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参考人(
島田晴雄君)
島田でございます。
私は、
沖縄経済・
社会の現状と課題ということで、
沖縄、特に
振興の観点から私の感想を申し上げさせていただきたいと思います。
沖縄は、
皆さんのお手元に一枚紙がございますので、ちょっとそれをごらんいただきながらと思いますが、御
案内のように、
琉球王国の大変長い歴史を持っておって、大変深い
文化と平和を愛する民族ということでやってまいったわけですけれども、薩摩に侵略をされて、
明治日本ができてからその一部になったということで、
沖縄の
方々は大変熱心に
日本文化に同化しようという
努力をされたんですね。
沖縄が輩出した
世界的な
言語学者と言われる
伊波普猷という方がおられたんですが、この方は、それはちょっと違うんじゃないかと。
沖縄独特の
言語文化というものをもっともっと育てなきゃいかぬということで
大変努力をされたんですけれども、
沖縄の
方々の
むしろ理解を得られなくて悲運の死を遂げていったというようなこともあるくらい、
沖縄の方は一生懸命
日本文化に同化しようとした
時代があるんですね。
それから第二次
大戦、まあ、もう繰り返すまでもありませんが、六十万島民の四人に一人がお亡くなりになるという大変な悲惨な
経験をした後で、その最も悲惨な
経験をした島が
米軍の
統治下に置かれたということですね。で、
基地経済なわけですね。
実は、終戦直後、東京にも
ワシントンハイツとか、いろいろ
基地なんかもあったわけですけれども、
本土の
基地はどんどんどんどん減っていって
沖縄の
基地がどんどん増えていくということで、今日では国土の〇・二%しかない
沖縄に七五%の
米軍基地があるということで、大変
戦略的に重要な
地域だということはもう明らかなんですけれども、ここにいろんな問題が伏在するわけですね。
沖縄が一九七一年に
日本に復帰をするということで、これは
沖縄の
方々も大変求めたことではあるようですが、そこで
沖縄は
基地経済で、自立する
経済循環を持っていない。例えば、米国から安いステーキなんかどんどん入ってくるわけですけれども、
沖縄通貨というのは逆に高い
通貨なので、これ
輸出産業を育てられないわけですよね。という矛盾を抱えていて、これは
本土に復帰してから、
日本に復帰してから工業化しようじゃないかという話もあって、多くの
企業が
建設計画を
考えたんですけれども、あの例のオイルショックでもう全部駄目になりまして、結局、
政府が
長期振興計画ということで、三次にわたって十年、どんどん延長しながらやってきた。
この
振興計画、これも
政府としてできる限りのことだったんだと思うんですね。大変巨額な
支援をしてきたわけですけれども、やはり
本土の
企業が
中心になる。技術も人材も資本も
本土から来るものですから、そのリターンが結局
沖縄に根付かないと、
本土へ持っていかれてしまうということで、なかなか
沖縄が自立できないんですね。
という悩みをずっと抱えて、そして
戦争の最も深刻な後遺症を背負っているという
事態が続いておったわけで、また、近年になって、今日、
大田先生御列席でいらっしゃいますが、知事なさっていた
時代にも大活躍なさったわけですけれども、何とか
沖縄を自立できる
経済に持っていけないのかという
構想が繰り返し唱えられました。
沖縄は特別なところだから一国二制度があってもいいんじゃないかというような
議論もあったわけでございますが。特に、
沖縄は細長い島でございまして、南の方は大変な戦災を受けましたけれども、その後、資源が集中しておりますが、
北部の方はどちらかというと取り残されて、バランスのある発展のためには
北部振興をしなき
ゃいかぬというようないろんな議論があったわけでございます。
皆さんよく御
案内のように、私が
沖縄にかかわりましたのは、ある
事件がきっかけになっておりまして、一九九六年に、あの例の小学校の
女子生徒を三人の
米軍軍人がレイプをしてしまったということで、
沖縄の
県民の
皆さん激高されたわけですね。
日米安保条約すら危なくなるかもしらぬというくらいに
沖縄の
方々は激高、当然のことだと思いますけれどもね。
クリントン大統領も
