○
仁比聡平君 御案内のように、
アメリカなどでは懲役百五十年とか、累積というんでしょうか、していくものですから、生物的にはあり得ないような刑罰が科されたりもするわけですけれども、
日本ではそういう在り方は取らないと、そういう刑罰の在り方は取らないということで、それが今御紹介のあった条文などで、いわゆる加重主義、併科主義、吸収主義というような形で確立をしているということかと思うわけです。
つまり、
犯罪を犯したのではないかということで起訴をされている
被告人に対して、その
被告人に対する公訴事実についての認定と、それから、仮にそれが有罪であるということになれば、どういう
量刑がふさわしいのかということを一回の
手続で
審理をしていくというのが確立をされている大原則だと思うんですね。その中で、事実の認定と
量刑の
判断というのが、私は、言わば不可分に行われてきたのがこれまでの実態であるし、恐らくこれからもそれがほぼすべてに近いことになるんではないかと思うんです。
例えば、よく
司法修習なんかで引き合いに出されます殺意、殺人
事件の殺意の認定において、被告側は殺意はなく傷害致死であると言うけれども、検察側は殺意があると主張をしている。例えばそれが、凶器がナイフであったときに、その刃渡りがどれほどのものか、それをどのような角度でどのような強さで被害者のどこを目掛けて何度突き刺したのか、それどうやって準備をしてきたのかなどなどの事実認定が、それが実際にその
量刑として反映をしていくという、その心証形成にももちろん当然
一緒になっていると思うんですよね。
そうやって、心証がこれまでは事実認定も
量刑事情も不可分に形成をされていくというのは、これは職業
裁判官であってもそうなわけですから、そうではない
国民の
皆さん、言わば
裁判でいえば素人の
方々にとっては、これはもうなおそうなのではないかと思うわけです。こういうひどいことをしたという明々白々の証拠がある、だからこの
被告人はやっぱり厳しく処断をしなければならないのではないかというような、逆にこういう処断につながるような事実なのであれば、これの有無については本当に証拠に照らして、実際にあったのかなかったのかを徹底して調べなければならないのではないかというような心持ちを持ちながら、私たち
刑事裁判にかかわってきているのではないかと思うんですよ。
そういう
意味で、先ほども木庭
理事からお話がありましたけれども、情報格差といいますか、例えば区分
審理決定がされて、事実認定のみにかかわる
裁判員が、他の事実認定とそれから
量刑にすべてかかわるそういう
裁判官に対して、自分はその
裁判官が心証を形成し
判断をするそういう方向に単にお付き合いをしているだけであって、自分自身がその事実認定とそして
量刑の
判断、こういうところに本当に主体として、
判断主体として
参加をするんだという自覚を持っていただけるかどうかというのは、これは本当に大切な問題になるのではないかと思うんですけれども、事実認定のみにかかわる
裁判員が、つまり争点の重みをしっかり理解をした上で、
量刑、直接かかわるわけではないけれども、そのような
刑事裁判の
判断者として役割を果たすことができるようにするためには、一体どうしたらいいんでしょうか。
法務省から。