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仁比聡平君 ありがとうございます。
日本共産党の
仁比聡平でございます。
憲法前文、九条と安全保障について
意見を申し上げたいと思います。
私たちは、沖縄戦と被爆、終戦から六十年を刻む
歴史的なこの年を、イラク戦争という戦場への自衛隊の派兵継続と海外派兵の本来任務化の動き、
憲法九条にねらいを定めた改憲の動きの強まりの中で迎えました。
この点での改憲論の中心は、軍隊である自衛隊の存在や集団的自衛権の行使、
国民の国防の責務などを
憲法上認めること、あるいは明記するという点にありますが、これは、ブッシュ政権が強く求め、財界のねらうアメリカ追随の軍事大国化、米軍と一体となった自衛隊の海外派兵と
国民総動員、最前線基地への再編など、戦争をする国づくりによって広げられてきた
憲法違反の現実、
憲法と現実の乖離を
憲法の方を変えることによって埋め、その路線の
最大の障害となっている
憲法九条の歯止めをなくそうとするものにほかならないと思います。
小泉
内閣は、その路線の本質について、事あるごとに
世界の中の日米同盟と繰り返しますが、それは、従来の専守防衛の建前や日米安保条約の枠組みを大きく踏み越え、グローバルな同盟、地球的規模での軍事同盟を目指すものにほかならないと思います。
新ガイドラインと周辺事態法の強行によって、
日本への武力攻撃がない下でも、アメリカがアジア太平洋地域での軍事行動を起こせば、周辺事態を名目として
日本が後方地域支援という形で自動的に参戦する仕組みがつくられました。
すなわち、日米安保
体制の軸足を
日本防衛からアジア太平洋に移し、アジア太平洋での日米共同対処を具体化をしたもので、例えば防衛大学校助教授の新沼毅氏は、新ガイドラインは、
日本が自国領土以外の有事を
日本への脅威であると初めて認め、米軍と共同対処することを合意をしたことで画期的重要性を持っていると述べています。周辺事態は地理的に全く無限定な概念であり、そこにおける後方地域支援とは、戦闘中の米軍に対する武器、弾薬、兵員の輸送、燃料の補給などで、これは戦争の不可欠な構成
部分にほかなりません。
さらに、武力攻撃事態法など有事法制の強行は、周辺事態法と一体となり、自衛隊が出動して米軍と共同対処できる
日本の戦争
体制、米軍支援
体制を整えるものであり、その
体制への地方自治体、民間の協力を
義務付け、罰則
規定まで設けて、
憲法が侵すことのできない永久の
権利として現在及び将来の
国民に与えられるとする
基本的人権を制限するものです。その中で、九〇年代以降、自衛隊の海外派遣が常態化し、今世紀に入ってから、アフガニスタン報復戦争、さらに戦後初めて戦闘が続くイラクへの陸海空自衛隊の派兵が強行されました。我が国の防衛のみを建前として創設をされた自衛隊の実際の役割は、今や海外での
活動に置かれ、自衛隊の性格はなし崩しに変えられてきました。こうした既成事実を踏まえて、自衛隊を国際貢献、国際協力を基本任務とする軍隊へと本格的に変えようとする動きが強まっています。
〔
会長退席、
会長代理簗瀬進君着席〕
自衛隊の明記や集団的自衛権の行使、国防の責務などの改憲論は、この
世界の中の日米同盟路線と表裏一体となり、
憲法違反の現実を追認しようとするものであるとともに、海外での武力行使や武力行使との一体化は絶対にできない歯止めとなっている九条を取り払おうとするものです。このねらいが
国民的な要求ではなくアメリカから発生したものであることは、二〇〇〇年十月のアーミテージ報告であからさまにされました。
それは、新ガイドライン以降の太平洋をまたぐ日米同盟における
日本の拡大された役割は上限ではない、いまだ基礎にすぎないとした上で、
日本が集団的自衛権を否定していることが同盟協力を束縛するものとなっていると集団的自衛権の容認を求めるものですが、このアーミテージ報告以降、我が国の戦争をする国づくりと改憲論が急速に強められたことは多くの論者が指摘をするところです。
ここで加えて指摘をしたいのは、ブッシュ政権の言う集団的自衛権は国連憲章五十一条に言うそれとは似て非なるものであるということです。
国連憲章は、第一次
世界大戦の教訓から戦争の違法化に踏み出した
歴史を、第二次
世界大戦の再び惨禍を繰り返した教訓を本格的に生かし、武力行使も武力による威嚇も禁止し、軍事力均衡論、抑止力論に基づく軍事同盟による対抗をなくし、国連の下に社会
体制を区別せずにすべての国が参加する集団安全保障
体制を大原則として打ち立てました。
軍事同盟にこだわる米ソの動きにより、例外として五十一条に集団的自衛権が盛り込まれることになりましたが、それは、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間という極めて制限的、限定的に認められているものにすぎず、あくまで例外的な一時的、暫定的なものにとどまっています。
この点で、本
調査会に参考人としておいでいただいた本間浩参考人は、昨年二月二十五日の参考人質疑の中で、憲章二条四項の大原則からすれば同盟は本来否定されるべきだと述べられました。米ソが集団安全保障方式を制約するような原則を何とか国連憲章の中に持ち込もうとして、そこにできたのが集団的自衛権という