ペリー国防長官も陳謝をするという
状況があって、このとき
中央政府も本当にいろいろなことを
考えたわけですね。
大田先生、知事なさっていて、大変いろいろ御活躍だったんですけれども、
三つぐらいのことをやりましたですね。
一つは、いろんなことを
考えてみると、やっぱり
沖縄はまだ自立する
経済になっていないので必要なだけの
支援をしようじゃないかということで、この
沖縄振興のための
協議会、国の
政府と
大田知事を始めとする
沖縄当局とのそういうプランニングというのをやった。それから、
米軍の
地位協定の見直しをやろうじゃないかということ、それから、
普天間基地というのは
住宅街に大きな
ヘリコプター基地があって、
大変事故を起こして問題なので、これをちょっと移転しようではないかと。このときはもう
橋本総理の
時代になっておりましたですけれども、そういうことをやった。
ということを、いろいろな
議論をというかアクションを取ったわけでございますけれども、
梶山官房長官が大変ある
考えをお持ちになって、
沖縄の
県民の
方々が、やはり
米軍の
トラックが道路を走っていて、例えば
交通事故が起きると。後であの
トラックなんだと言おうと思うんですけれども、
ナンバープレートに番号が書いてないんですよね。そんなようなことがもうたくさんございます。
沖縄の
方々は非常に不安で、それは何とかしなきゃいかぬのではないかということで、住民の目の高さで、やがて
沖縄が自立していくための手掛かりを住民の
皆さんが
考えていただく、それを国が
支援をするというようなことはどうかというので、
沖縄における
米軍基地所在市町村の
振興に関する官房長官の
特別委員会というのができました。ちょっと名前が長過ぎるので、代表をやっている
島田の名前で
島田委員会、それが島懇と言われているんですが、そこに七年間ぐらいのめどで、大体千億円ぐらいの予算を薄く地方自治関係の予算からはぎ取ってきてくっ付けて、そして特別な、一回限りですけれども
支援をしようということでございました。
皆様のお手元に二枚紙がくっ付いておりますが、二枚紙が、その島懇事業と、俗称言われている島懇、
沖縄懇談会事業ですね、の一覧で、約四十三でしたか四十五だったかな、事業が行われて、今は八割方完成をしております。
この事業の特色は、ほっておけばこういう事業というのは必ず箱物になっちゃうんですけれども、そうすると前の繰り返しですから、できるだけ箱物よりもソフトを重視しましょうということでございまして、例えば、ここにうるま市というところを見ていただきますと、きむたか交流プラザ整備事業というのがありますけれども、これは音楽ホールみたいなものですけれども、見事に使われて、
喜納先生いらっしゃいますけれども、また先生のお
考えも伺いたいと思いますが、平田大一さんなんかが活躍をされて、私も何度か拝見しましたけど、中学生、高校生を使った組踊、これ伝統の、
日本でいう、
本土でいうと歌舞伎みたいなものですが、それをミュージカルふうに組み直したもう見事な、まあミュージカルですね、をやって私も見てもう感動いたしましたが、そんなものをコンテンツとして展開しておられたりですね。
あるいは名護市というのは随分、これは名桜大学という学校があって、そこにソフトを育てるためのいろんな施設を造るというようなこともありましたし、それから
沖縄市、これは
喜納先生大活躍なさった根拠地でもありますけど、このこども未来館、あそこに動物園があったんですけど、
沖縄が返還されたときに動物園造ろうよということになったんですが、今どき動物園という話でもないんで、ハンズオンミュージアム、これ
世界でも相当最先端のミュージアムで、人々が参加をして中で子供たちがもういろいろ楽しんでしまうと。ガラス越しに見るんじゃない、そういう、ボストンミュージアムより先へ進んだ
考えですけど、そういうものを工夫してお造りになって、三百人ぐらいの地元の市民がそのコンテンツを引き続きつくっていくという、これ大変なことですよね。どこかの劇場があったって中に出し物がなきゃ意味ないんですけれども、博物館の出し物をどんどん市民がつくっていこうという、こういう仕掛けをやっております。
そして、そのミュージックタウンと、この若い音楽家がいろんなことをやるんですが、練習する場所が余りないわけですね。これうまく機能しているかどうか、後ほど
