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参考人(西岡朗君) ただいま御紹介にあずかりました西岡でございます。
時間が余りないようなので、早速レジュメに従ってお話を進めてまいりたいと思います。
この
三つの、
主権国家の絶対性、政軍
関係の厳格な
支配、
軍隊のイメージということをまず押さえておいていただいて私の話を聞いていただければ有り難いと思います。
主権国家の絶対性と申しますのは、
主権国家の自由、行動の自由、これは絶対的なものであるというふうにまず考えております。そこから出てきますのが
国家主権の自由の絶対性。それから、もう
皆さん余りお耳になじみがないと思いますけれども、我々の
時代には、
国家理性に基づく戦争は
国家の至高の
権利、至高というのは極めて高いですね、高い
権利であるというふうなことを言われておった
時代がございます。
実は私が考えますのに、この
国家理性に基づく戦争というものを
憲法九条は否認しておる。それ以外に、しかし、
主権国家の行動の自由を確保するためにそれ以外にも
主権国家には軍事力が必要ではないか。
皆さんすぐ思い至られると思いますけれども、実は
自衛隊、これは名前のとおり
自衛隊です。
それから、今余りそういうことは、今まで余りそういうことは言われておりませんけれども、
主権国家として
国際社会に存続していくために
国際社会の
安全保障を共同して行う、国際的
安全保障について軍事力の役割は多分あるであろうと。その部分は、今言いました
国家理性に基づく戦争以外に我々が持たなくてはいけない軍事力であろうというふうに考えております。そういう意味で
主権国家の行動の自由の絶対性ということをとらえております。
それから次に、政軍
関係における厳格な
支配、これはもう絶対的なものでありまして、ここに書いてある「いかなる武装団体も、」というのは、これは実はフランス革命のときに、フランスの最初の
憲法をつくる前にフランスの国会でこういう宣言をなされております。この意味が、この
言葉が実は五八年、一九五八年の第五共和国発足まで
憲法の中に含まれておりました。現在の
憲法には含まれておりませんけれども、その趣旨は今でも生きておるというふうに言われております。
それからその次に、
軍隊のイメージ、この
軍隊のイメージというのは
皆さんいろいろお持ちでございましょうけれども、シビリアンコントロールないし政軍
関係というときに持っていただきたい
軍隊のイメージというのは、ここに書いてありますように、机の上に置かれてある手入れの行き届いたピストルである。
どういう意味かと申しますと、ピストルは無機物でありまして、引き金を引くほかの人がいなくては
発動できない。
軍隊もそのようなものであって、引き金を引かなきゃ動いてはいけないものである。シビリアンコントロールのときにいいますならば、それを、引き金を引く唯一の者はシビリアンである。多分、現在の
日本のような先進的な民主主義
国家ということであれば、議会の信任を受けた
政府、その首長である首相以外にそれを持てる人はいない。
そういう意味の、そういう意味で、机の上に置かれてよく手入れされたというのは、常に
自衛隊というのはいつでも引き金を引かれれば弾丸が出るようにしていなくてはいけない、そういう意味でございますが、常に
発動できる体制が常に整える、しかし引き金を引かれなければ動けない、そういうものが
軍隊のイメージであるというふうに持っていただきたいと思うわけでございます。
それで、実は私のペーパーにも少し書いたのですが、
軍隊について不吉なということをハンチントンが言っておりますね。不吉なイメージが人々の間に残っている。実は私は、これはもう今の民主主義
社会においては多分払拭されているのではないかと。
昭和天皇は、多分十五、六歳ぐらいのときに乃木大将と非常に、常に接触しておられた。ある軍人像をお持ちになっておったと思うんですね。ところが、昭和になって、大
日本帝国の元首になられて、自分のところに来る軍人のイメージというのは、はいはいと言って聞くけれども実はその自分と違うことをやっていくような、そういうのが続いたというふうに昭和の戦争の歴史では書かれておりますけれども。まあ、そういうふうなイメージはもう今や民主主義
国家の
軍隊にはないだろう。
現実に私も、今日ここに来るまでにいろいろな国の、少なくとも第二次
世界大戦以降、この政軍
関係を見てみましたらそういう問題は起こっておりません。
ということは、近代民主主義
国家の
軍隊というのは、もうある意味でシビリアンコントロールの原則は受け入れているということになっているのではないかと。不吉な感情というものは潜在的にあるかもしれないけれども、実はもうなくなっているのではないか、そういう感じがいたしております。
なぜ、それじゃ不吉なというふうなことをハンチントンは言ったか。このハンチントンというのは例の、最近では有名な
文明の衝突ということを言い出した人ですが、この人が若いころに政軍
