○松原
委員 まず、これが大きなうそであります。
私は、ここに、当時南京において宣教師がいました、西洋、ドイツ人とか
アメリカ人とか。そういう西洋の宣教師たちが南京の中に安全区というのをつくりまして、そこは守る、安全区をつくる、そのことに全力を尽くしていた、そのところのデータがあります。
後にベイツとか、この間申し上げましたティンパーリとか、かなりうそ八百を入れて
日本の虐殺を捏造しておりますが、そのときに、南京で、当時の
中国人を守るために命がけで活動していたこの
外国の
人たち、本当に率直に闘っていた
人たち、国民党の意思をもって代弁していたティンパーリとかベイツではなくて、そういった
人たちは、極めてここに書いてある、安全区をつくろう、
日本軍が来る、一般の市民を守らなきゃいけない、安全区をつくろうと。そして、彼らはたくさんの手紙を自分の家族や自分のワイフとかに出しているんですよ。それが、今、エール大学の神学大学校の図書館に置いてある。これはもう時間がないので、私が幾つかポイントを読んでいきます。
彼らは安全区には爆弾や砲撃をされないと保証する立場にはないが、その地域が軍用目的の支那軍に使用されない限り、
日本軍は攻撃をする意思はないと考えているようだった、これがミルズからの手紙です。そこで彼が書いたのが、信仰に基づいて我々は何とか守りたいと。彼らはキリスト教徒でありますから。
彼らはこのことによって、つまり、大虐殺があったとすれば、彼らの行動は無
意味だっ
たんですよ。でも、実際は、彼らは自分たちの行動を褒めているんです。これは、
中国側の言うような大虐殺はなかったことをはしなくも証明しているんです。私は、安全区においてそういったことが成功したという彼らの文献をきちっと論証すれば、
中国側のうそというかデマというか、これに対してのいわゆる偽証というものが明らかになると思うんですね。
時間がない中で、幾つかこれを読んでいきたいと思いますが、このミルズさんの手紙。
実際、
日本軍と交渉している。安全区には爆弾を落とすなと言っている。それで、なかなか返事が遅いと書いてあるんですよ。支那軍は市政府が
承認したことがはっきりわからないと主張して安全区の東南の境界線を変えるように試みてきた。
中国の軍隊も、ここだと西洋人の
人たちが決めた安全区の場所をずらそうとしたと。その後、この安全区において、
中国の軍隊が中にいたら安全区は攻撃すると当然
日本軍は言うわけですよ。だから、彼らの行動は、必死になって
中国の軍隊を安全区の外に出す、こういった行動に入ってくるんです。
そこに書いてあるのが、ここでそのとき、さまざま、ほかの極めて貴重な話もあるんですが、この辺を中心に言いますと、これはスマイスという人の手紙です。
そのスマイスの手紙で、この唐、唐というのは
中国軍の南京の司令官ですね。部下に兵隊を五台山付近から安全区の外に出すように懸命に交渉した、一昨日に安全区から撤去させよという約束は実現しなかった、こういうふうな苦労も書いてある。
そして、今度はヴォートリンという方の手記ですね。手記というか手紙です。国際
委員会のメンバーは、常に支那軍に対して大至急安全区からあらゆる軍事施設を撤去するように求めたと。そこを安全にしよう、こういうようなことをずっと彼らはやってきている。
そして、マギー。このマギーというのはかなり
日本のことを東京裁判で悪く言った人間でありますが、マギーの誤謬というのも大分論証されておりますが、そのマギーの手紙の中にも幾つかあって、例えばマギーの手紙、彼も言っているんですね。
中国の兵隊が人々の家を焼いている。人々の家を焼くことは、本当に非常識な無情のことと思えます、もし一カ月も市を持ちこたえられるなら合理的かもしれませんが、今の場合には当てはまりませんとマギーも書いている。つまり、
中国軍によって南京に火がつけられているということも証言されているわけであります。非常に興味深い記事がずっとある。
そして、例えば、今度はフォースターという
