで帰るという、ああいう歓楽型の観光でうなっていたころも通して、ずっとひたすら滞在型の保養温泉地であろうと努力してきたわけです。もちろん、そんなことがどういうふうに努力していいか分かるはずもなくて、途中で、八十数年の間の四十数年ころに私たち町民三人くらいが自費でヨーロッパを回りまして、これだといって悟りを開いて、悟りを開いてというのは、つまり三人しか行ってないわけだから分からないんですよね、ほかの人は。しようがないから三人の言うことを聞いてくれて、そこから延々と始まるわけです。
さあ、そうやって今日まで来た中で、滞在ということでやっと村と町がつながろうとしています。一泊でどんなにどんちゃんしても、あるいは通過型の観光で何百万人の人がいらしても、それは村を通過するだけですね。村の中に入っていくには最低三泊、できれば五泊。また来たよという
リピーター率も含めて、親類のようになっていただかぬと、つまりドイツの場合そうなんです、そういうふうになっていってもらわぬと困る。観光協会の中には親類クラブ運動というのもあって、滞在型に町をつくり変えていこう、一過性のものじゃなくて長いお付き合いをしていこうということになっております。
今、僕らがしゃべっているあれは、キャッチコピーの
一つに、天に碧空、地に源流、里に
暮らしの知恵が湧くというのがあって、まあみんな一杯機嫌でやっていますから、ごろのいいことばかりやっているんですが。つまり、そういうごろのいい、耳に残る、それで次に会うのが楽しいという会にしないとどうも何にも残っていかないという気がして、専ら趣味は落語というような人たちを集めてやっています。
四十代前半の白雪姫とホビットたちに望みを懸けて、私はおしゃべりをこれでやめます。