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吉村剛太郎君 ありがとうございます。
いずれにしましても、物心両面で充実している
社会ということを念頭に置いておられるんだろうと、このように思っておりますが、先ほど示しましたこの刑法犯と自殺の数でございますが、ちょっと左側に、コメントではありませんが、その折々の政治を担当いたしました
内閣を入れております。そして、この刑法犯、自殺が少ないこの時期といいますのは、ちょうどイザナギ景気もそこにすっぽり入るわけですね。そして、この間は正に一億総中流階級、一億総中流意識を持った時代であったわけでございます。特別お金持ちもいないけど貧乏人もいないと。みんなが
自分は、もちろん格差はありますよ、それぞれの格差はあっても、
自分は中流だという意識を持っておった、ちょっと努力すればカラーテレビが買える、電気冷蔵庫が買えると、そういう意識を持っておった時代であって、このほとんどの
国民が中流意識を持った時代といいますのは私は人類史上でもそうざらにないんではないかと、こんな
思いがしておりまして、正にこれは今
総理がおっしゃった美しい国の一つの姿ではないかなと、私はこのように思っておるんです、これは私の分析でございますが。
そして、その中流意識を持たせた一つの要因については、ちょうど私がオリンピックの直前に
社会人になりまして、そのころのベストセラーなんですが、実は五月の初めにアベグレンという
経済学者が亡くなりました。八十一歳だったんですね。私もまだ生きておられたのかなと、こんな
思いがしております。ちなみに、
日本人の奥さんをもらわれて、そして
日本国籍を取得して、
日本でつい五月に亡くなったんですね。この人がちょうどそのオリンピックの直前ぐらいですか、オリンピックの直前、一九五〇年代の後半だったと
思いますが、「
日本の経営」という本を出版しております。ちょうど
伊吹大臣辺りは、ほとんどのその当時のビジネスマンは一度は読んだわけでして、ちょうど
伊吹大臣辺りもお読みになったんではないかと。私も読ませていただいた一人でございますが、この「
日本の経営」というのは、簡単に言いますと、豊かな中産階級意識を持ったこの世の中をつくった一つの要因として、いわゆる
日本式経営、それは何かというと終身雇用なんですね、その終身雇用を終身雇用たらしめたのは年功序列だと、こういうことを言っておるんですね。これはその時代に即した一つの
意見であろうと、このように思っておりますが。
実は、それから、そういう時代を過ぎまして、この一番下の方に黄色い網掛けを持っております、一九九八年からずうっと自殺者と刑法犯、これを見てみますと、極端に増えているんですね、極端に増えています。増えて、最終的には刑法犯が二〇〇六年には二百万、自殺者が三万を超しておるということなんです。このちょうど黄色に塗りました網掛けの時代、一九九〇年の半ばから実は世の中がずうっと変わってきているんですね。これはグローバル化にずうっと進んでいった時代なんですよ。一九九〇年代の半ばから、
日本もそれに即して、それぞれの
経済界がどうやって国際化の中で生きていこうかという経営方針になっていった時代と、これがまたマッチするんですね。だから、これはいわゆる、ある
意味では
競争社会になっていったんです。だから、私は、これはまた一つの
国際社会の流れであるわけでございます。
最近、何人かの学者が新帝国主義論というのを述べております。これは、今アメリカの一国体制といいますか、アメリカ帝国主義というような言い方もしている人があります。これはいろいろと見方もあろうかと、このように思っておりまして、学者内でもいろいろ帝国論がございますが、共通して、共通して言っておるのは、グローバル
社会は格差につながるということを言っておるんです。これは、ここが共通しているんですね。
それはどういうことかというと、
経済のグローバル化ですよ、これは、だからグローバル企業はそれにマッチしていけるんです。だから、大きな自動車会社とかそういうのはグローバル化に対応していけるけど、大部分はドメスティックなんですね。このドメスティックと、グローバル化に付いていける企業なりそこに勤める人々とドメスティックの
人たちに、ここに大きな格差が出るだろうと、こう言っておるんですね。
私は、これはあながち間違った見方ではないと。現にこの格差といいますものが非常に今