考え方であり、したがって、集団的自衛権は国際的に慎重にその行使の
在り方を考えていかなければならないものだと同参考人は指摘をされています。
同じく本
調査会の参考人質疑の中では、アメリカが国連憲章上の自衛権行使として認められない武力攻撃を行ってきたことが厳しく指摘をされました。
昨年二月十八日の田岡俊次参考人は、アメリカ大使館に対する攻撃など、領土への攻撃ではなく自衛とは本来言い難いものを自衛だと言ってやってきた、そういったものと、集団自衛と言い出すと実は違法なことに引っ張り込まれる、こうおっしゃっています。
また、二月二十五日の豊下参考人は、集団的自衛権の
濫用の
歴史を具体的な例を挙げて述べられています。そもそもアメリカの自衛権概念について豊下参考人は、すっかりもう五十一条と離れてしまっている、そこに非常に大きな危険性がある、こう指摘をし、本間参考人は、アメリカは、国連憲章に定められた自衛権、個別的自衛権も集団的自衛権も含めて、本来アメリカが考えているようないわゆる自己保存権的な非常に拡大された自衛権を再確認したにすぎないものとし、だからアメリカは、憲章に言う武力攻撃が発生したときというのは
一つの例示であって、武力攻撃が発生したとき以外の場合でも自衛権を行使できるんだという解釈をしており、これはヨーロッパ諸国の中では支持されていないのだと厳しく指摘をいたしました。
このようなアメリカの
考え方や、また一国覇権主義、先制攻撃戦略は、国連中心の平和の国際秩序という本流に反する逆流であり、孤立と破綻への道を深めています。
二〇〇三年九月、国連総会でアナン事務総長は、このアメリカの戦略をとらえ、過去五十八年間、
世界の平和と安定が依拠してきた原則に対する根本的挑戦だと厳しく告発をする演説を行いました。
今問われているのは、国連憲章に基づく平和の国際秩序か、アメリカが横暴をほしいままにする干渉と侵略、戦争と抑圧の国際秩序かの選択だと思います。
冷戦の終結、一方で、か
つての植民地が独立国として非同盟中立の道を進む流れが、アジアでも
世界でも
国際社会に大きな
地位と役割を果たすようになりました。このときこそ、私は、アメリカの覇権主義的な
世界秩序を許さず、平和の国際秩序を築き、核兵器も軍事同盟もない
世界を実現するための国際的連帯を
世界に広げるために力を尽くすことこそ
日本の進むべき道だと思います。
私は三年前、アフガニスタン報復戦争のさなか、パキスタン国境の難民キャンプを訪ねたことがございます。アフガニスタンの最北部にマザリシャリフという町がありますが、その近郊で果樹園を営み平和な暮らしをしていた村にも昼夜を問わずナパーム弾や巡航ミサイルが撃ち込まれる中、家は焼かれ、家族が奪われ、果樹園も焼き尽くされて、その村の二百世帯約千人の村
人たちが、どこか安全なところはないかと空爆の中逃げ惑うことになりました。四十日間、千キロ以上の道のりをさまよって、私たちが訪ねた難民キャンプにたどり着いたそうです。
私たちは、十四歳の少年に今一番欲しいものは何と尋ねました。おふろに入りたいとか、甘いものが食べたいとか、サッカーボールが欲しいとか、そんな答えが返ってくるかと思いましたら、その子は、少し考えた後で、
世界じゅうの
人たちにアメリカの戦争に反対してほしい、こう必死に訴えました。
そのテントを出たところに一人の女性が疲れ果てて座り込んでいました。黒いブルカから出ている顔や手や足には深いしわが無数に刻まれて、土煙にまみれ真っ白で、私は拝見して、七十歳を超えていらっしゃるんじゃないかと思いましたが、実はその十四歳の男の子のお母さんだということで、せいぜい四十歳だといいます。
同行した女性弁護士が、その方の手をじっと握り締めて、一番したいことは何ですかと尋ねました。その方は、本当に消え入るような声で、おうちに帰りたい、人間の尊厳を取り戻したい、私たちは平和に暮らしてきたんですからとおっしゃいました。
人間の尊厳、ディグニティーという言葉が耳に飛び込んできた瞬間、私は頭を殴られたような思いがいたしました。罪のない人々から、帰る家も村も、生活のすべてを奪った、そして奪っているアメリカの無法な戦争こそ、
世界の平和に対する
最大の挑戦ではないでしょうか。
この
調査の拠点にしたホテルに備えられていた国際電話の番号案内を見て、私は本当に感動いたしました。国際電話の八一番という
日本の国番号の後に紹介される都市番号の最初には広島、そして次に長崎が紹介をされていました。大阪、東京はその後です。
〔
会長代理簗瀬進君退席、
会長着席〕
その地のたくさんの人々と語り合う中で、そこで広島、長崎という町の名前に込められている思いは、アメリカから落とされた原爆の地獄のような苦しみから、平和
憲法の下で今日までの復興を遂げてきたアジアの国、
日本、この私たちの国、
日本に対する心からのあこがれと思いだということを痛感をいたしました。
戦争の違法化を基礎とする国際平和のルールと、その先駆である
憲法九条を守り生かしていく道こそ今求められているということを強く述べ、
意見とさせていただきます。
ありがとうございました。