○吉川春子君
日本共産党の吉川春子です。
日本国憲法制定経過、
前文、
基本的人権に関し
意見を述べます。
私は、
世界政治の発展による到達点を尊重し、受け継ぎ、発展させた国連憲章や古くはマグナカルタにまでさかのぼる人権
宣言などの精神を受け継ぐ
日本国憲法を守り、戦争のない平和な
世界への努力を一層強める決意と方向を明確にすることこそ、敗戦六十周年の年でもある今年、
日本の重要な
課題であると思います。
日本は、
ドイツ、イタリーとともに国際連盟を脱退して、
世界を第二次
世界大戦の惨禍に陥れた国だけに、
世界の大きな流れを大事にし尊重することが重要です。
二〇〇一年、二〇〇四年の二回、ポーランド上院議長、友好議員連盟の御招待で、ポーランド訪問団の一員として私はアウシュビッツへも二回行きました。そのときも、私たちが見学した
ドイツ占領下のポーランド・ワルシャワで、ワルシャワ
市民が蜂起したワルシャワ蜂起の記念碑で、昨年八月、六十周年記念式典で
ドイツのシュレーダー首相が次のように演説しています。我々はナチ軍による犯罪を恥じる余り身が縮む思いだ、歴史をなかったことにすることはだれにもできない、歴史を書き換えたり誤った解釈を行うことは許されない、そうした企てに対しては今後とも断固として立ち向かう必要がある。
ドイツ首相は、ノルマンディー上陸六十周年記念行事でも、アウシュビッツでもこうした態度を繰り返し表明しています。
こうした姿勢がかつての被害国の人々やEUの中での
ドイツの存在感を一定高めていることを思い、翻って、侵略戦争無反省の言動で近隣諸国とぎくしゃくする
我が国のことを思うと、行く末を懸念せざるを得ません。
しかし、私は、
日本国憲法九条の存在は、アジア諸
国民に対しては
ドイツ首相の演説以上に効果があることを確信しています。これを守り抜くことが、政治的、経済的に着実に存在感を高めているASEAN、アジア諸国に対して信頼
関係を築くことにつながり、逆に九条改悪はアジア諸国との友好のパスポートを失うことになるのではないか、このように思います。
憲法制定経過についてですが、改憲論の根拠の一つに、
日本国憲法はアメリカから押し付けられたというものがあります。自民党、安倍幹事長代理が「自由民主」の一月四日、十一日合併号で、
現行憲法を起草したのは数人の米国人だ、二度と米国に対してチャレンジできない国にしようという意図が入っていたかもしれない、国益を負っているわけだから、これを変えるのは我が党だと述べていらっしゃいます。
当
調査会で二〇〇〇年に、GHQのマッカーサー草案を作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさんとリチャード・プールさんを参考人としてお呼びして、
日本国憲法制定経過についてお聞きしました。お話は感動的で、短期間にいい加減なものをつくったなどという心ない誹謗は完全に吹き飛ぶような内容でした。他の
憲法も参考にしたし、一番いい点を
憲法に入れた、
世界じゅうのいろんな
考え方が入っている。
日本の
憲法研究会等も随分いい草案をGHQに渡している。だから、
日本の
考えが入っていないということはない。その
憲法が今まで
改正されなかったので、何だか本当に
日本の国に合う感じが随分ある、多分一週間でつくった
憲法はいい
憲法だと思うとベアテさんは答えています。
世界の
憲法を勉強し、最も当時進んだ内容で草案はつくられていたことは、その後、数多くの
日本の学者による
憲法研究でも明らかになっています。
次に、
基本的人権についてです。
九十七条は、この
憲法が
日本国民に
保障する
基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の成果だと。そして、侵すことのできない永久の
権利として信託されたものであるとしています。
これも、自民党の論点整理は、
前文に、
我が国の歴史、伝統、文化を踏まえた国柄を盛り込むべきであるとし、
憲法改正案にも、
改正草案にもこの
考えが登場しています。
国家像として
我が国のこれまでの歴史、伝統及び文化に根差した固有の価値を大事にする
国民性、一言で言えば国柄を踏まえたものとの
考えは、私は、
基本的人権の普遍性を否定する危険性をはらんでおると思い、賛成できません。
二〇〇〇年三月の
憲法調査会、当
調査会の参考人質疑で西尾幹二参考人は、西洋でもないし中国文化にも隷属していなかったというこの
独自性を、
日本の
宗教、芸術、文化、
教育、ありとあらゆる
観点から
日本人とは何かというものにさかのぼって、きちっと
憲法をつくるのが本来の筋と思うとおっしゃいました。
私は質問して、国連憲章の平和理念、国際人権規約という普遍的原理は文明の違いを超えて形成されたもので、
日本国憲法の平和原則もそういうことで取り入れられたのではないかと質問しました。
これに対して同氏は、人権は普遍思想だとは思っていない。フランス革命は、ヨーロッパ文明の極めてこの人権思想の中には一種の
日本でいえば下克上といったような革命思想が内側に含まれている理念で、
日本の伝統、文化とは違う思想。一貫して普遍的だというのは、言わばそういった方程式で
世界が国連などで語られているため、便宜上そうなっているだけだ。
日本人の持っている人権は、聖徳太子以来の合議の精神。下が上を倒す、あるいは地位の低き者が地位の高き者に嫉妬と欲情を抱いて、
自分の
権利を少しでも拡大してから
権利を剥奪する、それを人権と称するたぐいの西洋的な人権思想は、
我が国古来の伝統の中にはなかったとお答えになっております。
私は、これは驚くべき
考え方であり、
日本国憲法の基本理念にも相反するものというふうに
考えております。
憲法二十四条ですけれども、国柄で見過ごせないのが両性の本質的平等と
個人の尊厳をうたったこの条文を
改正するという発想。これは、戦前のように家庭に女性を閉じ込める思想の復活の動きにつながりかねないと思っています。