外国人の手紙であります。このフォースターによると、太平路という道のところで支那兵がソーダ水、フルーツジュースや他の食料品など、彼らが運ぶことができて使うのに便利と思われる品物の略奪をしているのに会ったと。余り多くの兵はそのあたりにいませんでしたが、たくさんの店がこじあけられ、規律がない模様でした。兵隊は負傷者もすべて勝手に徘回しているようでした。これはフォースターの手紙に書いてある。こういう手紙がたくさんエール大学にあったわけであります。
さらに、これはスマイスからの手紙であります。我々は支那兵が安全区から出るまでだれの安全も与えることはできないと返事をしたと。
ところが、マギーの手紙に、この前後で、安全区の中だから行うべきではない鼓桜の近くの公園に支那軍は大砲を据えましたと。またこういうふうなこともやっている。この辺のいわれというのは、非常にポイントとしてあるわけですね。
そして、このスマイスの手紙の中には、タング牧師というのが一団で動いていたとき、支那の敗残兵が彼らの車を略奪しようとした、それから逃げて戻ってきた、敗走して大混乱を起こしている軍はまさに安全区を通って、興奮の極致にあった、こう書いてあるわけであります。
さらに、これを一九三八年の二月三日のシカゴ・デーリー・ニューズのスティールという記者が言っているのは、十二月十二日午後四時半ごろ、崩壊がやってきた。これは退却する
中国の兵隊が百万ドル庁舎に放火した。そこは弾薬庫として使用されていた。まるで地獄に解き放たれたがごとく、爆発と炎上が続き、群衆のパニック、混乱は一層高まったと。
そして、このところに、例えば譚道平という
中国人が書いている文章は、夜になるとパニック状態になり、ある門から脱出しようとする部隊と、これを崩れてくる兵隊とみなして武力で阻止しようとする
中国軍との間で銃撃戦が繰り返され、大惨劇が起こった。
それから、違う蒋公穀という当時の防衛軍の人間が言っているんです。すぐ左手の路地で助けを求める鋭い叫び声、許しがたい禽獣のような漢奸が機に乗じて凶暴性を発揮し、通行人を銃撃している。漢奸というのは
中国の裏切り者ということですね。つまり、
中国国内における物すごいそういった騒乱があったということであります。
私は、こういうのを考えたときに、確かに戦争というのは必ず悲惨な状況がある。しかし、その中で、こういうものが起こっているということをやはり我々は認識した上で、彼らのこのうそをはっきりしていく必要があると思うんですね。
これはスマイスの記事で、
日本軍が入ってきたときの記事です。人々を傷つけることはなかったというふうに書いてある。そして、ここにおもしろい、確かに百人の先遣隊が道路の南側に腰をおろし、その反対側でたくさんの支那人の群衆が彼らを眺めていた。人と見れば切り殺し
たんだったら、こんな状況はないんですよ。彼らを南京にいる人間は見てい
たんです。そのとき、このスマイスは、
日本兵に対して地図を示し、ここは安全区だからこの地域では
日本兵は鉄砲を撃ったりしないようにと指示を与えているんですね。
これは、
中国側が言っている南京大虐殺と全然状況は違っているわけであります。
日本軍の司令官が言っているのは、彼らは南京を落とすとき大きな犠牲を払った、そして支那軍が民衆を撃ったとその
日本軍の司令官は言っている。これも書いてある。
そして、時間が来てしまったので多く言えませんが、安全区は理想的ではありませんが間違いなく無数の命を救いました、これはフォースターの手紙。私たちが路上で見た死体は二十五人以下です、安全区の
人口は、土曜、日曜、月曜日に急増し、十万人がいますということを書いてあります。
途中いろいろと極めて重要な記事があるんですが、それはあれしまして、もう時間がないので、最後にちょっとだけ申し上げますと、ここで、一月一日に、これはスマイスの手紙、朝早くから
日本軍からもらった爆竹で大喜びの子供たちがいたと。これは、虐殺した後にこういうことがあるのだろうか。
それで、一月二十四日のミルズの手紙、上海路と寧海路は今や南京の繁華街になっている、以前は太平路や中山路だったと。こういうふうな、虐殺があったところで、半月やそこらでそこまでなるのか。
つまり、まさにこういう手紙によって、南京大虐殺は、
中国側の三十万という数字なんて全くのうそで、そんなのどこにも書いてないんですよ。こういうことを私ははっきり言うべきだと思うんですね。
私は申し上げたいんですが、このエール大学の文書、このことを把握していますか。