我が国でも問題になっているし、
世界的にもこの格差問題というのは大きなそれぞれの国の課題になっているんではないかと。じゃ、
日本はこれからどうしていけばいいんだと。グローバル化に対応できる企業はいいです、そこで働く人はいいですが、ほとんど、八割はドメスティックなんですね。ここにどう私は光を当てていくかというのがこれからの課題ではないかなと、こんな
思いがしておる次第でございますが。
その中で、グローバル化に対応していくためにいろいろな施策、規制緩和とかやってきました。派遣業といいますものの規制を外していったのもその一環だと思うんです。それでグローバル化に対応してきました。しかし、一方では、いろいろな問題をドメスティックの中に発生させておるんではないかと、こんな
思いがするわけでして、じゃ、ここでどうするんだというところに私は知恵を絞らなくちゃいけないんではないかと、こう思うんですね。
そこで、私がない知恵を絞っていろいろと考えましたところ、これは一つ大きなポイントかなというのがスーパーコンピューター。スーパーコンピューターが、これは実は私の地元の福岡に持ってきたかったんですよ、九大が移転しまして、ここに持ってきたかったんだが、残念ながらそうはいきませんで、兵庫県ですか、神戸に持って、これはこれでいいんです。いいんですが、これはこれでいいんですが、実はこのスパコンの活用というのは自然科学なんですね。自然科学なんですよ。
これは、例えば航空機とかそれから遺伝子とか、もういろいろなもの、だから天気予報なんかもこのスパコンでやると、何といいますか、もうピンポイントで雨が降るかどうかというのが出てくるんです、予報で。これを自然科学に活用していこうと。これから、科学技術創造立国ですから、この
世界一のスパコンを大いに活用するというのは当然のことですが、私は、それだけではなくて、
社会科学にもこれ応用できるんではないかと、こう思っているんですね。
実は私は、ちょっと話が飛びまして、超先端から超古典に行きますと、私は、ちょうど学校出てしばらくしまして、まだ二十代の後半だったんですが、その当時、財界の重鎮でございました石坂泰三さんと、十人か十五人ぐらいで囲んで、カレーライスを食べながら
お話を聞く
機会を毎月一回持っておったんですよ。そのときに、石坂泰三さんが、いろいろな
お話をしていただきました。その中に、いや、君
たちももうちょっと年を取ったら易学、易経ね、易学に触れてごらん、面白いよと、こうおっしゃったんですね。私はそのとき全く
意味が分かりませんで、だけどちょっと本を買って易経の本を読んでみましたけど、さっぱり分からない。これ、難し過ぎて分からないんですよ。しかし、今考えますと、石坂さんが何をおっしゃったかというと、この易学、易経というのは、中国四千年の歴史の中で生身の人間がうごめいてきたその集積なんですね、統計なんですよ。それをどう読むかがやっぱり経営者の眼力だったんだろうと、私はそんな
思いがするので、今、今この石坂さんの言葉というのは非常に私は、ああそうだったのかなと、しかしその当時の経営者というのはそんな深い哲学を持ってやったのかなと。四書五経を学んで、明治の生まれの方ですから当然かもしれませんが、そういう教養の素質を持って経営に当たっておられたんだろうと、こういう
思いがするんですね。
そのときに、この易学というのは正にそういう人間の営みの集積ですから、これはなかなか数字とかなんとかに表すことはできないかもしれないが、スパコンだったら統計で取れると思うんですよ、統計で。というのは、これは私は
自分で経験したんだけど、地元のある企業に行きましたら人相機械というのがありまして、顔を入れてあれすると、ぽっと出てくるんですよ、性格が出てくるんですよ。これが意外に当を得ておりまして、いや、人相もそうだし、これ統計なんですよね。また、アメリカはもうやたらめったら統計を取るところでして、その統計を活用しながら、無駄な統計も一杯あるんだろうと思うけど、無駄な統計を活用しながらいろいろな基礎的な方向付けをしているんですけど。
私が今何を申したいかというと、そういう先端技術、これは
世界一ですから、今はまだアメリカの方がちょっと上ですけど。これ一秒間に十の十六乗の計算ができるんですね、これちょっともう想像が付きませんけど。そういうスパコンです、スーパーコンピューターなんですが、これを自然科学に応用すると同時に、