二〇〇四年六月に発表された論点整理は、婚姻、家族における両性の平等の
規定は家族や共同体の価値を重視する
観点から見直すべきであるとしています。今後の論戦の方向として、近代
憲法が立脚する
個人主義が戦後
我が国では正確に理解されずに利己主義に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまうのではないかということへの懸念である。
権利が
義務を伴い、自由が
責任を伴うことは自明の理であり、我々としては家族、共同体における責務を明確にする方向で新
憲法に
規定ぶりを
考えていくべきではないかとされています。
〔
会長退席、
会長代理簗瀬進君着席〕
明治憲法における家族
制度は、封建的家族
制度の残滓の下、女性を自立した人間とは扱わず、法的には無能力者とし、女性は人権を無視されていました。
日本国憲法二十四条は、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立すること、夫婦は同等の
権利を有すること、配偶者の選択、婚姻、離婚、家族に関するその他の
事項は、
法律は
個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定しなければならないと定めて、参政権を初めて女性にも与えました。これを手にしたときの女性たちの喜びの声が聞こえてきます。
その後も、女性の人権思想は国連を中心に特に七〇年代目覚ましく前進し、
我が国も、男女共同参画政策推進は今や国策となって、女性の人権確保の基本計画を定期的に策定、改定しています。四十六都道府県で男女平等を目指す条例が制定されています。
憲法二十四条を書き込んだ、さきに引用しましたシロタ・ベアテ・ゴードンさんは、当時、当
調査会で、六歳のときから
日本の
社会に入って、虐げられた女性の状況、奥さんがいつでも主人の後を歩くことを
自分の目で見て育った、戦争前の
日本に住んでいましたから女性が全然
権利を持たなかったことをよく知っていました、
憲法の中に女性のいろいろな
権利を含めたかったと語っておられます。
日本側にこのGHQの
憲法草案が示されたときに、
日本政府は、こういう女性の
権利は全然
日本の国に合わない、こういう
権利は
日本の文化に合わないなどと言って大騒ぎになったということも語られています。
女性の人権
保障は
日本の国柄には合わないとしている論点整理と一九四六年当時の
日本政府の首脳の
考えととても似通っていて、この間時間が止まっていたのではないかとさえ私は思うほどです。
このように歴史を六十年前に巻き戻そうとする動きに対して、多くの女性、女性
団体から大反撃を受けています。
日本の文化、伝統に関して、さきに引用した西尾氏は女性議員の質問に答えてこのように言っています。家庭というもの、今日、人間を結び付けている家庭という
最後の核まで壊そうとしているものは、例えば夫婦別姓というものが登場しておりますが、この突如として飛び出してきた夫婦別姓という説明できない現象は何を
意味するか、これは結局、人権と称して一種の
個人、人間
社会を個体に還元してしまう、そうすると
最後のよりどころである家庭とコミュニティーまでも個に分解してしまう、個をアトムに分解してしまう、こういうすさまじい個体主義、これが今日、公共意識とか共同体意識とかいうものを壊している
考え方です。これは、現在なお
国会に夫婦別姓法案の提出を拒否し続けている人々の
考え方と酷似していると私は思います。
憲法二十四条の
改正という
考えは
世界の女性の人権思想の発展に逆らうものであるということを私は指摘したいと思います。
最後に、私人間の
権利関係について一言申し上げます。
私人間の人権
保障について、
憲法は
国家の秩序や
国家と
国民の
関係を
規律する
法律ですから、基本権もまた
国家による干渉、介入に対抗する防御権を
保障したものであって、私人間の利害
関係の調整は
憲法ではなく民法で行うべしとの見解が伝統的に取られてきました。
しかし、企業対労働者の
関係では
社会的にも著しい力の差があり、人権侵害の救済を当事者間、
司法レベルにゆだねることは
憲法の
基本的人権の
保障が労働者に及びにくいことになります。これは
日本国憲法が望まないことだと思います。
三菱樹脂事件で最高裁は、私人間の
権利、利害の対立の調整は
社会的に許容し得る一定の限度を超えた場合にのみ法による介入が図られるとして、民法九十条あるいは不法行為等の諸
規定の運用で解決を図るとしています。
東京電力等電力会社が思想、信条を理由として賃金差別を長年行ってきた事件は、企業がその過ちを認め、和解しましたが、労働者の二十数年にわたる長い苦しい闘いによって初めて是正されました。また、以前には当然視されていた女性の若年定年制、あるいは丸子警報機パートタイム労働者に対する差別、最近相次いで勝利判決が出た女性の賃金差別、例えば芝信、野村証券、住友電工、いずれも
裁判上あるいは和解勝利していますが、是正までには十年、二十年もの時間が掛かっています。
私は、企業による性・思想差別等
基本的人権侵害が認められなくなっていることは、
国民の不断の努力によるもので貴重な成果であると思います。
日本国憲法の人権
保障が徹底するために、労基法、雇用機会均等法、パートタイム労働法の
整備を行う必要があります。立法、
司法、
行政が人権保護のため
日本国憲法の積極的活用、
適用を行うべきである。そのために、
憲法を、
規定をいじる必要はありません。
以上の
観点から、民主党の創憲に向けての中間
報告において、法の下の平等が確保されることは
憲法上の重要な要件であることを踏まえ、差別禁止が私人間であっても
適用できるものへと
憲法の見直しを行うとしていることには賛成できません。
以上を述べまして、
発言を終わります。