喜納先生に伺いたいと思いますが、少なくともそういう思いがあってやったというようなことが、こうたくさんございましてね。あるいは伊江村で、
沖縄ってゴルフがとっても盛んなところですけど、伊江村にはゴルフ場がないんですね。ぜいたくかというとそうではなくて、ゴルフするために本島まで船に乗っていってやるという大変厳しい、子供を高校に送るために、本島に、所得の半分を費やしているのが島民ですからね。そういうものでそういうところへレク広場を造ろうというようなことだとか、ソフト重視でやりました。
で、大体、今最大の懸案が嘉手納のタウンセンターを造り直そうという、これは二百億という物すごい事業ですけれども、着々と進んでいるように今思います。今、そろそろ最後の実現の段階に掛かっているわけでございますが。
そんな経緯で、この中で私が
沖縄の
努力の中で注目すべきことがあったなと思うのは、そういう事業をするときに、プランして実行して評価をする。全国の自治体で評価に市民を参加させようという動きは盛んなんですけど、
沖縄ではこれチーム未来という地元の若手の事業家とか有志の
人たちを選んでチームをつくって、その
人たちの提案を市町村が受け入れて
協議をしながら今申し上げたようなシステム、プログラムを作っていく。プランの段階から市民が入るという行政手法は多分
日本で初めてですね。明治以来初めて
沖縄が先鞭を着けたと言えると思いますが、そんな工夫も
皆さんしながらいろんなことをやってきたということだと思います。
最近私は、
沖縄は
皆さんの
努力である意味ではいい方向へ向き出した。依然としてもちろん厳しいものがあります。失業率は全国平均の約倍ですしね、財政力も非常に低いです。しかしながら、それはかつて申し上げたように、自立型
経済が製造業というようなことでつくれない
時代を長いこと通ってきてしまったためにそういうことになっているわけでございますけど、今の
時代、これから普通の環境破壊型の製造業をつくっていいかというと、そういう
時代ではないと思うんですね。
沖縄がどんなに製造業に力を入れても、賃金水準が三十分の一の超大国が、物すごく一生懸命働くそういう
地域が、数億人の
地域が周囲にあるわけでございますから、そこへ
世界じゅうの
企業が第一級の
テクノロジーを出しちゃうということになっているので、そういうわけにいかない。ですから、
沖縄は
沖縄の持っている地政学的な独特なポジショニングがあるわけですね、その有利性もございます。それを活用しながら伸びていくのがいいのではないかなと、そういうふうに思っておりますが、一言で言えばそれは観光と健康だろうというふうに思います。
沖縄はある種、昨今、
日本でブランド的な意味を持ち始めたように思うんですね。数年前までは、
沖縄のイメージというのは、
沖縄から働きに
本土へ来ている方は、御出身どこですかというと、ちょっと
沖縄だということをこう言いごもるようなところがあった
時代が長いことありました。ところが最近の若い人の間では、私、
沖縄から来ているのよと言うと、いいなと、行ってみたいなということですよね。
日本でも、どんどんこれから人口が減っていく中で、宮古島とか石垣島というのはほとんど唯一人口が増えていくところでございますんでね、これはもう明らかに健康にいい。老若男女は今、どんどんそこへ移り住もうということがあって、これはやっぱり「ちゅらさん」効果が物すごく大きかったんではないかと思いますね。
それから、その前にやっぱりサミットがあそこで開かれた。
沖縄でサミットを開こうというときに、実は大変関係当局は難色を示しまして、
米軍基地があるところで、住民が反対しておって、過激派がいるところでそんなことができるかという
議論があったんですけれども、小渕総理が英断であそこをサミットにされたと。
私も小渕総理に進言申し上げたことがあるんですが、この
沖縄は
基地があって難しくてちょっと表へ出せないというふうに
考えていた
時代があると思うんですけれども、それは
沖縄というのが、まあ家でいえばちょっとお客さんとても寄せられない裏の部屋だということなんでしょうが、サミットをあそこで開くということになれば、正客をお迎えする客間ですからね。
日本で最も大切な部屋が
沖縄なんだということをあの