関係の本を、「軍人と
国家」という本を書いておりまして、実は私の本もかなりもうそこから恩恵を受けておるものであります。
そこで言われていることは、元々シビリアンというのは一体何なんだというと、これはここに書きましたように、王侯貴族その他取り巻きの特権階級に対して我々シビリアン、要するにコモン、コモナーですね、あの平民。それが
政治を持つ。これはフランスの啓蒙思想の思想から受け継がれているわけですけれども。
このシビリアンコントロールということを言い出したのは実はアメリカでありまして、これは、アメリカの独立戦争と我々は言いますけれども、実は革命戦争とアメリカ、
英語では言っているみたいですね。その革命する、何の革命かというと、英国の国王に対する反乱軍であった。それがシビリアンコントロールの始まり。
そういう意味で、その国王とか貴族とか特権階級に対する一般市民という意味がシビリアンコントロールのその含意としてあるということで、少なくとも私が主張していますような近代的民主主義がそのシビリアンの要件かどうかということについては、その発足当時には果たしてそうであったかというのは分かりません。
なぜかと申しますと、その当時は、実はアメリカのその革命戦争をリードしたのはアメリカの植民地の大農園主。ある意味では特権階級であったわけです、平民ではありますけれども。そういう意味で、シビリアンというのは、果たして我々が今考えているような民主主義の
政治家であったかどうかということについてはやや疑問がありますけれども、元々はそういうことであった。
それから、この次、そのコントロールの本質というところに行きたいと思いますけれども。
これは、
皆さん多分、日ごろそういうことに御関心がずっとお持ちであろうと思いますけれども、だれかを
支配する、だれかを服従させる、それは実は金、処遇、暴力というふうに、暴力というのはちょっと強い
言葉ですけれども、ある場合には、ある人のスキャンダルを、種をつかまえて言うことを聞かせる。そういう意味では、その
支配・服従
関係というのは一般の間には成り立っているわけですね。
ところが、
政治と軍事の
関係において言えば、ここに当たる暴力というのは実は
軍隊そのものが持っているわけです。ですから、
政治が
軍隊に対して統制を利かせようとすると、実力
行使というのは
政治からはできない。結局その暴力に代わるものは何かというと、
政府に対する
国民の支持、
国民の支持のある
政府に対して
軍隊反抗すると、そのときはひょっとして成功するかもしれないけれども長もちはしない。そういうところにあると思っております。
ですから、シビリアンコントロールの、我々現在考えるシビリアンという意味を反映させるとすれば、
政府に対する
国民の支持、それが暴力、一般の
支配関係における暴力に代わるものである、そういうふうな認識を持っております。
そういう意味で、いかにしてシビリアンコントロールを担保できるかというところに移りますが、これは、実はこういう言い方をすると身もふたもないんですけれども、実は暴力を持っている者がもう強いのは当たり前なんですね。これは今のブッシュの
イラク戦争と言われるものをお考えいただいてもそうでありまして、一番強い人がもうアメリカの利益と言ってその軍事力を振り回せば、これはどうにもしようがない。これはもちろんブッシュ大統領はシビリアンですけれども、その軍事力を振り回すという点についてはだれも抵抗できない。それを軍人が振り回すと困るというわけでございまして、じゃ、シビリアンコントロールを担保できるのは何かというと、結局もう
軍隊の側でその原理を受け入れるという
姿勢がない限り実は有効に機能しないものであると、実はもう私はそのように割り切っております。
そういう意味で、実はハンチントンが挙げておりますのは、だから、
政治の不信感、民主主義
政治に対する
軍隊の中に不信感があればこれは成り立たないのであると。その要因として、これを一から四まで挙げておりますけれども、多分私が考えますのに、今の
日本でいえば、まず二、三というのはまずない。一と四がひょっとしてあるかなということになると思います。
憲法の理念に対して
国民間にコンセンサスがないということに関して言いますと、私はたまたまドイツで少し生活したことがありますので、ドイツの例で考えますと、ドイツは実は
憲法改正について三分の二、
皆さん御承知だと思いますけれども、やはり
日本の
憲法と同じで三分の二の枠がはめられているわけですけれども、それでも五十一回やっている。
日本ではできなかったという、そこに何かやはり、どっかにそういうものが残っているのではないかと私は考えております。
それから、
政府の決断と能力に対して不信感が増大している。これは実は私、
自衛隊におりましたときに言われたことは、戦前の
日本は
政治のリーダーシップがないために軍は何でもできたと。しかし、戦後の
日本の
自衛隊は
