○池坊
委員 それでは、先ほどからも質問に出ておりました豊かな情操と道徳についてお伺いしたいと
思います。
憲法十九条では、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と書いてございます。しかしながら、私は、心や態度を
教育で扱ってはいけないと
考えるのは、果たして正しいのだろうかと疑問を持っております。
教育で最も大切なことは、心の
育成ではないでしょうか。だからこそ、「
教育の目標」の第二条の一に豊かな情操と道徳を培うと明示してあるのだと
思います。
知が優先し徳が欠如する人々によって構成される
社会は、本当に悲惨なものだと
思います。かつて
日本でもカルト
宗教が無差別テロを起こしましたが、そこにいた
人たちは、高学歴、優秀な研究者もおりました。私は時折
思い起こすのですが、ヒトラーのナチス・ドイツ、これは中心者十五人によって
形成されていたのです。そのうちの八人までが博士号を取得しておりました。この
人たちによって五百万以上のユダヤ人が殺されたのです。
私は、知がなくては
人間とは言えないかもしれないけれ
ども、知だけあったって徳がなかったら、これは害そのものだというふうに思っているんですね。
哲学者のウィリアム・ジェームズは、
人間が持つ支配や闘争の本能を昇華させていくためには、
戦争にかわる何らかの道徳的価値を用意する必要があると言われております。私も全く同感なんです。
人間は、平和を願いながら、その一方で潜在的に戦うことが好きなのではないか、
戦争と略殺の愚かな歴史を見るときに、私はふとそんなことを
考えるときがございます。
時に
子供は、
大人にははかり知れないエネルギーを有しております。このエネルギーを何かよいことに転化すべきと私は思うのです。
人間は
人間として生まれるのではなくて、潜在的な能力を引き出され、そして耕し、滋養を与えられ、そして初めて
人間になるのではないかと思うんですね。先を歩む
人間は、何のために
人間は生きているのかとか、正義感とか公平さとか、あるいは
人間の価値とか、そういうものをもっと毅然と伝えていくべきだと思うんです。
父は、
戦争によって財力も地位も、いろいろなものをすべてを失って、私たち
子供に、どんな
時代にあっても流されない
自分を持つこと、自立した
自分、そして個の確立、それが大切だというふうに教えました。だから、私は今でも、人のせいにはしない、責任転嫁はしない、それが父から教えられたことかなというふうに思っているんですけれ
ども。
ある種の
教育、ある種というのは何を指すのかというと、私は、
人間としての心の持ち方、つまり、
人間としての
基本的なルールだと思うんですね。それを親や
地域やそして先生が教えなくて、一体、自然に身につくことができるのでしょうか。もちろん、本を読んだりすることによっても身につけることはできますけれ
ども、私は、例えば
社会的ルールとは自己抑制と自己主張とのバランスであるとか、個の
尊厳と
公共の
精神の
あり方とか、そんなことはやはり教えていくべきだというふうに
考えております。第一義的には、「家庭
教育」の中に、保護者が
子供の
教育を担うというふうに書いてございますが、親がそうであることも当然ですけれ
ども、心を扱うこと、心を育てることを先を歩む
人間は遠慮してはならないと私は強く強く思っております。
強制はいけない、押しつけはいけないとおっしゃいますけれ
ども、頭ごなしに押しつけるのではなくて、自然に芽生え、醸成させるようにしていくことこそが
教育の大切な要素だと私は思うんです。ですから、そのことに保護者も教師も心を砕くべきと思っております。
もちろん、指導等はしても評価はすべきではないと思っておりますけれ
ども、
総理、
人間としての
基本、豊かな心、情操をはぐくむということについて、
総理のお
考えをお伺いしたいと
思います。