行動で示したということは、私は歴史的価値があったと思いますね。
その後で「ちゅらさん」がもう全国的な人気になって、あのおばあちゃんが、また
沖縄のおばあというのはすごいんだという話もあって、何となく全国に
沖縄というイメージが定着しましたですよね。
それから健康にいいと。
沖縄へ行ってみると、もう健康食がどんどん出ていますし、寿命が大変長い、いや、寿命はそれほど長くないんですね、しかし出生率が高いんですね。
皆さんよく結婚してよく子供育ててよく離婚するというのがまあ
沖縄の姿のようですが、それはやっぱり、女の方がやっぱり力があると。やがておばあになりますから、そういうやっぱり平和な家族
文化というのが、
日本民族の求めるべき原点のようなものがあるわけですよね。そういうものについての一種のブランド価値がこう出てきているということで、
皆さんどんどん
沖縄へ行きましょうと。昨年はとうとう五百万人以上の観光客が
沖縄に訪れるようになったというようなことで、まあ、あそこは健康食の宝庫でございますね。
それから、
文化が大変豊かで、
皆さんエイサーは聴かれたことがあるでしょうけれども、あの勇壮なエイサー。それから首里城の宮廷舞踊ですね。それから、
沖縄各地での組踊という、これは
中国の使節をお迎えするために作られた舞踊ですけど、そういうものが各地に行き渡っている。そして工芸品も、布もですね、紅型も芭蕉布も上布も、もういろんなものがこの、何というんでしょうか、この
文化の非常に薫りの高いいろんなものがあるわけですね。ということで、非常に
努力をされながら
沖縄は一歩一歩進んでいると思います。
私は、もっともっとそれをいろんな形で
支援すべきだと思うんですが、昨今、
沖縄科学技術大学院大学と、尾身先生がもう渾身の力を振るって、先端を行くサイエンスをつくるんだということでいよいよ動き出すようでございますしね。それからモノレールもまあ
部分的に通ったり、もう一本ぐらい本当はハイウエーがあった方がいいんだと思いますけど、すごく込みますから、南北の道はですね。
そういうことがありますが、私は、観光をもうちょっと
振興するためには、実は観光会社と航空会社が共同して次のようなことをやっていただきたいなと思うんですね。それはどういうことかというと、
沖縄に今は観光旅行というのは団体ではなくて個人、家族、恋人というようなのが主流のモードになっていますけど、この
方々が自分の好き勝手な何泊、五泊六日とか七泊八日とかというのを組もうとすると、物すごく高いものになります。というのは、
沖縄に行ける、これは全部航空で
沖縄の観光のロットというのは決まっちゃうわけですけど、これ二泊三日のモデルしかほとんどないんですね。で、二泊三日のモデルで、二か月以前に安い航空券を大量に航空会社が出します。それを大手の
本土ベースの観光会社が全部ほとんど買い受けて二泊三日モデルを作っちゃう。そうすると
沖縄への往復がサンキュッパというので行くわけですね。私なんかは
沖縄に行くときは個人で行きますので、往復で六万円も航空運賃を払う。エコノミーで行ったって四万円も払うわけですね。サンキュッパで行けるわけはないんですが、サンキュッパというのは往復二万円でやっている。それがバルクで出されている。それが個人の手元で自由に買えるという仕掛けを本当はつくらなきゃいけない。この規制があるわけじゃないんです。やろうと思えばできるんですけど、そういう観光会社と航空会社の連動がない。
それから、
沖縄へ行くと観光バスでみんな回りますけど、観光バスで回るというとリベートを出してくれる店にしか寄らないんですね。これをレンタカーにしますと、もう本当に隅々まで
皆さん勝手に行きますからいいんですけど。そういうのを交泊分離と言いますが、航空と交通と宿泊を分離するというようなことでもって、もっともっと
沖縄というのは大きく発展する可能性があるんですね。
時間がないので、後でまた御
質疑があれば申し上げますが、何十もそういう工夫の余地があります。そして、
沖縄の持っている
文化と潜在力と、もう
日本の一種の宝ですからね。そういうことで、どんどん伸びていくようにお手伝いする可能性というのはもうたくさんございますので、
先生方のお力でひとつやっていただくと、私も喜んでお手伝いさせていただきたい、そんなふうに思います。
どうもありがとうございました。