政治のリーダーシップがないために何もできないという不満を私は自衛官から聞いたものであります。そういう意味で、自衛官ということに関して言えばそういうものが少し残っているかなという気はしないではありません。しかし、最近の状況はうんと違っておると思います。
その次、時間がございませんので次に移りますが、現在の
我が国のシビリアンコントロールの特色というのは内局制度と
自衛隊の行動の法制化でございます。ただ、これはシビリアンコントロールの必須の要件ではない。内局制度というのは
我が国の
行政カルチャーから出ているものだし、それから行動の法制化というのは警察予備隊、警察というのは
一つ一つの行動自身に
法律の裏付けがなければ行動できないというのは御承知のとおりだと思いますが、それを実は警察予備隊から受け継いでいる。
これは
軍隊のものではありません。
軍隊というのは無法の状況の中でその実力を
行使するものでありますから、一々枠がはめられていたんでは自由な行動ができない。だから、
軍隊について言えば、これはシンプル・イズ・ベストで、こういうふうな、ここの別紙に付けましたような
自衛隊の行動、これ、最近もっと詳しくなっていると思いますけれども、数が増えているかもしれませんが、こういうものが列記されておりますけれども、実はこれは警察的発想であって、
軍隊というのはもっと自由でなくては、せっかく高い予算を払って維持しているにもかかわらず、不効率な運用しかできないということになります。
そういうところが
我が国のシビリアンコントロールの特色としてあるわけですが、次は、じゃ
我が国のシビリアンコントロールについて考えてみますと、自衛官は私はシビリアンコントロールの原則を受け入れていると思います。ただし、これは積極的に多分受け入れているわけではなくて、こういう状況ではもう当然のこととして、あるいはやむを得ず、自分に何かいろいろな物の
考え方があったとしても、こういう民主主義
社会の中で軍事力が突出することというのはあり得ないんだという、そういうふうな認識の下でそういう状況があるんだと思いますが、ここに列記しましたようなことがあると思います。
多分四番目のところが私の本に書いてなかった部分でございまして、統治勢力と
政治観、
憲法観、歴史観が一致している、あるいは危機感を共有しているということがやはり
日本の
自衛隊がシビリアンコントロールを受け入れている以上に今の自民党永久政権に対する親和感というものがあるんだと思っております。それが現在の
日本のシビリアンコントロールのかなり大きな心理的要素、維持の心理的要素だと考えております。
ちなみに、自衛官の
憲法認識というのは、私の認識は多分今でも間違ってないと思いますけれども、
一つはアメリカの押し付けである。それから、
国家が
国民の
権利義務を決定する形式の
憲法ではない。要するに、今の
憲法というのは、
国家は
国民に対してこういうことはしませんよ、それによって自由な空間を
国民社会に作るということなんですが、そういうのはちょっとなかなか一般的な
憲法認識として持っていないようでございました。今でも多分そうじゃないかと思います。それから、軍事に対する
規定がない。これはやっぱり自分自身のアイデンティティーの問題にかかわりますので。しかも、その
条文を読めば否認するかのごとき
条文になっておる。これは自衛官のプライドの問題としてかなり大きな問題があるのではないか。
それで、ここのところに、例えば徴兵制の問題について、
政府見解などを
皆さんに事前にお配りしたと思いますけれども、要するに
憲法の条項で、そういう例えば奴隷的拘束とは言わないにしても、過酷な労働はさしちゃいけない、多分十七条だったですか、そういうことが
日本国憲法が徴兵制を禁止する理由だというふうに言われたんでは自衛官はたまらない。これは当時問題提起をした竹田五郎さんの言うとおりだと思います。
だから、
憲法、私の考えますのに、
日本国憲法というものは、実は九条だけではなくて、そういうほかのところでもやはり
自衛隊の自衛官のそのプライドにやっぱり傷付ける
条文が、私はそれを
条文として使う
政府見解の方がおかしいとは思っておりますけれども、
現実にそういうことがあった。今そういうことは言われておらないと思います。これは中曽根
内閣の出る前、鈴木
内閣のときにそういう
政府見解が出ておりまして、その後多分なくなっていると思いますが、そういう
時代があった。で、そういうものがやはり自衛官の中にうっせきしておるということはあると思います。しかし、これは私が防衛庁を退職して十何年かになりますので、もう今ではかなり
皆さんの御理解が得られてこういう問題はないのかもしれませんが、そういうものが残っていると思います。
結局、結論として、まとまりないんですが、それぞれシビリアンコントロールというのはその国の
政治的伝統によって維持されるものであって、特別にこういうものがあるから維持されるというものではない。だから、ある程度の
基本原則を踏んだ上で、やはり我々自身が確保していくものであろうというふうに考えております。
かなり雑駁な話になって恐縮でございますが、時間になりましたので。