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西島英利君 我々臨床に携わっている者からしますと、
尊厳死というのは、
自分が
植物人間的な
状態になったときにもう積極的な
治療は必要ないという、そういう
考え方を前もって示しておくというのから
尊厳死ということを言われてきたんだろうというふうに思いますし、
安楽死は、まだ
意識のある間に、このような苦しみはもう味わいたくない、だからできれば早く楽にさせてくれというようなところが
中心になって、
本人の
意思に基づいての
医師の措置という形になっていくのかなというふうに思うんですが。ただ、この
安楽死の場合は、
日本でもしこれを
医師がやりますと、これは
殺人罪ということで、法的に認めておられないわけでございますね。これ、非常にやっぱりなかなか難しい問題でもあろうかというふうに思います。
しかし、今回の問題は、これは
延命治療の
中止というところで起きた
事件だろうというふうに思うんですが、この
延命治療の中で問題になるのは
人工呼吸器の問題であろうというふうに思っています。
最初は、
患者さんが来られますと、そのほとんどが
救命のために
人工呼吸器が
装着されるわけでございますけれども、そしてこの
人工呼吸器を
装着したおかげで心臓とか
肺呼吸が停止していた
状態から改善した
方々というのは、これはもう数多くいらっしゃるわけでございます。しかし、その
回復の
見込みがなくて
意識のない
状態で
人工呼吸器を付け続ければ、これは
心肺機能は停止をしないわけでございます。つまり、
機械的に生かされているという、この
状態がずっと続いていくということでございます。
もちろん、これはよく団体の方からも要望受けるんでございますが、
筋萎縮性の
側索硬化症という自然と筋力が低下をしていって
自分で
呼吸ができなくなってしまうというような
方々もいらっしゃいますけれども、これは進行していけば当然
機械に頼らざるを得ないわけでございますけれども、しかしこれは当然必要であるから、これは
人工呼吸器としてはやっぱり
装着をずっと続けていかにゃいけないわけでございます。
しかし、今回のこの
富山県の
射水市民病院の
事件のように、
回復の
見込みがなく、そして
意識のない
状態で
人工呼吸器を付け続けた場合、これに限って
質問をさせていただきたいというふうに思います。
今回の問題は、
昭和四十年前後だと思いますけれども、
人工呼吸器が
開発をされたときからずっと先延ばしをされてきた問題だというふうに私は
考えております。この
機械そのものが非常に高いわけですね。高価でございますし、よって数も多くない時代が当時はございました。しかし、一度
装着しますと、数少ない
機械ですから、それずっと続けていかにゃいけない、
心肺機能が停止しないわけですから。そういう
状況の中で、次から次にその
人工呼吸器を必要とする
患者さんが
入院をしてこられるわけでございます。しかし、幾ら来られても、数限りのある
人工呼吸器でございますから、それを簡単に外して新しく来た
患者さんにそれを
装着するということができないわけでございまして、この
人工呼吸器を外さない限り、
救命の
可能性のある人には
装着をできないということでございます。
私も実は
大牟田労災病院というところに勤務をしておりまして、その当時は、この
人工呼吸器二台しかございませんでした。連日のように脳卒中の
患者さんが
入院をされてきまして、この方に
人工呼吸器を付けると何とか
救命できるんだがなと思いながらも、一方ではもう付けているわけでございますから、どうしてもそれを簡単に外すわけにいかないということで、非常に
医師としても残念な思いをした経験がございます。
ここに、
昭和四十七年の一月三日の毎日新聞に「「
植物人間の生と死」 いつ、だれが、見切るのか」という
記事が出ております。
日本で第一号の
集中治療室を作られた順天堂大学の
病院、この
佐藤光男教授という方が、この
記事の中でこのように述べていらっしゃいます。限られた
ベッド、これ十三
ベッドしかございませんけれども、この限られた
ベッドにどの
患者を入れるか、
蘇生術をどこで打ち切るか、一切私の
判断に任されています。各科の
医師に任せれば、どうしてもそれぞれのエゴイズムが絡むからです。私は、だれよりも
中立無私で
判断を下せる立場に置かれているんですがと。つまり、突き詰めて
考えれば、どの命に救いの手を差し伸べ、どの命を見限るかと、常にぎりぎりの
判断を迫られているわけだと。最新の
ICUをつくったばかりに背負ったこれは苦痛である、苦悩であるということが書かれてあります。いかに手を尽くしても死を免れない
患者、例えば
がん末期のような
患者さんはもう初めからこの
集中治療室には入れないんだというところまで割り切っておられるということでございます。そして、この方は、七年間ずっとこの
集中治療室でかかわられて、今でも解決しないということを実はこの新聞の中で述べられているわけでございます。
また、東京慈恵会医科大学、ここも
集中治療室を当時つくられたわけでございますが、このときには、一人の
医師に
判断させるべきではないということで、
昭和四十四年に
ICU委員会というのをつくられました。そこで、この
人工呼吸器を取り外すかどうか、
延命治療を
中止するかどうかというのはこの
委員会で
判断をするということをお
考えになってつくられたわけでございます。
今急がなければならないという問題は、今回、
厚労省から
高齢者医療制度の創設が
提案をされているわけでございます。特に、
後期高齢者の
医療制度、これは、積極的な
延命の
治療は行わずに、みとりの
医療にするということがどうも今までの
議論の
中心だったように私
自身は思っているわけでございます。そういう
考え方の中でこの
高齢者医療制度というのが
提案をされているように私
自身は
考えているわけでございます。
そういう中で、今全国で実はこういう問題起きているんですね。みんな
医師は悩んでいるわけでございます。しかし、これは、じゃ法的にどうなのかといいますと、これは
法律で
整備をして解決する問題ではない。ですから、今申し上げたような、じゃチームで
判断をし、当然これは
家族の御
希望も入れた中でやっぱり
判断していく、そのような
仕組みというのが私
自身は必要だろうというふうに思っております。是非、国の
考え方を、
ガイドライン的なものでも結構ですから、やはり早急にお出しをしていただきたいなというふうに思っております。
実はここに、
日本医師会が
平成四年の三月に、
日本医師会の
生命倫理懇談会というところから「「
末期医療に臨む
医師の在り方」についての
報告」書というのが出ております。
平成四年でございます。この中にも「
延命と
生命の質について」と非常に詳しく載っておりまして、この中で、これは二年間
議論をして出された
報告書でございますが、この中の
委員のメンバーは、元の東大の学長をされておりました
加藤一郎先生を
中心にして、
哲学者とか
経済家の
方々とか、様々な
方々で実は
一つの
報告書を出されているわけでございます。
そういう
意味では、
議論のほとんどというのは私はし尽くされてきたのではないかなというふうに思っております。そういう
意味で、国からの指針というのを早急に示していただけないだろうかというふうに私
自身は思っているところでございます。
また、これは私、
現場でずっとやっていて、
希望のない
延命で
家族の
方々の精神的な疲労というのも大変なものなんですね。それで、それがずっと続きますと、
家族内での実は様々な
トラブルに発展してしまったということを何回も私
自身は体験をいたしました。
ですから、そういう
意味で、是非早急に、これだけ大きな問題になったわけでございますから、国としての何らかの
考えをお示しをいただけないだろうかという
質問で、
大臣、できましたらコメントいただければと思います。