社会科学に応用するかしないかが、これはやっぱり政治の一つの発想だという
思いがしておりまして、同じ何百億かの金を掛けて、自然科学だけじゃなくて
社会科学にも活用していくということは一つの示唆として申し上げておきたいと、こんな
思いがしておる次第でございます。
先端技術と古典と相一緒にしたような
お話になって大変恐縮でございますが、やっぱり人間の営み、政治という中で、
総理もこれから
日本のトップリーダーとしてリードしていただくということについて、そういうことにもちょっとお考えを寄せていただくということで美しい国づくりというのにつながってくるということでございます。
そこで、そこで私は一つ非常に心配しておりますのが、今申しましたように、
経済界、そういう
方々が
日本の戦後を築いてこられたと。だけど、どうも最近、いろいろな
教育に対する御
意見もいただいておりますが、コムスンですか、ああいうことがあったし、我々政治も含めてやっぱり
教育というか、その奥にあるものを我々
日本人は追求しながら政治に
経済にやっぱり一生懸命頑張っていかなければならないんじゃないかなと、それがやっぱり一つの
教育の進む道じゃないかなと、こんな
思いがするわけでございます。
経済界では渋沢栄一、渋沢栄一は「論語と算盤」という本を書いていますね。やっぱりそこに一つの規範といいますもの、渋沢栄一が立ち上げました東京商工
会議所の倫理綱領というのにはそれがちゃんと書いてあるということでございます。
そういうことも含めまして、時間が随分たってしまいましたが、申しますように、総掛かりで、総掛かりで
教育を
再生していこうと、そうすると、その
再生によって美しい国をつくっていこうということではないかなと、こんな
思いがするわけでございます。
実は、項目十ぐらい渡しておりましたけど、今、一項目が終わったばかりでして。それで、ずっと
大学の問題、科研費の問題、
運営費の問題、いろいろもう出てきましたので、出てきていないのを一つ御
質問したいと、このように思っております。
それは、ある統計によりますと、今
世紀の半ばには女性の平均寿命は九十歳になるんじゃないかと、こう言われております。そうしたら、四人に一人が六十五歳の女性なんですよ、六十五歳の女性なんですね。夫婦の年齢差が五歳、平均寿命の差が五歳になると、御主人を亡くされて、そしてあと十年間女性は生きていかなければならないということなんですね。
戦後、男女同権、男女共同参画
社会等々言われてまいりましたが、戦前は良妻賢母、いわゆる嫁しては夫に従い、老いては子に従うというのが女性の模範的な姿と、こう思われておりました。ただ、私は、良妻であり賢母であることは大変すばらしいことであるが、それによって女性が潜在して持っております
能力をやっぱり相当抑え込んでしまったんではないか、だから戦後はそれを全部出していただこうということになったと、このように思っております。
だから、それはそれで私はいいと
思いますが、昨今、これは親というものにも絡んでくるんですが、男も女も、夫婦、女性が、母親が、母親が
子供を殺したり置き去りにして愛人と遊び回ったり、これは私は本当に考えられない。今度の新しい
教育基本法に、
教育の一義的な
責任は保護者と及びそれに類すると、こう書いてありますね。前の
教育基本法には書いてないんですよ。それから戦前の
教育勅語にも書いてないんですよ。論語にも書いてないんですよ、孝は書いてあるんです、親孝行は書いてあるけど。親が子を慈しむなんというのは当たり前のことであって、一々そんなのに書いてないんですね。
しかし、今回のこの新しい
教育基本法にはそれを明記したと、明記せざるを得なかったというのは、よかったか悪かったというのは大変私は疑問があって、本来ならそんなこと書かなくても当然のことであり、母親が
子供を慈しむというのはこれは女性の本能ですから、雌の本能ですから。雌と言ったら大変語弊があるかもしれませんけど、世の中は、地球上は雄と雌ですから、本能なんですね。しかし、こうせざるを得なかった。
そして、今日の世相を思うときに、私は、まだだれも触れないが、女子
教育というのに、男子
教育ももちろん必要ですよ、女子
教育というのがほとんど今まで戦後触れられていないということについて、これはちょうど副
大臣おられますので、何かお考えがあれば是非お聞かせいただきたいと、このように
思います。